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自分で決められない人が多い。

 自分で決められない人が多い。昨今の学生さんを見ていると、それを顕著に感じる。何か一つ物事を決めるにも『 友達がそうだから… 』、モノを買うにも『 友達がいいって言っていたから… 』、どこかに行くにしても『 友達がいくから… 』『 皆が行くから… 』という具合。どうも自分の判断がない。『 友達と一緒を選ぶ、という判断ではないか? 』という人がいるかもしれないが…判断とは、もともと自分ありきのものである。ここで出てくる〝自分の判断〟は『 友達がしているか否か? 』といった表面的判断であり、物事を決定する要である〝自分ありきの判断〟ではない。

 日常生活でも、そのようだ。『 良いって書いてあったから… 』で、物を購入しているようだが…往々にして、公的に何か書かれている場合。まず『 良くない 』と書かれていることなど、無いに等しい。まあ、そこら辺の推察能力も、如何なものかと思うのだが…。閑話休題。良いって書いてあるので、物を購入したようだが…ご本人はあまり納得していないご様子。良いと書いてあったから購入する…その前に、自分でその物を調べたり、実際、手にとって確かめたり、そういった行動は無かったのだろうか?

 『 何故、それにしたの? 』と聞くと、答えられない学生さんが結構いたりする。中には、こちらが聞くことによって、『 何で選んだんだろう? 』と、改めて疑問に持つ人もいる。自分で選んだのなら、『 何故、それにしたの? 』の問いには、しっかりと答えられるはずである。それ相応の考えがあり、それが判断の引き金となり選択、つまり決めたのであるから…。しかし…その理由が明確に答えられないとなると、やはり『 自ら判断していない 』『 自分で決めてはいない 』ということになる。

 『 判断 』とは『 物事の真偽・善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること(デジタル大辞泉より) 』とある。つまり、『 判断する 』という行為には『 考える 』といった行為が、つきまとうことになる。ということは、『 判断しない 』ということは『 考えていない 』ということともいえる。なるほど…確かに昨今の学生さんは、あまり考えるということをしない。往々にして、試験というモノは考えるからこそに答を導き出せるものである。考えなければ当然ながら答は導き出せないのだが…。質問に来る学生さんに、解答を導き出させるために、解法へと誘導してあげようと質問することがあるのだが…『 分かんないです 』と即答する人は少なくない。考えた挙句の『 分かりません 』はいいのだが…どうも考えることをせず、すぐに頭に何も浮かばないが故の『 分かりません 』といった発言のように見受けられる。考えずに、短時間で頭に浮かぶか、浮かばないかで『 分かりません 』と決定し、発言してしまう。ある程度の時間を要して考えなければ、答など導き出せるはずもないのだが…。昨今、考えない、考えるのが嫌いといった学生さんが多く見受けられるが…実は、これも『 自分で決められない 』ことに大きく関与しているのである。

 自分で決められないと、どうなるだろうか?友達に決めてもらう、親に決めてもらう、会社に決めてもらう、上司に決めてもらう…と〝自分以外の何か〟に決めてもらうことになる。しかし…チョット大げさな表現にはなってしまうのだが、それで果たして『 自分の人生を生きている 』と言えるのだろうか?ご存じ、シェイクスピア作品のハムレットの中に、『 人生は選択の連続である 』という名セリフがある。確かにその通りだと思うが…裏を返せばこのセリフ、『 選択なき人生はない 』ということになる。自分で選択していない、つまり自分で決めていない人生など、人生とは呼べないという事である。人生とは『 人がこの世で生きていくこと(デジタル大辞泉より) 』とある。つまり『 自分の人生 』とは『 自分がこの世で生きていくこと 』となる。すると…人生と呼べないということは、ある種、自分というものの存在が無いということではないだろうか?

 なるほど、これなら今までのことも辻褄が合う。自分というものが無いから、考えることが出来ない。考えるとは『 知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせること(デジタル大辞泉より) 』である。自分が無いなら、知識や経験などに基づくことなど出来るはずがない。つまり『 考えることが出来ない 』ということになる。考えることが出来ないのだから…考えないし、考えることも嫌いになるのも至極当然の話。もちろん、自分が無ければ判断など出来るはずもない。自分で手にとって確かめるなどということも、出来ないだろう。それには判断が付きまとうからだ。『 何故、それにしたの? 』という問いにだって、答えられるはずが無いのは言わずもがな。自分が無いのだから、自分が選んだ理由など無いに等しい。

 自分が無いからこそ、周りの意見に流される。自分が無いからこそ、他人の判断に身を委ねてしまう。だからこそ、巷に溢れる怪しい情報や、どこかの誰かが意図的に画策した情報に躍らされることになる。そう、世の中には、自分の都合のいい情報を流布して、人を思いが如く操ろうとする輩が、ごまんといるのだ。そういう輩にとって、自分無き人間、すなわち〝自分で決められない人間〟は、格好の餌食となってしまうことは間違いない。

 さらに、〝自分で決められない人間〟には、決定的なウィークポイントが、もう一つある。それは、何か事が起きた時、人のせいにするということ。自分で決めてはいないのだから、この結果は私のせいではない…と言ったところか?自分で決めないから人のせいにする。なんとも都合のいい話ではないか?自分で決めることを怠っておいて、芳しくない結果となったら人のせい。自分で選べば、何が起ころうが、選んだ自分のせいである。たとえそれが、芳しくない結果であったとしても…。それが責任というモノだと思うのだが…なるほど、その〝自らにとってのマイナスの責任〟を放棄したいが故の、一方的な決定権の譲渡なのかもしれない。しかし、自分にとっての責任を放棄するなど、まさに〝自分自身の放棄〟以外の何物でもない。

 自分の人生は自分だけのもの。そろそろ、自分一人で自分の人生を歩んでみては如何だろうが?親も友達も、自分の人生においては、外野でしかない。『 自分の人生を歩んで 』と何やら大そうなことを書かせては頂いたが、さして難しいことではない。自分自身で判断し、決めていけばいいだけの話である。確かにそれには責任が付きまとうし、芳しくない結果になったとて、それは選択した自分のせいである。しかし、それは当たり前と言えば、当たり前の話ではないだろうか?自分で選ぶことにより、様々な喜怒哀楽が生まれることになるが、それが人生というモノではないだろうか?喜怒哀楽が無い人は、お墓の中に入っている人である。お墓の中に入っているだけならまだしも…この世知辛い世の中、自分都合の怪しい情報をまき散らしては、自らの利のために人を思うがままに操ろうとする輩もたくさんいる。自分で判断し、自分で決めるという行為を怠れば、そんな輩に、操り人形のごとく骨の髄まで利用されてしまうことにもなりかねない。実際、そんな人たちもたくさん見てきている。そうならないためにも、自分自身をしっかりと持ち、例え他人や大勢と違っていても『 私はこうですから 』と周りに翻弄されず、貫くことが重要なのではないだろうか?そこには、しっかりとした自分があり、そして何よりも自分で決めた道が広がっているはずである。その道がどういう道であれ、それが自ら選んだ道ならば、必ずや何か得るものがあるのではないだろうか?少なくとも、他の誰かと一緒というだけで安易についていった道よりも、得るものは格段に多く、そして素晴らしいものが得られるはずだと、私は思っている。

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