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『 私はいいんですけどね… 』 じゃあ言うな!

2019/09/18

 以前の職場でのこと。『 私はいいんですけどね… 』をよく発する人物がいた(女性)。向こうが何か意見を言ってくる。それに対して、こちらがモノ申すと…『 私はいいんですけどね… 』といった言葉が返ってくる。発しているご本人は、あまり納得いかないようなそぶりで発しているのだが…。そして、どういう訳かこういう人間に限って人を見下している場合が多い。

 人の意見に異を唱えることは、特に問題ない。というか、そんなことは人と人とが接する上では、避けられないことである。皆が皆同じ意見、同じ考え方などというのは、そうあるものではないのだ。だから、たとえ自分の意見に異を唱えられたところで『 私は違うと思います 』だとか『 分かりました 』と答えれば良いだけの話。それで、何の問題もない。そして、『 私は違うと思います 』と発言したのなら、その後に『 どう違うのか? 』『 どうするのがいいと思うのか? 』そういった方向に、話をシフトしていけばいいだけのことである。『 分かりました 』と答えた場合。答えてはみたものの、それが少々納得のいかない場合であることも、日常茶飯事のこと。しかし、自分の意見に異を唱えられたとしても、それは〝決めるべき立場にある人間〟の決断なのだから、少なくとも自分がその立場にないのなら、それに従わざるを得ない。〝決めるべき立場にある人間〟は、それ相応に責任を背負って決断しているのだ。そうなると、やはり〝決めるべき立場にある人間〟の意見が優先されるべきだろう。社会の仕組みとはそういうものである。

 ところが『 私は違うと思います 』 『 分かりました 』とは、全く異なる言葉を口にする輩がいる。それが件の『 私はいいんですけどね… 』という言葉。前述のように、自分の意見に異を唱えられたら『 私は違うと思います 』あるいは『 分かりました 』と答えればいいだけの話。つまり特別なことが無い限り、否定(私は違うと思います)か肯定(分かりました)かの、どちらかしかないはずである。『 私はいいんですけどね… 』という言葉…肯定なのだろうか?否定なのだろうか?判断付き難いような、はたまた判断させないような、そんな思惑があるような…イヤ、判断とはまた違った何かを含んでいるような、そんな気がしなくもない。

 『 けど 』とは、どういう意味であろうか?調べてみると…『 けど 』は『 けれども 』と同じとある。『 けれども 』には『 上に述べたことやそれから予想されることと反対、不釣り合い、不調和なことを以下に述べることを示す。しかし。だが。だけど。(大辞林より)』とある。早い話し、相手の意見に対し反対の意を表明している言葉ということになる。反対の意を唱えるならば、何故『 私は違うと思います 』と答えないのだろうか? そして…『 私はいいんですけどね… 』という言葉を発している時の顔つきなのだが…『 人間としてこういう顔はしたくないな… 』と思ってしまう表情を浮かべていたりする。何故、そのような表情になるのだろうか?

 あの表情から察するに、どうも自分の意見に異を唱えられたことに対しての不満があるよう思える。そして、『 私の意見が絶対正しいのですよ 』という、強気な態度も見受けられる。しかし前述のように、不満があるのなら『 私は違うと思います 』と言えばいいだけの話であり、納得いかずとも『 分かりました 』と答えてしまわなければならない場合もあることも、社会の常である。なのに、何故あえて『 私はいいんですけどね… 』と〝けど言葉〟を使うのだろう?

 察するに『 私はいいんですよ。でも、あなたがどうなっても知りませんよ 』と否定しているだけではなく、その後、『 私の意見が正しいんですよ。だから、私の意見と違うことをやっても、知りませんからね 』と半ば脅迫しながらカウンターを打ってきているのではないだろうか?人を見下して『 私の判断が絶対正しいのに…従わないなら知らないよ、どうなっても 』と、何ともおこがましい発言こそが、この〝けど〟発言の真意なのではないだろうか?。何ともおこがましく、奢り高ぶった発言のような気がするのだが…。

 なるほど、この〝けど〟発言をする輩は、人を見下した輩や勝気な人間が多いような気がする。言わせて頂くなら、私が全く受け付けない種類の人間である。『 私はいいんですけど(あなたがどうなっても知りませんよ) 』と自分が何もかも知っているような、自分の意見が絶対間違っていないような振る舞いをする人間など、お付き合いご免こうむりたい人間である。『 私はいいんですけど(あなたがどうなっても知りませんよ) 』など、まさに人を見下している、自分が優れていると思っている人間ではないだろうか?他人を、自分より格下と見なし、それで応対しているのだから…。『 そうは思いませんけど(私の方が正しいんですよ) 』と、絶対に自分の非を認めない勝気な輩。そう、『 けど 』をつけだけで、誰にも負けない自分が出来上がるのだ。『 負けたけど(私の方が強い) 』これが、〝けど〟発言をする本心なのではないのだろうか?

 『 私は知りませんけど(あなたがどうなってもいいんですよね) 』こんな脅迫めいたことをサラッと言ってのける。しかも姑息なことに〝けどの後(前述のカッコの中)〟は発言しないのだから、性質が悪い。先ほども書かせていただいたが、こんな輩とは、とにかく関わりたくないものである。おまけに…コレも書かせていただいたが…〝けど〟発言をする輩の顔。これがまた人間として、何とも卑しい顔つきをしているのである。皆さんも『 私はいいんですけど… 』などと言っている人間の顔つきを、よく見てみるといい。人を小ばかにしたような、傲岸不遜の顔つき…。『 こいつって、絶対に幸せじゃないよな… 』『 間違いなく納得のいかない人生を送っているのだろうな 』そう思ってしまうような顔つきをしていることは、確かである。なるほど…確かにどんなに優秀であろうが、社会経験が長かろうが、〝けど〟発言をする輩なぞ、受け入れられなくて当然であろう。周りから受け入れられないのだから、本人の納得のいく人生なんぞ送れるはずがない。私が知っている限り、〝けど〟発言をしている輩は、あまり幸せそうじゃない人生を送っている輩が多いような気がする。

 〝けど〟発言をする人間は卑怯者と言える。自分の意見をはっきりと言いもせず、その癖、自分の意見に従わない者に対し圧力をかけているのだから…。『 私の意見に従わないのですか?間違いない、絶対正しい意見なのに…まあ、いいですよ。でもどうなっても知りませんけどね 』これが、〝けど言葉〟の本性なのだ。こんなおごり高ぶった、そして人を見下し蔑ろにしている言葉が他にあるだろうか?『 私の意見が正しいのに…いいですよ好きにすれば…でも、どうなっても知りませんけど 』…なんとも恐ろしい言葉ではないだろうか?

 大体…『 私はいいんですけどね… 』 いいんだというのなら、別に口にする必要はないのではないだろうか?『 私はいいんですけどね… 』『 いいんだろ?じゃあ言うな! 』と一喝してやりたいどころだが…こういう輩は面倒くさい連中が多い。関われば関わるほど、厄介なことになっていくこと間違いない。だから、それとなく距離を置いて、関わりを薄くしていくのが一番である。実際、私はそうしてきているが…それで何の支障もないどころか、快適なことこの上ない。

 あなたの周りにも、〝けど言葉〟を多用している輩はいないだろうか?もし、いるのなら…真っ当な人間であるはずがない。間違いなく交流は絶った方がいいと思う。大丈夫。それで何の支障も生じることがないのは、私のお墨付きである。イヤな思いをしてまで、付き合わなければならない人間なのか?イヤな思いをする位なら、付き合わなくてもいい人間なのか?快適な人生を送る上では、こういった考え方も必要なのではないだろうか?私はそう思っている。

 

 

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2019年9月18日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

『 皆言っている 』の〝皆〟は多くても三人。

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〝105回対策 塾生さんの声 !〟に『 薬進塾で外せないのは学習指導! 』の体験談が、新たに掲載されました! ぜひ、ご一読ください。

 

2019/09/08

 以前、〝できないことを何度もやることを練習という〔2019/07/15〕〟というタイトルのブログの中で次のようなことを書かせていただきました。

 以前ブログでも書かせていただいたが、私は〝名言・格言〟というものが好きである。そういった類の本も多数所有している。色々と引用させていただくことも多いのだが、今回のタイトルもそんな一つ。ただ、私の不徳致すところから、この文章が誰の発したモノなのか、現在、チョット不明の状態にある。分かり次第、掲載させていただきたいと思っているので、しばしの間ご容赦を。

 先日、この言葉の出所がやっとわかりました。名取芳彦(なとりほうげん)さんという、お坊さんが書かれた書籍に載っていた言葉です。調べてみてびっくりしたのですが、この和尚さん、かなり多才なお方。講演やトークライブ等はもちろんのこと、大学で講師を務められていたりもします。執筆している書籍も、一冊、二冊ではありません。そして、どの書籍もタイトルを見ると…『 チョット、読んでみようかな… 』なんていう気分にさせられるものばかり。正直な話、チョット、トークライブにでも言ってみようかな…なんていう気分にもなっています。それ位、〝知ったばかりなのに影響されてしまう〟人物なのです。そんな魅力的な名取芳彦和尚が書かれた本に、こんな言葉も書いてありました。『 「 みんな言ってる 」の「 みんな 」は多くても三人 』。そうブログタイトルの言葉です。

 私は、ン十年も講師稼業に携わっているが、何気に学生さんが多用するのがこの言葉。『 皆(みんな)、言っていますよ 』…。私は、どうもこの言葉が好きにはなれない。イヤ、正確に言うならば嫌いである。皆、言っていますよ…『 だから何? 』といったところ。一人が言おうが、皆が言おうが、多数決の場合ならともかく、〝一つの意見〟としての優劣はないはず。なのに、何故、あえて『 皆が言っていますよ 』と〝皆〟をつけるのか?

 『 皆が言っていますよ 』という言葉には、ある思惑が見え隠れしている。それは、自分のいいように相手を誘導してやろうという思惑である。自分の思い通りに事を運びたい。それが常識的なものであろうと、非常識なものであろうと関係ない。要は、自分の思い通りに事を運びたいだけなのである。その証拠に『 皆が言っていますよ 』という発言が出る場合には、一つの特徴がある。実は、頭から『 皆が言っていますよ 』という言葉が使われる場合はあまりない。ほとんどの場合が、自分自身が発した言葉が、すぐに受けいれられない、または受け入れられそうにない場合に使われる。自分の思いを告げる、受け入れられそうにない。そこで『 皆が言っています 』という発言が登場することになる。

 まあ、言っている本人としては、意識しているか、していないかはともかくとして『 これは私個人の意見ではない。皆の意見である。皆が言っているのだから、民主主義に乗っ取り、多数決という形でこの意見は採用されるべきではないか? 』と持っていきたいのだろう。早い話、自分一人で自分の意見を通すことができない。そこで、人海戦術という形で、『 皆が… 』という言葉を使うのである。

 自分の意見くらい、自分一人で通せないものだろうか?確固たる信念や思いがあれば、たとえ一人であろうと、しっかりと発言できるはずである。実際、そういった学生さんを、星の数ほど見てきているのだ。確かに、全ての意見、それも個人の意見が必ずしも通ることになるかというと、そうではないことは言わずもがな。どんなに正当な意見であろうとも、それが通らないことがあるのは世の常である。物事というのは、様々な価値観と捉え方で扱われている。一個人にとって正当であっても、それが大勢を相手にするものとなれば、話が違ってしまうのも致し方ないことである。ここで気をつけてもらいたいのは、決して『 正しい少数より、誤っている多数が採用されるべきである 』と言っている訳ではないという事。少数であっても、正しいことは正しいのだから優先されるべきであり、多数であっても間違っていることは間違っているのだから、排除されるべきである。ここで私が言いたいのは『 個人にとっての〝正しいこと〟もあれば、大勢にとっての〝正しいこと〟もあり、それが一致しない場合もある 』ということ。往々にして〝正しいこと〟というのは、一つでない場合が多い。だからこそ、その選択には注意を払わなければならないし、その選択という行為がなかなか難しいモノになってしまうのである。どちらも正しいとなれば…やはり数の多さも、選択の大きな要因になってしまうということ。そこの所を間違わないで、受け取ってほしい。

 しかし、そこの所を悪用する人間もいる。それが『 皆が言っています 』という発言をする人間である。『 皆が言っているのなら仕方がないな 』『 皆が言っているのに受け入れないのは、何か疚しい気がする 』という具合に持っていこうとしているのである。実際、持っていかれてしまう人間が多いのも事実である。数に物言わせて思い通りにする…何とも姑息なやり方だとは思うのだが、やっている本人はそんなこと微塵も思ってはいない。『 しめしめ、上手く事が運んだ 』ぐらいにしか思っていないだろう。

 でも…『 皆言っている 』の〝皆〟は多くても三人…。確かに、『 皆言っています 』といっているが、皆に聞いてみると…決してそうではない場合が多いのも事実である。つまり『 皆が思っている訳ではない 』ということ。以前、あった話。やはり『 皆が言っています 』と血気盛んにやってきた学生さんがいたのだが…じゃあ、その皆を連れて来いと言ったところ、見事に連れてきたのは3人だった。その学生さんが言い放った『 〇人中3人ですよ!確率的には多くないですか! 』という言葉には、思わず笑ってしまった。人海戦術がうまくいかないとなると、今度は確率かい…。こうまでいくと、皆もへったくれもない。ただ、ただ『 自分の思い通りにしろ! 』である。あまり言いたくないのだが…薬学を卒業してきているという事は、それ相応にいい歳である。それが、この有様とは、何とも悲しいというか、情けない話ではないだろうか?

 確かに『 皆が言っています 』という言葉を、使わなければならない場合もある。だから、この言葉自信を否定する気は毛頭ない。しかし、そう易々と使う言葉ではないことも事実である。ましてや、自分の思惑通りに事を運ぶがために、この言葉を乱用するなど、もっての他である。どのような道具にも、使い方というものがある。それを間違うと、とんでもないことになってしまうことも然りである。『 皆が言っています 』といった言葉も、やはり、それ相応の使い方というものがある。道具も言葉も、慎重に用いなければならないのである。

 そして…『 皆が… 』といった言葉に翻弄されてしまわないことも、重要なことである。姑息な人間に限って、『 皆が… 』『 あの人が… 』と他人を介在させ、あたかも自分の意見が大衆的であるかのように誇示する。ひどい場合には、『 私はそうではないけれど、あの人が… 』『 私は違うけど、皆が… 』とあくまでも自分は無関係を装いつつも、〝あの人〟といった架空の第三者や〝皆〟と言った架空の大衆に、自分の思惑を被せて、ぶつけてきたりするから厄介である。誰しも、他人が言っている、皆が言っているとなると、気にしてしまうのは致し方ないこと。しかし、ここで揺らいでしまえば、それこそ相手の思うつぼである。ここは『 「 皆言っている 」の〝皆〟は多くても三人 』という言葉を思い出し、どっしりと構えてももらいたいと思っている。オレオレ詐欺にひっかからないことが、オレオレ詐欺撲滅に一番効果があるように、『 皆が言っている 』で持っていこうとする輩には、それで揺らがないことが一番の対処法なのである。『 皆言っている 』の〝皆〟は多くても三人。三人程度なら、さして気にする必要はない。何故なら…あなたと同じ考え・意見だって、探せば三人位はいるはずである。相手は数を盾に攻撃してきているが、何のことはない。数的にはさして差はないのであるからして、気にする必要もないのである。

 

 

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