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付箋、いつ捨てる?

2021/05/31

 以前、〝蛍光ペン、いつ捨てる?〟というタイトルのブログを書かせていただいた。蛍光ペンは、ツインマーカーのものが多いが、片方のインクの出が悪くなったので捨てようとするのだが、もう片方はしっかりとインクが出る。このツインマーカーならぬ〝シングルマーカー〟。捨てるべきか、捨てざるべきか?that is the question…といった内容のブログである。

 最近、付箋(ふせん)をよく使う。以前は、ほとんどと言っていいほど付箋を利用したことはなかった。どちらかというと、『 こんなもの使う必要性があるのか? 』と思っていたくらいだ。だから、薬進塾に来る前は、ほとんどと言っていいほど付箋は利用したことはなかった。当時の私にとって、付箋は〝メモオンリーで使うぜいたく品〟としか、感じられなかったからである。メモなら裏紙を使えばいい。この仕事をしていれば裏紙などヤマのように出てくる。裏紙でなくとも、『 裏が白ければ全てメモ用紙として利用 』と、私は考えている。だから付箋など、ほとんどと言っていいほど利用しなかった。

 『 最近、付箋(ふせん)をよく使う 』と書かせていただいたが、メモ的に使用する場合はほとんどない。書籍の特定のページを指定するための〝しおり〟として使用する場合の方が、圧倒的に多い。しおり的付箋という訳だが…案外、他の人もこういった使い方の方が多いのではないだろうか?私はかなりの本好きである。そして、心動かされた個所があった時は、すかさず蛍光ペンで線を引く。なので私が有する本には、これでもかという位、蛍光ペンで線が引いてある。そんな中でも、特に気に入った個所には、いつでも見ることができうるようにと、付箋を貼っているのである。

 書籍に付箋を貼るのは、自分が見るだけではない。薬進塾では、講義が終わると、その講義内容の過去問題を掲示したりしている。それも、今ではなかなか手に入らないような古い過去問である。『 そんな古い過去問、役に立つんですか? 』という人がいるかもしれないが…なかなかどうして。そういった古い過去問の方が、試験対策に役に立つ場合が多い。古い過去問は『 短文で単刀直入に聞いてくる 』からである。だから、基礎的な部分の練習問題にはもってこいなのである。良問も多い。掲示すると同時に、塾生さん達がコピーしては、解きにかかることからも、それは十分伺えることである。

 で、先生方に問題を選んでもらう時に、この付箋を活躍することになる。古い過去問集を渡すと同時に、『 先生、今日講義した範囲の問題を選んでください 』と付箋も渡す。先生方は、講義した範囲に関する問題に付箋を貼ってくれる。その部分を、コピーして掲示する…という流れである。で、問題はコピーを取った後。違う先生にも、講義に来られた際には、問題を選んでもらうことになるため、コピー後にはその付箋を剥がすことになるのだが…。この剥がした付箋、再利用すべきなのだろうか?

 『 再利用すべきなのだろうか? 』とは書かせていただいたが、実のところ、この〝しおり的付箋〟は再利用している。まだまだ使えるのだ。一回で捨てるのは、もったいない。で、何度も使うことになるのだが…くたびれてきた付箋を見ながら、『 コイツ…いつ捨てるんだろう 』と、つい思ってしまう。紙の〝しおり的付箋〟なら、何となく捨て時が分かる。紙だけに、摩耗したり、千切れたり、折れたり、撚れ(よれ)たりして来た時が、おそらく捨て時だろう。

 しかし…メモ代わりに付箋を使用した場合は、どうなのだろう?例えば『 ○時に□に電話 』と書いた場合。その要件が終わった後、その付箋はどうなるのだろうか?ほとんどの人が、そのまま捨ててしまうのではないだろうか?かくいう、私も捨てることはある。しかし、『 勿体ないな 』という後悔の念が残ることも確かである。粘着効果は、まだあるのだ。使えなくはないはず。かと言って、消しゴムで消して、また使うという人も聞いたことはない。私は時たまやるのだが、あの大きさのモノに消しゴムを使うという事は、何気に手間がかかる。上手く消えないどころか、撚れたり、ちぎれたりして、それこそ使えなくなってしまう場合が多い。

 おまけに、付箋の裏…まあ、糊のある部分であるが、あそこにも書き込みはできる。私は表面(おもてめん)を使用した付箋は折り曲げて、裏面にも書き込みをして使う。そして、捨てるようにしているが…ほとんどの人は、そんなことはしないようである。やはり、表面を一回使用した時が、捨て時なのだろうか?

 最近は紙ではなく、ポリエチレン製の付箋を使っている人が多い。もちろん、私もその一人である。こうなると、さらに捨て時が難しくなる。メモ的に活用した場合。紙よりも捨てにくいというか、心残りが大きいことは、否めない。紙よりも豪勢なイメージがあるからだろう。では、文字を消して再利用するか?文字を消して使おうにも、このポリエチレン製に書いた文字というのが、消えにくいことこの上ない(経験者は語る)。折り曲げて裏面を使用しようにも、折り曲げにくいことは確かである。おまけに折り曲げても…時間が経つと、折った個所がそこそこ復元されてきてしまう。こうなると使いにくいこと、この上ない。これも、やはり表面を一回使用した時が、捨て時なのだろうか?

 では、しおりとして使った場合の捨て時はいつだろう?私が、『 気に入った個所がいつでも見られるように 』と貼っておいた付箋には、特に期限はないと思う。貼ったきり、剥がすことが無いからである。しかし、前述の過去問指定のように用いる場合。事が済んだら、剥がすことになる。この場合の、捨て時は?これが分からないのである。分からないから…ずっと使っている。一回二回どころの話ではない。もしかすると、一年近く使っている付箋もあるやもしれない。そこそこ汚れてきてはいるものの、あくまでも〝そこそこ〟である。ページを指定するのに、特段、不便を感じることもない。役目は成し遂げてくれているのだから、使う側としては問題ない。なるほど…使う側が問題ないとしている限り、役目は終わっていないということではないか?つまり、使う側が、『 まだまだ使えるな 』と判断している以上は、まだまだ使えるということではないだろうか?

 物は大切に使いたいものである。私は多少ガタが来ていようと、使えるものは使っていくという主義である。勿体ないとか、愛着があるとか、確かにそういった部分もなくはない。しかし、まだまだ使えるものを、〝使えないモノ〟と判断して処分することに気が引けるのだ。貧乏くさいと言われてしまえば、それまでであるが、私としてはやはりどうしても、そういったものを捨てるという行為が今一つ腑に落ちない。やはり使える限り使うべきではないだろうか?まあ、その結果として、〝シングルマーカー〟のような悩みが生じてしまうことになるのだが…モノを大切にする気持ちから出た悩みなのだから、まんざら悪いモノでもなかろう。ましてや、捨てる時が来ても、そこまで使えば捨てられる方も本望ではないだろうか?付箋や蛍光ペンに聞いたわけではないので、本望かどうかは定かではないが、おそらく本望だと思う。

 いっそのこと、使用期限が設けられていたり、〝捨て時警告〟なんかが出てくるようになればいいと思うのだが…イヤ、例えそのような配慮があろうとも、おそらく私には捨てられないだろう。自分が納得するまで、そして使えるまで使う思う。まあ、誰に迷惑をかける訳ではないし…それで付箋や蛍光ペンが喜んでくれるなら、それはそれでいいのではないだろうか?そう思っている、今日この頃なのである。

 

 

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2021年5月31日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

『 落ち込んでいる 』ということと『 動かない 』ということは別。~ 煉獄さん、最高です ~。

2021/05/23

 106回国家試験が終わって、早3ヶ月が経とうとしている。合格発表からは、2カ月の月日が流れ、106回国家試験の結果が出た人たちは、それ相応の行動をとっている。悲願叶って合格した人は、薬剤師としての第一歩を踏み始めていることだろう。そして、おそらくは願っていた薬剤師としての仕事に、悪戦苦闘しているのではないだろうか?何気に、その大変さに目を白黒させている人も少なくはないはずである。中には『 もう少し、しっかり勉強しておけばよかった 』と、自責の念に駆られている人もいるのではないだろうか?後悔先に立たず。『 もう少し、しっかり勉強しておけばよかった 』を糧にして、今後は薬剤師としてしっかり勉強することを、お勧めする次第である。

 試験結果が、自分の期待していたのものとは違う結果となった人も、少なくはないはずである。そして、早速〝自分の期待していた結果〟を求めるために、動き出している人たちも大勢いる。かくいう我が薬進塾にも、そういった塾生さんが来て、日々、次の107回薬剤師国家試験において〝自分の期待していた結果〟を得るために、獅子奮迅の日々を過ごしている。手を伸ばさなければ、目的とするモノは掴み取ることはできない。自分に掴み取るだけの力が無いのなら…その力を身に付けなければならない。『 力を身に付ける 』ということは、『 これだけやっておけば、力は簡単に身に付きますよ 』という容易なものではない。それ相応に四苦八苦しなければならない。自分が軽々持ち上げられるバーベルを持ち上げたところで、力は付かないからである。それ相応の重さのバーベルを持ち上げるからこそ、力は付くのである。だからこそ、薬進塾の塾生たちは獅子奮迅の想いで、日々を過ごしているのである。力を身に付けるために…。

 上記2つの行動パターンが、106回国家試験を受験した人たちの、現在の姿であろう。多少の違いはあれど、おおよそこの2つのパターンのどちらかであると思われるが…このどちらのパターンでもない人がいることも確かである。そして、それは毎年のようにいる人たちなのだが…。

 試験結果が、自分の期待していたのものとは違う結果となった人の中には、未だそれに囚われて動き出せない人たちがいることも確かである。以前〝合格しなかったことは悪いことなのか? ~ 合格しなかった人の煩悶 ~〟というブログの中でも、詳しく書かせていただいたのだが…薬剤師国家試験受験生にとって、合格できなかったという事実ほど、完膚なきまでに叩きのめされる現実はない。自分の全てを否定された気持ちである。辛い、苦しいなど、生易しいものではない。その傷の大きさゆえ、落ち込みから這い上がることができない人がいるのも、至極当然の話。だから、私は這い上がることができないことが、悪いことだとは思っていない。ダメージは同じであっても、傷の深さ・大きさは人それぞれだからである。だから、未だに立ち直れない人がいることも当然だと思うし、傷が癒えていない人、落ち込みから這い上がれない人がいることも、当然だと思っている。

 しかし…それと『 動かないこと 』は別である。立ち直れないなら立ち直れないでいいし、傷が癒えていないならそれでもいいし、落ち込みから這い上がれないならないで、それでもいいと思っている。しかし、動かなければならない。私は指導するときに『 泣くなとは言わないし、泣いていてもいい。でも立ち止まるな。泣きながらでもいいから歩け。泣きながらでも、前に進むんだよ 』とよく言う。人間なんだから、何かありました、ハイ立ち直りました、なんて簡単に行くことなど、そう簡単にあるものではない。それ相応に引きずるのは当たり前である。しかし…それでも進まなければならない。何故なら…進まなければ何も変わらないからである。歩くからこそ、手の届く所まで進めるのである。

 知らない人はいないといっても過言ではない〝鬼滅の刃〟。私は流行りものとかブームとかいうものが嫌いな性質(たち)。流行っていると言われると、余計遠ざけてしまう天邪鬼な性格。しかし、本来が物好きな性質であるが故、全く気にならないという訳でもない。それほどの流行りを見せるには何か理由があるはず…。知りたくとも、今飛びつけば流行だから飛びついたみたいで、自尊心が許さない…。この〝物好き〟と〝天邪鬼〟の間で揺れ動くことになるのだが…。結果として、流行っているときには目もくれず、ブーム熱が少々収まった時、もしくは完全にブームが終わった時に、『 如何なものか? 』と目を通すことになる。〝鬼滅の刃〟も、まさにそんな状況であった。先日、ビデオを全部見たのだが、続きが映画らしいということなので、映画も観てきたのだが…私としては大満足の内容で、正直、涙した場面も何度かある。印象的なシーンやセリフも少なくはない。ちなみに私は、映画の良し悪しを判断するときに、『 如何に印象的なシーンがあるか? 』『 如何に印象的なセリフがあるか? 』も、大きな判断材料にしている。名作と言われる映画には、これらがふんだんにあるからである。〝鬼滅の刃〟の映画の中にも、それがいくつかあった。

 〝鬼滅の刃〟には、煉獄 杏寿郎 (れんごく きょうじゅろう) という登場人物が出てくる。主人公の先輩というか、上司的な存在であるのだが…人物の詳細は、これから観る人のために(そして、これからマンガを読む人のために)省略させていただくが…この煉獄さん。作品の中で、これでもかという位、名セリフを決めていた。そんな名セリフの中に、次のようなものがあった。

i

  己の弱さや不甲斐なさに、どれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。

  歯を喰いしばって前を向け。

  君が足を止めて蹲っても(うずくまっても)、時間の流れは止まってくれない。

  共に寄り添って悲しんではくれない。

i

いいセリフである。ちなみに…こういったいいセリフをいくつも口にしたり、その活躍ぶりから、映画を観た人たちの間から『 煉獄のアニキ、最高! 』『 煉獄さん、ガチでカッコいい 』等の、〝煉獄さん最高ブーム〟が巻き起こることになる。

 人生とは、誠に油断ならないもので、次から次へと、これでもか、これでもかという位、色々なことが押し寄せてくる。油断も隙もあったものではない。しかし、その度に歩みを止めていたのでは、前へ進むことなどできない。当然、何の状況も変わることはない。そんな状況の中、自責の念に駆られたところで、いたずらに自分を傷つけるだけである。自分は大事にしなければならない。人の命を大事にしなければならない医療人になるのなら、同じように自分も大事にしなければならない。そして…自分に求めるものがあるのなら、やはり自分で歩んで取りに行かなければならない。これは社会人としての…イヤ、人としての責任でもあるからだ。自分の欲しいモノを、掴み取るための責任。何も、打ちひしがれた中、『 いつまで落ち込んでいるんだ!気合い入れろ 』だのと、力任せに言ったり、尻を叩いて行動させようという訳ではないし、そのようなことは微塵も思っていない。前述したように、傷の深さ・大きさは、人それぞれである。力任せの言動や尻をたたくなどという事は、その人を否定しているということになる。だから落ち込んでいてもいいし、泣き続けていてもいいと思う。ただ、歩みだけは止めないでほしいと思う。何を求めるか、何を手にしたいかも人それぞれではあるが…歩みを止めてしまえば、何も変わることはないし、何も手に入ることはないのだから…。

 月並みな意見で申し訳ないが、煉獄さん、カッコよかった。このようなセリフが吐けるからには、やはりそれ相応の苦労をしたのだろう(マンガの人物ではあるが、それは手に取るように分かる)。映画公開後は、ネット上に『 煉獄さんのようになりたい 』という書き込みが増え、中には『 どうしたら煉獄さんの様になれますか? 』という質問も多数あった。人を動かすセリフとは、この様な力を持っているのである。

 試験結果が自分の期待していたのものとは違う結果となり、未だ動き出せない人の中には、この煉獄さんの言葉を、今初めて知った人も多いのではないだろうか?そういう人は、もう一度…イヤ何度か、上記 煉獄さんのセリフを読んでもらいたいと思う。落ち込みながらでもいいし、泣き続けてながらでもいい。このセリフから、自分は何を感じるのか?何が見えるのか?私は、その気持ちを大事にしてもらいたいと思う。そして、その気持ちが見えた時に、どういった行動をなすべきかが見えてくるのではないだろうか?私は、そう思っている。

 

 

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2021年5月23日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

【 さ 】サキシトキシン

【 さ 】

サキシトキシン

麻痺性貝毒。麻痺、しびれ、けいれんを引き起こし、呼吸麻痺により死亡する場合もある。


① ホタテガイ、ムラサキイガイなどの二枚貝類の摂取で食中毒が発生している。

 タンパク質ではなく、一般的な調理加熱では毒素は分解しない。

② 渦鞭毛藻(うずべんもうそう:2本の鞭毛を持つ単細胞藻類の一群)のアレキサンドリウム属等

 により産生され、貝の中腸腺に濃縮される。貝自身が産生している毒ではない。

③ アレキサンドリウム属等の藻類が発生する水域にいる二枚貝が、餌として捕食する(プランク

 トン食性であるため)ことにより、藻類の毒成分が貝の中腸線に蓄積する。

④ 骨格筋や神経のナトリウムイオンチャネルに結合し、チャネル内へのナトリウムイオンの流入を

 阻害する。よって、活動電位の発生と伝導が抑制され、麻痺症状を引き起こす。

⑤ ちなみに…全国区で一般的になっている『 真っ先に二枚目ゴーゴー 』の語呂合わせは、

 当塾、針ヶ谷講師が考えた語呂合わせである。語呂合わせに著作権はないものか…。

【 例題 】

 ① サキシトキシン、ゴニオトキシンは、ホタテガイ、ムラサキイガイなどの二枚貝に

  含まれる麻痺性貝毒である

  正:『 真っ先に二枚目ゴーゴー 』

     (麻痺性貝毒)
     (サキシトキシン)
     二枚目(二枚貝)

     ゴーゴー(ゴニオトキシン) である。

   ちなみに、ここでは記さないが…実は、この語呂合わせには、もう1アクションある。

 ② サキシトキシンは、ホタテガイ、ムラサキイガイなどの二枚貝が産生している毒である。

  誤:渦鞭毛藻が産生する毒素で、ホタテガイ、ムラサキイガイ等の二枚貝が、これを摂食し

    体内に蓄積するため貝類が毒化する。貝類が産生している訳ではない。

 ③ サキシトキシンは、神経細胞や筋線維の細胞膜に存在するナトリウムチャネルに作用し、

  ナトリウムイオンの透過性を増すことで、麻痺症状を引き起こす。

  誤:ナトリウムイオンの透過を抑制することで、麻痺症状を引き起こす。

 ④ サキシトキシンはタンパク質であり、加熱調理により分解される。

  誤:タンパク質ではなく、一般的な調理加熱では毒素は分解しない。

 

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2021年5月19日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:いろはに国家試験! ~ 物化生の基本用語 ~

早く、食いたいものが食える世の中になって欲しい。

2021/05/16

 昨年の6月13日に『 アフターコロナの憂鬱 ~ がんばれ居酒屋 ~ 』というタイトルのブログを書かせていただいた。そのブログの中で…

 酒飲みにとって、外で一杯やることができないという事は、かなりのストレスである。~中略~ 今回の騒動が治まり、大手を振って外で飲むことが解禁となったその日には、そんな雰囲気を存分に味わいたい。そう思っている。

という事を書かせていただいた。来年の今頃は、大手を振って飲みに行けるだろう。そんな期待から書いたブログではあるのだが…悲しいかな、未だ大手を振って飲みに行くことはできない状況である。この〝状況〟が何を指しているか、ここで書くと七面倒くさいこと、この上ないことになってしまうので、控えさせていただくが…。全く持って理不尽この上ない話ではあるが、未だ大手を振って飲みに行くことはできない状況であることは、確かである。

 解禁になったら、しこたま飲みに行ってやろうと思う。そして、お店を盛り上げてやろうとも思う。いつもより2、3品多く頼んでやろうとも思っている。そして、思う存分その店を堪能してやろうと思う。~中略~ 全国無数の酒飲みたちが、それこそ手ぐすね引いて、今か今かとその日、つまり解禁となる日が来るのを待ち望んでいるのだ。

 そんな思いで過ごしてきた一年ではあるが…どうやら、解禁の日はまだまだ先のようである。居酒屋の匂い、喧噪、人、内装…そういった演出がなされている場から離れて、どれくらいになるのだろう?いつの間にか『 酒を飲む 』が『 家飲み 』と同義語になってしまっている。もちろん、ウチで飲むのも悪くはない。しかし居酒屋には、上記の様なウチでは味わえない演出が施されているのだ。それも、酒飲みには無くてはならないものなのだ。

 そして…忘れてはならないのが、酒のつまみである。居酒屋のつまみは、居酒屋でしか味わうことができない。しかも、〝その店のつまみ〟は〝その店でしか味合うことができない逸品〟なのだ。『 あの店の○○は… 』『 この店に来たのなら□□を… 』という〝その店の逸品知識〟は、酒飲みの宝物と言ってもいいだろう。イヤ、酒飲みの誇りと言ってもいい。それがあるからこそ、『 どこで飲もうかな… 』という、〝(店の)選択の時間〟を〝(何を飲むのか、何を食べるのかという)嬉しい悩みの時間〟に変えて、その楽しみを満喫できることができるのだ。『 どこで飲もうかな… 』と悩む時間は、酒飲みの〝酒を飲む前の至福の時〟でもあるのだ。そう、酒飲みは、酒を飲む前から、酒を楽しんでいるのである。だからこそ『 よ~し、今日は飲むに行くぞぉ~ 』というのが酒飲みには必要であり、その機会を奪われるということは、酒飲みにとっては二重に楽しみを奪われることになるのだ。〝飲む前の楽しみ〟と〝飲んでいるときの楽しみ〟を、同時に奪われるのだから…。

 その宝物と至福の時のお預けをくってから、一年以上が過ぎている。食いたいもの、飲みたいものを我慢させられるのは、ある種、拷問のようなものである。酒は、まあ我慢できなくもない。今は、ウチでもそこそこのモノが飲めるような時代だからである。しかし、食い物となるとそうはいかない。前述したように、〝その店のつまみ〟は、〝その店でしか味合うことができない逸品〟なのだ。それを食うためだけに、わざわざ出かけることなど、酒飲みにとっては日常茶飯事。なのに、それができない…。

 食いたいものが食えないのは、酒のつまみだけではない。以前、〝立ち食いソバが食いたい! ~ 前編 ~ 〟というタイトルのブログで、『 食いたいのはやまやまだが、世間様の状況がそれを厳しくしていることも確かである 』と書かせていただいた。立ち食いソバ一杯食うのにだって、以前と違い、足を向ける前に考えてしまうことが山のようにある。ソバ一杯食うのにだって、アレコレ考えなければいけないご時世なのだ(ちなみに、決して立ち食いソバやお店を軽んじている発言ではないこと、そのような思いは毛頭ないことも付け加えさせていただく)。立ち食いソバ屋にも〝その店でしか味合うことができない逸品〟がある。それが好きで、その店に通うこともある。その好きなものを、好きな時に、何の気兼ねもなく食べることができない…。何とも悲しいというか、虚しいというか…味気ない世の中になったものである。

 そして…『 アフターコロナの憂鬱 ~ がんばれ居酒屋 ~ 』で書いた…

 晴れて解禁となり、『 さあ、お目当ての居酒屋に行こう! 』となった時…その店はあるのだろうか…。そういった不安が頭をよぎるのである。飲むぞと勇んで出かけては見たものの、お店が無くなっている…そんな状況になってはいましないかと、不安なのである。

といったことも、現実味を帯びてきている。私の酒飲み仲間のお気に入りの店は、何軒かやられたらしい。私のお気に入りの店は、まだ健在である(ただし、『 行こう 』と狙っていたお店でやられたのは、何軒かある)。しかし、健在ではあるが大幅なメニュー改定等の影響が出ている店はある。お店側も生き残りのために必死なのであろう。それは、分かってあげなければいけないと思っている。そして、これは何も居酒屋だけの話ではない。立ち食いソバ屋だって、他の飲食店だって同じである。冷静になって考えれば、すぐわかることだが、別に飲食店が悪い訳ではない。スケープゴートも甚だしいが、またこれに関して書くと、七面倒臭いどころか、億面倒くさいことになってしまいそうなので、ここでは触れないことにするが…。何とも、世知辛い世の中になってしまったことは確かである。

 ここで、もう一度『 アフターコロナの憂鬱 ~ がんばれ居酒屋 ~ 』のラストで書かせていただいた文章を掲載させていただきたいと思う。本心であるから、何度かいても構わない。私はそう思っているので…。

 居酒屋はもちろん、全国の飲食店の皆さん。応援しています。あなたのお店のお酒を飲むのを、楽しみにしている人が沢山います。あなたのお店の食べものを、堪能したがっている人が沢山います。あなたのお店の雰囲気に、酔いしれたい人が沢山います。この新型コロナ騒動が落ち着いたら、必ず皆があなたのお店に、こぞって行ってくれますから、それを思って乗り越えてください。心の底から応援しています!

 

 

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2021年5月16日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

【 あ 】 α壊変(あるふぁ かいへん)

【 あ 】

α壊変

      放射性壊変の一種。

      この壊変を起こすと、原子番号2減少、質量数4減少した核種(娘核種)となる。


① 質量数が大きい(=陽子数と中性子数が多い)原子核に起きる。

② 質量数が大きくて不安定な原子核が、安定になるために陽子2個と中性子2個を同時に

 放出する壊変。

③ 陽子2個と中性子2個を同時に放出するため、壊変後の核種(娘核種)の原子番号は

 親核種の原子番号より2減少する。

④ 陽子2個と中性子2個を同時に放出するため、壊変後の核種(娘核種)の質量数は

 親核種の原子番号より4減少する。

⑤ ちなみに…この時、飛び出した陽子2個と中性子2個をアルファ粒子といい、

 このアルファ粒子の流れ(高速で飛び出したもの)が、α線という放射線である。

【 例題 】

 ① α壊変は、質量数が大きい原子核で起きる

  正:一般に、質量数140以上の原子核で起きる。

 ② α壊変とは、原子核から陽子1個と中性子1個が飛び出す壊変である。

  誤:陽子2個と中性子2個が同時に飛び出す(放出される)壊変である。

 ③ α壊変を行うと、原子番号は4減少する

  誤:陽子2個と中性子2個を同時に放出するため、壊変後の核種(娘核種)の原子番号は

    2減少する。

 ④ α壊変を行うと、質量数は2減少する

  誤:陽子2個と中性子2個を同時に放出するため、壊変後の核種(娘核種)の質量数は

    4減少する。

 

 

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2021年5月10日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:いろはに国家試験! ~ 物化生の基本用語 ~

モノを考えるというのは能力の一つである。故に、使わなければ退化する。

2021/05/09

 『 モノを考えるというのは能力の一つである 』 私の家人が言った言葉。聞いた途端 『 なるほど 』 と思った。

 私は以前より 『 考えることが大事 』 『 分からなければ考えればいい 』 『 昨今の学生さんは、考えるということをしない 』 と講演で話したり、ホームページ等でも何度も書かせていただいたりした。そして、事あるごとに 『 何故、考えないのだろうか? 』 と不思議に思っていたのだが…家人のこの一言で、霧が晴れたがごとく、理解することができた。能力の一つ。これなら、優劣があるのは致し方が無いこと。つまり、 『 考えることが得意な人間とそれが苦手な人間がいる 』 ということは、仕方がないということになる。そして、能力なればこそ、身に付けることも出来れば、その力量をUPさせることも十分可能ということになる。同時に、使わなければ、能力ゆえ退化することになるということ。なるほど、これで全てが納得いく。

 能力であるがゆえ、使わなければ、その能力は廃れていく。つまり〝考えるという行為〟を行っていかなければ、その力量は下がっていくということである。昨今は、考えるということをしない学生さんが多い。 『 何故、考えないの? 』 と聞いたところ… 『 考えるのが面倒くさい 』 『 考えるのは大変だから、考えたくない 』 という答えが平然と返ってくる。試験対策に取り組む人間から、『 考えるのが面倒くさい 』という言葉が出ること自体驚きなのだが…。考えるのが面倒くさいから、考えない。〝考えるという行為〟は能力ゆえ、使っていなければ、その能力は当然衰えることになる。考えるのが面倒くさいから、考えない。考えないから〝考えるという能力〟は衰えていく。衰えているから、考えるという行為が億劫になる。億劫だから、考えることが面倒くさくなる…悪循環である。

 『 試験対策に取り組む人間から、「 考えるのが面倒くさい 」という言葉が出ること自体驚きなのだが… 』 と前述させていただいたのだが…。試験というものは、考えて解くものである。考えるのが面倒くさいということは、ある意味、試験を受けること、問題を解くことが面倒くさいと言っているということである。試験を受けるのが面倒くさかったり、問題を解くことが面倒くさいなら、試験を受けたり、問題を解くことをしなければいい。早い話、試験対策に関わらなければいいということである。しかし、この言葉を発しているのは試験対策に取り組んでいる人間である。何とも矛盾を感じずにはいられないのだが…第一、考えること無くして、どのように試験対策に取り組んでいるのであろうか?

 答えは簡単である。ただ覚える。もちろん、理解などはしていない。〝理解〟という行為には、〝考える〟という行為が付きものである。考えること無くして、理解などすることは、到底無理な話である。だから、ほぼ丸暗記という形で覚えるという行為に走ることになる。時折、それを咎めると… 『 私はちゃんと理解してて覚えていますよ 』 と、少々ご立腹気味にこたえる学生さんもいるのだが…聞いてみると、その内容たるやとてもではないが、 『 理解して覚えている 』 などとは言えたものではない内容である。実際にいた学生さんなのだが… 『 1/2の1/2乗は? 』 の問いに、 『 1/2乗はルートになります。だから約0.707になります 』 と答えていた。しかし…その学生さんは 『 ルート1/2 』 の計算ができなかった…。それは理解しているのではなく、 『 1/2の1/2乗を0.707 』 と暗記しているだけであり、単に 『 1/2乗はルートになるから 』 という屁理屈を後から付けただけでしかない。 『 理解している 』 という既成事実を作るために屁理屈をつけて、 『 理解している 』 という形にしているだけであり、やっていることは単なる丸暗記である。しかし、このような〝既成事実のための屁理屈〟を 『 理解している 』 としている学生さんは、決して少なくない。まあ、考えるという行為を放棄しているのだから、当然であろう。

 屁理屈を述べているだけで、考えてはいない。考えてはいないのだから、このような屁理屈をつけて丸暗記する行為は、考えるという能力を衰えさせることになる。ひいては、前述したように 『 考えるのが面倒くさい 』 いう状況に陥ってしまうことになる。

 逆に言うならば…能力であるからこそ、いつでも誰でも身に付けることができるということになる。まあ、誰もが、それ相応に身に付けている能力ではあるのだが…。もいろん能力であるからこそ、優劣はあるし、得手不得手もあるだろう。しかし、能力であるがゆえ、何度も使ってさえいれば、必ず上達するし、研ぎ澄まされていくものになることも確かである。ならば、使わなきゃ損ではないだろうか?

 ましてや、試験対策に取り組んでいる人間なら、この〝考えるという能力〟は常日頃から使っていかなければならない能力である。前述したように、試験というものは、考えて解くものである。試験対策というからには、考えて解くということが対策の一環になるからである。何度も何度も考えれば、その能力は増していく。考えが早くもなれば、色々な方面から広い視野で考えることも出来るようにもなる。難解なモノにも、順序立てて一つ一つ考えては組み立てていき、答えを導き出せるようになる。考える能力が増すとはこういうことである。残念ながら、丸暗記をどんなに使ったところで、増していく能力は何もない。もちろん、考えるという能力も増すことが無ければ、逆に退化させてしまう結果になる。

 試験というものは、考えて答えを導き出すものである。考えるという行為無くして、試験を解くということはあり得ない。なればこそ、普段から考えるという能力は、鍛えておかなければならないのではないだろうか?前述したように、それも試験対策の立派な一環である。 『 考えるのが面倒くさい 』 などと言って、考えるという行為を放棄していれば、試験対策を怠っているということになるのだ。次の国家試験に向けて、試験対策を始めている人も多いことと思うが…今のうちに 『 考えるのが面倒くさい 』 という姿勢は、捨てておいた方が身のためである。身のためというより…次の国家試験で合格を掴み取りたいのなら、いますぐ、捨てるべき姿勢であることは間違いないと思う。

 

 

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2021年5月9日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

出来る人 と 出来ない人 の違いは何か?

2021/05/03

 今回は、少々辛辣な意見になってしまうが、ご了承いただきたい。さらに見やすくするために『 出来る人 』 『 出来ない人 』と漢字で表現させていただく。

 薬剤師国家試験の講師を職として、早ン十年であるが…移ろいやすき世の中で、今も変わらず受ける質問が『 どういう人が合格するんですか? 』といった内容の質問。まあ、同じような内容で『 成績が伸びるのはどういう人ですか? 』といった類いの質問も多い。この種の質問だけは、時代も人も問わず、何度も繰り返される質問である。

 まあ、まとめてしまえば『 どういう人が出来る人ですか? 』といったところだろう。この『 出来る 』には『 合格できる 』もあるし、『 勉強ができる 』 『 成績がいい 』 『 点数がいい 』といった、全てが含まれると思ってもらっていい。このブログでは全てまとめて『 出来る人 』と表現させてもらう。

 出来る人とできない人の差は何か?実は、さして難しい話ではない。まあ、色々とあるのだが…単刀直入に言わせてもらうならば、出来る人は『 身の程を知っている 』ということ。この一言に尽きるだろう。

 『 身の程を知る 』とは、『 自分の地位や能力をわきまえる。分を知る。(実用日本語表現辞典)』とある。今回のブログの内容で捉えるならば『 自分の能力をわきまえる 』というのが、一番ピッタリくると思う。ちなみに『 わきまえる 』とは『 物事の違いを見分ける(デジタル大辞泉)』ということ。つまり『 自分の能力をわきまえる 』とは『 自分の能力の違いを見分ける 』ということであり、分かり易く言うのなら『 自分の能力がどの程度か分かっている 』 『 自分が出来るかできないのかを、見分けることが出来る 』といったところだろう。なるほど…確かに出来る人は、皆こうだ。

 出来る人は、自分がどの程度か分かっている。そして、それを基に行動する。これが出来る人の特徴である。自分の程度を分かって、それに基づき行動している。行動するからこそ、自分の程度を分かっているといってもいいだろう。よく行動もせずに、『 (自分がどの程度かは)分かっていますよ 』と口にする人がいるのだが…口にしたところで、実際に行動していないという事は、ただ口から言葉として発しているだけであり、身をもって分かってはいないということである。本当に自分がどの程度分かっているのなら…国家試験という大勝負が待ち構えているのに、行動しない訳がない。

 『 イヤ、本当に自分がどの程度か分かっていて、その程度が国家試験合格に十分値するモノなのではないですか?だから、分かっていても行動する必要がないということで、行動していないのではないですか? 』という人がいるやもしれないが…。なるほど、そのような状況の人なら、自分の程度を分かっていても行動はしないかも…と思ってしまいそうだが、残念ながら講師生活ン十年、そのような人にお目にかかったことは一度もない。確かに、〝本当に自分がどの程度か分かっていて、その程度が国家試験合格に十分値する人〟に出会ったことは、何回もある。しかし残念なことに、そのような人は、皆〝行動する人〟なのである。〝本当に自分がどの程度か分かっていて、その程度が国家試験合格に十分値するモノなのに、行動しない人〟に、お目にかかったことは一度もない。その程度が果たして、国家試験合格に十分値するかどうかの判断はさておき、自分の程度が分かっている人間は、皆、行動を起こしている人間である。そして、合格していっている人間である。

 『 自分の程度が分かっている 』とは、具体的にどういう事だろう?簡単である。『 自分は勉強をさぼっていた(やっていなかった) 』『 自分は○○が分かっていない(できない) 』 『 自分は器用ではない 』 『 自分は他の人よりも時間がかかる 』等、自分のウィークポイントを直視することができる、そして受け入れることができる。これが、『 自分の程度が分かっている 』ということである。

 ウィークポイントを直視して、受け入れるからこそ、正当な判断と行動が生まれる。まず、直視すること。これが、できていない人が多いのは事実である。過去問信者(過去問ばかりやっている、過去問教の信者。過去問題を繰り返しやれば合格できるという教義の基、「 ひたすら過去問を解く 」ということに日々励んでいる。詳細はブログ〝過去問教~過去問信者の剣呑~〟に掲載)などには、これが多い。出来る問題、分かる問題ばかり何度もやって、出来ない問題、分からない問題は手を付けなかったり、若しくは丸暗記とまともに相手にしない。本人曰く『 それ位は、できなくても大した影響はない 』と思い込んでいるのだが…彼ら言うところの〝それ位〟は、試験対策においては、とてもではないが無視できないレベルの〝それ位〟である。直視していないからこそ、その量も内容も、どれだけ合格への足掛かりとなるモノなのか見えていないのだろう。自分のウィークポイントを直視できていないということは、とても危険な事なのである。

 『 私は自分がどの程度か分かっていて、行動していますよ 』という人もいなくはないが…。『 行動している 』と言ってはいるが、果たして、その行動とはどういったものなのだろうか?私は先ほど『 自分の程度が分かって、それに基づき行動している 』と書かせていただいた。程度に基づいた行動。これを行っていなければ、意味はない。では、程度に基づいていない行動とは?手っ取り早く言ってしまうならば、『 ○○さんは、これで受かったから、私も同じ方法で… 』なんていうやり方。これが、身の程知らずの代表的行動といえる。

 ブログや学習指導等で何度も伝えていることの一つに、『 ○○さんは、これで受かったと言っていますが…○○さんとあなたの程度は同じなのですか? 』というのがある。このやり方こそ、程度に基づいていない行動の代表例。出来る人は、出来るなりに、それ相応のことをやってきている。その背景があるからこそ、その方法で合格しているのである。〝背景〟抜きに、〝その方法〟だけを見て、『 その通りにやれば… 』というのは、いささか虫がいいというか…まあ、ハッキリ言ってしまえば、あまりにも安易すぎるのではないだろうか?よく『 上手くいっている人の真似をするといい 』という言葉を耳にするが…ある意味、この言葉ほど危険なものはない(そして無責任な言葉でもある)。この言葉に関しては、ブログ1、2本位に値する内容なので、また違う機会に改めて書かせていただきたいと思うが…。

 閑話休題。体操を始めたばかりの人間が『 内村航平選手は、こうやってブレトシュナイダー(鉄棒でH難度の手離し技)をやったから、私も同じ方法でやってブレトシュナイダーを決めます 』と言ったら、なんと言われるだろうか?まあ、言葉はよくないが『 バカかお前は? 』といわれるのが関の山だろう。内村航平選手は、今までやってきたものの積み重ねの上に、ブレトシュナイダーという技を決めているのである。それとて、すぐに決めたものではなく、今まで積み重ねたものの上に、さらに努力と苦労を重ねながら、何度も練習を重ねてブレトシュナイダーを決めることができるようになったのである。そんなことには目もくれず、前述のように『 内村航平選手は、こうやってブレトシュナイダーをやったから… 』などと発言したり、いきなりブレトシュナイダーの練習をしようとしたら、何と言われるだろう?『 バカかお前は? 』といわれても、致し方ないのではないだろうか?そして、こうも言われるはずである。『 身の程知らずだな… 』と…。

 『 身の程知らず 』という言葉は、少々、辛辣な言葉かもしれないが…前述のブレトシュナイダーという技の話に置き換えるのならば、分かって頂きやすいかもしれない。またまた辛辣な意見となってしまうが…実際、薬剤師国家試験対策では、身の程知らずの学生さんは少なくない。『 あなたがそれをやってもダメだよ 』なんていうアドバイスには耳も傾けようともしない。『 あの人はこれで… 』 『 皆、この方法で… 』と口角泡を飛ばし説明している人の顔を見なが、『 だから、あなたのレベルでは、それをやっても出来ないんだよ 』と思うことは、昨今、よくあることである。モノには〝順序〟と〝やり方〟というものがる。基礎からしっかりと積み上げてきて、それに取り組むという順序と、そういった背景を基に、さらに次のことに取り組むための下地を作って、積み重ねていくというやり方。これが、事を成すための〝順序〟と〝やり方〟である。それを無視して、表面だけを真似して、事を成そうと取り組むことに対し『 身の程知らず 』と言うことは、『 辛辣すぎる言い方 』となるのだろうか?その判断は定かではないが…少なくとも、試験対策、こと薬剤師国家試験対策においては、事を成すための〝順序〟と〝やり方〟を無視する行為は、『 身の程知らずな試験対策 』と言えるのではないだろうか?私は、そう思っている。

 

 

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2021年5月3日 | コメントは受け付けていません。 |

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