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人の褌で相撲を取る。

人の褌(ふんどし)で相撲を取るとは、他人のものを利用したり、他人に便乗したりして、利益を得ること。他人のものを利用して、ちゃっかり自分の目的に役立てるずるさをあざけって言う。

故事ことわざ辞典より         

 私はよくこんな問いかけをします。「0から1を作るのと、1から5を作るの、どっちが大変だと思う?」皆さんはどちらだと思いますか?私的に言わせていただければ「0から1を作る方が圧倒的に大変」となります。もちろん「5から10作る」のも大変と言えば大変でしょう。一概に「どちらが?」と比べられないのは、ごもっともです。私が言いたいのは「0から1を作る」ということは「無から有を作る」ということ。まったくの何もない状態から、新しいものを生み出す。これは、オイソレとはできることではありません。当然ながら、大変な苦労を伴うことになります。「5から10を作る」場合は、はじめに5があって、それを元に10にしていけばいい訳ですから「新たなるモノを生み出す」という苦労は伴いません(もちろん、5を10にするにもそれなりの苦労はありますが)。世にある芸術作品のどれもが、人を魅了する美しさを持つのは「他の誰かが創った何か」をモチーフにしたのではなく、全て己の力で0から生み出した作品だからと私は思っています。と同時に、その芸術作品を世に送り出した方々のご尽力には、ただただ頭が下がる思いです。

 世の中には狡猾な人がいて「他の誰かが創ったモノ」を、あたかも自分が作り出したかのように振る舞う人がいます。自分で0からモノを生み出した訳ではないのに、人が作ったものを「私が作りました」と言わんばかりに堂々と振舞う。まさに、人の褌で相撲を取る行為。こういう狡猾な人、変にプライドだけは高いらしく「○○さんのモノを使用しました」などとは言わないみたいです(プライドが高いというよりは、謙虚さがないんでしょうね)。で、人のモノをそのまま使ったと思われるのが嫌なのか、チョット余計な細工を一つ二つ施して…言うに事欠いて「(○○さんのモノを)改良したんですけどね」なんて誇らしげに語る場合もあるようです。そんな手間暇かけるなら、初めから「私が作りました」みたいに振る舞わなければいいと思うのですが…。しかも言うに事欠いて「改良した」なんて大法螺を吹くのが、狡猾さの上塗り。

 改良というのは読んで字の如く「悪いところを改めて、前よりよくする」こと。つまり「悪い所があって、それを正した」ということなのです。私が知る限り、狡猾な人が一手間加える前、すなわち原本といいますか、初めのモノの方がずば抜けている場合の方が圧倒的に多いのです。そりゃあそうでしょう。前人未到で0から生み出されたものなのですから、珠玉のモノであることは間違いありません。そんな珠玉のモノに「自分が作りました」なんて印をつけるがために手を加えられたモノなど、とてもじゃないけど見られたものではありません。そのままで何の問題ないモノを、自分が作ったと主張せんがために〝改良〟と称して、余計な手を加えてダメなものにしてしまうなんて、愚の骨頂の一言に尽きます。結構、多いんですよね「私が改良して作ったんだ」という似非開発者が…。それで評価を得て、その人は満足なんでしょうかね?「自分の作品は自分の力で作り出す」っていう方が、よっぽど高きプライドだと思うんですが…。

 以前「語呂が無いのに語呂合わせ!?」というタイトルのブログで「私にも講師としての意地というかプライドがありますからね。誰かが作成した語呂合わせを、講義で伝えるなんていうことは、プライドが許しません(笑)。」と書かせていただきましたが…昨今、私が作った語呂合わせを、色々な所でよく耳にします。私が作った教材も色々な所で目にする機会が増えています。もちろん、私が作った語呂合わせを使用したり、私の教材を参考にすることに問題がある訳ではありません。問題なのは、それを使用している人が、あたかも自分が作ったものであるかのように振る舞っていること。さらには「改良した」として、前述のような状況になってしまっていること。これはどうしたものでしょうかね?「○○先生(私ですね)のモノを参考にさせてもらったんですが…」と公言すればいいだけの話だと思うのですが…。何故、自分が作ったモノにしたがるのでしょう?何故、改良と称して余計な一手間加えたりするのでしょう?そこの所がどうしても理解できないのです。

 そういうことをするということは、裏をかえせば「私には作り出す能力が無いのですよ」と宣言しているようなものだと思うのですが…。まあ、人の褌で相撲を取る人間には、そんなことは分かりもしないのでしょうが…。でも、0から創りだしたこちらとしては、少々悲しくなるのです。苦労して作った、自分自身の一部のようなものですから…。皆さんも、自分が苦労して創ったものが、自分の知らない所で他人が創ったように取り扱われていたり、余計な手を加えられて粗雑なものになっていたら、どう感じますか?きっと、悲しい思いをするのではないでしょうか?自分自身の一部が、否定されているようなものですから…。もっとも、人の褌で相撲を取るような人間は、そんなことも感じないでしょうし、そんなことを考えもしないとは思うのですが…。何とも悲しい話です。

 

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