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第98回薬剤師国家試験 正答

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2013年3月29日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:薬剤師国家試験

第98回薬剤師国家試験 不適切問題

国試_不適切問題

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2013年3月29日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:薬剤師国家試験

個の強さ。

 先日、某企業の研修で学習指導を行ってきました。実は、来月にも学習指導の講演を依頼されているのですが…もちろん先日の研修で話した内容とは異なるものとなります。毎回、毎回「どのような指導がいいのか?」をスタッフの方達と打ち合わせをして、その内容を決めていますから、講演や研修によって内容が異なるのは当然のこと。学習指導と一口にいっても、内容は千差万別。色々な種類の「学習に関する指導」が存在します。だからこそ、毎回スタッフの方達との話し合いにより、その内容を決めることになるのです。今までに無かった、全く新しい内容の学習指導を依頼されることも日常茶飯事です。

 もちろん、よく話す内容もあります。私が、よく話すことの一つに「個の強さを持ってほしい」ということがあります。〝個〟とは『一人の人(デジタル大辞泉より)』とあります。つまり「一人の人としての強さを持ってほしい」ということです。どうも最近の学生さんを見ていると、〝個の強さ〟を持っている人が、非常に少ないような気がするのです。早い話「一人で何かすることが出来ない人が多い」ということ。何をするにも群れる。何を決めるにも誰かと一緒。自分の考えや判断を発することなく、いつも誰かの行動や判断に委ねてしまう。そんな学生さんが、何気に多いのです。

 これもよく話すことなのですが…講師という仕事を長く続けていますと、次のような学生さんにもよく出会います。一人で学校に来て、一人で帰る。昼食も一人で食べるし、休み時間中も一人でいる。かといって、別に無視しているとか、無視されているとかいうわけではなく、話しかけられればそれ相応に対応するし、必要とあらば自分から話しかける。分かっているんですよ、何をしに(予備校に)来ているかを。友達作るわけでも、みんなと楽しくやるためでもない。国家試験に受かるために、勉強しに来ているんだということを。だから、あえて皆と行動を共にする必要もないのです。自分で考え判断し、自分ひとりで行動し、自分ひとりで勉強すればいいのです。こういった学生さんは、私が知る限り100%合格しています。そりゃあそうでしょう。個の強さを持っているのですから。自分ひとりで考え、自分ひとりで判断し、自分ひとりで行動する。これが出来る人間なのですから、国家試験合格という目標だって難なくクリアできて当然です。

 今まで何人もの〝個の強さを持たない学生さん〟に、「どうして自分の考えや判断で行動せずに、とりあえず他の人と同じにするの?」と聞いてきたのですが…驚くことに、ほとんどといっていいほど同じ答えが返ってくるのです。「他の人と違っているのが不安」という内容の答が…。「自分だけ違っていたらどうしようと不安」「自分だけ違っていたら、嫌われるんじゃないかと不安」など、とにかく人と違うこと自体が不安になってしまっているパターンがほとんどなのです。う~ん、分からないなぁ。私的に考えるならば、人と考えや判断が違っていることは当たり前のことだと思うのですが…。70億人すべての人間の考えや判断が同じことの方が、よっぽど特異なことだと思いませんか?本来、人という生き物は、皆が皆、違う生き物なのです。当然ながら、考え方や判断も異なりますし、例え考え方や判断が同じであっても、とる行動が違うなんていうことは至極当然のことなのです。違っていて当然なんですから、あえて不安になる必要などないのです。「違っていたら、嫌われるかも」なんていいますが、考えや判断、行動が違っていたからといって嫌うような人間なら、嫌われて行動を共にしない方がいいですよ。そんな「自分と違う」という理由で、人を嫌う人間なんてろくな人間じゃありませんから。そんな人と離れて、一人で考えて行動していても、必ずその考えや行動に賛同してくれる人が寄ってくるはずです。本来、人と人との交わりというのは、そうやって成り立っているものなのですから。不安だからと、自分の考えや判断、行動を押さえつけて、他の人に委ねているだけの〝人との交わり〟などというものは、虚構の交わりでしかないのです。そんな虚構の交わりという世界に閉じ篭っておらずに、自分で考えて判断し、一歩踏み出すという行動を起こして、一人で外に出てみてはいかがですか?そこにある世界は、あなたが考えて判断して得た実際の世界なのです。そして必ずやその世界で、あなたは新しい自分を見つけることになると思います。個の強さを持った自分自身を…。そして気が付くでしょう。「結構、一人って気楽でいいな」と(笑)。

 私が色々と教わっている先生が、先日、本を出版されました。その本の中に、こんな一節が書いてあります。

 大多数と違っていることが真実だということもあるのです。

 違う考えを持つことを恐れないでください。

 違う目で物事を見ることを恐れないでください。

 

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2013年3月27日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

分からないことは悪いことじゃない!

 ①:以前私が勤めていた予備校での話。とある大学に行くことになったのだが、その大学は駅からバスを利用しなければならない。同僚の講師に、そのバス乗り場がどこにあるのかを尋ねたところ…「駅を出て、まっすぐ歩いて右に折れたところにありますよ」との返答。それじゃあ良く分からない旨伝えたところ「分かりますよ、まっすぐ行って右ですから」と同じような返答が。駅から道が一本しか伸びていなく、交差する道も他に無い所なんだろうと思い、当日行ってみると…確かに駅から道は一本伸びているのだが、交差する道がいくつかある。まっすぐ行って右ということなので、1本目の道を右に曲がったのだが、どうもバス乗り場と思しき所は無い。やむを得ず一旦戻り、駅の人に聞いたところ…まっすぐ歩いて2本目の道を右に曲がるとの事。おまけに曲がってからも、それなりの距離があるとの事で、実際行ってみると駅員さんの言うとおりであった。

②:大富豪もしくは大貧民と呼ばれているトランプのゲームがある。私はこのゲームが出来ない。正直な話、もうこのゲームを知ろうという気もないし、やりたいとも思わない。私は、このゲームのやり方をかつて何人もの人間に聞いてきた。しかし、帰ってくる答は、判で押したように同じ答。「2が一番強いんですよ。あと、やっているの見ていたら分かります」…そんなんで果たして分かるのだろうか?まあ言うのだから…と見ているのだが、さっぱり分からない。そんな体験を数十回も、それこそ判で押したように何度も繰り返された日には、堪ったものではない。という訳で、私は金輪際、大富豪もしくは大貧民と呼ばれているゲームには関わらないようにしている。

 私は、人から物を教えてもらうことが好きではない。出来る限り自分で調べ、教えてもらうことがないようにしている。「講師という仕事をしているのに、とんでもないヤツだ!人にモノを教える仕事をしているならば、人から教わるということも大切なことではないか!」と目くじら立てて怒る人もいるかもしれないが…怒るのは、ちょっと待ってほしい。教わるのが嫌いといっているのではない。好きではないといっているのだ。以前ブログにも似たようなことを書かせていただいたが、「好きではない」=「嫌い」ではない。別に、人にモノを教えてもらうことを嫌い、拒否しているという訳ではないのだ。その証拠に①の話では、駅員さんに道を教えてもらっているではないか?

 では、前述の「私は、人から物を教えてもらうことが好きではない」といった発言は、どういう意味なのか?ザックリと言わせてもらおう。実は、モノを教えるときに①、②のような教え方をする人間が何気に多いのである。そういう人間にモノを教えてもらう羽目になった場合…何とも言えない嫌な思いをしてしまう結果となるのだ。私にとって「物を教えてもらう」という行為は、「心地よいor嫌な思い」のいずれかとなってしまう、相当にリスキーな行為なのだ。万が一〝嫌な思いをする方の人間〟に当ってしまった場合…相当な付加を背負ってしまうことになる…。これが私の「人からモノを教えてもらう」ということに対する正直な意見であり、「好きではない」という表現の根拠なのだ。

 でも、どうなのだろう?皆、初めは分からないのが当たり前なのではないか?そして、それを教えてもらうという行為も、至極当たり前の行為ではないか?何故それが〝リスキーな行為〟になってしまうのだろう?さらに、実際に私が感じたことなのだが…実は①、②の件に関して、教える方に一つの特徴がある。それは「教えている方が、さも自分が偉いかのような、上から目線で接する」ことである。人にものを教えるというだけで、何故もそんなに優位に立ったような態度を取れるのだろうかと、私は常々疑問に思っている。何といっても私が聞いていることは、単に〝バス乗り場への道順〟と〝ゲームのやり方〟でしかないのだ。なのに、それこそドヤ顔で、しかも前述のような「教えているんだか、教えていないんだか分からない教え方」で、何故にそんなに誇らしげに語れるのだろうかと思ってしまうのである。そして、そういった人間からは「私はそれで分かった。だから、分からないあなたが悪い。分かった私は優秀なのだ」といった、嫌悪すべき雰囲気がたっぷりと滲み出しているのが感じられるのだ。

 分からないことは悪いことなのだろうか?断言できるが、それは100%間違いである。分からないことは悪いことではない。初めてのことは分からないのが当たり前だし、分かったところで、時間の経過とともに分からなくなってしまうことも多々あるのだ(だから勉強という行為が必要なのだから)。いずれにしても、それらは当たり前のことであり、悪いことではないのだ。それが何故に「分からないこと=悪いこと」となってしまうのだろうか?ここでハッキリといわせてもらいたい。分からないことは悪いことではない。人にモノを聞くことも、なんらやましいことではない。むしろ、前述のような「私は分かった。だから、分からないあなたが悪い。分かった私は優秀なのだ」という思いこそ、諸悪の根源であり〝嫌悪すべき悪いこと〟ではないのかと、私は思っているのである。

 

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2013年3月20日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

事実だったら何を言ってもいいのか?

 以前読んだ、あるお医者さんの本の中で、私は未だに忘れられない話があります。その本(光文社さんが1988年に発刊されている本です)を書かれたのは、能中賢二先生というお医者さん。ラジオなんかにも出ていた有名なお医者さんだったそうで、とても面倒見が良く、評判のいいお医者さんだったそうです(このブログを書くにあたり、調べさせていただいたのですが、残念なことに既に他界されているとのことでした)。私が忘れられない話というのは…。

 能中先生、ある日70歳後半の女性から電話相談を受けたそうです。内容は…その女性、10年ほど前に手術を受け人工骨頭が体に入っているとのこと。その手術後、主治医のA先生は「これで30年は大丈夫」と言っていたそうで、その女性も安心して生活してきたそうです。ところが(能中先生に)電話をかける前の日、近所のB先生に「人工骨は10年が限度。そろそろ取り替えなくてはいけません」といった内容の話をされたとのこと。その女性、ショックで夜も眠られなかったそうで、能中先生の所に電話をかけてきたということでした。そのことについて、本の中で能中先生はこんなことを書いています。「確かに人工骨頭は10年くらいしか持たない例が多い。女性の70歳後半という年齢を考えた場合、新しいものと取り替える手術と、このまま取り替えずにいることを考えた場合、取り替える手術をすることが、どれほどこの女性に必要なものだろう?とくにB医師の80歳になろうとしている女性に対する発言は、適切なものであったと言えるだろうか?少なくとも私は、この女性の話を聞いてB医師のことを腹立たしく思った。せっかく、女性は平穏な生活を送っていたのに、このような発言をするというのは、あまりにも人間的でないように思えてならないのである」と。

 「医学的には、確かにその通りかもしれない。しかし、手術をすることが正しい選択といえるかどうかは疑問である。少なくとも、その疑問に対して熟考する前に、女性に事を告げたという行為に関しては、一考の余地があるのではないだろうか?」能中先生は、こう指摘されているのだと思います。今回の件は、医学的な見解ですから「本当のことを伝えるのが良いか・悪いか」は中々一重に判断出来ない部分があると思います。しかし、日常生活の中には、ここまでとはいかなくとも〝事実を伝えることの良し悪し〟というものが多々存在していることは事実です。そしてその事実も、真偽のほどが定かでない〝事実〟であったりする場合が多々あったりもするのです。

 私は以前から気になっていることがあります。それは「本当のことなんだから言ってもいいだろ」という考え方。よく「本当のことなんだから言ってもいいだろう」とか「事実なんだから言っても問題ないでしょ」という人がいますが…私はそういう人たちに言いたいのです(もちろん面と向かって言ったこともありますが…)。「あなたのその考え方は間違っている」と。事実だったら何を言ってもいいのでしょうか?本当の事だったら何を言っても許されるのでしょうか?人と人との関わりとは、そんな杓子定規ではいかないものだと思います。「言う」という行為には、人と人の関わりが常に存在しています。人と人との関わりがある以上、関わる人のことを配慮するということは、大切なことなのではないでしょうか?能中先生がおっしゃっていることも、そういった内容であると私は思っています。

 世の中には「本当のことを言って何が悪いんだよ」と強気に出る人も、悲しいかないることは確かです。でも、それを言うことによって傷つく人や悲しむ人がいる場合、それを言うことは許されることなのでしょうか?あえて、人を当惑させてまでも言うべき事実とは何でしょう?もちろん、人を当惑させてまでも言うべき事実があることは確かです。ただ、前述のような「本当のことを言って何が悪いんだよ」と強気に出る人のいう〝事実〟というものは、私的には〝眉唾物の事実〟である場合が圧倒的に多いのです。確かに、その人はそのことを〝事実〟として認識したかもしれません。しかし、何かに対して自分がどう思っても、自分がどう感じても、それはその人が思ったり感じたりしたというだけであって〝絶対的な事実〟ではないのです。あくまでもその事実は、その人が捕らえただけの〝相対的な事実〟でしかないのです。〝その人だけの相対的な事実〟な訳ですから、口から出すとなるとやはり他の人のことを考えるのが、人を尊重するということなのではないでしょうか?そこのところを取り違えると…どうも最近、そういった配慮が少ない人が多くなったような気がします。「私が…」「自分的には…」と絶対的にズンズン前には出てくるのだけれども、他の人への配慮が今一つ足りないという人間が…。

 先の件に関して能中先生は次のように書かれています。

 医師と患者の間に不可欠なのは、患者の医師に対する信頼感であり、安心感である。患者の精神的不安感から開放された生活を送らせてやるのも医者の務めではないか。患者は表面上だけではなく心も治してほしいはずだ。

能中先生。残念ながら、私はお会いしたことはありませんが…あなたは素晴らしいお医者さんです。

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2013年3月13日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

まずはさておき…お疲れ様でした!

 国家試験お疲れ様でした。とにもかくにも国家試験は終了。〝国家試験受験〟という一つのことを成し遂げた訳ですから、成し遂げた自分を褒めてあげて下さい。自分で自分を褒めるということも、それはそれは大事なことなんですよ。特に、何か一仕事終えた後に自分を褒めることは、大切なことなのです。自分を褒めることによって「やり遂げた」ことを認識し、自分の中に一つの区切りをつけることが出来るのですから。これをするかしないかで、今後の進み方は大きく違うものになってしまうのです。

 進むためには、一歩踏み出さなければなりません。一歩踏み出すためには、スタートラインが必要です。スタートラインとは何でしょう?「競走で、出発点に引かれた線。また、物事の出発点(大辞泉)」とあります。ラインというわけですから、当然〝線〟が存在します。往々にして、線は区別するために用いられます。人生におけるスタートラインという線は「今までとこれからを区別するための線」です。今までから脱して、新たなる第一歩を踏み出すための線、それがスタートラインなのです。もちろん「人生におけるスタートラインという線」は一本ではありません。人は何かを遂げる度に、そして新たなる何かを目指す度に、このスタートラインという線を引くことになります。そして、このスタートラインという線を引くのは、誰であろう自分自身なのです。自分自身が、新たなる第一歩を踏み出すために、自分自身で引く線。これが「人生におけるスタートラインという線」になります。これがなければ、第一歩は踏み出せません。恐らく何事をも成し遂げることは出来ないでしょう。単に惰性的な、今までの延長の繰り返し。メリハリもなく、単に時間に沿って流れるだけとなってしまいます。今までとは決別して、新たなる気持ちで、新たなる事に取り組むための第一歩には、今までとを区切るための線であるスタートラインが必要なのです。成し遂げた自分を褒めるということは、このスタートラインを引くためのものでもあるのです。

 「今までとは決別する」ということを言うと「今までのことは今までの経験として、大事にしなければ云々…」という人がいますが、それは早とちりと言うもの。ここで謂う所の「今までとは決別する」という意味は、過去を疎かにするという意味ではありません。過去に得たことは過去に得たこととして大切にし、それを持って新たなる道を進むという意味です。何気に人というのは過去を引きずってしまう生き物。「今までとは決別する」という意味には、悪しき過去に引きずられないという意味も含まれているのです。スタートラインに立った以上、後ろを振り返る必要はありません。振り返らず、過去の思いは胸の内に秘めておくのがいいと思います。そして、第一歩を踏み出すのです。「振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない」といったのは、日本の詩人、劇作家、歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家など、多彩なる肩書きを持つ寺山修二氏。寺山氏が、生涯、どれほど多くのスタートラインに立ったであろうかは、その肩書きの多さからも伺えることと思います。だからこそ、前述のような言葉が発せられるのでしょう。「振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない」と…。

 薬剤師国家試験が終わった今、受験された方は新たな一歩を踏み出す時期に来ました。もちろん、長い長い受験生活でしたから、休憩も必要。しばらくはゆっくりと休んで下さい。リフレッシュすることも、これまた大事なことです。試験が終わった学生さんに「ここしばらくは、何をすればいいですかね?」なんていうこともよく聞かれます。その度に私は「〝寝る〟だとか〝食う〟だとか、頭を使わない本能的なことをするのがいいよ」と言います。あまり頭を使わないこと、つまり「本能的なこと」がいいと思いますよ。ぶらっと旅に出たり、別に目的もなく道に従ってどこかに行ったりなんていうのも〝本能の行動〟と言えるんじゃないでしょうか。リフレッシュとは「元気を回復すること。また、生き生きとよみがえらせること(大辞泉)」です。新たなる第一歩を踏み出すためには、元気だって必要です。試験を終えた今、それを成し遂げた自分を褒め、新たなるスタートラインを引き、そして第一歩を踏み出すための元気を養う。これが、今の時期には一番いい過ごし方だと思いますよ。

 まずはともあれ、国家試験お疲れさまでした!

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2013年3月6日 | コメントは受け付けていません。 |

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