イメージ画像

成績悪い人は居残り…って言っているけれど、教え方が悪いのもあるんじゃないの?

2022/09/27

 私の小学校時代、何が嫌いだったかというと、テストの点数が悪い際の居残り。何よりも、コレが大嫌いであった。

 小学校二年の時。当時の〝飲んだくれ担任(ブログ〝分からない人間を笑う陰湿さ。〟に登場した担任)〟が、ある日突然、黒板に計算問題をズラ~ッと書き出し、『 ハイ、これを計算しなさい。できた人は持ってきなさい。全部できた人から帰っていい 』と言い放った。私は当時、そんなに計算は早い方ではなかった。まあ、遅くもなかったので中くらいだったとは思う。『 早くやるのも大切だが、正確であることも大切 』。実家がお店をやっていたので、そういった考え方の方が強かったのは事実である。

 で、計算を始めていったのだが…次から次へと計算が終わって帰っていく人が出てくると、焦りが生じた。遅れている…皆が、帰っていく中、自分だけが取り残されている…そんな不安が心を占領していった。そういった思いは、確実に計算の足を引っ張る。まあ、計算だけではなく、何事においても焦りは足を引っ張るものであるが…。で、やっとできたと思って持って行くと…『 間違っている問題はやり直し。できるまで帰ったらダメだからね 』との一言。こんなこと言われたら、焦りに拍車がかからないわけがない。ただでさえ足を引っ張られている状況なのに、足の引っ張りに加速がかかった状態。まともに問題なんか解ける状態ではない。

 さらに…私は、小学校3~5年まで、同じ担任だったのだが…。この担任の得意技が、『 漢字の書き取りテストで、60点以上取らない人間は、残って勉強する。その後、テストを受ける。そのテストが60点以上になるまで帰らせない 』という、現代の会社でこれをやったら一発でパワハラ認定決定となる行為。私は、この漢字のテストが大嫌いで仕方がなかった。居残りさせられるのが、大嫌いだったからだ。しかも、一か月に一度くらい数十問の漢字の書き取りテストがあり(週一回の漢字の書き取りテストは10問程度)、これも60%以上取らないと居残り。たまったものではなかった。

 今になって分かることだが、別に漢字の書き取り試験なんて行わなくとも、社会人になれば立派に漢字は書けるようになる。ぶっちゃけ、小学生のころの漢字の書き取りテストなど、ほとんど意味がないといってもいいと思う。少なくとも、『 書けるようになるまで帰さない 』と、目くじら立てるほどのものではないと思う。社会人になれば、それ相応に漢字は書けるようになる。よく考えてみれば当たり前の話。日常生活において、常に漢字を目にしている訳だから、いつの間にかどういった漢字かは、目で覚えてしまう。まさに、〝門前の小僧習わぬ経を読む〟である。小学校で必死に書き取りさせられなくとも、ある程度の年齢になれば、日常的に使う程度の漢字なら、生活しているうちに身についてしまうものだ。別に漢字の書き取りを否定している訳ではない。もちろん、漢字の書き取りテストを否定している訳でもない。ただ、『 書けないなら居残りさせて、書けるまで帰さない! 』と目くじら立ててまで、パワハラまがいのことをするのが、いかがなものなのかという話である。

 なんて言うかなぁ…こう、『 成績悪い人は残って… 』みたいなのって、成績悪いことが悪いことみたいに感じるのだが、いかがであろう?まあ、確かに〝成績〟としは〝悪い〟かもしれないが…。でも、罪のある〝悪い〟ことをしている訳ではない。『アイツ殴ってやろう』とか『あれを盗んでやろう』っていう、〝悪い〟とは根本的に違う〝悪い〟である。なのに、同一されているというか、同じように扱われているというか…。成績悪いことや試験の点数が悪いことは、罪のある〝悪い〟ことではないと思うのだが…。

 第一、本人だって『悪いことしてやろう』と思って、やっている訳ではないだろうに…。っていうか、どっちかっていうと『いい点とってやろう』と思って行動している訳である。前述した『アイツ殴ってやろう』とか『あれを盗んでやろう』っていう、罪的な〝悪い〟とは根本的に違うのは、そこなのだが…。それを、一緒くたにするのはどうかとも思う。『 成績が悪いから、罰として居残り 』というのは、そういう意味で罪的な〝悪い〟と成績の〝悪い〟を同一視しているように思えるのだが…これは大いに問題あることではないだろうか?まあ、やるべき勉強をさぼってやらず、成績が悪いとなれば多少は罪的な〝悪い〟もなくはないのだが…そういった考えもなく、とにかく罪的な〝悪い〟と成績の〝悪い〟を同一視しているような…そんな感じがしてならないのである。

 私は自分の試験で学生さんが悪い点を取ったとき…例えば平均点などが悪かったりすると、『 教え方・・・良くなかったかなぁ 』と反省する。私の教え方がいたらなかったから、学生さんの点数が悪かったと思うのである。前述の居残りさせる先生方は、そこの所をどう思っているのだろうか?まあ、漢字の書き取りの場合、教え方が云々はあまり関係ないかもしれない。しかし、前述の居残りさせる先生方は、テストの出来が悪いと、皆を怒っていたことも確かである。怒鳴り散らしていたこともあった。私は現在、人にモノを教える仕事をしているが、そういう立場から言わせていただくならば、これはとんでもない話である。学生さんの平均点が悪いと怒鳴る。怒鳴る前に、『 自分の教え方は、どうだったのだろうか? 』と考えることは、なかったのだろうか?『 成績悪い人は居残り 』といっているが…自分の教え方は、いかがなものなのだろうか?自分の教え方は、悪くなかったのだろうか?そう考えることは、しなかったのだろうか?モノを教えることを生業としている私にとっては、そこの所が不思議なところというか、どうしても理解できないところなのである。そして…そういった自分の教え方のフィードバックもなく、いたずらに学生に居残りという負担を強いらせるのは、いかがなものなのだろうか?さも、悪いことをしたかの如く…。居残りを、罰として与えるが如く…。『 成績悪い人は居残り 』といった内容を耳にするたびに、そういった思いが心をよぎるのである。

 

 

タグ

2022年9月27日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

人の不幸を話すヤツが嫌い。

2022/09/17

 占いを信じるかどうかは人それぞれだが…。まあ、私も占いを利用することはある。ここでポイントは『 利用する 』ということ。『 全てが全くその通りになる 』と信じているかというと、そうではない。良い結果が出たのなら、それを励みにする。注意しなければいけないことを示唆されたのなら、それに注意するようにする…といった感じ。あくまでも、自分が進んでいく上でのサポート的なものとして利用している。当然、『 進んでいく上で、足を引っ張るような内容 』なら受け入れないことにしている。

 例えば…山登りをしているとする。登山道を歩いていた時、道を下りてきた人に『 どんな道でした? 』と尋ねたとする。『 登り易い道ですよ 』と答えてくれたのなら、『 ラッキー。ここからは登り易くなるのか 』と励みにするし、登り易いことを考えて嬉しい気分にする。『 チョット大きめの石がゴロゴロしているから、気を付けた方がいいですよ 』と言われたなら、『 おっ!こりゃあ、足元注意して進まなきゃだな 』と、いつもより足元に注意して進んでいく。そんな感じである。

 山登りでは、足元に注意して登るということは当たり前のこと。それを、いつもより念入りにする。別に何も悪いことではないし、厄介なことでも、面倒くさいことでもない。『 普段から注意しなければならないことを、いつもより念入りに注意する 』だけである。何の悪いことがあろうか?そういった感じで、私は占いを利用しているということである。

 占いに対する考え方は、人ぞれぞれである。信じる人は信じればいいし、信じない人は信じなければいい。それだけの話である。ただ強要するのは良くないし、脅迫するのも良くない。『 信じないなんて、信じられない 』とか『 信じるやつはおかしい 』だとか言う輩がいるが、これも立派に精神レベル的な脅迫の一種である。『 信じている 』というなら『 そうなんだ 』、『 信じていない 』というのなら『 そうなんだ 』。これでいいと思っている。そこに、自分の占い云々のスタンスは入れない。人は人、自分は自分である。信じる人は信じればいいし、信じない人は信じなければいい。それと同じように、自分も好きに受け取らせてもらう。だから好きにさせてくれ…そういった感じである。だから、あくまでも自分自身のためのサポート的意味合いとして、占いを利用している…ということである。

 ブログでも何度か書かせていただいているが、人を不愉快にする言動は、否定されなければならない。しかし、占いを利用していると、必ずと言っていいほど、人を不愉快にする内容を話したり、書いたりしている輩を目にする。不愉快どころか、ハッキリ言ってしまうならば『 あなたは不幸ですよ 』といった内容だったりする。そんなこと言われて楽しい人などいないだろうし…第一、言っている本人としても、その言動により人を不幸にして楽しいのか?

 というと、『 だって、そう出ているんだから仕方がないだろ? 』とか『 そういう時期なんだから、どうしようもないだろう 』なんて宣う輩がいるらしいが…。2つほど言わせていただきたい。1つは、なんでそんなに上から目線なの?なんか『 私は何でも知っているんだよ 』的なスタンスで、上から目線で振る舞っているよう思えるが、何か偉いのか?そう出ているんだよ、そういう時期なんだよという言動が、どうしても上から目線の言動に感じてしまうのは、私だけだろうか?

 もう一つは…なんか開き直っているというか、逆切れしていないか?誰だって不幸なことを言われたら、面白くないわな。そりゃあ、感情的にもなるだろう。そういう相手に対して『 そう出ているんだから仕方がないだろ? 』とか『 そういう時期なんだから、どうしようもないだろう 』っていうのは、如何なものだろう?それって『 そう出ているんだから、私のせいではない 』とか『 そういう時期なんだから、私のせいではない 』って逃げていないか?『 そう出ているから 』『 そういう時期だから 』って、何か責任転嫁していないか?

 なんか人の不幸を当たり前のように、淡々と話している。言われている本人が、悲しくなろうが、青ざめようがお構いなし。中には『 あなたは今最悪ですよ 』とか『 これから下降していきますよ 』とか『 それは運気の下降を意味しています 』なんて、ハッキリとマイナス言葉を投げかけてくる輩がいたりする。人の感情、気持ちお構いなしに…。ネットなんかでは、こんなことが氾濫している…占い云々の前に、人間としてどうなのか?『 運気は下降しますよ 』『 悪くなっていきますよ 』なんていうことを、よく平気で人に言えるなと思ってしまう。そんなこと言って、イヤじゃないのだろうか?同じ言うにしても、言い方というモノがあるのではないだろうか…って、なんでそんなにハッキリ、不幸になると断言できるのだろう?前述の登山の例で言うのなら、『 大きい石が道を阻んでいるので、あなたは進むことができず、ケガをします 』と言っているようなものである。

 さらに…こういった〝人の不幸を話す輩〟が、身の回りにいたりするから厄介である。おみくじで大吉を引く。『 おっ!ラッキー、良いことあるぞ 』なんてウキウキしていると…横から『 大吉って良くないんだよ。絶頂期で、あとは落ちるだけだから… 』なんて、ドヤ顔でくだらないウンチクひけらかしてくる輩がいたりするが…人として大問題ではないか?せっかく、人が大吉引いて嬉しがっているのに、わざわざそんなこと言うか?しかもドヤ顔で…。どうして、一緒に喜んであげられないんだろうか?『 オッ、ラッキーじゃん!俺にも少し、運を分けてよ 』でいいではないか?どちらも、嬉しい気分になれるだろうに…。あんたのウンチクなんか、誰も聴きたくないし、そんなドヤ顔見たくもないわ!

 大体、最も喜ばしいはずの大吉が『 これから下がるだけ… 』って、ちっとも喜ばしいことではないではないか?どこが大吉なのか?大体、大吉って一番いいんだろう?『 大吉とかじゃなく、書いてある文言が大事 』という人もいるが…それはそれで構わない。じゃあ、始めに何で大吉って書いてあるの?それって意味なくない?『 あなたは良いですよ 』で、その次に下の文言ではないだろうか?少なくとも初めに大吉と書いてあるのならば、まずはそれを受け入れて『 ラッキー! 』ってなるのが本当ではないだろうか?

 『 いい気になっているといけないよ、それを戒めるためにも… 』なんて言う輩もいるが…そんなこといったら、一分一秒も楽しめないではないか?喜ぶことが、いい気になることなのか?嬉しく振る舞うことが、おごっていることなのか?そんなのおかしくないか?喜ばしいことだから喜ぶ。嬉しいことがあったから、嬉しく振る舞う。それでいいではないか?それの何がいけないのだろうか?

 『 大吉じゃなくて、吉が一番いい。これから上るから 』とか『 凶が一番いい。後は上るだけだから 』とか、ウンチクどころか、もう個人的屁理屈としか言いようのないことを、平気な顔していっている輩もいるが…。こうなってくると、おみくじの存在意義自体がメチャクチャではないだろうか?じゃあ吉が一番いいのか?上るから?じゃあ上った後は下がるのか?結局、悪いことが待ち構えているではないか?なんか、おかしくないか?

 大体そういったことを発言している輩は、何を根拠にそんなことを言っているのだろう?それこそ、その根拠を示してほしい。まあ、そういった訳の分からないウンチクをどや顔で話している輩は、どこか楽しそうに話しているが…前述の占いの場合と同じように、どこか上から目線であるような気がするのは、私の気のせいだろうか?

 大吉は良いんだろうから喜べばいい。占いで良い結果が出たら喜べばいい。それで、いいのではないだろうか?イヤな結果だったら無視すればいい。受け入れるかどうかは、あくまでも本人次第だと思う。それこそ前述したように、信じる人は信じればいいし、信じない人は信じなければいい。同じように、受け入れたいものは受け入れればいいし、受け入れたくないものは受け入れなければいい。それで誰に迷惑をかけるわけでもないのだから…。ただ、強要するのはよくない。それだけの話だと思う。あくまでも、その人次第だろう。まあ私としては…少なくとも大吉を引いた時に『大吉って良くないんだよ。あとは落ちるだけだから』という人間とは、お付き合いは避けるべきではないかと判断してはいるのだが…。

 

 

タグ

2022年9月17日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

できないことを何度もやるから、できるようになる。

2020/09/14

 私は勉強のやり方を教えている。これが学習指導と呼ばれているヤツ。『 やり方を教える 』訳だから、具体的である。『 時間はこういうふうに… 』とか『 ノートはこうやって… 』『 モノを覚える時は… 』という具合に、具体的に説明して指導していっている。〝真っ当なやり方を教える〟指導というモノはそういうものである。具体的でなければ伝わらないのだから…。武道を習った人ならお分かりいただけることと思うが…まずは型を教えられる。いきなり『 戦っているの見て覚えてね 』で、『 じゃあ戦ってみようか? 』などということなど、あるはずがない。まずは、型を教えられる。『 手をこうして、重心を… 』とか『 右足を中心にして、左回りに… 』という具合に、具体的に型を教えられるところから始まる。私の師匠もそうであった。ゆっくりと、そして具体的に教えてくれていた。一人ひとりの型を見ながら、『 手はもっと上 』『 正中線( 身体の中心を貫くライン)が曲がっている 』と一人ひとりの型を、手で直しながら具体的に指導していってくれた。ちなみに…師匠曰く『 「 見て覚えろ 」だとか「 見ているうちに覚えるから… 」とかいうのは、教え方が下手なヤツのやることだよ 』。私も全く同感である。

 そうやって具体的に教えるからこそ〝指導〟であり、具体的に教わるからこそ〝習得〟される、つまり〝できるようになる〟のである。具体的に指導されなければ…習得されることもなく、できるようになることもない。前述の師匠の言葉からも、師匠が『 具体的に教えなければ習得できない。だから、具体的に教えることができない奴は、相手ができるようにならない。つまり、教え方が下手 』と言っていることがお分かりいただけることと思う。

 では…具体的に教われば、すぐに習得できるのかというと…そうではないことは、言わずもがな。教わってすぐにできるようになれば、誰も苦労はしないだろう。具体的に教わって、真面目に何度も繰り返したところで、すぐに習得はできないのが常(実は、ここら辺の内容も学習指導で詳しく指導をしている。ここの指導を間違えると、大変なことになるからである)。もちろん、中にはすぐに習得することができる人もいるだろう。しかし、それは例外的事例であり、たいていの人はそうはいかない。何度も何度も繰り返し行っていくうちに、徐々に徐々に身についていく。そして、やがては〝自分のモノ〟として使いこなせるようになる。これが習得であり、できるようになるということ。

 『 何度も何度も繰り返し行っていくうちに… 』と書かせていただいたが…当然、この『 何度も繰り返し行っている 』間は、〝できる〟ようになってはいない。習得している最中であるからして、まだ身に付いてはいない。身に付いていない訳だから、〝できない〟訳である。つまり『 何度も繰り返し行っている 』間は、『 何度も何度も繰り返し、〝できない〟ことを行っている 』ということ。

 『 できるようになりたい 』ために、何度も何度も繰り返し行う。〝できない〟ことを…。これはある意味、苦痛である。『 〝できる〟ようになりたい 』ことが、できない。それを何度も行うのであるから、苦痛であろう。しかし、〝できる〟ようになるためには、〝できない〟ことを何度も行うしかない。このことは、以前書いた〝できないことを何度もやることを練習という。〟というブログの中でも、書かせていただいた。苦痛かもしれないが…〝できる〟ためには、何度も〝できない〟ことをやるしかない。

 しかし考えてみれば、これは当たり前のことである。どのようなモノであろうが、例外はあるとしても、ほとんどの場合、すぐにできるようになるなんていうことはない。自転車に乗るのだって、パソコンを使いこなすのだって、メールを打つのだって、すぐにできた人などいないだろう。初めのうちは四苦八苦しながら、それこそ時間をかけて、何度も何度も繰り返し行ったはずである。そして、やっとその技能を身につけ、〝自分のモノ〟として使いこなせるようになる。つまり技能を習得したのであり、〝できる〟ようになったということである。

 裏を返せば…できないからといって、やらなければ…ずっと、〝できない〟ままということになる。『 当たり前だろ 』という声が聞こえてきそうだが…前述させていただいたように、私は学習指導、つまり勉強のやり方を教えている。その学習指導で、一番初めに私が話すことは『 勉強というのは技能の一つである 』ということ。つまり、先ほど書かせていただいた、自転車に乗ること、パソコンを使いこなすこと、メールを打つことと同じ内容のものということ。実は、ここらへんの話も学習指導で事細かく説明し指導していることである。ここのところも間違えると、今後の試験対策に大きな支障を生じることになるからである。

 技能の一つなので、習得するためには、〝できない〟ことを何度も繰り返さなければならない。私が指導している学習指導は、真っ当な勉強のやり方である。真っ当なやり方を教えているわけだから、当然、習得にもそれ相応の時間がかかる。『 真っ当なやり方を具体的に指導するのなら、すぐにできるようになるんじゃないですか? 』という人は、モノを習得するということが、分かっていない人であろう。真っ当なやり方を具体的に指導すれば、全くの初心者が30分で自転車に乗れるようになるだろうか?パソコンを触ったこともない人間が、1時間でパソコンを使いこなせるようになるだろうか?そう考えれば、分かるはずである。

 真っ当な勉強のやり方を身につけるには、それ相応の時間がかかる。何度も繰り返すことが必要だからだ。しかし、技能の習得とはそういうモノである。確かに効率よく、そしてある程度、時間を短縮することはできる。それが、指導する人間の持つ指導力が、どれほどのモノなのかということになるのだが…。それとて、あくまでも〝効率よく〟であり、〝ある程度の時間短縮〟でしかない。インスタントで、すぐに〝できる〟ようになるわけではない。これも、学習指導でよく口にしていることなのだが…インスタントで手に入るものは、所詮、インスタントで手に入る程度のモノでしかない。真っ当な技能を手に入れるなら、正しい指導の下、それ相応に時間を掛けなければならないということ。

 昨今は、真っ当な勉強のやり方を指導しても『 時間がかかるから… 』といって安易な方向に走ってしまう学生さんが多い。結局、いつまで経っても真っ当な勉強のやり方は、〝できない〟ままということになってしまう。真っ当な勉強のやり方を身につけるには、それ相応に時間がかかるし、労力もかかる。前述したように、それ相応の苦痛も伴う。ましてや、今まで真っ当な勉強などしたことがないというのなら、なおさらである。しかし本来、技能とはそうやって身につけていくものである。時間がかかるし、労力もかかる。苦痛も伴うけれど、国家試験合格のために、真っ当な勉強法を身につけるか?時間がかかるのはイヤだし、労力もかけたくないし、苦痛なんかとんでもない。だから、合格からは程遠い、『 これで勉強しているんだ 』と自己満足できる〝インスタントな似非勉強〟を続けるのか?それは、その人次第である。

 

 

タグ

2022年9月14日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

何かしてくる人間には…。

2022/09/07

 仕事がら、学生さんからの相談は毎日のように受ける。講師の仕事は、もちろん講義をすることだが、それだけかというと、そうではない。イヤ、もしかすると講義よりも学生さんの相談対応の方が、講義よりも多いのかもしれない。

 講師の仕事は『 講義をすることだけ 』と思っている人は何気に多いようだ。私は以前勤めていた職場で、新人講師(すなわち講師として入社してきた人たち)の研修を担当していたことがある。違う職場では、薬学以外の新人講師の研修を依頼されたこともある。そんな研修の中で、講師の仕事について話していくと…何気に曇り顔になる新人の方がいたりする。『 どうしたんだろう? 』と思い聞いてみると…『 講師の仕事って教えるだけじゃないんですか… 』と、少々不安げな顔で答えたりする。その新人曰く『 講師は、講義(とその準備)だけやっていればいいと思っていたんですが… 』とのこと。ん~、講師というのは講義だけやっていればいいと思われているのだなあ…。もっと強者(?)になると『 講師は、講義(とその準備)だけやっていればいいから、楽な仕事だと思っていたのに… 』という具合に、本音を漏らしてしまう人も…(笑)。講義(とその準備)だけでも大変な仕事であることは間違いないのだが、もし講義(とその準備)だけやっていればいいなら、講師の仕事は大分楽なものになるだろう。しかし、残念ながら講師の仕事はそれだけではない。学生さんの相談対応を初めとして、色々な仕事が山のようにあったりする。大体どんな職業においても、仕事というのは『 コレとコレやれば終わり。あとは何もしなくていいや 』なんていうものではない。色々な仕事が次から次へと出てくるものである。

 学生さんの相談で、何気に多いのが学生さん同士のトラブル。薬進塾は少人数制であるが故、学生さん同士のトラブルは、ほとんどと言っていいほどない。しかし、以前在籍していた予備校は学生さんの数が多く、学生さん同士のトラブルは、日常茶飯事のことであった。『 ○○さんがこんなことをしてくるんです 』なんていう、〝嫌がらせ〟の相談を受けることなど、これまた日常茶飯事。こちらも慣れているので、一番いい対処法を教えることに。こういった場合は、はっきりと意思表示するのが一番である。そこで『 じゃあ「 止めて 」とか「 困っている 」って言ってみたら 』とアドバイスをするのだが…すると『 エッ!そんなこと言ったら嫌われちゃうから… 』という力ない答が返ってくる場合が多い。ハッキリ意思表示したら嫌われてしまう…そう思っている学生さんは少なくない。困っているのだったら、ハッキリ言えばいいのにと思ってしまうのだが…。第一、そんな迷惑な奴からなら、嫌われてもたいしたことなかろうにと思っうのだが…どうやらそうではないらしい。嫌われてしまうことに、異様に恐怖心を持っている。そんな感じがする。しかし、人間嫌われてしまうこともある。それはそれで致し方ないのではないか?ましてや薬剤師国家試験合格を目指していて、その支障となる〝嫌がらせ〟が困るから、何らかの言動を起こしたわけである。その言動の結果嫌われたとしても、それはそれで仕方がないのではないだろうか?

 もちろん、アドバイスというものは通り一遍のものではない。学生さんや時期により、臨機応変に色々なアドバイスをしていくことになる。前述したような〝困ったことをされて、困っている学生さん〟に対してのアドバイスも然りで、『 じゃあ「 止めて 」とか「 困っている 」って言ってみたら 』といったアドバイスも、判で押したように誰にでも同じことを言っているのではない。状況や学生さんによっては、『 気にしなくていいよ。放っておきなよ 』というアドバイスをすることもよくある。すると…『 そんなこと出来ない 』と、やはり力ない返答が返ってくることが…。そして、『 何で?相手がどう出てこようとも、どういう態度で接してこようとも、あなたがそれを気にしなければ、あなたが反応しなければ、その行為はあなたに対して何の作用も及ぼさないんだよ? 』とアドバイスすることになる。

 確かに〝嫌がらせ〟に対して、揺らいでしまうのは致し方ないこと。それを、放っておくことなんかできないから、相談に来ていることも十分分かる。しかし、自分が不愉快になるような、時には傷ついてしまうような行為なんか、わざわざ受け止める必要はない。他人が行う行為は、その人が受け止めることで、初めてその人に対して効力を発揮するものである。残念ながら〝あなたを困らせる態度をとってくる人〟は、あなたに対して負の効力を発揮させるために、そういった態度で接してきたり、あなたを悩ませる行為をしてくるのである。はた迷惑な行為ではあるが、悲しいかな、そういう人間が存在することは確かである。でもそんな人が、あなたを狙って投げてきた球に、わざわざ当たりにいくことはない。ヒョイと避けてしまえばいいだけの話。ウ~ッと唸ってこちらを睨んでいる犬に、わざわざ寄っていくような、まねをするだろうか?誰もがそんな犬は見過ごすだろう。それを受け止めて『 なんで私を睨むの?私にうなり声をあげるの? 』なんて悩む人間は、まずいないだろう。第一、日常生活においてそんなこと探して受け止めていったら、きりがない。『 コンビニの店員さんの態度が悪かった?私何かしたの? 』とか『 車にクラクション鳴らされたけど、私が迷惑かけた? 』とか、そんな具合でいたら日常生活自体が成り立たないだろう。誰かがあなたに対して、不愉快な行動をしてきたり、そういう態度で接してきていることも、『 コンビニの店員さんの態度が悪かった 』ことも、さして変わらないことである。確かに、一時的には不愉快になるかもしれない。しかし、いつまでもそれを引っ張ることではない。いや、受け止めさえしなければ『 一時は不愉快になる 』ことさえもない。車のクラクションを、普段聞き逃しているのと同じである。一回一回聞き耳立てて反応していれば、きりがないことである。

 どうも、他人から影響を受けてしまう学生さんは多いようである。多少は致し方ないとしても、やはり〝国家試験合格を目指して勉強している〟ということを忘れないでいて欲しい。『 受かるために、何を優先しなければならないのか 』を、まずはしっかりと考えるべきだろう。まわりにどんな人間がいようが、気にしている場合ではない。『 ○○さんがどんな態度であろうが関係ない。勉強しなきゃ、覚えなきゃ! 』と進んでいかなければならない。何度も言うが、他人が行う行為は、その人が受け止めることで、初めてその人に対して効力を発揮する。その人が受け止めなければ〝その人を悩ませる行為〟は存在しないも同じである。〝困らせる態度をとってくる人〟の空振りとなるだけである。もし、現在、困ったことをされている人がいるのなら…いっそのこと受け止めずに放っておいてみては、いかがだろうか?それが一番の対応だと思う。別にそんな人間から嫌われようがいいではないか。逆にそういった人間から嫌われてみると…意外とスッキリとするものである。やってみて損はないと思う。

タグ

2022年9月7日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

このページの先頭へ