分からない人間を笑う陰湿さ。
2021/06/28
私が小学校2年生の頃。算数の時間、九九を暗唱させられるということをやらされました。2の段から始めていくのですが…皆の前で暗唱させられる緊張感もあり、中々苦労したのを覚えています。
そんな中でも忘れられないのことなのですが…。私は7の段で苦戦していました。言い回し的に苦手だったのもあるかもしれませんが、『 七三にじゅういち、七四にじゅうはち 』の『 にじゅういち、にじゅうしち、にじゅうはち 』という数値が発音的に似ていることや緊張感もあり、中々上手くいきませんでした。その度に、何度も担任の教師から皆の前で『 ダメだな 』と冷たく言われては、教室の皆から嘲笑されたことは今も忘れません。家に帰ってから、母親と何度も練習したことを覚えています。
そんな中で、一番忘れられないことは…私が『 七三… 』というと、周りの人間たちが嘘を教えるということ。それも、声に出して『 にじゅうしち 』やら『 にじゅうはち 』と言いまくるのです。戸惑う私に『 にじゅうしちだって 』『 にじゅうはちだよ 』と何人もが言ってくるのです。言ってくるというよりは、確実に誘導ですね。『 本当に?21じゃないの? 』という私に、『 違う、違う27だって 』と平然とウソを言ってくるのです。緊張感もあり、もともと気が弱い私は言われた通り言ってしまうのですが…その度に、担任の教師が冷ややかに『 ダメだな 』の声を発します。同時に、教室内は大爆笑。『 ひっかかった 』と言わんばかりに、皆で大笑い。悔しくて泣いている私を、さらに『 泣いてるよ 』『 こんなことも分からないのかよ 』と嘲笑しまくりました。スゴイものですね。ン十年たった今でも、彼らへの恨みは少しも消えることなく、私の中にしっかりと残っているのですから…。
人にウソを教えて、間違えさせて喜ぶ。人間として最低の行為であることは間違いありません。小学校2年生で、やっていることが人間として最低…。まあ、その内の何人かの現在の情報は耳にするのですが…単刀直入に言ってしまえば、どう見ても幸せとは言えない人生を送っているみたいです。自業自得とは、まさにこのこと。まあ、その程度の人間だからこそ、小学生の頃から人を誑かしては笑っているのでしょう。
担任の教師にも大いに問題があることは、お分かりいただけることと思います。仮にも授業中。生徒が真面目に暗唱している最中に、他の生徒が喋っても注意をしない。更に嘘を教えていることを制止しない。最後には、そそのかされて答えたことに、さもこちらが悪いとばかりに、突き放すような言葉を吐き捨てる。その後の、そそのかした連中の嘲笑を咎めることも一切しない。しかも、これが授業中のこと。私が教師というものを、今一つ信用していない理由がここにあります(もちろん、全員という訳ではありませんが…)。まあ、この教師もろくでもないと言えば、ろくでもない教師。私の実家は以前、すし屋を営んでいたのですが…ウチに来てはしこたま酒を飲み、人事不省に陥ることは日常茶飯事。その度に、私の父が車で家まで送っていったことも、毎度のこと。お金は払っていますし、お客さんな訳ですから、別に酒を飲んで酔っ払うことは悪いことではありません。しかし毎度、毎度、人事不省に陥り、へべれけになって帰ることもできない。タクシー代も無くなる位に、酒を飲む。そして、車で送ってもらう…これは人間として如何なものでしょうかね?仮にも『 先生 』と呼ばれている人間なら、それ位の節制を持って酒を飲んでもらいたいものですが…。まあ、この程度の人間ですから、先のような『 教師としてあるまじき行為 』を、何の疑問も持たずに行っていたのでしょうけれど…。確かこの教師も、晩年は幸せとは言えないような人生だったと聞いています。当然でしょうね。
私にとっては、はらわたが煮えくり返るような経験ですが…二つだけ良かったなと思うことがあります。それは『 分からない人間に対する気持ち 』が、分かるようになったということ。そして、『 分からない人間や一生懸命やっている人間を嘲笑したり、そそのかしたりすることは、絶対にやっちゃいけない 』ということが、深く深く自分の中に刻まれたということ。この二つは財産だと思っています。自分は、前述の九九の一件で、もの凄い嫌な目にあいました。辛い目にあいました。人格さえ否定されているような気持になりました。実際、当時は毎日毎日、一人で泣いて過ごしていました。だから、自分がやられた前述の様なことは、絶対に学生にやってはいけないのだと、心底思って…イヤ、自分の一部としてしっかりと存在しているのです。予備校の講師という職に就き、このことはもの凄い重要なことだと思っています。
私は『 分からないことは悪いことではない 』と、よく口にします。ブログやホームページのいたる所でも、この言葉は書かせてもらっています。分からないことは悪いことではありません。嘲笑されたり、見放されるようなことでもありません。少なくとも、私はそう思っています。誰だって、『 分かろうとしないで分からない 』訳ではありません。皆、分かろうと努力しているのです。一生懸命やっているのです。私の九九の場合だって同じです。間違おうとして間違っている訳ではないのです。だから悪いことではないのです。嘲笑されることでもないのです。突き放すように、冷たい言葉を投げかけられることでもないのです。それを、そそのかして笑うなんて下の下です。
学習指導等で学生さんと話していると、私の九九の時のような経験を予備校や大学でしてきた人が、あまりに多いことに驚かされます。ある人は涙を流しながら、またある人は今まで見せたことが無いような沈痛な面持ちで、その経験を話してくれます。その度に、私はその理不尽な仕打ちに憤慨するのですが…。
そんなことして楽しいんですかね?よく、そんなことで笑えるなと思います。そして…そういうことをされたら、どういう気持ちになるのか分かりませんかね?ましてや、人が一生懸命にやっていることに対し、嘲笑したり、そそのかしたり、突き放すように、冷たい言葉を投げかければ、相手はどういう思いをするのか…。それが、分かりませんかね?人として社会の中で生きている以上、相手の気持ちを考えるということは大切な事です。まあ、そういったことなど考えていないのでしょうけれど…。逆に言えば…そういうことをする輩は、人として社会の中で生きていく権利が、無いと言ってもいいと思います。
人がイヤがることはしない。ましてや自分がされてイヤなことはしない。これは、人間として当たり前の行動ではないでしょうか?私は、九九の件で未だに恨みをかき消すことができないくらいの、イヤな思いをしました。だから自分の学生には、絶対にそういうことをしたくないと思っていますし、当然していません。もちろん、薬進塾の講師陣にもそういう行為はさせたくないと思っています。嬉しいことに、薬進塾の職員・講師一同は、皆優秀な人達ばかりですので、そういったことは一切しませんが…。
自分がそういう目に合ったから分かる。人にモノを教えるという仕事をするとき、このことはもの凄く大きな財産と言えると思っています。少なくとも講師という稼業に付いている私にとっては、もの凄く大きな財産になっていることは確かです。分からない人の気持ちが分かる。分からないことに、突き放すように、冷たい言葉を投げかけられることの気持ちが分かる。一生懸命にやっていることに対し、嘲笑されたり、そそのかされたりされることの屈辱が分かる。これは、経験していなければ分からないことだと思います。もちろん、経験していなくても、節制ある人間、理性ある人間なら、そんなことはしないでしょうけれど…。しかし、経験があるからこそ、それが節制や理性から外れてしまうことへの、大きなブレーキになっていることも確かだと思っています。そういう意味では、良い経験だったと言えるかもしれません。もちろん、恨みが消える消えないは、また別の話ですが…。もし、このブログを読んでいる人の中に、一生懸命にやっている人を嘲笑したり、そそのかしたり、分からない人に対し突き放すように、冷たい言葉を投げかける人がいるのならば…気を付けた方がいいですよ。相当な恨みを買っているやもしれません。今すぐ止めることをお勧めします。中には私みたいに、ン十年間経っても恨み続ける人が、いるやもしれませんから…。
第一…分からない人に手助けしてあげたり、温かい言葉をかけて導いてあげる方が、よっぽど楽しいし、嬉しいことだと思うのですが…。気持ちよくありませんかね?ましてや『 ありがとうございます 』なんて、お礼の言葉なんか頂けたら、至上の喜びだと思うのですが…。自分も嬉しくて、相手も喜んでくれるなんて、こんな良いことはないと思うのですが…。まあ私としては、こっちの方が、嘲笑したり、そそのかしたり、冷たい言葉を投げかけるよりは、よっぽど気分がいいことだと思っていますし、そうしていきたいと思っていますけれど…。
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2021年6月28日 | コメントは受け付けていません。 |
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薬剤師国家試験が、どれほど大変なものなのか、知っているんですかね?
2021/06/22
以前、勤めていた予備校でのこと。ある会社の人と仕事の関係で、一緒に大学を訪問することとなった。こちらとしては大学訪問は毎度のことなので、特に気にすることもなく、あちらこちらの研究室を回っては、その会社の人を紹介し、色々と話をしていったのだが…。研究室回りも一通り終え、帰途に就く最中のこと。その会社の人がこんなことを口にした。
薬学部って、こんなに色々な研究室があるんですね。私も大学に行っていましたが、こんなにたくさんの種類の研究室はありませんでしたよ。まあ、文系っていうのもあったかもしれませんが…。しかも、法律関係や公衆衛生、微生物学とか、私たちが考えると『 薬学って、こんなことも勉強するの? 』といような研究室もあったりして…。薬学に、こんなにたくさん研究室があるとは思いませんでしたね。
薬学出身である我々からすれば、当たり前のようなことだが、どっこい他人の目から見ればそうではないようだ。確かに薬学部の研究室は、その種類も様々であることは確かである。そして、どの研究室も薬剤師国家試験に関係している。逆の言い方をするならば、それほど多くの分野から問題が出題されているということ。しかも、345題という題数で…。おまけに、どの分野もそれ相応の難易度である。
薬学部を卒業したということは、そういった広い範囲の科目の単位を取得して来たということである。さらに研究室として直接存在してはいないが、CBTやOSCEという試験もあり、当然、卒業するためにはクリアしなければならないし、実習だってクリアしなければならない。そういった関門をクリアすることができずに、薬学を去る人間も決して少なくはない。更に、最後には卒業するための卒業試験というものまで控えている。これとて、決して簡単なものではない。ほとんどの大学が、卒業試験は国家試験の過去問がらみの試験だったりするが、前述したようにその内容たるや、広い範囲で深く出題されているものなのだ。おまけに10年分くらいが、試験範囲であったりする。こういったものを全てクリアできて、晴れて薬学卒業となる訳である。もちろん、留年や卒業延期等でストレートにいかない人が多いことも忘れてはならない。そんな関門をクリアできて来た人間が、晴れて国家試験受験にたどり着くことができるのである。
私が、何を言いたいのかというと…薬剤師国家試験対策は大変だということ。そして、国家試験を受験する所にたどり着くまで、すなわち薬学部を卒業して来たということも、それはそれは大変なことだということ。ハッキリ言わせていただくが、そういった薬学部卒業の大変さ、そして国家試験対策の大変さを知らない人間、経験したことが無い人間に、軽々しく試験対策云々の話をして欲しくないということ。
別に、薬学出身でない人を蔑視している訳ではない。しかし、薬剤師国家試験を軽く見ているような言動を取ったり、薬学部出身者を軽んじるような発言をする人は少なくない。私は薬剤師国家試験の予備校の講師をして久しいが、そういった人達とお会いしたことは星の数ほどある。そして、そういった人達が薬剤師国家試験対策を軽く捕らえるような話をしたり、薬剤師国家試験で結果を出せなかった人に関し、軽々しい評価をするたびに…まあ、ハッキリ言ってしまうが、不愉快な気持ちにならざるを得ないのも事実である。
『 過去問をやっていれば受かるんだろ 』などと、したり顔で言っていたりする。過去問をやっていれば受かるほど、薬剤師国家試験は簡単なものではない。恐らくそういった人達は、そこら辺の有象無象の資格試験と薬剤師国家試験を一緒にしているようだが…笑止千万とはこのこと。『 雲泥の差がある 』などといったどころの話ではない。中には、薬剤師国家試験の合格率(それも新卒の)を見て、『 薬剤師国家試験はさぁ、85%の人が受かる試験なんだから… 』なんてサラッと言ってのける、(薬学出身ではない)人間がいたりするが…ハッキリ言いたい。『 じゃあ、お前受けてみろ! 』と…。『 試験対策やってみろ! 』とも言いたい。私は200題の頃の薬剤師国家試験を受験したが、それとて『 85%の人が受かる試験だから… 』なんて簡単に口にできるほど、試験対策は甘いものではなかった。そんな200題の頃の試験対策をやってきた私でさえ、『 85%の人が受かる試験だから… 』なんて言われたら逆上するのである。それ程のことを言っているのだという自覚は…おそらく無いのだろう。
だいたい、薬学の過程を経験していないことはもちろんのこと、試験対策もやったことが無ければ、薬剤師国家試験を受験したこともないのに、何故、そう簡単に試験対策や薬剤師国家試験に大して、軽々しく口を出すことができるのだろう?もちろん、薬学出身者ではない人間が全員、こういった軽んじた発言をするわけではない。中には…イヤほとんどの人は『 薬剤師国家試験は大変ですよね… 』と口にしている。自分が経験したことが無いモノに対する謙虚な、そして当然な姿勢である。普通に考えてみれば医療系の国家資格であるのだから、簡単ではないこと位は予想が付くはずである。『 薬剤師国家試験は大変ですよね… 』といった発言は、そういったことからの発言なのだろう。これが普通の人の対応だと思うのだが…。
更には国家試験が不本意な結果となってしまった人に対し、『 コイツ、受からなくてさぁ… 』『 受からなくて困ったもんだよ… 』などという具合に、侮蔑的な発言をする人もいたりするから、憤慨極まりない。誰だって、好き好んで不本意な結果となったわけではない。それ相応の試験対策、それも前述したように、経験したことが無い人には分からないほどの過酷な試験対策をやってきているのだ(まあ、受験生の中には、そうではない人も若干いるようではあるが…)。ましてや、そこにたどり着くまでにさえも、多くの難関があり、それを乗り越えてきているのだ。そういった人間に対して、無経験者が『 受からなくて困ったもんだよ… 』などと、軽々しく発言するのは如何なものだろうか?『 お前、(試験対策)やったことあるのかよ 』『 じゃあ、お前やってみろよ 』という言葉が、口をついて出てくることになるのも、至極当然のことではないだろうか?
やはり、こういったことが起こる原因は、前述のように薬剤師国家試験というものがどういうものなのか分かっていない、それなのに軽く見られているからに他ならない。もちろん、国家試験受験までの過程も、さして分からずに軽く見られていることも言うまでもない。どれだけ過酷なものなのか知らないのだろうから、ある意味、仕方が無いのかもしれないが…しかし、知らないのだからこそ口を出さないのが大人としての行動ではないだろうか?ましてや、分かるはずがなかろう試験対策にまで口を出してくるとなると、こちらが閉口してしまう。薬剤師国家試験対策歴ン十年の私に対しても、平気で『 試験対策というものは… 』などと言い放ったりする。中には『 あんな試験は過去問やっときゃ受かるんですよ 』などといった内容を平気で口にしたりで、逆にこちらは開いた口が塞がらない…といった状況になることも、よくある話。そんな人達を目の前にしていると、私の頭の中には、フトこんな言葉が湧き出してくることになる。『 こういう人が側にいるから…こういった人間と接しているから、学生さんは国家試験で不本意な結果を出すことになったんだ… 』といった言葉が…。そう、そんな人間と接していれば、まともな試験対策などというものができなくなるのは、当然の話である。
心配するなとは言わない。しかし、薬剤師国家試験というもの、そしてその試験対策の過酷さが分からない人間は、ヘタに口を出さないでもらいたい。知りもしないのに、余計な発言をされると、試験対策を行っている当人の足を引っ張ることになるからである。本当に、当人のこと思うのなら、試験対策には口を出さず、静かに応援してもらいたいものである。少なくとも、そちらの方が試験対策の結果が喜ばしいものとなる確率が高いはずである。薬剤師国家試験というもの、そしてその試験対策の過酷さが分からない人間が、試験対策に口を出すということは、間違いなく合格率の低迷に貢献していることになると私は思っている。知りもしない人間が、試験対策で困惑している人間に対し、『 過去問をやっていれば受かるよ 』『 参考書とか3回やれば大丈夫だよ 』などと軽々しく発言することが、合格に貢献することではないことだと、よくよく考えてみればお分かりいただけることではないだろうか?私はそう思うのだが…。
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2021年6月22日 | コメントは受け付けていません。 |
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自分で決められないのかね?
2021/06/14
以前、ある講演を聞いたときのこと。一つ気になったことがあった。まあ、講演の後というのは、お約束で講演者の方への質問タイムが設けられているのだが…。その講演も例外ではなく、講演者の方への質問タイムが設けられていた。気になったのは、そこでの質問でのこと。質問内容が、質問ではなく『 どうしたらいいんでしょう? 』といった、判断を委ねるものが多かったということ。別に、質問の中に〝判断を委ねる内容〟があることは悪いことではない。判断に専門的な知識が必要な場合、専門知識を持たない人間は、専門知識を持った人間に、そのアドバイスを求めるのは、至極当然のことだからである。例えば『 熱が38度あり、意識が朦朧としている。発疹も出ているようですが、どうしたらいいでしょう? 』といった内容。これは、判断に専門的な知識が必要で、専門知識を持たない人間が、専門知識を持った人間にそのアドバイスを求めるものである(しかし、それとて最終的にどうするかの判断は、自分自身で行わなければならないが…)。ところが、その講演後にされた質問のほとんどが、専門の知識を持つ講演者に『 専門知識から察する判断 』を聞いているものではなく、『 どうしたらいいんでしょうかね? 』といった、ある意味、専門家の方でなくとも十分対応できる内容なのであった。私的には、ラジオやテレビの人生相談的な物のような気がしてならなかった。正直な話、『 あなた、それくらいの判断、自分自身でできないの? 』と思える内容。講演者の方は、非常に心が広く、人間ができた人であった。講演を聞いていて、それは手に取るように窺い知ることができた。実際、講演を聞いていて、『 人格者というのは、こういう人を言うんだろうな…見習うべきだ 』と、改悛の思いであった。そんな方だから、私程度の人間なら『 あなた、それは自分で判断したら 』と言ってしまいそうなところを、丁寧に優しく答えていらっしゃった。さすがだなと、改めて自分の未熟さを痛恨した次第なのである。
自分で判断しない人が多いよう思う。昨今の学生さんを見ていて、特にそれを思うことは多い。『 ○○さんが良いって言っていたから… 』流行文句のように、この言葉を使う学生さんは多い。自分で判断できないかなぁ…といった苦言を呈すると、これまた判で押したように同じ内容の答えが返ってくる。『 (人の意見を)参考にするのはいいことだから… 』と…。参考の意味が分かっているのだろうか?参考とは『 何かをしようとするときに、他人の意見や他の事例・資料などを引き合わせてみて、自分の考えを決める手がかりにすること(デジタル大辞泉より) 』とある。つまり『 自分の考えを決める手がかりにすること 』であって、『 自分で決めることを放棄すること 』ではない。あくまでも『 手がかりにすること 』である。『 手がかりにする 』であるから、当然〝自分で行動する〟ことを指している。人が言ったことを、『 あの人が良いっていったから… 』などと、自分というフィルターを通さずに、素通りさせて決定権を放棄することではない。
自ら判断できない学生さんが、増えてきているのは事実である。まあ、私も優柔不断というか、中々決められないタイプの人間である。しかし、それは『 かつ丼とカツカレー、どっちにしようかな… 』的な選択における、優柔不断さである。例えば参考書を選ぶ場合。自分で『 これだ! 』と思ったものを買う。『 これから自分が、長く勉強していくために使うものだ。自分で選ばなくて、どうする! 』と思っている。人が使いやすいものが、自分に取って使いやすいものかどうかは、全くの別の話である。人から教えてもらったり、周りの連中が『 これがいい 』と言っていたもので、自分がいいとは思わなかったものは、ごまんとある。人が使うのではなく、自分が使うのである。自分以外の人間は関係ないとも思っている。
第一…『 これがいい 』と口にした人間とて、果たして自分で良いと思ったかどうか定かでない。その人間も、だれかが口にしたに『 これがいい 』に感化されている可能性は十分ある。そんな人間も、ごまんと見てきた。『 これがいい 』の伝言ゲームであり、全くもって信用できない場合が多々あったりする。だから私は、(自分が使うものは)大概、自分がいいと思ったものを選んでいる。他の誰でもない、私が使うのだ。私がいいと思ったものがいいに決まっている。別に誰に迷惑をかけている訳でもない。もし、それで何かあったとしても、それは私の判断で行ったことだから、私の責任である。誰を責めることでもない。
自分で決めないことによる〝責任の放棄〟については、過去に書いた『 こんなはずじゃなかったのに、という考えは捨てなさい 』『 自分で考えて決めんかい! 』といったブログで色々書かせていただいているので、そちらをご参照いただきたい。今回、私が言いたいのは『 自分で判断しなければ、自分で判断するということができなくなる 』ということ。判断力という言葉があるように、『 判断する 』ということは能力の一つである。これも、私がよく口にする内容なのだが…能力は使えば使う程、研ぎ澄まされていく。早い話、判断するという行為を行えば行う程、判断力は発達して強化されていくということ。なるほど、自ら判断しない人間は、色々な場面で判断しなくなっていることが多い。自ら判断しないから、その能力が発達しない、衰えていっているのだろう。それはそれで困ることなのだが…こと国家試験対策を行っている人間にとって、これほど危険なことはない。何故なら、問題の答を出すときには、否が応でも自らの判断が必要になるからである。自らの判断無く、答など出せるわけがない。そう言えば、昨今は『 何故、この答えにしたの? 』と尋ねると『 何となく… 』という学生さんが多い。これなどは、判断力が劣ってきている証拠ではないだろうか?
以前、『 どんな参考書が良いんですか? 』と聞いてきた学生さんに、『 自分で読んでいて、分かり易いと思ったものが良い参考書だよ 』と話したところ…『 自分で読んでいて分かり易いって、どういうことですか? 』と返答されたことがある。これには魂消た。『 自分で食べて美味しいって、どういうことですか? 』と聞いているのに、等しい行為だからである。これなどある意味、究極の判断力劣化と言えるのではないだろうか?『 自分で読んでいて分かり易い 』といった判断が為されないのだから…。確かにその学生さん、ことあるごとに母親が出てきていた。学生さん自身も、ことあるごとに母親を持ち出していた。全て母親に判断させていたということ。これでは自ら判断するという能力も、退化していくのは致し方ない話である。
これも何度も書かせていただいたことだが…現代は情報化時代と呼ばれている時代である。365日24時間、千万無量の情報が飛び交っている。そして、その中には虚偽の情報もあれば、悪意ある情報、人を誑かそうとする情報、己の利のために人を利用しようとする情報も、これまた万万千千飛び交っているのである。下手に手を出したら大火傷どころか、とんでもない事態になってしまう情報だって不遑枚挙である。そんな中、やはり自分で判断することは重要であり、そして身を守ることにもつながる。前述の講演者の方は、仁徳ある方であったから良かったものの、中には専門家だというから頼ってみたところ、とんでもない判断を与えて、己の利に導こうとしている輩も存在しているのである。情報化社会だからこそ、自らの判断力を鍛えていかなければならないのである。どうも今の世は『 ネットで調べれば出てくるから… 』と、〝その情報を判断するという行為〟が為されていない場合が多い。判断というものが為されなくなってきている社会になりつつあるのだ。そして、これはとても危険な事なのだが…。『 テレビで言っていたから… 』『 ネットに書いてあったから… 』『 ○○さんが言っていたから… 』こういったことが、とても危険であるということを、誰もが判断できていない、イヤ判断しなくなってきているような…そんな気がしなくもない。
生きていくにも判断は必要であるが、国家試験対策を行う上でも、自ら判断する力は必要である。少なくとも、試験対策に携わっている以上、自ら判断していく行為は率先して行っていくべきである。イヤ、自ら判断して進んでいくことこそが、試験対策と言ってもいい。もちろん、判断付きかねる事態が生じたのなら、前述したように、専門知識を持った人間に、そのアドバイスを求めればいいだけである。そして、自分の考えを決める手がかりにしていけばいいのである。手がかりにする。最後の判断は自分である。そうやって、自ら判断することを行っていけば…判断は能力であるからして、その能力も研ぎ澄まされ、強化されていくことは間違いないはずである。そして…それは情報化社会と言われている現代を生き抜く上でも、必要なことなのではないだろうか?私はそう思っている。
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2021年6月14日 | コメントは受け付けていません。 |
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保護中: ✨ 薬進塾の一年コースはここが違う。
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2021年6月9日 | コメントは受け付けていません。 |
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【 き 】貴ガス
【 き 】
貴ガス
He(ヘリウム)、Ne(ネオン)、Ar(アルゴン)、Kr(クリプトン)、Xe(キセノン)、Rn(ラドン)の6元素の総称。いずれも、反応性がとても低い。
① 周期表では18族が、この貴ガスである。
② 以前は『 希ガス 』と表記されていたが、現在は『 貴ガス 』と表記される。
③ 最外殻が閉殻構造を取っているため、安定で化学的に不活性である。
それゆえ、不活性ガスとも呼ばれる。
④ 空気中にわずかに含まれていたりするが、いずれも1個の原子のままで存在している。
⑤ 貴ガスの価電子数は0と考える。
【 例題 】
① 貴ガスは1族である。
誤:周期表の一番右側で、18族である。
ちなみに1族はアルカリ金属で、周期表の一番左側である。
② 貴ガスは安定な元素であり、他の元素と化合物を形成しにくい。
正:最外殻が閉殻構造を取っているため、化学的に安定である。
③ 貴ガスの価電子数は0である。
正:最外殻が閉殻構造を取っているため、価電子数は0とする。
④ いずれも空気中に存在していない。
誤:いずれも空気中に、単原子分子(一個の原子で構成されている分子)として存在している。
薬進塾は小さな大切なことを、一つ一つしっかり教えていく予備校です。
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2021年6月8日 | コメントは受け付けていません。 |
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刺身が高い。
2021/06/08
総菜が高い。総菜だけでなく、刺身も高い…。スーパーで、以前は普通に買って食べていたものが高くなっている。今回のコロナ騒動が原因かと思ってしまいそうだが、そうではないようだ。今回の騒動前から、買い物をしている時に『 なんか高いな… 』と思うことがしばしばあったからである。私は根っからの酒飲みなので、休日前はスーパーで、酒のつまみを調達してから帰ることが多い。『 これ食べようかな 』『 おおっ!安いじゃん 』などと買い物をしているときは、ある種、至極の一時である。それを食べながら一杯やっているのを想像しながら買い物するのは、何とも楽しいかぎりだ。それが最近では、以前とは全く異なった感情を抱くことが多い…イヤ、毎回と言っていいほど、買い物時には眉間にしわを寄せる事態となってしまった。そう、値段の高さからである。ちなみに今回のブログ。スーパー等のお店を非難する意図は全くないことを、あらかじめお断りさせていただく。
最近、特に思うのが…刺身が高くなったということ。以前は、半身をさらに半分に切ったものが白いトレーに入れられて、300円近辺の値段で売られていた。もちろん魚の種類にもよるが、ビントロ(ビンチョウマグロのトロ部分)やカツオのたたきなんかは、そんな程度の値段だったと思う。それが…ふと気づいたら、チョット酒のつまみに…なんていう具合に、気軽に手を出せない値段になってしまっていた。『 そんな大げさな 』と思う人もいるかもしれないが、決してそうではない。こちらも、予算というものがあるので、その目はシビアである。『 大体、これくらいの値段で酒を楽しもう 』という予算が暗黙のうちに設定されているのだ。『 これを買ってしまうと、他のものに響くから… 』といった具合に、値段に配慮しながら、つまみを購入していく。これが、正しいウチ飲みの仕方である(と私は思っている)。で、刺身は酒のつまみの定番。刺身をつまみに一杯やっているところを、嬉し楽しと想像して買っていたのだが…。ここ数か月(イヤ、一年になろうとしているだろうか…)『 この値段じゃなぁ… 』と思うことがほとんどである。
値段が高いというよりは、あからさまに〝量が少ない〟といった方がいいかもしれない。以前は〝半身を半分に切ったものが入っていた値段〟が、今では〝切られた刺身(以降刺身と表記させてもらう)が数切れ入っている値段〟となってしまった。これには正直、たまげた。『 びっくりした 』ではない『 たまげた 』である。漢字で書くと『 魂消た 』らしいが、まさにこの漢字は、私の心境をダイレクトに表してくれていると思う。パックの中に、刺身数切れ…。それも、〝目視で数えられる数〟である。以前は〝塊〟が入っていたのが、今や〝(切られた)刺身数切れ〟…。その刺身の数も、日を追うごとに〝少人数制〟になってきている感がある(まあ〝人〟ではないから、〝少魚数制〟とか〝少刺身数制〟が正しいのかもしれないが…)。薬進塾は〝少人数制〟を売りにしているが、刺身の〝少人数制〟は、いただけないこと、この上ない。そして悲しいことでもある…。
更に悲しいことに、最近では、その刺身がダイエットしてしまっているご様子。普通は、ダイエットに成功すると嬉しい限りであるが、刺身のダイエットが成功することは悲しい限りである。『 何も、そこまで細くなることは… 』というセリフは、ダイエットに成功した人に対して苦笑いで発するものであるが、刺身に関する『 何も、そこまで細くなることは… 』というセリフは、自分自身に対して言う物悲しいセリフでしかない。
刺身のパックが、上げ底になっていたりすることも、悲しさを増幅させてくれる。前述させていただいたように、以前は白いトレーに刺身は入っていたのだが、その白いトレーは平たんな底であった。しかし…昨今の〝少人数制ダイエット成功刺身〟は、色鮮やかなトレーに入っている場合が多いのだが…このトレーが曲者だったりする。底から大きめの突起が、ボコボコと出っ張っていたりする。この上に刺身は乗ることになるのだが…身長測定で下駄をはいているようなものである。そう、上げ底である。これでもかというくらいダイエットして、上げ底ブーツ…。お前は90年代の渋谷ギャルか、原宿ガールか!?
さらに…。そのトレー底の突起と刺身の間に、何やらあるような…。イヤ、『 あるような 』というレベルでなく、刺身からおもむろにはみ出して、その存在感を誇示しているような…。おもてなしのための座布団だろうか?確かに刺身は高級品。座布団くらい敷いても当然だろう。色も白いようだし、やはり座布団か…と思いきや、座布団ではなかった(まあ、当たり前の話ではあるが…)。白いのは〝つま〟である。〝つま〟とは『 刺し身に添える千切り大根や海藻類などの食材。主となる刺し身への添え物(実用日本語表現辞) 』とある。添え物…。イヤイヤ、昨今の刺身では添え物というか、こっちが主役のような気もしなくはない…。刺身の方が、添え物状態…。政権交代も甚だしい感がある。内閣改造というか、刺身改造か!?別に〝つま〟が嫌いなわけでもないし、いらないと言っている訳でもない。ただ、刺身の政権交代が悲しい…それだけである…。
おまけに、この〝つま〟座蒲団はかなり高級だ。何故なら、羽毛布団位の厚みがあるからだ。イヤ、座蒲団というよりは、刺身からすれば、れっきとした布団といっていいほどの広さだ。厚さといい広さといい、チョットした高級ホテル並みの布団だ。刺身なのに、なんと贅沢な。刺身が贅沢(な食べ物)と言っているのではない。その待遇が贅沢と言っているのだ。おまけにベッドは、上げ底〝ハイベッド〟。刺身にとっては〝至れり尽くせり〟の待遇だが、こちらにとっては〝踏んだり蹴ったり〟の待遇である。
刺身は高級品である。それ位の事は分かっている。一般的な食品よりは、やはり値段が高いのも致し方ないし、今までもそうであったから、高級品であることを否定する訳でもない。しかし、この現状は〝高級品〟という扱いとは別事のように思える。刺身の端の、キレ残り部分と言ってもいいほどの寄せ集め…おそらくスプーン一杯程度のキレ残り部分がパック詰めされて、以前の(通常の)刺身の値段で売られているのを見た時は、〝魂消たの極み〟であった…。『 そこまでして、売るのか? 』という思いと、『 これを売るということに対して、何も思わないのだろうか? 』という思いで、何とも複雑な心境であった。何も『 そんな切れ端は売るな 』と言っている訳ではない。『 そういった切れ端を出ないよう(大き目に)切るか、または通常の刺身に加えて、一緒にパック詰めして売ればいいのではないか? 』ということである。まあ、お店にはお店の理由があるのだろうし、そこをとやかく責めるつもりはないのだが…そういった刺身を目にすること自体が、何とも言えぬ哀愁を誘うのである…。
ウチ飲みが叫ばれる昨今。叫ばれるというよりは、『 外飲みができない状況にある昨今 』といった方が正しいだろう。外で飲めない以上、ウチで飲むしかない。だからこそ、少々贅沢なものを…と刺身コーナーに足を向かわせるのだが…足は向かわせることができるものの、贅沢過ぎて手は出せないといった状況…。なんとも、酒飲みには辛い日々である。せめて、ウチ飲みくらいは気兼ねなく美味しいものを、つまませていただきたいものである。『 低いトレイに直に敷かれた、そこそこの厚さの〝つま布団〟に、ダイエットに失敗した半身がドカンと横たわっているような、庶民的刺身に早く戻ってほしいな…やっぱり、庶民は庶民と相性がいいんだからさ… 』と、何とか工面したつまみを肴に酒を飲みながら、ぼんやりと考えている、今日この頃なのである。
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2021年6月8日 | コメントは受け付けていません。 |
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