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『 そんなことも分からないのか? 』と言われても困ってしまう…。

2020/08/29

 『 分からない 』ということは悪いことではない。誰だって最初は分からないし、出来ない。だからこそ、〝習う〟という行為が誕生することになる。誰もが一発で分かって、出来るなら〝習う〟という行為自体が、存在しないということ。皆が最初からすぐに分かる訳ではないし、出来る訳ではないからこそ〝習う〟という行為が存在し、そして〝教える〟という行為が存在することになる。そして、ここに〝教える〟という行為を職業とする人間の存在が登場することになる(文面の都合上、これ以降『 分からない 』『 できない 』ということを、まとめて『分からない』と表現させてもらうことにする)。

 『 分からない 』ということは悪いことではない。もちろん、落ち度あることでもない。本人が真剣に取り組んでいる以上、『 分からない 』ということに疚しいことは一つもないのだ。同時に、〝教える〟という行為にも優位性はない。教える方、教わる方、立場的にどちらが優位なのかということは、ないということ。あくまでも教わる側が、教えてもらう側に対し、謙虚な気持ちで接するのが礼儀として存在しているだけである。しかし、これとて絶対的な義務ではない。ましてや、ここに金銭の授受が絡む、つまり『 教えて欲しいからと金銭を出す、教えるからと金銭を受け取る 』といったやり取りがあるのなら、なおさらどちらにも、優位性はないと思っている(もちろん、お互いにそれ相応の対応をしていればの話ではあるが…)。昨今は『 教える方が偉いんだよ 』とばかりに、横暴にふるまう輩(ちなみに、こういう人間は先生と呼ぶに値しない人間である。よって、〝輩〟という字を当てさせてもらう)が少なくは無いらしいが…何とも嘆かわしい、イヤ危機的状況であると言ってもいいだろう。

 私は以前、ある職場で新人講師の研修を担当していたことがあった。その際によく言っていたのが『 教える方と教わる方、どっちが偉いと思う? 』といった内容。まず、新人講師は『 教わる方? 』と答えるのだが…私が言うのは『 教えるという行為に関して、(教える方、教わる方)どちらが偉いというのはない 』といった内容。そう、教える・教わるという行為において、どちらが偉いとか偉くないとか、そういったものは存在しない。前述させていただいたが、物事を習うには、謙虚さというものが必要である。教えてもらう人間は、教えてくれる人間に対し謙虚にふるまう。これが礼儀である。同じように、教える側にも謙虚さは必要である。前述したように、『 教える方が偉いんだよ 』とばかりに、横暴にふるまうなどもってのほか。ブログで何度も書かせていただいた、私の武道の師匠。師匠は謙虚であった。武道の世界においては、誰もが一目置く存在。厳しく、怒鳴られたことも何度もあったが、『 威張っているな 』『 上から目線で横暴だな 』と感じたことは一度もないし、接していてイヤな気持ちになったことも一度もない。威厳はあったが、同時に謙虚さもあったと思う。だから接していて、イヤな気持ちにならなかったのだろう。『 モノを教えるという事は、こうでなければならない 』…そう師匠がお手本として教えてくれた…私は、今もそう思っている。

 そんな師匠に怒鳴られたことは、何度もあったと書かせていただいたが…。基本的に、私は物覚えがいい方ではない。教わってパッとやれる。そういうタイプの人間ではないということ。どうも、思考回路や観点が他の人とはかなり違うようである。そのためか、大多数の人が分かっても、私には理解できない、見えてこないという事は過去に何度もあった。何度もあったというよりは、毎回そんな感じである。もちろん、今もである。

 で、理解できない、見えてこない…つまり、分からないので質問するのだが…どういう訳か、判で押したように『 そんなことも分からないのか 』と言われる場合が多い。叱責される場合もあるし、嘲笑されることもある。ここで毎回のように思うのだ。『 分からないことを分からないと言って、どうして叱責されたり、嘲笑されなければならないのだろうか? 』と…。ふざけているのならまだしも、こちらは真剣である。真剣だからこそ、聞いているのだ。なのに、叱責されたり、嘲笑されたりする…。これは、対応としては非常に問題があるのではないだろうか?というか…対応にさえなっていない気がするのだが、どうだろうか?

 第一『 そんなことも分からないのか? 』と言われても困ってしまう。分からないからこそ、聞いているのだ。そのレスポンスとして、『 そんなことも分からないのか? 』と言われても何の解決にもならない。こちとら、その〝分からないこと〟を解消したくて、質問する等の行動をとっているのだ。〝分からないこと〟に対し、何か解決する手立てを教えてもらいに来ているのに、『 そんなことも分からないのか? 』と返された日には、やはり困ってしまう以外ないのではないのだろうか?ましてや、叱責されたり、嘲笑されたりしながらである。『 何か悪いことでもしたのだろうか… 』と、真剣に悩んでしまうのだが…前述のように、分からないことは悪いことではないはず…。なのに、何故、叱責されたり、嘲笑されるのだろう?私の師匠は、分からないことを聞いても叱責したり、嘲笑したことは一度もなかった。もちろん、そういうことをしている師匠を見たことも一度もなかった。

 ここに、教える側の謙虚さが出るのではないだろうか?師匠は『 僕の技を伝えたい 』ということを、よく口にしていた。『 僕の技を伝えることを使命だと思っている 』とも話していた。教えるとは伝えるという事である。相手に伝える。これがモノを教えるという行為である。教えるという以上、相手に伝わらなければ『 教えている 』ということにはならない。師匠は、これが分かっていたのだと思う。分かっていたからこそ、厳しくはあれど、叱責せず、嘲笑もせず、必死に教えてくれたのだと思う。そんな師匠の中にあったのは、教えることで優位に立つことでもなければ、教えることが面倒くさいからと言って手を抜くことでもない。『 技を伝えたい 』そして『 それが使命だと思っている 』ということ。これが心中にあったのだと思う。だからこそ、教える際に叱責も嘲笑もなかったのだろう。これこそが『 伝えたい 』『 使命だと思っている 』ということから発生する、謙虚さではないだろうか?

 質問に対し『 そんなことも分からないのか? 』ということは、伝えていないという事になる。叱責したり、嘲笑しているのなら、なおさらである。伝えていないという事は、教えていないという事になる。『 教える 』ことが先生と呼ばれる人間の仕事…ということは、そういう人間は先生とは呼べないということになるのではないだろうか?思考回路や観点が他の人とはかなり違うため、『 そんなことも分からないのか 』と叱責されたり、嘲笑されることが多い私だからこそ、それを痛切に感じるのだ。『 質問される→教える 』これは当たり前の流れではないだろうか?ましてや、人にものを教えることを生業としている先生と呼ばれる立場の人間なら、当たり前の流れになるのではないだろうか?『 質問する→「 そんなことも分からないのか? 」と叱責される、嘲笑される 』…どう見ても、どう考えてもおかしい流れだと思うのだが…それはやはり、思考回路や観点が他の人とはかなり違う私だからこそ思う事なのだろうか?なんとも不可解なことであるとは思うのだが…。

 

 

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2020年8月29日 | コメントは受け付けていません。 |

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おいそれとは、勉強することはできませんよ!

2020/08/23

 106回の国家試験を受験するという人。国家試験対策(卒業試験対策でも結構です)やっていますか?まあ、最近は卒業試験が早くなってきている関係もあり、夏休みから試験対策を始める人も増えてきているのですが…。

 先日、106回の国家試験を受験するという既卒生(105回を受験したそうです)を紹介され、色々と話をしたのですが…。『 試験対策は始めているの? 』と聞いたところ『 えっ!まだやらなくても… 』なんて声が返ってきました。『 何で? 』って聞き返すと『 国家試験まで、まだまだじゃないですか 』という答が…。『 こりゃあマズイな… 』と思いつつ『 前回の国試が終わってから、1日何時間くらい勉強しているの? 』と更に聞いてみると『 勉強してませんよ 』。『 大学の時は、1日どれくらい勉強していたの? 』と聞くと…『 勉強なんかしていませんでしたよ。試験の前くらいにやるくらいですかね 』。『 う~ん、こりゃあ大変だ 』と、当人の笑顔とは別にこちらは苦笑いに…。『 大変だよ 』と言うと…『 大変って何が大変なんですか?試験が近くなったら、始めればいいだけじゃないですか 』とのこと。う~ん…本当に、そう簡単に試験前に勉強を始めることが出来ると思いますか?

 これを読んでいる人のほとんどが、自転車に乗ることが出来ると思います。ではチョットお尋ねしますが…生まれて初めて自転車に乗った時、今のようにスイスイと自転車を乗り回すことが出来ましたか?『 生まれて初めて、すぐに自転車の乗ることが出来る人なんて、いるわけ無いじゃないですか 』そう、その通り!何度も何度も乗っているうちに、スイスイと乗れるようになったはずです。

 じゃあ今、仮にあなたが自転車に乗り慣れていない、自転車初心者であるとしましょう。ある目的地に行く場合、例えば歩いていくより自転車に乗っていくほうが早く、楽に目的地に着く事ができますよね。でも、自転車に乗り慣れていない自転車初心者だったらどうでしょう?

 決められた時間に、目的地に到着するように自転車をこぎ始めている人を横目で見ながら『 そろそろ自分も目的地に向かい始めようかな 』なんて考え始める。で、人が自転車に乗っている姿を見ながら『 まあこんな感じだろう 』と乗ってはみたものの・・・自転車に乗っていることもままならず、フラフラと頼りない。カーブだって、曲がりきれずに突っ込んでしまうこともあるでしょう。あちこち突っ込んだり、道から外れたり、転んだりしながら満身創痍・・・でもさっぱり進まない。そんな結果になってしまうのでは?『 何であの人はスイスイと行けるの? 』なんて悩みながらも、いたずらに時間ばかりが経ってしまう…。そんな状況に陥ってしまうのではないでしょうか?では、何故、スイスイいける人とそうじゃない人がいるんでしょう?『 そりゃあ〝自転車に乗ることが出来る人〟はスイスイいけるに決まっているじゃないですか。〝自転車に乗り慣れていない自転車初心者〟が、そんな人と同じようにスイスイいける訳がありませんよ 』そう、その通りです。

 さて質問。皆さんは勉強をすることができますか?毎日、決められた時間、自分にあったやり方で勉強を進めていくことが出来ますか?『 勉強なんかしてませんでしたよ 』と答えている人は…自転車の例で言うのなら『 自転車なんか乗っていませんでしたよ 』と言っていることになります。つまり『 自転車の乗り方=勉強のやり方 』が身に付いていない状況にあるということ。ここなんですよね、恐い所は…。私は学習指導で口酸っぱく言っているのは『 勉強というのは、やり方を身に付けるもの 』であるということ。誰でも、すぐに勉強をすることができる訳ではない。その勉強するという行為を身に付けなけれならないちう。私の学習指導は、いつもここから始まっています。

 『 勉強のやり方を知らずに勉強する 』ということは、『 自転車の乗り方を知らずに自転車に乗る 』と同じことです。というか、経験をしたことのある人は多いんじゃないですか?『 よし勉強するぞ! 』と初めては見たものの…どいうやっていいのか分からない。何から手を付けて良いのか分からない。とりあえずやってはいるものの…進んでいるのか、進んでいないのかも分からない。どうも苦労している割には、ちっとも進んでいないような…気がつけば全然違うことをやっていたり、あれやこれや調べているうちに時間ばっかり経ってしまっている…。『 ど~しよう、というより、どーすんの? 』と頭を抱えてしまうが、どうしていいのか分からない…。どうです?経験ありませんか?そういう人こそ『 自転車の運転が出来ていない人 』なんですよ。つまり『 勉強のやり方が身に付いていない人 』なのです。実は、勉強って、すぐにおいそれとはできるものではないのですよ。それ相応の〝やり方〟つまり『 勉強のやり方 』を、まずは身に付けなければならないのです。『 自転車の乗り方を知らずに自転車に乗って目的地へ向かう 』ということは、『 勉強のやり方を知らずに勉強して試験にのぞむ 』というのと同じことなのです。『 苦労している割にはちっとも進まない 』という結果まで同じですよね?

 何故、私が早くからの勉強を進めるかという答がここにあります。ハッキリ言いましょう。自分の勉強のやり方がわからない人が、『 ハイ勉強始めます 』と始めたところで、おいそれと勉強なんか出来るはずがないということ。やり方が、分かっていないんですから。まあ、これを教えるのが、私がやっている学習指導なんですけどね。そう、私がやっている学習指導とは『 勉強のやり方を教える 』ということ。もちろん、勉強のやり方は一人ひとり違いますから、その人に見合った指導をしていくことになりますが…。

 閑話休題。では、『 勉強始めます 』と始めて、スイスイと勉強を進めるためには…そう〝自分の勉強のやり方〟で勉強を進めていくことです。では、〝自分の勉強のやり方〟はどうやって習得するのか?自転車と一緒です。『 何度も何度も自転車に乗っているうちに、スイスイと乗れるようになった 』のと同じように、『 何度も何度も勉強しているうちに、スイスイと勉強できるようになる 』のです。時間がかかるんですよ。残念ながら、オイソレとは自分のやり方なんて見つかるはずもないし、習得できるはずもないんです。自転車の乗り方だけじゃなく、パソコンのうち方だって、スポーツだって、勉強だって何だってそうなのです。何度も何度も繰り返し行っていくことで、技術というものは習得されていくものなのです(これをサポートするのが学習指導ですが…)。何もやっていなかった人間が、すぐに取り組んでスイスイと物事こなしていくことなんていうのは、難しい話。しかし、人間が一つの技術を習得するためには、時間をかけて、自分自身が取り組んでいかなければならないのは、当たり前のこと。もちろん、外部からサポートをすることはできます(何度も言いますが、これが学習指導に当たります)。ただし、あくまでも〝サポート〟であって、本人自身が実践していかなければならないことは、言わずもがな。本人が実践していかない限り〝自分の勉強のやり方〟など習得出来るはずがありません。〝自分の勉強のやり方〟を見つけるためには、時間をかけて何度も何度も繰り返し行っていかなければならないのです。つまり、時間をかけて毎日勉強していかなければならないということ。これこそが、〝自分の勉強のやり方〟を見つける最善の方法なのです。

 昨今は様々な品で手作りの良さが見直され始めています。職人さんが一つ一つ手作りで生み出すその品は『 さすが 』と唸らせるほどの名品ぞろい。そんな職人さんに対しての記事やTVレポートを見ていると、よく出てくる言葉が『 長年培ってきた勘 』という言葉。勘というと、何やら適当でいい加減なものを思い浮かべますが、そもそも勘とは『 物事を直感的に感じ取る能力 』のこと。〝直感的に『 こうするのが正しい 』と判断する能力〟のことですから、それはそれは素晴らしい、そしてやはり凡人にはおぼつかない能力です。その能力も職人さん曰く〝長年培ってきた〟きたもの。長い間、時間をかけて育て上げてきた自分の技・能力で作られるからこそ、手作りの品は輝いているのです。やはり、時間をかけて培った自分の技以外に、自分を最強へと導く技はないのです。そして、その技・能力は時間をかけて培うものであるということ。どうやら、自分の方法を創り上げることに近道はないようですから、皆さんも時間をかけて〝自分の勉強のやり方〟を培ってみてください。

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価値のある良いことは、時間も手間もかかる。

 By ターシャ テューダー(アメリカの絵本画家、挿絵画家、園芸家)

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2020年8月23日 | コメントは受け付けていません。 |

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過去問教 ~  過去問信者の剣呑 ~

2020/08/10

 ※  本ブログは宗教に関する内容ではないこと、既存のどの宗教に対しても揶揄する意図は
 全くないこと、さらに既存の特定の宗教に関して書かれているものではないことを、最初に
 お断りをさせて頂きます。

 

 何度かブログ等でも書かせていただいたのだが、私は全部で6つの資格試験対策(いずれも医療系の資格試験)に絡んだ経験がある。言い方を変えれば…全部で6タイプの資格試験受験生(以下、受験生と表記させていただきます)と交流していた経験がある、ということになる。私が教えていた学校の中には、色々な試験の受験生が混在していた所もあったが、目的とする試験は違えど、受験生同士そこそこ交流を持って仲良くやっていた。講師も同じで、付き合いの深さはまちまちではあったが、どの受験生からも先生と呼ばれ、気軽に話をしていた。先生と呼ばれる立場ということもあり、やはり勉強の話をしていたことが多かったよう思える。私が学習指導、つまり勉強のやり方を教えるということをやっていたのを知ってか、そういった相談を受けることも少なくはなかった。

 当然ながら、6種類の資格試験は出題科目は違うし、時間も日数も違う。しかしながら…これは学習指導の時にもよく話すのだが…基本、勉強のやり方というものは変わらない。科目は違えど、何を勉強しようと、勉強のやり方というものは変わらないのである。こういったことも分からずに、学習指導云々と口にしている人がいるそうであるが…いったい、何を指導しているのだろうか?ただただ、苦笑するばかりである。閑話休題。ある意味、料理と同じと考えていいだろう。料理の基本は皆同じである。それを身に着けた先に、和食だ中華だ、イタリアンだというのが出てくる。そう、料理の基本さえ身に着ければ、あとは一人で進んでいけるようになるのだ。勉強のやり方も、これ然りである。基本は皆同じ。それを身に着けた先に、化学だ薬理だ、実務だというのが出てくるのである。

 だから、前述のように違う資格試験対策の受験生から、勉強について相談された際も、当然ながら指導をすることはできるし、実際、指導をしてきた。まあ、ある程度の予備知識(その試験の科目や時間、問題数等)は必要であるが、基本的に指導する内容はさして変わらない。実際、その指導で『 ありがとうございました。先生のおかげで… 』と、あとからお礼を言われたことも一度や二度の話ではない。指導が適切だったという事だろう。そう、前述した通り、たとえ試験は違えども、勉強のやり方や試験対策のやり方は基本同じなのである。だからこそ試験対策では、まずはこの〝勉強のやり方〟という幹がどういったものかを、しっかりと認識しておくことが、重要である(これを認識させることから学習指導は始まる)。そこを勘違いして、枝葉に翻弄されて右往左往するから、試験対策が頓挫してしまうことになるのである。

 そんな訳で、薬剤師国家試験以外の受験生ともよく話をする機会があったのだが…そんな受験生達が何気に口にしていた言葉が、『 薬剤師(国家試験対策)の受験生って、過去問好きですよね 』という言葉。言いえて妙とはまさにこのこと。確かに、薬剤師国家試験の受験生ほど、過去問好きは他にいないといっても決して過言ではないだろう。少なくとも私が接してきた、他の5つの試験対策受験生の中では、間違いなく断トツの一位である。それほど、過去問が好き…イヤ、好きどころではない。過去問信奉というか…まあ『 過去問は絶対! 』的な、ある意味、宗教に近いものがあるといってもいい。そう、過去問教の信者があまりにも多すぎるのである。

 試験対策といえば、すぐに過去問、過去問である。本当に『 お前は過去問教の信者か? 』と心の底から思ってしまう。こういうことを言うと、すぐに『 過去問は大事じゃないですか! 』と食って掛かってくる輩がいるのだが…私は一言も『 過去問が大事ではない 』とは言っていない。むしろ重要であると思っている。重要だからこそ、その扱いには充分な注意が必要なのである。そう、過去問には〝過去問の勉強のやり方〟というものがあるのだ。やみくもに、ただやればいいという訳ではない。そのやり方もわからずに、ただ問題を見て『 答はコレ 』なんてやっているのでは、クイズ本をやっているのとさして変わらない。そして、分かった(と自分で勝手にそう思い込んだ)問題に対しては、蔑ろに扱うようになる。出来てもいないのに、クリアした気になって、その問題を蔑ろにしてしまう…。およそ試験対策において、これほど危険なことはない。

 ハッキリ言っておこう。当たり前のようにまかり通っているが、『 過去問ができる 』ということと『 国家試験に受かる 』ということは、まったく別の話である。確かに『 国家試験に受かるだけの学力がある人は、過去問ができる 』ということは言えるが、逆は真ならず。『 過去問ができれば、国家試験に合格する 』とは必ずしもならない。特に、昨今のような〝考えて答えを導き出す問題〟においては、『 過去問ができればそれで大丈夫 』といった姿勢では、何ら太刀打ちすることができないだろう。

 もちろん試験対策において、過去問題は重要である。しかし、前述したように過去問には過去問の勉強の仕方というのがある。どんなに勉強したところで、そのやり方が間違っていれば、効果は得られないどころか、逆に試験対策そのものの足を引っ張ってしまいかねないので、注意が必要である。そして…過去問教の信者のほとんどが、このやり方を間違えていることも注意しなければならない。一にも二にも過去問、過去問。やっていることといえば、ひたすら過去問をこなしているだけ。ここでポイントは『 こなしている 』ということと、『 解答している(理解して答を導いている) 』ということは、まったく別物であるということ。残念なことに、過去問信者のほとんどが、『 こなしている 』方である。表面をなぞっているだけで、理解して答を導いているわけではないということ。本人はいたって真面目に必死に取り組んでいるつもりなのだろうが、実際は表面をなぞっているだけである。もちろん、こんなやり方では効果は出ない。『 やった 』という満足感は得られるだろうが、試験対策に役立つ部分など微々たるもの。そう、過去問信者のほとんどは、過去問をこなすことによって安心感を得ているだけなのである。こうなると、もはや試験対策と呼べる代物ではなくなってしまう。『 過去問をやっていれば国家試験に合格できる 』といった虚偽の安心感に浸りながら、ひたすら過去問をこなす日々。まさに、過去問信者と呼べるのではないだろうか?

 卒業試験が始まっている大学もあり、いよいよ国家試験対策に本腰を入れなければならない時期になってきた。前述したように、試験対策にとって過去問は重要である。これをうまく利用して、国家試験合格を勝ち取るだけの学力を、身に着けていかなければならない。国家試験対策にとって、すぐに取り組むことができる過去問勉強だからこそ、その取扱いは慎重にしなければならない。すぐに取り掛かることができるからこそ、安易に、そして中途半端に取り組んでしまいかねないからである。安易に中途半端に取り組んでしまった結果、過去問信者になってしまう人も決して少なくはない。過去問をうまく利用して、しっかりと学力をつけていき、試験対策を実りあるものにするのか?ひたすら過去問をこなし、『 これさえやっていれば… 』という安心感にすがりつくだけの過去問信者になるのか?それは、その人次第である。

 

 

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2020年8月10日 | コメントは受け付けていません。 |

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その名は〝ざら自慢〟~ 後編 ~

2020/08/01

 前回のブログでは、ザラメおかきについて三幸製菓さんに問い合わせした件に付いて書かせていただいた。こちらの急な問い合わせ、ましてや『 ザラメおかきは人気がある商品なのですか? 』などといった、ある意味、無礼千万の質問に関して、物腰柔らかい親切な対応に、感涙にむせぶ思いであったのだが…。そこで出てきた名前が〝ざら自慢〟。前回はここの所で、今週へ続くという終わりにさせていただいた。

 私はブログを書く際、一気に書き上げることは少ない。少なくとも2~3回に分けて書きあげていく場合が多い。この書き方ゆえ、『 そう言えばアレも… 』『 これも書いておこう 』などという具合に、時が経つにつれアレもこれもと書きたいネタが出没してくることになり、いつもの悪い癖の長文となってしまうのだが…。閑話休題。前回のブログもいつものように、数回に分けて書いていたのだが…その間に偶然にも〝ざら自慢〟という名の商品と遭遇することになるのだが…。まさか、その〝ざら自慢〟を耳にすることになるとは…。

 実は、前々回のブログを書いている時。講師陣のお茶が切れたということで、ペットボトルのお茶を買いに行くことに。薬進塾のそばには、リーズナブルな値段で販売してくれるスーパーがいくつかある(これも薬進塾の魅力の一つである)。で、いつものようにそのスーパーにお茶を買いに行くと…。そのスーパーでは、入口付近に数量限定で割引商品が箱単位で並べられている。まあ、お菓子類が多いのだが、普段の価格よりもさらにリーズナブルな値段で販売されており、私も何度か利用したことがある。で、お茶を買う前に、いつものように『 今日は何があるのかな… 』なんていう具合に目をやると…真っ先に目に飛び込んできたのが、〝ざら自慢〟の文字。『 ざら自慢!これは… 』と思い手に取ると…そう、一口サイズの薄焼き煎餅にザラメが施してある、件の煎餅である。奇しくも、ザラメおかきのブログを書いている真っただ中で出会った、〝ざら自慢〟。これを運命の出会いと言わずして何と言おう。シンクロニシティ(意味のある偶然の一致:ユングが提唱した概念で、日本語では共時性などという)とは、まさにこのことであろうか?その時、心の中で『 ザラメ単品で売っているという事は、これを買う人がいるというか、商売になるということ。やはり、ザラメおかき好きというのは、少なくないのだろうか? 』と思ったのだが…イヤ、それよりも心に響いたのは、そのネーミングである。

 ざら自慢…すごい、ネーミングだ!これほどのネーミングに出会ったのは、久しぶりである。驚愕至極である。仕事上、ブログのタイトルやホームページの見出し、宣伝の謳い文句などのワードを考えることは日常茶飯事であるが、これもネーミングと言えば、ネーミングだろう。これとは別に、モノのネーミングを頼まれる機会もよくある。お店の名前を付けたこともあれば、書籍の名前、書籍の各章の見出しタイトル、パソコンによる勉強システムの名前など、今までに何度もネーミングを依頼されたことがある。詳細は省くが、ネーミングで重要なのは、やはりインパクトである。さらに短く、語呂よく伝わるものの方がいい。私がネーミングにおいて、注意しているのはそこの所であるが…この〝ざら自慢〟には、その全てがあると言っていいだろう。これほど衝撃を受けたネーミングも、正直久しい。ここで『 ザラメを自慢したいのか? 煎餅を自慢したいのか? 』などと野暮なことを考えてはいけない。〝ざら自慢〟に理由などないのだ。 芸術作品の『 何がスゴいのか 』を語ることほど、愚かで、見苦しいことはない。〝ざら自慢〟は〝ざら自慢〟であることこそが、美しいのだ。

 その〝ざら自慢〟の名を、耳にすることになろうとは!しかも、〝ざら自慢〟が三幸製菓さんの商品であったとは!スーパーで拝見した時は、名前のインパクトの強さゆえ、そちらの方にばかり心を奪われ、どこの製品化までは、調べる余裕がなかったのだ。実は、ザラメおかきネタでブログを書いていることもあり、『 ざら自慢…1つ買ってってみようかな… 』と、翌日、買いに出かけたのだが…なんと、全部売り切れであった。箱で売っていた〝ざら自慢〟が、1日で消滅…イヤ、売り切れ。こりゃあ、侮れないぞ…。

 先日の電話での問い合わせで、『 〝ざら自慢〟という単品での製品もありますので、人気はありますよ 』との返答を受けた際、以上のようなことが走馬灯のように、頭の中を駆け巡った。単品で1日のうちに売り切れてしまう程の力を持つザラメおかき…そして名前が〝ざら自慢〟…こりゃあ、ザラメおかきに完敗だ。やはり、侮れないぞ、ザラメおかき。などと考えていると…三幸製菓さんの方いわく『 お年寄りに人気があるみたいですよ 』とのこと。なるほど…『 一定のファンが付いているという事なのだろう 』と前述させていただいたが、まさにその通りであった。コアなファンがいて、さらに好む人がいる。こうなれば、人気商品としての条件は全てそろっていると言ってもいい。なるほど売れるはずである。さらに、電話で対応されてくれた方は『 私も好きですよ 』と話してくれた。社員をも魅了するとなれば、もはや何も言うことはあるまい。ザラメおかきは、皆から好かれていると言っても過言ではない、おかきなのだ。

 ちなみに…『 どういった製品が、人気が高いのですか? 』と聞いてみたところ…『 そうですね、どれが高いというのは、特にありませんね。皆、人気ありますよ 』とのこと。やはり、米菓は人気があるのだ。『 そんな中でも… 』としつこく聞いてみると、『 そうですね、サラダ系なんかは人気がありますよ。〝ぱりんこ〟というサラダ味の単品があるんですが、人気の商品ですね 』とのこと。おおっ、〝ぱりんこ〟!コレは知っているぞ。イヤ、知っているどころではない。よく購入している商品だ。サラダ味のおかきは、おやつとしては、外せないほど大きい存在だ。実際、ウチの塾でとったアンケートでもサラダ味は人気が高かった。ミックス型のおかき(1個包装のおかきが、何タイプかミックスされて袋に入っている商品)で、サラダ味を手にすると何となくうれしい気分になってしまうのは私だけではないはず。ちなみに、前々回のブログでもちょっと書かせていただいたのだが…ミックス型のおかきに入っている個々のおかきの数に関してなのだが…。聞いてみたところ、『 何が何個 』という具合に、数を決めて入れている訳ではないとのこと。ある程度、偏ることなく数が揃うようにはなってはいる(つまり1種類だけ入っていないという事はない)ものの、その数に関してはランダムになっているそうである。前々回のブログ最後に書かせていただいたような、『 なんか、この袋、ザラメおかき多くないか? 』というようなことは、意識してしている訳ではないし、極端に一種類だけ多くなるようなこともないとのことである。まあ逆に、ある程度種類がランダムな方が、オリジナリティが出てきて、楽しいと言えば楽しいことも、これ然りである。

 今回のブログが遅くなってしまったのは、これまた量が多くなってしまったことにある。削ろうにも削れない。かと言って、3部構成となってしまうのも、ここ最近多すぎる気がする。という事で、四苦八苦した結果が今回のブログである。どうも、おかきネタについては、今後もブログに登場しそうな気配である。そう、それだけネタがあるのだ。実際、今回書こうと思って書けなかったネタもたくさんあるし、削ってしまった部分もたくさんある。それに関しては、また機会を見て書かせていただきたいと思う。

 今回のブログでは、三幸製菓さんには、本当にお世話になりました。ぶしつけで、しょうがない質問に対し、しっかり答えてくれたことに関しましては、ただただ感謝する次第であります。答えてくれた女性の方のお名前も存じ上げており、お名前を明記してお礼をとも思いましたが、やはりブログというものの性質上、個人名を明記するのはよろしくないと思い、それに従わせていただきました。三幸製菓さん、そして電話での問い合わせに対応して頂きました女性の方、本当にありがとうございました。

 

 

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2020年8月1日 | コメントは受け付けていません。 |

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