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試験対策、目線は遠くに!

 こう見えても自動車運転免許はゴールドである。ちなみにペーパードライバーだが…。だから運転は、ほとんどできないと言っていい。以前、運転を生業としている人と酒を飲んだ時の話。色々と運転に関する話をしてくれたのだが、こんなことを話してくれた。

 運転の下手な人って、目線が近いんだよね。視覚の中に入っている範囲が狭いというか…。遠くを見ていれば全体が目に入るのに、目線が近くだから、目に入る範囲が狭い。全体が目に入れば、どこに何があるか分かるし、どういう危険性があるかが予想できるんだけど…目線が近いとそういうことができない。だから、事故を起こしてしまうんだよ。

 運転をしない私は『 なるほど! 』と感心して聞いていたのを覚えている。確かに目線が近ければ、目に入ってくる光景は狭いものとなる。目に入る範囲が狭ければ…人は目に見える範囲での危険性を考えるのだから、危険回避予想範囲及び危険対応範囲も狭いものとなってしまう。事故が起きやすくなるのも当然だろう。これに比して目線が遠い場合。遠くに視点があるので、目に入る光景は広いものとなる。当然、危険回避予想範囲及び危険対応範囲も広いものであるからして、事故が起きる確率も低くなる。

 現在、我が薬進塾では基礎講座を行っている。国家試験対策の基礎の基礎を、しっかりと身につけることにウェイトを置いた講座である。基礎ができていない学力など、基礎が無い家と同じである。チョット揺らいだだけで、すぐに倒壊してしまう。しかし…昨今は、そういった学生さんは少なくない。

 チョット面白いというか、つい『 ? 』と思ってしまう塾生さんも少なくない。話していると、色々と難しい事象を言ってきたり、ちょっと専門的な用語を使ったりするのだが…では、その事象や用語について聞いてみると、全然と言っていいほど分かっていなかったりする。何故、その事象の理論や用語の意味を知らないのに、そういったことを口にできるのだろう?何とも不思議な話ではあるのだが…。答はいたって簡単。どうしてそうなるのか分からないけど、その事象は知っている。意味は分からないけど、その用語は覚えている。つまり、意味や理屈は分から無いけど、それに関しては(表面的に)知っているということである。ラーメンを見たことも食べたこともない人間が、ラーメンを語っている…そんな感じだろうか?イヤ、これよりも、もうチョット芳しくない状況だろうか?

 『 どうしてそうなるか分からないけど、その事象を口にする 』『 意味は知らないけど、その用語を使っている 』など、ある意味、かなり曲芸的なことだと思うのだが…。『 どうしてそうなるか分かっているから、その事象を口にする 』『 意味を知っているから、その用語を使っている 』という、至極まっとうな方法の方が、よっぽど簡単だと思う。何故、曲芸的難しさの方に向かってしまうのだろうか?前述のように、意味や理解はさておいて、取りあえず〝表面的に〟覚えてしまうからなのだろう。しかし…何故、そのような事態、つまり『 表面的に覚えてしまう 』事態に陥るのだろう?何度も書かせていただくが、こっちの方が、曲芸的難しさがあると思うのだが…。

 往々にして、学生さんは問題を解きたがる傾向にある。問題が解けると〝できた気〟になるからである。それが国家試験の問題なら、なおさらである。だから、とりあえず問題を解こうとする。しかし…『 問題を解く 』ということは『 それ相応の学力がある 』ということである。それ相応の学力があるからこそ、問題が解けるのである。それ相応の学力が無ければ問題は解けない。つまり『 その問題を解くだけの学力が身に付いていない 』ということである。だからこそ、勉強してその学力を身につけるべきなのだが…。前述のように、問題が解けると〝できた気〟になり安心することができる。逆に問題が解けないと…不安になってしまう。まあ、この不安があるからこそ、『 学力をつけねば 』と勉強に取り組むことになるのだが…。どういう訳か、そうはならず、ただただ不安から逃れたいがために、安易な道に走ってしまう。そう、『 なんか分からないけど、解説を覚えておこう 』となるのである。すると…問題の答は選べるし、それ相応の問題解説も口にすることは出来るようになる。しかし…内容的、理屈的にはさっぱり理解していないといった状況が生じることになる。

 私も含め薬進塾の講師陣が、皆、口をそろえて言うのが『 国家試験の問題は、それ相応の時に解けるようになればいい 』ということ。早い話、国家試験を受ける時に、国家試験の問題が解けるようになっていればいいということ。モノにはそれ相応の順番というものがある。学力を基礎から積み重ねていき、最終的に国家試験の問題が解けるようになればいいだけの話である。時間をかけてこそ、できるようになるものを、時間をかけずに、すぐにできるようになろうとしたところで、それは土台無理な話というものである。何故、その無理なことを行おうとするのか?

 目線が近いのだと思う。『 国家試験の問題を解こうとしているのだから、目線は遠いのではないか? 』と言う人がいるやもしれないが…時間をかけて習得していくものを、ただその場で答を知り、できた気になるような行為は、その場限りの、やはり視点が近いモノではないだろうか?本当に視点が遠ければ、その問題を解くために、『 何をしなければならないか 』、『 どういうことをしていかなければならないか 』など色々なものが見えてくるはずである。だからこそ、それに留意した安全な試験対策ができるのではないだろうか?『 基礎や理解はさておいて、とにかく国家試験の問題の答を選べればいい 』という〝その場限りのとりあえずの姿勢〟は、あまりにも目線が近く、何も見えていないと言えるのではないだろうか?見えていないからこそ、理解もしていないのに、『 できた気になる 』ことの危険性に気が付かない。この〝試験対策における最大の危険〟を回避できないどころか、その最大の危険にまっしぐらに進んでいることに気が付かない。そのまま進めば、大きな穴に落ちてしまうのに、その穴さえも見えていない…。何とも危険なことなのに、その危険性に全く気が付いていない。これこそが最大の危険なのかもしれない。

 『 とりあえず国試の問題の答が分かればいいや 』といった、その場限りの目線の近いやり方では、前述のような『 どうしてそうなるか分からないけど、その事象を口にする 』『 意味は知らないけど、その用語を使っている 』といった事態が生じても、何ら不思議ではない。しかし、これは試験対策にとっては、非常に危険な事である。しかし、その危険性に気が付いている人は思いのほか少ない。

 国家試験合格に目線を合わせれば、自然と目線は遠くなるはずである。安心感を得るために、今この問題の答えを知りたい…これでは目線が近すぎる。目線が近いと…運転と同じく、危険回避予想範囲及び危険対応範囲も狭いものとなってしまい、事故は起きやすくなってしまう。国家試験合格を見据えて、試験対策に取り組んでいる人は、やるべき事をしっかりとやりながら進んでいっている。問題一つ解くにしても、『 何故そうなのか? 』と、その理由から理解していっている。しかし、やはり国家試験合格に向けての不安あはあるし、大変であることは事実である。その場限りの安心感を得たいがための試験対策(本来、試験対策と呼べる代物ではないのだが)を行っている人は、国家試験の問題をたくさん知っているし、その答も知っている。おそらく、国家試験対策なども『 こうやっておけば受かるだろう 』などと、分かった気になっていることであろう。しかし…『 分かった気になる 』ということは『 分かっていない 』ということである。そして…『 知っている 』ということと『 理解している 』ということも、往々にして違う場合があるということ。そこの違いに気がつくかどうか?それも、やはり目線が遠いか、近いかによるのではないか?私は、そう思っている。

上手は近くを知りて遠きに苦しむ。下手は遠きを知りて近きを知らず。

                                                             剣豪 高野 佐三郎

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