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できないことを何度もやることを練習という。

2019/07/15

 以前ブログでも書かせていただいたが、私は〝名言・格言〟というものが好きである。そういった類の本も多数所有している。色々と引用させていただくことも多いのだが、今回のタイトルもそんな一つ。ただ、私の不徳致すところから、この文章が誰の発したモノなのか、現在、チョット不明の状態にある。分かり次第、掲載させていただきたいと思っているので、しばしの間ご容赦を。

 出来ないからといった理由で、止めてしまう学生さんは多い。試験対策において、良き結果が出るような方法を色々と指導したり、アドバイスをしたりするのだが…その通りやらない学生さんは増えてきている。こちらも、合格させることで飯を食わせてもらっている商売。決して、伊達や酔狂でやっているわけではない(まあ昨今はこういった講師もチラホラ耳にするが…)。試験対策にとってプラスになるから、それを指導・アドバイスしている訳であるが…それを、やらないとは如何なることか?やらないどころか、以前からやっている〝誤った試験対策(本人は誤っているとは、微塵も思っていないご様子ではあるが)〟に昏倒しているご様子。こちらの指導・アドバイスも何のその。昔からやっている〝誤った試験対策〟を、再び必死にやっているご様子。『 何故、指導・アドバイス通りにやらないの? 』と聞いてみると…『 やっていたんですけど、中々大変で… 』 とのこと。で、以前のやり易い〝誤った試験対策〟に戻って、やっているそうである。

 勉強のやり方を指導している。〝やり方〟を指導している訳だから、すぐに『 やれるようになる(できるようになる) 』訳などない。教えてもらってすぐに出来るようになるなら、誰も苦労はしない。差こそあれ、教えてもらって、それを何度も繰り返す、つまり練習することによって、初めて出来るようになる。何でもかんでも、初めからすぐにできるはずなどない。だから『 何度も繰り返す 』の初めのうちは、当然ながら〝できないこと〟をやり続ける、すなわち『 (できないことを)何度も繰り返す 』ことになる。仕方がない。初めからできないのだから…。初めからできないのだから、初めのうちは出来ないことを何度もやることになる。そして、これが練習である。まあ、そうであろう。出来ることを何度もやることは、あまり練習とは言わない。

 しかし、できないからといって止めてしまうと…いつまで経っても、〝できないまま〟でいることになる。〝できないこと〟を、できるようにするために、〝できないこと〟を何度も繰り返すのだ。〝できないこと〟を何度も繰り返さない以上、できるようになる、すなわち〝できること〟を得られるはずなどない。

 欲しいモノは何なのであろう?『 できるようになること 』なのだろうか?『 楽なこと・安心すること 』なのだろうか?できないことをやることは、苦痛である。誰だって、そう楽しいモノではない。しかし、〝できるようになる〟という結果得るためには、それは致し方ないことである。欲しいモノを得るためには…それが身に付けるモノ(技術や知識等)であるならば、なお更、それ相応のリスクが伴うものである。もちろん、それを〝苦〟と捉えるか〝楽〟と捉えるかは、その人次第ではあるが…。どう捉えようとも、欲しいモノを身に付けようと思うのなら、できないことを何度もやるしかない。それが、練習というものである。ブログタイトルはそういった意味の言葉である。

 『 以前のやり易い〝誤った試験対策〟に戻って… 』と書かせていただいたが…。確かに、馴染みの方法はやり易いだろう。苦労だって伴うはずもない。何といっても『 すでにできている 』のだから。これが、試験対策のやり方として正しいのなら、何の問題もない。それどころか、手放しで喜ぶところである。しかし…誤っているやり方である。こちとら、受からせることを商売としている以上、少なくとも自分が指導している人間が、その誤っているやり方をしているならば、それ相応の指導をしなければいけない。そして実際に指導するのだが…その誤っているやり方に戻ってしまう学生さんは少なくはない。

 何故、誤っている試験対策に戻ってしまうのか?答えは簡単である。前述したように楽だからである。正しいやり方に補正するには苦労が伴う。だから楽なやり方に流れてしまう。まあ、そのやり方に対しても、本人はどこか疑心暗鬼になるのであろう。だからこそ、(疑心暗鬼を払しょくするために)『 ○○さんは、これで合格した 』などという保険を口にするのである。しかし、笑止千万とは、まさにこのこと。私が、学習指導で口酸っぱく言っているのが『 ○○さんと、あなたは違う 』ということ。まあ、普通に考えれば分かることなのだが…。自分がやっている方法が、胡散臭いモノだと、どこか感づいているからこそ、命綱のように『 ○○さんは、これで合格した 』ということに、すがりつくのだろう。しかし…その〝上手く言っている人〟と称される人も、できないことを何度もやったからこそ、それを手に入れることができたのだ、ということは見えているのだろうか?そして…『 うまくいっている人の真似をすれば… 』という考えに、果たして、自分の手を汚さずに、さしたる苦労もなく美味しいモノだけを得ようという、疚しい部分は微塵もないのだろうか?第一、『 苦労なんかしたくない。それに付随する不安も感じたくはない。うまくいっている人の真似をすれば、自分もうまくいくだろう。さして苦労も、不安もなく… 』というのは、あまりにも安易な考え方ではないだろうか?

 手前みそではあるが、私も色々な世界で色々な人たちと交流を持ってきた。そんな中で、それ相応のモノを掴み取ってきた人物には、共通して〝芽の出なかった期間〟がある。芽が出なかったから、何もしていなかったのかというと、決してそうではなく、芽が出ていなかった時の方が真摯に、そして必死に目的とすることに取り組んでいたような気がする。そういった人たちに『 あの時期は練習期間だったのですか? 』と問うたなら…おそらく、発する言葉こそ違えど…皆、その問いの真意に関しては、力強く頷くのではないのだろうか?私はそう思っている。

 

 

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