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ベストヒット オブ 昆布茶

2019/06/17

 昆布茶が好きである。もちろん、梅昆布茶も好きである。好きであるからして、飲む機会が多い。だから机の中には、常に昆布茶or梅昆布茶(少々長いので、これ以降は昆布茶で統一させていただくことにする)が入っている状況にある。いつでも飲みたい時に飲める状況。

 そんな昆布茶好きな私ではあるが、実は昆布茶を飲む時に少々困ってしまうことがある。私が常日頃飲んでいる昆布茶は〝粉末タイプの昆布茶〟である。ここで『 昆布茶って、全部粉末じゃないの? 』と思った方。昆布茶は、粉末タイプだけではない。私が昆布茶好きということで、以前、とある先生から昆布茶をいただいたことがあるのだが…。その昆布茶は、完全乾燥していないソフトな感じの昆布に、梅肉の粉末が塗された(まぶされた)タイプのものであった。そう、昆布から直接出汁(だし)が出る昆布茶である。『 出汁が出る 』のに〝(昆布)茶〟とは、これ如何に?とは思ったのだが…まあ昆布茶というものは、元来、茶ではないのだからして、この表現もあながち間違いではないだろう。ということで、なんとも贅沢な昆布茶であったのだが、これなどは粉末では無いタイプの昆布茶であるからして、『 昆布茶=粉末タイプ 』ではないことがお分かりいただけたことと思う。

 閑話休題。で、高級タイプの昆布茶を嗜む(たしなむ)こともあるが、常時愛用しているのは粉末タイプの昆布茶。そして、この粉末タイプの昆布茶が悩みの種。正確に言うのならば、『 粉末タイプの昆布茶の作り方 』が悩みの種なのである。ここで『 粉末の昆布茶なんて、作り方と言っても、お湯を注ぐだけだろ?何が悩みなの? 』と思われた方もいらっしゃると思うが、この『 お湯を注ぐ 』のが、大いに悩みの種なのだ。

 昆布茶を作ったことがある人ならお分かりいただけると思うが、往々にして缶入りの昆布茶にはプラスチック製の小さなスプーンがついていたりする。で、〝お召し上がり方〟すなわち〝作り方〟に目をやると…『 取り付けのスプーンに一杯(2g)を、お湯呑に入れていれ、熱湯を注ぎますと美味しい昆布茶が出来あがります 』などと書いてあったりする。そこで、付属のスプーン一杯をマグカップに入れ、お湯を…。んっ?お湯はどれくらい入れればいいんだ?

 湯呑の場合は、まあ飲むことを考えて八分目くらいを目安とすればいいのだろうか?しかし、こちらはマグカップ。湯呑の八分目とマグカップの八分目は、当然、天と地ほどの差がある(大げさかもしれないが、まあ差があることは言わずもがな)。当然、マグカップには違う分量のお湯を入れなければならないが、どれ位入れればいいんだ?大体、正当派(?)たる湯呑にだって、どれくらいお湯を入れればいいのか、ハッキリとは分からない。飲み方等に示唆されていないのだから、それも仕方がない。前述の〝八分目〟というのは、あくまでもこちらの憶測であって、ハッキリとした指示があった訳ではないのだ。ではマグカップの場合も、湯呑と同じ位お湯を入れればいいのだろうか?ここで聞きたいのだが、〝湯呑と同じ位の水量マグカップ編〟とは、どれ位の水量(正確には、お湯量か?)なのだろう?まさか、昆布茶を作る用の湯呑を一個用意して、それに一旦お湯を入れてから、マグカップにそれを注げというのだろうか?昆布茶一杯飲むのに、そんなに手間暇かけなければならないものなのだろうか?昆布茶の種類によっては『 ティースプーン半分を茶碗(湯呑のことだろう)に入れ、熱湯を100mL注いでください 』と書いてあるのもあるが…ティースプーンの他に100mL計るためのモノも必要…やはり手間暇かかってしまうことに変わりはない。

 それに…こちらもマグカップを使う以上、それ相応の量の昆布茶を飲みたいと思っているのだ。湯呑いっぱいの容量では少々心許ない。マグカップ並々とはいかなくとも、マグカップ八分目位は所望したいところ。となれば、初めに入れる〝昆布茶の粉末〟の量も必然的に多くならなければならない。どれ位入れればいいのだろう?まあ、〔湯呑分×2〕の量の粉末を入れて、湯呑で2回お湯を注げばいいのかもしれないが…まあマグカップにもよると思うが、普通のマグカップには容量的に湯呑2配分は入らないのではないだろうか?第一、前述したように昆布茶一杯飲むのに、そんなに手間暇かけなければいけないものだろうか?ホッとしたいがために昆布茶を飲むのに、それを作るのに余計な負担を強いられてしまう…これじゃあ、ホッと出来ないのは言わずもがな。

 そこで考えるのが『 まあ湯呑いっぱいでスプーン一杯だから、マグカップだとこれ位だろうな 』といった、目分量での計測ということになる。これが薬なら多いに問題あるところだが、相手は昆布茶。要領的に目分量で測ったところで、さしたる障害はないはず。入れる粉末量が『 まあ、こんなもんだろうな 』というのだから、当然、注ぐお湯の量とて『 まあ、こんなもんだろうな 』となってしまうのは致し方ないこと。ということは…入れる粉末量も『 まあ、こんなもんだろうな 』、注ぐお湯の量も『 まあ、こんなもんだろうな 』…。つまり、昆布茶は全て目分量というか、勘というか、早い話し『 己が感覚で作る 』ということになる。これといったレシピ(まあレシピと言っても、昆布茶粉末とお湯の2種類しかないが)が無い以上、勘に頼るのは致し方ないこと。

 前述したように、コレが薬となると大問題なのだが、相手は嗜好品として飲む昆布茶。ましてや、飲むのは自分である。目分量や、己の勘で作ったところで、さして支障はない…よう思えるのだが、コレがそうでもないから困ったモノなのである。勘で作る。この勘が、常に当たってくれるなら問題はない。しかし、往々にしてハズレる場合が多い。ましてや、レシピである『 粉末の量 』『 注ぐお湯の量 』と二つの要因が勘で動かされることになる。数字上だけで計算すれば、ヒット率は1/4かもしれないが、そんな簡単なモノではない。多い・少ないといったものは相対的なものであるからして、『 無限に多い 』もあるし『 無限に少ない 』もあるのだ。無限×無限のレシピ…。まあ実際は、無限とまではいかず、レシピとしてのそれ相応の限度はあるのだが、ヒット率はかなり低いと考えられるだろう。かと言って、今書いたように、それ相応の限度はあるのだから『 全く飲み物として機能していない 』という状況になることもない。こちらとて、美味しいものを飲もうと思って作っているのだ。飲めもしないほどの〝ハズレ〟を作ることもないことは確かである。

 だからこそ、悔しさがこみ上げる状況が作られてしまうことになる。『 ん~チョット薄いかなぁ… 』『 もう少々薄くした方がいいんじゃないかな 』なんていう具合に、微妙に薄い、微妙に濃いといった事態に陥る場合が多いのだ。ガマンしようか?それとも、ベストな濃度に持っていこうか?ここが悩みどころなのだが…やはり、こちらも嗜好品というか、好きな飲み物として昆布茶を所望する訳であるから、やはり飲むのなら最高の状況で飲みたい。そこで、濃度調節となるのだが…この『 粉末の二度入れ 』『 お湯の二度入れ 』が、またまた外してしまう場合が多い。二度入れのヒット率は限りなく低いのだ。一か八かで試しては見るのだが…一回目よりも、さらに濃度ヒットポイントを外してしまう場合が多いのである。そして『 さっきので良かったなぁ… 』と後悔することになる。後悔の念に駆られるというのはこういう事なのかと、味が今一つの昆布茶をすすることになるのである。

 逆に、一発でベストにヒットした時は嬉しさも一入。至高の味加減。そして好物の昆布茶。それを思う存分堪能できるのだから、たまらない。まさに至福のひと時である。毎回毎回この味加減が出せれば、毎回至福の時を味わえるとも思えるのだが、逆に毎回味わえるとなれば、この至福の時も少々安っぽいモノになってしまうような気がしないでもない。なかなかできない、粉末とお湯の微妙なさじ加減。だからこそ、ベストヒットした時は嬉しさも一入なのではないだろうか?そう考えれば、『 ん~チョット薄いかなぁ… 』『 もう少々薄くした方がいいんじゃないかな 』なんていう具合にできあがった昆布茶も、案外悪いものではないような気がする。そういう昆布茶があるからこそ『 よし次は… 』なんていう意気込みとレシピの創造が生まれる訳であり、それはそれで楽しみに一つとなるからである。そして…それが功を成して、最高のさじ加減で昆布茶が入れられた時…まさに至福の時を味わうことが出来るのだ。飲んでおいしい、作って楽し。やはり、昆布茶はいいものである。まあ、少なくとも私にとってはの話ではあるが…。

 

 

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2019年6月17日 | コメントは受け付けていません。 |

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考える前に、『 分からない 』というのは止めてください:後編。

2019/06/09

 先週のブログの続き。

 前回のブログでは、質問すると即座に『 分かりません 』という学生さんが多いということ。そして、それは、考えることをしない人が増えていることが原因であるようだ、と書かせていただいた。

 前編で書かせていただいたように、昨今の学生さん達は『 考えることが嫌い 』『 考えるのが面倒くさい 』といった人が多いようである。考えるのが嫌いだから、考えることをしない。しかし、『 考えるのが嫌いだから、考えない 』では、試験対策は成り立たない。試験対策どころか、試験合格という目標達成においても、大いに支障をきたすことになる。果たして、昨今の学生さん達は〝考える〟という行為を、どれほどの事と思っているのだろう?社会の中で生きていくにはもちろんのこと、こと試験対策においては非常に重要…というか試験対策の本質ともいえる行為である。それを『 面倒くさい 』だの『 嫌い 』というのは、これ如何に?

 逆に聞きたいのだが…考えるという行為抜きに、試験対策を行えると思っているのだろうか?同じく、考えるという行為抜きに、国家試験受験を乗り切ることが出来ると思っているのだろうか?おそらく…思っているのだろう。前編でも少々書かせていただいたが、昨今の学生さんは『 勉強=覚えること 』『 試験対策=覚えること 』そして『 試験を解く=覚えたことを、そのまま当てはめること 』と捉えている人が圧倒的に多い。確かに、覚えなければならないこともある。そして、それを『 知っているか?知らないか? 』で、そのまま問われることもある。しかし、あくまでも『 こともある 』であって、それが全てではない。覚えた内容から、考えて答えを導き出す。覚えた内容を使いこなして、答えを導き出す。これが試験というモノである。

 強いて言うのならば、掛け算のテストのようなものであろう。2×2や8×7は、九九で覚えている。確かにこれは覚えておかなければ、計算問題などで得きるはずもない。そして、この覚えた九九を使いこなすことによって、148×4や26×18などといった計算が出来るのである。掛け算のテストでは、2×2や8×7が直接問われることもあるだろう。しかし、148×4や26×18といった九九を駆使した計算が問われることの方が圧倒的に多いはずである。

 『 勉強=覚えること 』と思っている人は…『 148×4…こんなの見たこと無いし、知らない。だから、出来ない 』なんていう具合に結論を出していることになる。実際、このようなタイプの学生さんは少なくない。知らないから解けない…。そこで解法を放棄して、安易にカンで解くという流れになるパターンが多いのも事実である。問題を解くという事は、『 知らない、見たことがない。では、そこからどうするか? 』が始まりである。前述のように『 知っているから 』で解ける問題もなくはない。しかし、やはり〝知らない、見たことがない問題〟の方が多いのは事実である。まあ当たり前と言えば当たり前であろう。試験の内容どれもが、知っている、見たことがあるでは、それこそ大問題である。試験を作成する方とて、『 全部が知っている、見たことがある内容だと試験にならない 』なんていうことは百も承知。そもそも、試験というものは『 与えられた知識が、自分のモノとなっていますか?自分のモノとなっているのなら、それ相応に使いこなせるはずですよね?では、その〝使いこなせる力〟がどれほどあるのか、見せていただきましょう 』といったとを観点に、作成されているものである。〝使いこなせる力〟…先に進めなくなった時、どうやったら、先に進むことが出来るだろうか?と考え、持っているものや状況から判断して、先に進むことをどう導いていくか…。そう、先に進むために考えるのである。考えなければ先には進めない。考えなければ…試験は永遠にできないという事になる。

 講義中に時間を与え、問題をやらせることが多々あるが…問題を解かない学生さんがいたりする。皆、悪戦苦闘している中、やけに平静というか、しれっと何もしていないのだが…。時間が来て、こちらが解答解説を始めると…黒板に書いた内容を必死に書き込んでいる。以前の学生さんでは、考えられない行動なのだが…。これなんかも、考えるのがイヤから派生した行動であろう。自ら必死に解くのではなく、講師の解答・解説を書いて覚える。まあ、本人としては『 四苦八苦しなくとも、解法は与えてもらえる。だったら、正しい解法と正答を書いて、納得して覚えればいい。わざわざ自分で考えたり悩んだりするよりも、効率がいい。自分でやって間違えるのもイヤだし… 』といった趣旨なのだろうが…。

 『 効率がいい 』と書かせていただいたが…自分でやらずに、講師が書いた解答・解説を書き写し、それを見て覚えるやり方が、本当に効率のいいやり方なのだろうか?答は否である。それは、ある意味最も効率の悪いやり方であり、さらに辛辣に言わせていただくなら、試験対策としては全く持って意味を成さない行為と言えよう。

 自ら考え、手を動かすからこそ、知識は自分のものとなる。そしてそれは、〝考えるという行為〟の練習でもある。初めはできなくとも、何度もやっているうちにできるようになる。これは、全てにおいて当てはまることである。『 考えられない 』『 考えるのが苦手 』という人も、何度も考えているうちに、『 考え方が上手になる 』のである。自分で考えずに、人に考えてもらっていれば、考える力など付くはずもなければ、上手くなることもない。何事も習得するためには、それ相応の〝自らの手間暇〟が必要なのである。

 学生さんからの多い相談に『 覚えたのに、忘れてしまうんです 』といった内容がある。忘れてしまうのは誰にもあること。では、覚えたことを忘れないためには、どうすればいいのか?私も学習指導で、よく指導する内容である。『 如何に忘れないか? 』の方法は、いくつかある。『 それを教えてください 』という方も少なくはないだろう。しかし、その前に…『 あなたは質問や問題に対し、考えていますか? 』と言いたい。『 考えることを放棄して、即座に「分かりません」と答えてはいませんか? 』と…。もし、そうだとするなら、確かに覚えたこともすぐに忘れてしまうだろう。知識というのは、頭に入れただけでは自分のモノにはならないからである。それを使いこなしてこそ、自分の一部になるのだ。自分の一部になる。これこそが、〝身に付いている〟と言える状況である。身に付いているからこそ、自分の一部だからこそチョットやそっとじゃ忘れない。そう、考えるという行為には、知識を定着させるという素晴らしい効果もあるのだ。考えるからこそ忘れない。忘れないためにも考える。考えるという行為は、単に答を得るためだけの行為ではないのだ。入れた知識をしっかりと定着させる。これも考えるという行為が生み出す、効能の一つなのである。そういった観点からしても、考えるという行為が、如何に受験生にとっては欠くことが出来ない行為であるか?お分かりいただけることと思う。

 考えるという行為が、如何に受験生にとって欠くことが出来ない行為なのか。それが分かっていれば、『 考えることが嫌い 』『 考えるのが面倒くさい 』等とは、口が裂けても言えないはずである。そして…考える前に、『 分からない 』と言うことも、決してできないはずである。分からないことは悪いことではない。もちろん『 分からない 』と口にする事も決して悪いことではない。しかし、『 分からない 』という言葉がどういう状況で、口から発せられたのか?それによって、『 分からない 』という言葉は、千差万別の意味を持つことになる。受験生にとっては欠くことが出来ない〝考える〟という行為を放棄して出てきた言葉なのか?考えに考え抜いた結果、発せられた言葉なのか?『 分からない 』という言葉を口にするとき、次の国家試験の合格を目標にしているのなら、後者の方の『 分からない 』という言葉を発してもらいたい。そう、思っている次第である。

 

 

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2019年6月9日 | コメントは受け付けていません。 |

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考える前に、『 分からない 』というのは止めてください:前編。

2019/06/03

 昨今、気になるのは…質問すると、即座に『 分かりません 』という学生さんが多いということ。

 まあ、答えてくれるだけ、まだ良いほうかもしれない。我々講師陣が一番困ってしまうのが…質問に来た時、あれやこれや教えていいて『 分かる? 』と聞いた時、黙ってしまう学生さん。何が分からないのか、どこまで分かっているのか、今どういう状態なのか…とにかく口を開いて伝えてくれないことには、どうにもならない。質問に来ている学生さんが黙ってしまうと…質問を受けているこちら側としても黙ってしまうしか他ない。という訳で、質問する側、される側の沈黙が続くこととなってしまう。『 埒が明かない 』とは、まさにこのこと。以前は『 ココが分からないです 』とか『 何でこうなるんですか? 』とか『 えっ、こうじゃないんですか 』等、何らかの発言をしてくれる学生さんが多かった。だからこそ、こちら側としても『 そこはね… 』とか『 こういう訳で、こうなるから… 』とか『 イヤイヤ、こうだから、そうはならないよ 』等の返答が出来たわけで、延いて(ひいて)は、それが解法へと向かう呼び水となった訳である。黙ってしまわれるのが、質問される側としては、一番困ってしまう事態なのだ。

 答えてくれるだけまだいい…と書かせていただいたが、それでもやはり考えもしないで、即答…正確には『 答えている 』と言える行動ではないよう思えるのだが…。頭の中をスルーして、即座に『 分かりません 』と答えてしまうのも、やはり困ってしまう事態であることは間違いない。

 即座に『 分かりません 』と言われると、『 考えることを拒否しているのでは? 』と思ってしまう。まあ、そんなことはないと思うのだが、そう受け取られても仕方がないと言わざるを得ない。実際の話、昨今の学生さん達は『 考えることが嫌い 』という傾向がある。『 考えるのが面倒くさい 』といった人も少なくはない。しかし、試験対策を行っているという観点からすると、これはかなり厄介なことである。何故なら、試験というのは考えて解くものだからである。このことを話すと『 えっ、そうなんですか 』なんていった内容の返答をする学生さんもいて、如何にその重症度が深刻なものであるのかを痛感することになる。

 昨今の学生さんは『 知っていること、覚えていることを、そのまま解答として出す 』ということが、『 試験を解く 』と思っているようであるが…。確かに『 (問題を)解く 』という行為の中には、それも含まれよう。しかし、それだけではないことも確かである。イヤ、むしろそちらの方、すなわち〝知っていること、覚えていることを、そのまま解答として出す解法〟の方が、試験というものの解法におけるウエイトが小さいのは事実である。『 知っている知識が問われること 』も試験であれば、『 (知っていることを材料に)考えて答えを導き出すこと 』も試験なのである。そして後者の方がウエイトが大きいのが事実なのだ。特に、昨今の薬剤師国家試験においては…。

 『 分かりません 』の即答に関して、実はもう一つ気になることがある。『 分からない 』という前に、『 分かろうとしたのか? 』ということ。問題を読んで、答えがすぐに浮かばないと…即座に『 分かりません 』という言葉を発しているような気がする。まあ、考えるのが嫌いなのだから…

分からない → 考えるのが嫌い → だから考えない → 当然答えは出ない →『 分からない 』と即答

という流れなのかもしれない。TVのクイズ番組や、日常生活でのちょっとした質問に対する返答ならば、まあこの流れでもいいのかもしれない。しかし、これが薬剤師国家試験に関わる内容だとしたら一大事である。仮にも薬剤師国家試験の受験生たる学生さんが、試験に関する内容において、上記のような流れで対応するとなると、試験対策に著しく支障をきたすこととなるのは間違いない。薬剤師国家試験どころか、おそらくすべての試験対策において支障をきたすことになるだろう。言うまでもなく、試験対策というのは考えることから始まるのだから…。

 考えるのが嫌い。そういう学生さんは少なくないと書かせていただいたが…。少々厳しい意見となってしまうのだが、もし本当に考えることが嫌いというのならば、試験対策には向いていないと言うしか他ない。もっと辛辣に言わせていただくならば、試験対策どころか、どんな仕事をすることにも向いていないだろうし、社会で生きていくことにも向いていないと言っても、決して過言ではないと思う。『 社会で生きていくことにも向いていないって…そこまで言えるんですかね? 』という人がいるやも知れないが…。最近、話題となっている、従業員等が、職場での悪ふざけを撮影しネット等に公開している愚行。アレなんかも、考えないことが発端となっていると言える。『 やっていいことなのかどうか? 』『 誰かに迷惑が掛かってしまわないだろうか? 』『 それを公開すればどうなるだろうか? 』等を普通に考えれば、あのような行動は絶対に行わないはずである。

 少々、ブログの内容が横道にそれてしまった感が無いでもないが…いつもの悪い癖で、また文章が長くなってきてしまったようである。今回のブログは取り急ぎここまでとして、次週〝考える前に、『 分からない 』というのは止めてください:後編〟にて、この続きを掲載させていただきたい所存である。乞うご期待をば!

 

 

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2019年6月3日 | コメントは受け付けていません。 |

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