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『 皆言っている 』の〝皆〟は多くても三人。

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2019/09/08

 以前、〝できないことを何度もやることを練習という〔2019/07/15〕〟というタイトルのブログの中で次のようなことを書かせていただきました。

 以前ブログでも書かせていただいたが、私は〝名言・格言〟というものが好きである。そういった類の本も多数所有している。色々と引用させていただくことも多いのだが、今回のタイトルもそんな一つ。ただ、私の不徳致すところから、この文章が誰の発したモノなのか、現在、チョット不明の状態にある。分かり次第、掲載させていただきたいと思っているので、しばしの間ご容赦を。

 先日、この言葉の出所がやっとわかりました。名取芳彦(なとりほうげん)さんという、お坊さんが書かれた書籍に載っていた言葉です。調べてみてびっくりしたのですが、この和尚さん、かなり多才なお方。講演やトークライブ等はもちろんのこと、大学で講師を務められていたりもします。執筆している書籍も、一冊、二冊ではありません。そして、どの書籍もタイトルを見ると…『 チョット、読んでみようかな… 』なんていう気分にさせられるものばかり。正直な話、チョット、トークライブにでも言ってみようかな…なんていう気分にもなっています。それ位、〝知ったばかりなのに影響されてしまう〟人物なのです。そんな魅力的な名取芳彦和尚が書かれた本に、こんな言葉も書いてありました。『 「 みんな言ってる 」の「 みんな 」は多くても三人 』。そうブログタイトルの言葉です。

 私は、ン十年も講師稼業に携わっているが、何気に学生さんが多用するのがこの言葉。『 皆(みんな)、言っていますよ 』…。私は、どうもこの言葉が好きにはなれない。イヤ、正確に言うならば嫌いである。皆、言っていますよ…『 だから何? 』といったところ。一人が言おうが、皆が言おうが、多数決の場合ならともかく、〝一つの意見〟としての優劣はないはず。なのに、何故、あえて『 皆が言っていますよ 』と〝皆〟をつけるのか?

 『 皆が言っていますよ 』という言葉には、ある思惑が見え隠れしている。それは、自分のいいように相手を誘導してやろうという思惑である。自分の思い通りに事を運びたい。それが常識的なものであろうと、非常識なものであろうと関係ない。要は、自分の思い通りに事を運びたいだけなのである。その証拠に『 皆が言っていますよ 』という発言が出る場合には、一つの特徴がある。実は、頭から『 皆が言っていますよ 』という言葉が使われる場合はあまりない。ほとんどの場合が、自分自身が発した言葉が、すぐに受けいれられない、または受け入れられそうにない場合に使われる。自分の思いを告げる、受け入れられそうにない。そこで『 皆が言っています 』という発言が登場することになる。

 まあ、言っている本人としては、意識しているか、していないかはともかくとして『 これは私個人の意見ではない。皆の意見である。皆が言っているのだから、民主主義に乗っ取り、多数決という形でこの意見は採用されるべきではないか? 』と持っていきたいのだろう。早い話、自分一人で自分の意見を通すことができない。そこで、人海戦術という形で、『 皆が… 』という言葉を使うのである。

 自分の意見くらい、自分一人で通せないものだろうか?確固たる信念や思いがあれば、たとえ一人であろうと、しっかりと発言できるはずである。実際、そういった学生さんを、星の数ほど見てきているのだ。確かに、全ての意見、それも個人の意見が必ずしも通ることになるかというと、そうではないことは言わずもがな。どんなに正当な意見であろうとも、それが通らないことがあるのは世の常である。物事というのは、様々な価値観と捉え方で扱われている。一個人にとって正当であっても、それが大勢を相手にするものとなれば、話が違ってしまうのも致し方ないことである。ここで気をつけてもらいたいのは、決して『 正しい少数より、誤っている多数が採用されるべきである 』と言っている訳ではないという事。少数であっても、正しいことは正しいのだから優先されるべきであり、多数であっても間違っていることは間違っているのだから、排除されるべきである。ここで私が言いたいのは『 個人にとっての〝正しいこと〟もあれば、大勢にとっての〝正しいこと〟もあり、それが一致しない場合もある 』ということ。往々にして〝正しいこと〟というのは、一つでない場合が多い。だからこそ、その選択には注意を払わなければならないし、その選択という行為がなかなか難しいモノになってしまうのである。どちらも正しいとなれば…やはり数の多さも、選択の大きな要因になってしまうということ。そこの所を間違わないで、受け取ってほしい。

 しかし、そこの所を悪用する人間もいる。それが『 皆が言っています 』という発言をする人間である。『 皆が言っているのなら仕方がないな 』『 皆が言っているのに受け入れないのは、何か疚しい気がする 』という具合に持っていこうとしているのである。実際、持っていかれてしまう人間が多いのも事実である。数に物言わせて思い通りにする…何とも姑息なやり方だとは思うのだが、やっている本人はそんなこと微塵も思ってはいない。『 しめしめ、上手く事が運んだ 』ぐらいにしか思っていないだろう。

 でも…『 皆言っている 』の〝皆〟は多くても三人…。確かに、『 皆言っています 』といっているが、皆に聞いてみると…決してそうではない場合が多いのも事実である。つまり『 皆が思っている訳ではない 』ということ。以前、あった話。やはり『 皆が言っています 』と血気盛んにやってきた学生さんがいたのだが…じゃあ、その皆を連れて来いと言ったところ、見事に連れてきたのは3人だった。その学生さんが言い放った『 〇人中3人ですよ!確率的には多くないですか! 』という言葉には、思わず笑ってしまった。人海戦術がうまくいかないとなると、今度は確率かい…。こうまでいくと、皆もへったくれもない。ただ、ただ『 自分の思い通りにしろ! 』である。あまり言いたくないのだが…薬学を卒業してきているという事は、それ相応にいい歳である。それが、この有様とは、何とも悲しいというか、情けない話ではないだろうか?

 確かに『 皆が言っています 』という言葉を、使わなければならない場合もある。だから、この言葉自信を否定する気は毛頭ない。しかし、そう易々と使う言葉ではないことも事実である。ましてや、自分の思惑通りに事を運ぶがために、この言葉を乱用するなど、もっての他である。どのような道具にも、使い方というものがある。それを間違うと、とんでもないことになってしまうことも然りである。『 皆が言っています 』といった言葉も、やはり、それ相応の使い方というものがある。道具も言葉も、慎重に用いなければならないのである。

 そして…『 皆が… 』といった言葉に翻弄されてしまわないことも、重要なことである。姑息な人間に限って、『 皆が… 』『 あの人が… 』と他人を介在させ、あたかも自分の意見が大衆的であるかのように誇示する。ひどい場合には、『 私はそうではないけれど、あの人が… 』『 私は違うけど、皆が… 』とあくまでも自分は無関係を装いつつも、〝あの人〟といった架空の第三者や〝皆〟と言った架空の大衆に、自分の思惑を被せて、ぶつけてきたりするから厄介である。誰しも、他人が言っている、皆が言っているとなると、気にしてしまうのは致し方ないこと。しかし、ここで揺らいでしまえば、それこそ相手の思うつぼである。ここは『 「 皆言っている 」の〝皆〟は多くても三人 』という言葉を思い出し、どっしりと構えてももらいたいと思っている。オレオレ詐欺にひっかからないことが、オレオレ詐欺撲滅に一番効果があるように、『 皆が言っている 』で持っていこうとする輩には、それで揺らがないことが一番の対処法なのである。『 皆言っている 』の〝皆〟は多くても三人。三人程度なら、さして気にする必要はない。何故なら…あなたと同じ考え・意見だって、探せば三人位はいるはずである。相手は数を盾に攻撃してきているが、何のことはない。数的にはさして差はないのであるからして、気にする必要もないのである。

 

 

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