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コロナ患者は悪なのか? ~ 後編 ~

2020/10/30

 前回のブログの続きである。

 私は子供のころ、乗り物酔いがひどかった。乗り物酔いは自律神経系の病的反応であり、動揺病とも呼ばれている。つまり、病の一種ということ(まあ一過性のものではあるが…)。動揺病は、誘因となる刺激への正常な生理反応とされており、体質的な要因もあるとされている。症状がひどい場合には医療機関の受診も進められている。早い話…乗り物酔いは病気の一種であり、体質的差からくる大小はあれど、正常な生理反応でもあるということになる。

 私は子供のころ乗り物酔いするたびに、周りから怒られていたのだが…『 どうして、酔うと怒られなければならないのだろうか? 』という、理不尽な気持ちでいっぱいであった。いまだに思うのだが、どうして酔うと怒られなければならないのだろうか?今書かせていただいた、乗り物酔いに関する内容からも、乗り物酔いが悪いことでないということは、十分伺えるはずである。第一、わざとやっているわけではないのだから…。となると…単刀直入に言わせていただくならば、乗り物酔いした人を怒るのは、単なる弱い者いじめとしか思えないのだ。乗り物酔いで体調不良(動揺病)という事実は否定できない。だから、そこを突かれると反論できない。そして弱っているという状況。弱っているからこそ、強く言い返すことができない。この、相手の弱点を狡猾に利用した弱いものいじめ。これが、乗り物酔いをした人を怒るという行為の本質である。私はそう思っている。

 病気にいいも悪いもない。いいも悪いもない以上、怒られる対象にはならないし、侮蔑される対象にもならないと思う。まあ、真冬にTシャツ一丁で酒を飲んで、酔っぱらって外で寝たらカゼを引いた…なんていうのは、『 当人が悪い 』と言えるだろう。いささか叱責されても、やむを得ない状況である。落ちているものを拾って食べたら、お腹をこわした…というのも同じである。さすがにこれらは、本人が悪いということになるが…ここで叱責される理由の陰には、その人を思いやる気持ちがある。乗り物酔いの叱責とは、全くもって質が違うのである。

 未だに、社会の中でのコロナ騒動は落ち着いていないようであるが…。コロナの情報が目に入るたび、耳に入るたびに、なんともイヤな気持ちになってしまう。それは、コロナ自体に関する不安からではない。コロナ患者を、晒しものにしている感が否めないからである。誰もが『 コロナ患者が出たぞ! 』と鬼の首でも取ったかのように大騒ぎし、またはナマハゲよろしく『 コロナ患者は、いねえか? 』とばかりに目を光らせている。ハッキリ言わせていただくならば、『 コロナに罹ったな!とんでもない奴だ! 』的風潮が、社会に蔓延しているということ。

 新型コロナウイルス感染症という訳だから、当然、感染症であり病気である。罹ったからと言って、非難される理由など微塵もない。前述したように、病気にいいも悪いもないからである。『 病気にいいも悪いもない。病気は治すもの、または良好な状況に持っていくもの 』これが私の考え方である。コロナとて、これと同じである。確かに、前述の〝酔っぱらいのカゼ〟の場合と同じように、コロナに罹っていると分かっている患者さんと、マスクも何もせず、間近で長時間会話しながら、ゴホゴホいっている咳を真正面から思い切り吸い込んでいるような状況で感染したのなら、叱責されてもやむを得ないかもしれない。しかし、そんな人間はまずいないだろう。

 感染症とは病原体が、体に住みつくことにより起こる疾患である。残念なことに、我々が生きている環境には、病原体がごまんといる。そういう環境で我々は生きているのである。よく『 コロナと共に生きる 』的表現を見かけるが、失笑を禁じ得ない。『 共に生きる 』ではなく、われわれ人間は、微生物がごまんといる環境で生きてきた生物であり、今もそういった環境で日々過ごしているのである。それが、地球で生きるということなのだ。『 共に生きる 』も、へったくれもない。我々は、そういった環境で生きているのだ。

 そんな環境で生きている以上、感染症に罹ることはやむを得ないことである。ましてやコロナは、飛沫感染。会話や咳、くしゃみ等で生じる唾液のしぶき(これが飛沫)から感染するということであり、人と人とがコミュニケーションを図ることによって、ウイルスは媒介される。ある意味、現代社会の在り方を利用した感染様式ともいえよう(ウイルスにその気はないだろうが…)。もちろん、我々が生活している環境の中には、他にも病原体はごまんといるし、飛沫感染するものもたくさんいる。病原体は、われわれ人間社会の在り方の中で、それを利用して自らを増やしていっている。そういう存在なのだ。当然、社会の中で生きていれば、そういった病原体に巡り合うこともあるし、場合によっては感染してしまうこともあるし、さらに進んで発病してしまうこともある。何度も言わせていただくが、それが我々が生活している社会という環境なのだ。感染症はある意味、社会の中で生きている以上、避けられないジレンマと言ってもいいだろう。だから、絶対に飛沫感染したくないというのなら、社会から切り離された無人島にでもいって、一人で生活するといい。まず、飛沫感染はありえないはずであるから…。

 社会の中で生きている以上、飛沫感染することは避けられない。どんなに『 人と接触するな、距離を取れ 』といったところで、限度がある。どんなに予防したところで、これにも限界というものがある。つまり、社会の中で生活している以上、コロナ患者になってしまうことを100%避けるということは、できないということ。ある意味、現代社会の中で生活している以上、コロナ患者となってしまうことは、やむを得ない部分もあるということである。

 しかし、これは悪いことではないし、非難されることでもない(前述の〝酔っぱらいのカゼ〟のような場合は除くが…)。そういった環境に身を置いている以上、感染することもあるのだから…。だから、患者は何も悪くはないし、病気にいい悪いはない。なのに、なぜ叱責されたり、非難されなければならないのだろうか?患者になったという事実は否定できない。だから、そこを突かれると反論できない。そして弱っているという状況から、強く言い返すことができない。この、相手の弱点を狡猾に利用した弱いものいじめ…そう、前述の乗り物酔いしている人を叱責したり、非難したりする輩がやっているいじめと同じである。

 コロナ患者は何も悪くない。何度も言うが、病気にいい悪いはない。なのに、何故、コロナ患者は悪く言われ、叱責されなければならないのだろうか?何故、患者が出るたびに、これ見よがしに大騒ぎされるのだろうか?『 患者を見つけることで、感染を予防することができるだろ 』という人が、いるやもしれないが…。感染症を教えている立場から言わせていただくが…確かに、感染者や患者数が少なければ接触を断ち、手立てを打つこともできるだろう。しかし、これ位、感染者やら患者が出ていれば、感染者との接触を断つことは、まず不可能と言ってもいいだろう。コロナウイルスは他の病原体と同じように、社会の中に存在している状況にあるのだ。

 第一…『 患者を見つけることで、感染を予防することができるだろう 』ということと、そのたびに大騒ぎする、延いては患者を悪く言うということは、全くもって繋がらないのではないだろうか?患者を悪く言えば、コロナ患者が減るのだろうか?おかしくはないだろうか? コロナ患者を悪く言ったり、非難したところで、何の解決にもならないし、何の展望も見えてこない。単なるいじめか、『 自分は感染したくない。だから、感染した人が出れば、自分の身に危険が及ぶ。だから感染したやつが悪い 』という〝自分さえよければ〟といった〝エゴ丸出し〟にしか思えないのは、私の気のせいだろうか?

 病原体がいる環境で生きている以上、感染症にかかることはやむを得ないことである。だからこそ、『 どうすれば感染症にかからないか? 』と考え、手を打つのである。『 罹らないためには? 』『 発症させないためには? 』『 感染を広めないためには? 』と講ずる。そして、それを実践していくことが大切なのである。何のことはない、普段我々がやっている『 インフルエンザの予防と対策 』 『 ノロウイルス感染症の予防と対策 』といった、感染症の予防や対策と何ら変わらないのである。そう、感染症にいいも悪いも、上下もない。いたずらに恐れず、騒がず、予防と対策をしっかりと講じて、実践していけばいいだけである。患者を悪として事を済ませよう、患者に八つ当たりして自分の憂さを晴らそうとしたところで、感染症対策にも予防にも何もなりはしない。17世紀の魔女狩りを再現するだけである。

 それにしても…人間とは進歩しない生き物であることが、今回の騒動でよくわかった。コロナ患者に対する非難を、目にしたり耳にしたりするたびに、このことを痛感するのだが…。21世紀の人間と17世紀の人間のやっていることが一緒とは、少々情けない話ではないだろうか?やっている当人は、そんなことなど夢にも思っていない、感じていないのだろうが…。

 

注)ブログでは『 新型コロナ 』を文面の都合上、『 コロナ 』と表記させていただきます。

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2020年10月30日 | コメントは受け付けていません。 |

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コロナ患者は悪なのか? ~ 前編 ~

2020/10/23

 私が薬剤師国家試験の講師として、食中毒を教え始めてから、早ン十年の歳月が流れた。光陰矢の如しと、月並みな言葉が頭に思い浮かんでしまうが…それにしても早いものである。教え始めたころのプリントを、時たま見直すことがあるのだが…掲載されている内容こそ変更されてはいるものの、〝講義に使うためのプリント〟としてのベースは、ほとんど変わっていない。手前みそではあるが…今の国家試験にも十分対応できるものであることには、自分でも少々驚いている次第。これも何度かブログ等で書かせていただいたが…枝葉が変わろうが、問われる幹の部分は変わらない。問われる視点や手法は変われど、押さえておかなければならないポイントは変わらないのである。そこのベースさえしっかりと押さえておけば、ガイドラインが変わろうと、何が変わろうと、しっかりと対応できるという事。受験生は、ここの所をしっかりと理解しておいてもらいたい。

 食中毒のプリントのベースもほとんど変わっていないのだが、講義中に話すことの中にも、以前から変わっていないモノがいくつかある。そんな一つが『 食中毒患者を責めないで 』といった内容。

 どういう訳か世間では、誰か一人が食中毒になると、『 皆が食べて(食中毒に)ならないのに、なんでお前だけなるんだよ 』といった叱責が、当たり前のようになされている。ハッキリ言っておくが、これは食中毒学的には、全くもっておかしい発言である。まあ、おかしいというか、でたらめで無責任極まりない発言と言ってもいいだろう。同じものを食べても、食中毒になる人とならない人がいるのは、食中毒学的にはちっともおかしい話ではないし、多々あることである。ちなみに…以前勤めていた予備校で、私がコロッケを食べて食中毒になった時、『 ああいうのでは食中毒にならない 』と、のたまっていた講師(女性)がいたが…『 本当にコイツは、薬剤師の免許を持った、薬剤師予備校の講師なのか? 』と、まじまじと思ってしまった。コロッケでは食中毒は起こらない。この女性講師には、作ってから3ヶ月くらい常温放置したコロッケを、ぜひ山のように食べていただきたい。そう思っている所存である。

 閑話休題。詳細は長くなるので省かせていただくが、同じものを食べても、食中毒になる人とならない人がいるということは、普通に起こり得る話である。なのに、したり顔で『 皆が食べて… 』みたいな発言を偉そうにしてくる。そう、偉そうに…。何故、ここで偉そうになるのかが全く持って分からないのだ。食中毒の知識のない輩が、間違った内容を発言することに関しての問題点は、とりあえず置いておくにしても、何故、偉そうに発言するのかが全く持って理解できないのだ。私から見れば、食中毒で苦しんでいる相手を『 お前が悪いんだろ 』的に見下している感が無くもない。

皆は食中毒になっていない → なったヤツがおかしい → なったヤツが悪い → 悪いんだから強く言ってもいい(悪いんだから何を言われても仕方がない)

という訳の分からない方程式、イヤ〝卑しい理不尽な方程式〟が成り立っているような気がする。

 他にも例はある。私は高校の時、修学旅行中に体調を崩してしまったことがある。まあ、これも食べものが原因だったのだが…。修学旅行中といっても、後は帰途につくだけという状況だったので、乗り物の中でゴロゴロしているだけでよかったのだが…。体調も復活しつつ、やれ郷里に近づいてきたころ、担任に呼び出された。電車の中の4人席。当然、車両には多くの同級生がいるのだが…。皆に聞こえよがしに、体調不良のことでネチネチと説教を垂れられた。『 皆に聞こえますよ 』といったところ『 いいんだ、皆に聞こえて。こういうのは皆に聞こえて、イヤな思いをするべきだ 』的な発言をしたのには、たまげた。まあ後日、教員免許を持っている友人に話したところ、『 皆の前で、見せしめにするという方法もあるんですよ、教師のノウハウの中には。そいうのも、教師になる時、習いますから… 』とのこと。なるほど…こりゃあ日本の教育システムも腐敗、堕落するのも当然だ。見せしめにするなど、人権蹂躙も甚だしい。単なる弱いものいじめではないのか?そういえば、教師から理不尽なことをされたという話は、枚挙にいとまがないし、実際、よく耳にするのだが…こんなシステムがまかり通っているのなら、当たり前の話であろう。まあ、この腐敗堕落した教育方法とそれを教える組織も大いに問題ありなのだが、そのことに関しても今はちょっと横に置いておいて…ここでも、不思議なのは私が何か悪いことをしたのかという事?その教師『 お前のせいで皆がつまらない思いをしたんだ 』などと、のたまっていたが、私は調子が悪いからと電車の中で大人しくしていただけである(もちろん普通に会話もしていたし、自分一人で行動もしていた)。どこが迷惑をかけているのか?何故、皆がつまらなくなるのか?私のせいで、ヤレ見学ができなくなったとか、ヤレ写真が取れなくなったというのなら、まあ迷惑もかけていよう。しかし、前述のように体調を悪くしたのは、帰途につく最中であり、修学旅行のイベントなど何もない状況下である。さらに倒れたわけでも、運ばれたわけでもなく、大人しく座ったり寝ていただけである。

 ここでも先ほどの〝卑しい理不尽な方程式〟がなり立っている。体調が悪くなったヤツが悪い…。弱っている状況と、さらに体調が悪くなったという否定できない事実を盾にして、単にいじめているだけである。あの頃は、『 教師 対 生徒 』という圧倒的な不利な状況だから黙っていたが、今はハッキリと理不尽と言える(ちなみに、こういった経緯があるからこそ、私は先生だ講師だと威張っている輩、理不尽な仕打ちをする輩が大嫌いであり、自分は絶対そうならないようにと、常日頃から心がけるようにしている)。

 人は歯向かってこない人間には、本性を見せる。ましてや理不尽な理屈(『 体長を悪くしたやつが悪い 』『 皆が嫌な思いをする 』いずれも、理不尽な理屈に利用された事実である)を盾に取ればなおさらである。理不尽であろうと、事実を言われれば反論できない。言われた方は黙って従い、反論してこない。そこで、さらにヒートアップしてくる…悪循環である。周りにゲスな輩がいれば、ここぞとばかりにこの場に入って来て、一緒になって責め立てる。こういった、理不尽な仕打ちをされた経験を持つ方は、少なくはないと思う(学生さんからもよく聞かされる)。

 小学校の時に、こんな状況を目にしたことはないだろうか?例えば、誰かがやってはいけない、些細なことをやったとする。些細な事なら何でもいい。まあ、例えば『 廊下を走った 』とでもしよう。すると…それを見つけたヤツが『 ○○ちゃん、悪~い!廊下、走っちゃいけないんだぞ 』と騒ぎ立てる。すると周りにいる輩も『 いけないんだ~ 』『 廊下、走ったらダメなんだぞ 』と、それに続いて責め立てる。言われている方は…確かに廊下を走ることは悪いことだし、走ったことは事実だから、反論ができない。そう、黙っているしかない。黙っている、反論してこない訳だから…あとは、前述したとおりである。

 何のことはない、正義の名を借りたイジメである。相手は悪い。だから責めてもいいし、見せしめにしてもいい。相手は悪いことをしたのだから、反論もしてこない。ましてや事実を指摘している訳だから、反論してこないのも一入である。だから、何を好き勝手に言おうと構わないし、偉そうにしたっていい。イヤ、実際偉いのだ。相手は〝悪〟で、それを責める自分は〝正義〟なのだから。

 逆を言うならば、相手を責めたかったら相手を悪にすればいいし、自分は悪くない(=正しい)としたいのなら、相手を悪にすればいい。これなんかは常日頃から、身の回りで起こっていることではないだろうか?自分がうまくいかなかったことに対して、あちらこちらに『 あの人のせいで… 』とのたまわったり、集まるたびに『 アイツは… 』なんて名指しして、皆で不平不満を名指しした相手にぶつけているなど、そのいい例であろう。言っている方は、前述の食中毒患者を責めたり、病身の私を責めた高校の時の教員と何ら変わらず、自分は正義だと思っている。そう、ここが一番厄介な所なのだ。誰もが自分は正義であると思っている。これが厄介なのだ。そう、正義とはまこと厄介な代物なのだ。もちろん、真の正義は尊いものであるが、残念ながら巷に溢れている正義は、真の正義ではない。そう、紛い物の粗悪な正義である(まあ、本来正義とは呼べない代物なのだが…)。紛い物であろうが、当人は真の正義だと思っているから、余計性質が悪いの。だからこそ、厄介な代物…という訳である。何かで読んだのだが…『 正義は悪よりも厄介である。悪は反省することができるが、正義は何をしても反省することがないからである 』と書いてあったが、まさに、この通りであろう。そして…今も体調不良を理由として、謂れなき迫害を受けている人達がいる。〝卑しい理不尽な方程式〟によって…。そうコロナ患者の方達である。

 今回も内容が長くなってしまい、前編・後編の二部構成にさせていただくこととなった。まあ、今回は書く前から『 おそらく長くなるから、2部構成だろうな 』と思っていたのだが、やはりその通りの結末で…。

次回、後編をば、お楽しみに!

注)ブログでは『 新型コロナ 』を文面の都合上、『 コロナ 』と表記させていただきます。

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2020年10月23日 | コメントは受け付けていません。 |

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頭がいい・悪いって何?

2020/10/13

 学生さんと話をしていたり、学習指導している時に、よく出てくるのが『 私は頭が悪いから… 』といった言葉。ン十年、講師稼業に携わっているが、最近はこの言葉を使う学生さんが多くなってきているような気がする。

 私が相手にする学生さんのほとんどが、薬学部を卒業してきている学生さん達である。詳細は後述させていただくが…私は学歴では頭がいい・悪いっなんていうモノは、判断できないと思っている。学歴は優秀だが、その行動たるや劣等そのものという人間を、たくさん見てきたからである。しかし…まあ、世間一般的な物見をするならば、少なくとも薬学部を卒業しているのだから、頭が悪いということはないと思う。以前から、自分の教え子である学生さん達には伝えていたのだが、薬進塾に籍を置くようになってからは、無料体験講義や研修会等でも、この『 薬学部を卒業しているのだから… 』といった内容を話させていただいている。それを耳にしたのだろうか、昨今は他の予備校の講師が、学生さんによくこのフレーズを口にしているそうである。まあ、それほど的を得たフレーズなのだと思っている。

 昔から不思議でたまらないのだが…『 頭がいい・悪い 』って何なのだろうか?何を基準に〝いい・悪い〟を決めるのだろうか?そもそも〝いい・悪い〟とは相対的なモノである。つまり、『 (何かと比較して)いい・悪い 』という事になる。まあ、何かの試験の点数で見た場合、〝いい・悪い〟は判断できるだろう。しかし、あくまでも点数だけの比較における〝いい・悪い〟でしかない。小学生と高校生が同じ試験をした場合。小学生が50点で、高校生が60点だったとする。確かに点数だけ見れば、高校生の方が『 (点数は)いい 』。しかし、『 (問題を解くという観点における)出来がいいか・悪いか 』で見た場合、どうなるだろうか?同じ内容の問題を解いているのだから、『 小学生の方が、出来がいい 』とするのか『 高校生の方が出来が悪い 』とするのか?単に試験一つとった場合でも、これだけ〝いい・悪い〟の捉え方があるのだ。ましてや、人間一人を見て〝(頭が)いい・悪い〟などと判断することなど、相当難しいと思うのだが…。

 空想科学読本で、おなじみの柳田理科雄氏。柳田氏の本は、よく読ませていただいているのだが…ある本の中で『 頭がいいって何だろう?学生の時は、試験ができる人が頭がいいと言われていた。社会に出ると、仕事ができる人が頭がいいと言われる 』といった内容を書かれていた。まさにこれである。頭がいい・悪いは時と所と場合によって、判断基準が変わるということ。先ほど〝いい・悪い〟の捉え方が一つではないという事を書かせていただいたが、時と所と場合によって、判断基準が変わるのだから、それも至極当たり前のことだろう。そう、〝頭がいい・悪い〟は、見方や解釈により、その判断は大きく異なってくるのだ。

 学歴では頭がいい・悪いなんていうモノは、判断できないと思う…と書かせていただいたが、これなどはまさにその通りであろう。優秀と言われる大学を出ている。大学で、優秀と言われる成績を収めている。なのに、行動が…なんていう人間は、それこそ山のように見てきた(もちろん、行動も優秀だったという人間も、たくさんいたことも述べておく)。そういった人間と接してきて、『 どうして、そういう(愚かな)ことするかな… 』などと呆れてしまったことも、星の数ほどある。もちろん、その逆も然り。例として出させていただいては、申し訳ないと思うのだが…私の武道の師匠は『 (学生の頃は)勉強なんか全然やらなかったよ 』とよく話していた。当時としては一般的な学歴であり、特に優秀な学歴というものではなかった。しかし…こと、武道のことに関しては天才的であった。動きや技を研究しては、それを教えていたのだが、『 頭いいよなぁ 』と感じることは、一度や二度では…イヤ、接するたびに感じていた。まあ、息子さん曰く『 夜遅くまで、毎日のように関連書籍を読んで勉強していた 』とのことではあるが…。私の師匠のような人は、決して少なくはないと思う。学歴が優秀というわけではないが、その道においては右に出るものはいない。そういった人間のほとんどが、はたから見た場合『 う~ん、頭いいなぁ 』と思える言動をしているのではないだろうか?

 逆に〝私は頭いいんです〟的オーラを醸し出している人間に限って、前述のような『 どうして、そういう(愚かな)ことするかな… 』などと、呆れてしまう人間が多かったりするのも事実である。まあ、確かに『 頭いいですね 』と言われて嬉しくない人間はあまりいない。だから、そう言われたいがために行動することも、分からなくはない。しかし分からないのは、自ら『 頭悪いんで 』という人間。他人から『 頭悪いね 』なんて言われて、気持ちの良い人間などまずいないだろう。まあ、一般的には憤慨する場合が多いはず。なのに何故、わざわざ人から言われたら憤慨するはずの『 (私は)頭が悪い 』という言葉を、自ら使うのであろうか?

 以前、教え子だったある学生さんの話。非常識とも取れる行動をしていた(実際、それで何人かの学生さんが迷惑を被っていた)ので、注意したところ…。『 自分、バカなんで… 』と少々笑いながら答えていた。基本的に『 バカ 』と相手に言うのは、悪口である。悪口は言われて心地よいものではない。だからこそ、皆、怒るのだ。なのに、自分で自分のことを『 バカ 』と言い、しかも薄ら笑いを浮かべている…。常軌を逸した行動としか思えないのだが…。もちろん、人は無駄な行動はしない。この行動にも、れっきとした意味がある。そう、『 自分、バカなんで… 』と薄ら笑いで答えられると、こちらはそれ以上、注意できなくなってしまうのだ。まあ、いいどころ『 怒られているのに笑うな 』だとか『 そういう問題じゃないだろう 』くらいの、軽いショットを放つくらいが関の山である。そう、『 自分、バカなんで… 』と薄ら笑いを浮かべながら答えるという言動の裏には、これ以上自分を責められなくするための企てがあるということ。なんのことはない、姑息な保身言動である。強く叱責されることもなければ、それ以上詰問されることもないのだから…。しかし、悪いことをしているからこそ、叱責されるのであり、さらに叱責されたからこそ、同じ轍は踏まないようにと改めるのが人間である。この学生さんは、その後も何度も非常識と取れる行動をしては、皆に迷惑がられていた。同じ轍を何度も踏んでいるのである。姑息な保身法の代償として…。

 ここまでとはいかなくとも、『 (私は)頭が悪い 』というのも、一種、逃げ口上のような気がしなくもない。学生さんが『 (私は)頭が悪い 』という言葉を発するときは、やるべきことをやっていないことを指摘された時が多いからである。『 プリントやった? 』『 やっていないです? 』『 どうして?やらないと… 』『 私、頭悪いんで 』といった感じである。『 覚えなきゃいけないよ 』『 頭悪いんで… 』、『 質問しないと… 』『 頭悪いから… 』…どれも、やるべき行動をやっていないことに対する、言い訳のような気がする。プリントをやっていない言い訳、覚えなきゃいけないことを覚えない言い訳、質問するべきことを質問しない言い訳…。もちろん、勉強に関することは指導しているので、来ていただければすぐにその指導はするし、やり方も伝える環境は整っている。なのに行動しないという姿勢が、芳しくないからこそ、そこの所を指摘しているのだが…。ここでも、『 どうして来ないの? 』『 頭悪いんで… 』といった内容が繰り返されることになる。

 ハッキリ言うが、〝頭がいい・悪い〟と〝やるべきことをやる・やらない〟は別の話である。私から言わせれば、やるべきことをやらなかった言い訳に『 頭が悪い 』という言葉を使っているだけである。更に言わせていただくならば…もし仮に、本当に頭が悪いというのなら…だからこそ、人一倍やらなければならないのではないだろうか?『 私は頭が悪いんで、人一倍やらなければダメなんですよ 』と、毎日コツコツ勉強しては、合格をつかみ取った学生さんを、私は何人も知っている。そういった学生さんは、普段『 頭が悪いんで… 』などという言葉は、一切発していなかった。ただひたすら、自分ができる限りのことをしていたように思う。もし、本当に自分が頭が悪いと思っているのなら、このような行動をとるはずではないだろうか?

 やはり、『 頭が悪いんで… 』という言葉で逃げている感は否めない。しかし、どんなに逃げたところで、やるべきことは無くならない。何か目的を持ち、それを遂行するためには、やはりやるべきことはやらねばならない。それを、『 頭が悪いんで… 』という言葉で逃げていると…同じ轍を何度も踏むことになってしまう。

 先ほどの武道の師匠の話ではないが、『 頭がいいなぁ 』と思われている人間でも、勉強を欠かさない等、やるべきことを欠かさず行っているのだ。イヤ、欠かさないからこそ、『 頭がいいなぁ 』と思われる人間になるのではないだろうか?『 頭が悪いんで… 』と言い訳をして、同じ轍を踏むことになるのか?言い訳をせず、しっかりとやるべきことをやって、目的を遂行するのか?どちらを選ぶかは、その人の自由であるが…少なくとも、学生さんが口にする『 頭がいい・悪い 』は、目的遂行にはあまり関係ないよう、私には思える。

 

 

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2020年10月13日 | コメントは受け付けていません。 |

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どんな人間にもプライドというものがあります。

2020/10/06

 どんな人間にも、プライドというものがあります。だから、如何なる人間であろうと、如何なる場合であろうと、他人のそれを踏みにじるような行為をしてはならない…そう思います。

 プライドとは『 自尊心 』とあります。さらに、自尊心とは『 自らの価値を認める自己評価であり、自身を優れた存在・価値ある存在・意義ある存在であると位置づける気持ちのことである 』とのこと(実用日本語表現辞典より)。自らの価値を認める。自らを価値ある、意義ある存在と位置付ける。これが自尊心、すなわちプライドということになります。

 誰もが自分自身というものを自覚しています。『 自覚する 』ということは、視点を変えて言えば『 自らの価値を認めている 』という事になります。価値を認めているからこそ、自分とは何かを知っている、すなわち自覚が生まれることになるからです。そして、自分の価値を認めているからこそ、〝判断〟ということができるのです。『 私はこの行動をとらない 』『 私はこの行動をとる 』といったように、誰もが自分自身で判断して、行動を起こしています。自らの価値を認めるからこそ、判断という行動がなされるのです。自らの価値を認識しない人間が、判断などできると思いますか?自分自身を認め、自分自身の裁量で物事を決める。『 これは自分にとっては益になるかもしれないが、多くの人が困ることになるであろう。だからやってはいけないのだ 』という判断。これこそが、その人のプライドであることは言うまでもありません。そう、この姿勢こそが前述した『 自らを価値ある、意義ある存在と位置付ける 』姿勢であり、自尊心、すなわちプライドなのです。『 自分はこう思う。だから、たとえ自分にとって益がなくとも、これはやってはいけないのだ 』という姿勢こそ、その人のプライドと言えるのです。余談ではありますが…昨今は自分で判断できない人が多いように思えます。『 ○○さんが良いって言っていたから… 』『 皆がそうだから… 』『 ネットでやっていたから… 』など、自分自身で判断しないで、自分自身以外の何ものかに判断を委ねる。自分自身の判断とプライドが密接な関係にあるということは…自分自身で判断ができない人、自分自身での判断が希薄な人は、プライドがない人と言うことができる…ということになります。ご用心をば。

 閑話休題。悲しいかな、世の中には平気で人のプライドを傷つける輩がいます。中には、あえてそういう行為をする輩もいます。誰もがプライドを持って生きています。プライドはその人間の存在価値でもあります。だから何人たりとも、人のプライドを傷つける言動は許されないことだと思っています。しかし…私は今までに、何人もの〝教えるということを生業としている人〟と接してきましたが、悲しいかな、人のプライドを平気で傷つける人間が沢山いたということも事実なのです。

 私は、ブログで事あるごとに『 モノを教える立場の人間だからといって、決して偉いという訳ではない 』と書いてきました。私が師とする人たちも、それこそ、その方面では名だたる人たちばかりですが、決して偉ぶることはありませんでした。ですから、偉そうにしている輩と接するたびに『 な~に偉そうにしているんだ、コイツは? 』と呆れかえってしまいます。そういう呆れかえってしまう輩に限って、平気で人のプライドを傷つけるような言動を取ることも確かです。ちなみに…そういった輩が『 教え方が下手 』なことも確かです(笑)。

 以前〝『 そんなことも分からないのか? 』と言われても困ってしまう…〟というタイトルのブログの中で、『 教える側にも謙虚さは必要である 』と書かせていただきましたが、まさにこれでしょう。教える側、教わる側、どちらにも謙虚さは必要なのです。その気持ちがあれば、教える方が偉いだの、優位だのと言った気持ちは生まれないはず。謙虚さがないからこそ、上から目線での言動を取ってしまう…。その最たるものが、人のプライドを傷つけるという行為だと思います。

 平気で人のプライドを傷つけるような言動を取る輩は、教え方が下手と書かせていただきましたが…それはそうでしょうね。教える側にも謙虚さが必要なのですから…。私の武道の師匠は、それこそお偉い方でしたが、非常に謙虚な方でした。もちろん、教え方も上手かったです。

 謙虚さがない輩が、教えるのが下手なのは当たり前の話。相手の立場から考えて、分かり易いように伝えるというのが、教えるという行為ですから、まずは相手の立場にならなければなりません。相手の立場になるためには、謙虚さが必要になります。相手の目線と同じ立場からモノを見る謙虚さ…これがモノを教えるのには必要だという事。ということは…〝教えるということを生業としている人〟に謙虚さがないというのは…まあ、ある種致命的なことになるといっても、決して過言ではないと思います。

 塾生さんと個人面談をしている時、『 以前、(大学や予備校の)先生にこんなこと言われて… 』なんていうことを涙ながらに話してくれる人がいますが…『 なんで、そんなこと言うかな 』なんて、聞いているこちら側が、悲観的になってしまうようなことも、よくある話です。確かに先生と呼ばれる人間は、指導することも仕事です。今の状況を正しくないと判断して、正しい方に導いていく。だからと言って、指導する相手のプライドを傷つけていいかというと、決してそんなことはありません。『 指導する=プライドを傷つける 』ではないからですし、そんなことは許される行為ではないからです。逆に指導するときこそ、ここのところに注意を払わなければならないのです。つまり、相手の立場に立って考える。そう、謙虚さが必要になるのです。相手の立場に立たない…つまり、自分本位の一方通行で言動を押し付ける。これでは、教えるという行為や指導するという行為が、成り立つはずがないことも言わずもがな。さらに、これがエスカレートすると…相手の立場などお構いなく、もちろん相手の心情などものともせずに、自分本位で好き勝手な言動をとる…そう、相手のプライドなど考えない言動になる…という事になるのです。

 どうせ教えるのなら、喜んでもらえる方がいいと思うんですけどね…。指導するにしても『 分かりました。ありがとうございました 』なんて言ってもらえると嬉しいですし、その指導により試験対策が好転したり、点数が伸びてくれた方が、相手のプライドを傷つけて優越感に浸っているより、よっぽど幸せな気分になれることだと思うのですが…。そう〝優越感〟。人のプライドを傷つける輩は、傷つけることにより『 コイツは私より格下だ 』と優越感に浸っているのです。そして、そのことに快楽を覚えているという事なのでしょう。如何に自分が上の人間か。そして、相手を踏みにじることで、如何に自分が正しいかということに浸っているのです。『 私は、こう思う。そしてコレが正しいんだ。これが分からない、これができない、あなたが間違っているんだ 』と…。私が知っている限り、人のプライドを傷つける輩は、そんな人ばかりだったような気がします。まあ、あまり程度の高い人間とは言えないと思いますが…。

 運悪く、そういう輩に遭遇してしまった人。そして、プライドを傷つけられ、それが癒えない人。そんなことは、忘れてしまいましょう。忘れることによって、傷は癒えますから…。せっかく傷に絆創膏を貼り、傷を癒そうとしているのに、思い出しては絆創膏をはがして傷を見る。そんなことをしていれば、治る傷も、いつまで経っても治らなくなってしまいますよ。それ相応の対処をしたのなら、忘れてしまう。そうすれば傷口というのは、癒えるものなのです。そして、こう思えばいいのです。『 世の中には、他人のプライドを平気で傷つける人間もいる。だから、そういう人に遭遇するのは、交通事故みたいなものだ。致し方ない 』と…。そしてついでに、『 上から目線で空威張りしたいから、平気で人のプライドに触れてくるんだ。ということは、誰からも〝上〟とは認めてもらえない人ということか…。謙虚じゃないなら、誰から認めてもらえるわけないか。認めてもらえないから、如何に自分が正しいかを押し付ける。そして、それに酔っているんだな、自己満足とも気づかずに…それで優越感に浸っているなんて、哀れだな… 』なんていうことも、覚えておくといいでしょう。プライドが傷つけられたことを思い出して、悲しい気持ちになったり、憤慨した時は、このことを思い出してみてください。そうすると、その時の相手の優越感に浸った顔や、怒鳴り声をあげて睨んでいた般若顔が、何とも間抜けなものに思えてきますから(笑)。

 

 

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2020年10月6日 | コメントは受け付けていません。 |

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