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無きものに翻弄される。 ~ 石は石でしかない ~

 石があるとする。両手で抱えあげて持つくらいの大きさの石である。その石をどう思うか?

 『 こんな石で人の頭を殴ったら、人は死んでしまうだろう。凶器そのものだ 』と思うのか?『 漬物石にちょうどいい大きさだ。便利な石だ 』と思うのか?中には『 何という芸術的な形と色合いだろう。芸術品だ 』と思う人もいるかもしれない。

 しかし…如何に思われようとも石は石である。石自身はどう思われても、石のままであり何ともない。凶器と思われようが、便利と思われようが、芸術品と思われようが、石は石であり、そのままである。石自身にとっては、凶器でもなければ、便利でもなければ、芸術品でもない。人の思考が、勝手に凶器だの、便利だの、芸術品だのといったものを作りだしているだけであり、本来、凶器だの、便利だの、芸術品などといったものは、どこにも存在していない。石は石でしかない。

 『 以前、この石で人が殺されたことがあるかもしれない。つまり、この石は人を殺した、呪われた石なのだ 』と怯える人がいるかもしれない。何という恐怖の石。縁起でもない。

 『 この石で美味しい漬物が作れるかもしれない。イヤ、作れるはずだ。よし持って帰って漬物を作ろう。美味しい漬物が食べられるぞ 』と喜ぶ人がいるかもしれない。何という便利な石。こんな石を見つけることができてラッキーだ。

 『 それにしても、いい石だ!色といい形といい、自然が作り出した芸術品。持って帰って飾ろう 』と感激する人もいるかもしれない。素晴らしい芸術作品。こんな芸術作品を手に入れることができたなんて、儲けものだ。

 どう捉えるかは、本人の自由。しかし、どう考えたところで石は石である。石は、どう思われようと石に変わりない。

 『 以前、この石で人が殺されたことがあるかもしれない。つまり、この石は人を殺した、呪われた石なのだ 』と思った人は…この石が恐くてたまらない。こんな石を見てしまったのだから、不幸が訪れるだろう。イヤ、呪われてしまったのかもしれない。石には関わらないようにしよう、見ない聞かない、傍にもよらない。思い出す度に恐怖にさいなまれる…。

 『 この石で美味しい漬物が作れるかもしれない。イヤ、作れるはずだ。よし持って帰って漬物を作ろう。美味しい漬物が食べられるぞ 』と思った人は…どんな漬物を作ろうか?この際だから、今までとはチョット違う漬物を作ってみるのも面白いかも。色々調べてみるのも悪くない。そうだ、それ相応の道具も必要だ。考える度にワクワク楽しくなってくる。

 『 それにしても、いい石だ!色といい形といい、自然が作り出した芸術品。持って帰って飾ろう 』と思った人は…この石はどこに置こうか?リビングに置くのも悪くないが、落ち着いてじっくり見られる場所に置いた方がいいのかもしれない。それにしても、自然というのは素晴らしい。こんな芸術品を作り上げるなんて。自然の崇高さに、ただただ感激である。

 石は石でしかない。なのに、この三者三様はいかなるものだろう?ある人は石に怯え、ある人はワクワク楽しくなり、またある人は感激している。

 どう思っても石は石でしかない。どう思われても石は石でしかない。つまり、凶器でもなければ、漬物石でもなければ、芸術品でもない。石は凶器や漬物石、芸術品として存在している訳ではないのだ。ただ石として存在している。その石に、凶器や漬物石、芸術品といった想いを被せているのは、それを捉えた人である。すなわち、凶器も漬物石も芸術品も実際に存在している訳ではない。存在しているのは、ただの1つの石だけである。

 人は、こうやって無きものに翻弄される。石は石でしかない。その上に、自ら幻影を被せる。そして、その幻影に翻弄される。恐怖に翻弄される人もいれば、ワクワク楽しくなる人もいるし、芸術性に心酔している人もいる。ただの石一つを見て…。石は石でしかない。なのに、三者三様…。そう、人は石そのものに対して、おびえている訳でもなければ、楽しくなっている訳でもないし、心酔している訳でもない。石に被せた己の幻影に反応しているだけである。幻影…そう、初めから恐怖も楽しさも芸術性も、存在していないのである。

 存在していないものを自ら勝手に作り出しては、三者三様のふるまいである。ある意味、愚かと言えば愚かなことなのかもしれない。無いものを勝手に作り出しては、それに翻弄されているのだから。しかし、実際はこんなものではないだろうか?

 人は色々な不安に翻弄される。その根源には恐怖がある。しかし、〝不安の根源にある恐怖〟は…実際のものだろうか?前述の『 こんな石で人の頭を殴ったら…呪われた石だ 』という類の恐怖と、さほど変わらない幻影なのではないだろうか?そして、翻弄されている不安の正体も『 こんな石を見てしまったのだから、不幸が訪れるだろう。イヤ、呪われてしまったのかもしれない 』といった類の不安と、同じようなものではないだろうか?その結果…そんな幻影に翻弄されるがあまり、『 石には関わらないようにしよう、見ない聞かない、傍にもよらない 』といった具合に、行動さえも制限されてしまっているのではないだろうか?しまいには、思い出す度に恐怖にさいなまれ、日々、疲れきって生活してしまう…。こんな具合になっているのではないだろうか?

 先ほど、『 ある意味、愚かと言えば愚かなことかもしれない。無いものを勝手に作り出しては、それに翻弄されているのだから 』と書かせていただいたが…愚かとは言えない部分もある。美味しい漬物をと、歓喜に包まれる場合もあるし、芸術性に心酔することもできる。こちらの方は、思い出す度に良い気分になるし、日々楽しく生活できる。同じ、ただの石を見てである。『 呪われた石だ 』と思えば、恐怖にさいなまれた日々を送ることになる。『 便利な石だ 』と思うと、ワクワク楽しい日々を送ることになる。『 芸術品だ 』と思えば、芸術に心酔する日々を送ることになる。どう思おうと、石はただの石。だったら、ワクワク楽しい日々を送ったり、芸術に心酔する日々を送った方がいいのではないだろうか?どうせ幻影を見るのなら、ワクワク楽しくなる幻影や、芸術に心酔するような幻影の方がいいではないか?石は石でしかない。幻影は自ら作るもの。石自身には何の責任もない。怯えるのも、楽しくなるのも、心酔するのも石の責任ではないのだ。自ら作り出した幻影の責任…イヤ、自らの責任なのだ。そして、自らが選べる、自らが作りだせるものなのだ。

 自分の身に起きる、あらゆる事象にも同じことが言える。石は石でしかないのと同じように、事象には怯える理由も、楽しくなる理由も、心酔する理由もないのだ。人は、その事象に対する怯える幻影、楽しくなる幻影、心酔する幻影を自ら作り出しては、それに反応しているだけである。どうせ作り出せるのなら、ワクワク楽しかったり、芸術に心酔したりする幻影の方が、いいではないか?楽しくなれるか、恐怖に怯えるかは石の責任ではないように、その事象の責任ではない。石は石でしかないのと同じである。そして…石の場合と同様に、自らが好きな幻影を被せることができるのだ。どんな幻影を被せ、そして、それをどう捉えるかは、その人次第なのではないだろうか?。

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2018年11月8日 | コメントは受け付けていません。 |

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不安を感染させるな!

 私はいくつかの教科を教えていますが、感染症も私の教えている教科の一つ。ちなみに皆さん、感染とは何か説明できますか?感染とは…

微生物が宿主の体内に入り、定着して、増殖すること。

となります。よく話すのが『 微生物が体内に入ってきた=感染 ではないよ 』ということ。まあ、365日、24時間、微生物は体内に入って来ている訳ですから、そこを考えても分かるはず。さらに『 感染=発病 ではありませんよ 』というのも、必ず伝える話。人間には免疫というシステムがある訳ですから、そう易々余所モノを自分の体内に定着させて、住み付かせるなどということは起こり得ない訳です。

 私が教えているのは薬剤師国家試験の内容。よって、前記〝感染〟は、医療で言うところの感染。もちろん巷には、医療とは関係ない感染という言葉もあふれています。そう、微生物以外にも感染するものは沢山あるのです。

 以前〝何故、人を不安にさせるの?その1〟というタイトルのブログの中で、次のような内容を書かせていただきました。少々長いので、割愛させていただきますが…。

 『 何故、人を不安にさせるようなことを言うのか?不安にさせるようなことをするのか? 』と、私の恩師に聞いてみると『 自分も不安でしょうがない。でも、自分よりもおびえている人間がいると「 自分よりも不安になっている人間がいるんだ 」と、自分より下の人間がいることで安心してしまうんだよ 』という返答。私が『 でも、そんなことしても何にもならないじゃないですか?第一、それで自分の不安が消えるわけではないんだし 』と言うと『 自分よりもおびえている人間を見れば「 自分はあそこまでではない、まだまだ自分よりも下がいる、自分はましなんだ 」という位置を取れる。自分より下がいることで、自分は下じゃないからと、優越感を感じることができ、安心できるんだよ 』とのこと。

 当時の私としては分かったような、分からないような感じでしたが…講師という仕事に就いてからは、恩師の言葉が分かるようになった気がします。

 そして、私なりにもう一つ『 何故、人を不安にさせるようなことを言うのか?不安にさせるようなことをするのか? 』ということに対して、分かったことがあります。それは…相手も不安にさせることにより、不安を共有して、自らの不安を軽減しようとしているということ。もちろん、軽減など出来るはずもありませんが…。

 自分一人が不安になっているのが怖い。だから、自分と同じように不安を持つ人間を作ろうとする。そして、不安を共有し合うことによって、自らの不安を軽減しようという魂胆。『 やっぱり皆が不安なんだ。私は正しいのだ 』と考えれば、一時は不安が和らぐのでしょう。賢明なる読者の方は、お気づきのことと思いますが…人を不安にさせたところで、自らの不安は軽減されません。前述のように、一時は不安は和らぐかもしれませんが、あくまでも一時の話。一時過ぎたら…また不安はぶり返します、確実に…。しかし…その一時を求めるがあまり、次から次へと自らの不安を基に、相手を不安にしていく…そう、不安も感染するのです。そして、そうやって不安の感染者は増えていくことになるのです。

 試験対策で不安でない方はいません。どんなに成績が優秀であろうとも、皆、小さな不安の火種は抱えているものです。そんな人に…自分の不安をぶちまける『 大丈夫なのかな? 』『 成績上がるのかな? 』『 間に合うのかな? 』といった不安を吹き込むと…。聞いていた方は、『 確かに… 』と、自らの小さき不安の火種を、大きな業火としてしまうことになる。これが、不安の感染。

 重症になると、〝不安〟は〝不平〟へと進化します。不平は感染力が絶大ですから厄介です。今置かれている状況が不安なあまり『 こんなことやっていても 』『 題数が少ないから 』『 この講義は… 』と不安を進化させた〝不平〟を相手に感染させると…感染力が強力なだけに、あっという間に相手を不安にさせることができるようになります。不安を感染させられた人は、とにかく不安から逃げたいがための、一時の〝安楽な試験対策〟に走ってしまう場合が多々ありますが…これが試験対策とは呼べない代物であったりするから、性質が悪いのです。

 長いこと講師をやっていますが…入って来たばかりの学生さんの中には、成績も今一つで、勉強のやり方も分かっていない…なんていう方がたくさんいます。そんな学生さんに対し、基礎から教えて、学習指導をしていく。理解して学力が付いていき、自らの勉強方法をコツコツと積み上げていくようになる。成績も良好となって、勉強も毎日続けてできるようになる。嬉しい限りです。

 ところが…『 おっ、調子出てきたかな…まじめにやっているし 』と、その成果を喜んでいたところに、不安を感染させられてしまう…。その不安のために…今まで積み上げてきたものを放り出して、指導とは全くかけ離れた〝とんでもないこと〟を行い、基礎からの理解など目もくれずに、ただただ暗記だけをこなす、やみくもに量だけをこなすようになる。早い話、試験対策としてはめちゃくちゃな状態に…。指導する立場としては、こんなに腹立たしいというか、理不尽極まることなど、そう他にはありません。折角、懇切丁寧に指導して、成果が出始めたと思ったら…不安を感染させられてしまい、成績が滞る事態に…。苦労して育てて来た農作物が、台風で一夜にして失われてしまったような状態。台風は天災ですが、『 不安を感染させられた 』のは、人災。それもかなりたちの悪い人災です。

 大体、不安なら、自分一人で不安になっていればいいのではないでしょうか?何故、他人を巻き込むのでしょう?答えは前述しましたように、『 自分一人が不安でいることが不安 』だから。何人もが同じように不安なら安心…何とも言い難いパラドックスですが…。前述のように、それで得られるのは安心ではなく、『 一時だけ和らぐ不安 』。でも、一時だけでも和らげたい、人を巻き込んでも…。

 仲間を増やして、不安を言い合ったところで、決して不安化は解消されません。それどころか、徐々に徐々に大きくなってしまう。さらに厄介なのが…一人が話した不安に頷き、頷いた人もまた不安を語り、その不安に頷いた違う人もまた不安に…などと無限ループに陥ってしまうこと。そして不平へと進化すること…。

 不安の感染を防止するにはどうしたらいいのでしょう?不安といえども感染するモノ。考えた場合、疾病の感染とその予防法は変わらないはずです。試験対策の不安は無くすることは出来ません。これは、微生物に接触することを、無くすることができないのと同じことです。そう考えるならば…『 微生物が体内に入ってきた=感染 ではない 』ですから『 不安情報が入ってきた= 感染 ではない』と考えることができます。不安が入ってきても、定着させずに、増殖させない…つまり、不安情報なんか聞き流してしまい、自分の中にある小さな火種の不安を大きくさせなければいいのです。そう、聞き流してしまえばいいのです。自分を不安にさせるような情報は、例え耳に入って来ても、スルーしてしまう。これが感染を防ぐ一番の手立てなのです。微生物と同じように、入ってくることは止められないものの、住み付かせたり、増殖させなければいいのです。『 でも、やっぱり気になってしまう… 』という人は…不安になるような言動をする人に『 ああ、この人は不安なんだな 』と思ってしまえばいいのです。人の不安に付き合う必要はありません。そして『 私はそんな不安、受けとめませんよ。やることが沢山あって忙しいんですから… 』とスルーしてしまえばいいだけの話なのです。

 インフルエンザが流行する季節になってきましたが…インフルエンザの感染と同じように、試験に対する不安の感染も増えてくる時期。インフルエンザの予防も大切ですが、不安の感染予防も怠ってはなりません。インフルエンザウイルスが体内に入って来ても、免疫というシステムで破壊されるように、不安が入って来ても『 私は、そんな不安受けとめませんよ。やることが沢山あって忙しいんですから… 』とスルーしてしまうシステムで、不安を破壊してみてはいかがでしょうか?くれぐれも、感染してはいけませんよ!

 

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2018年11月4日 | コメントは受け付けていません。 |

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