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人間関係を断つことも、試験対策の一環です。

 私が学習指導の時によく言う言葉。

 今まで色々な予備校に在籍していたが…どこの予備校にいても感じていたのが、一人では何もできない学生さんが何気に多いということ。特に昨今は、増えてきているよう思う。すぐに、つるむ、群れる。そういった、つるむ学生さん達が何を話しているかというと…まず100%と言っていいほど、不平・不満。勉強や試験対策の話で盛り上がっているということが、100%無いのが不思議なところ。もちろん、勉強や試験対策の話で盛り上がっている学生さんもいるが…〝つるむ〟というよりは、懇意にしている学生さん同士、まあ2人位で話をしているといった感じ。結構、熱心に試験対策やら勉強のやり方を話し合ったりしているようなのだが…そんな学生さんも、勉強は一人ひとりでやっている場合が多い。

 すぐにLINEを交換するというのも、信じられない話。初対面の、どこの誰かも分からぬ学生さんとすぐにLINEの交換などしている。で…後ほどトラブルになる場合が多い。別にLINEの悪口を言う訳ではないが…LINEというものは、ある意味〝つるむ〟の極みであるからして、内容が不平・不満だらけだったり、勉強や試験対策とは全くかけ離れたものである場合が、ほとんどのようである。勉強しているのに、関係ない話題でやたらLINEが来る。必死に試験対策に励んでいるのに、その試験対策についての不平・不満が度々来て…試験対策のやる気も削がれてしまう。『 もう、本当に大変で… 』なんて相談に来られるのだが…そのような人間とも分からないうちに、LINEの交換などするから、そんな目に合う。不用心というか、危機意識が低いというか…まあ、相談に来る人間も、不用心なLINE交換をしたのだから、ある意味、自業自得と言えなくもない。

 試験対策に一生懸命な学生さんに限って、LINE交換をしていない場合が多い。中には、いつも一緒にいるのに相手のメールアドレスも知らない、という学生さんも決して少なくはない。ある学生さんは『 別にここで話せばいいし…あえてメールやLINEをする必要はない 』と言っていたが、まさにその通りである。第一…遊びに来ている訳ではないし、友達を作りに来ている訳でもなければ、サークルよろしく皆でワーワーやるために来ているのでもない。合格するために勉強をしに来ているのだ。そう考えれば、前述の学生さんのように、あえてメールやLINEをする必要などないというのも、御尤もな話。もちろん、この学生さんの成績がいいのは言うまでもない。

 一生懸命、試験対策に取り組もうとするのに、不平・不満を垂れ流される。合格しようと必死に勉強しているのに、不平・不満をぼやかれる。勉強したいのに、勉強できない環境に誘われる。そんな相談は、本当に多い。しかし、考えてみれば不思議な話である。不平・不満を垂れ流す方も、勉強できない環境に誘う方も、取りあえずは、薬剤師国家試験の受験生。そう、試験対策に励み、日々勉強して合格を目指さなければならないはず。なのに、何故、あえて自分の足を引っ張るような不平・不満を垂れ流したり、勉強できない環境に身を置こうとするのだろうか?以前、『 努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る 』というブログを書かせていただいたが、その中でこういうことを書かせていただいた。

不平・不満ほど身を落とすもの、そして国家試験合格を阻むものはありません。

何故ならば、不平・不満は言えばいうほど、行動力が削がれていくことになるからです。

そう、不平・不満は確実に、試験対策の足を引っ張る。その証拠に…私は薬剤師国家試験の予備校講師としてン十年のキャリアを持つが、不平・不満たらたらで合格していった人など一人も知らない。逆に、合格していった人達は、皆、不平・不満を口にせず、ただただ、やるべき事をひたすら黙々とやっていた。一人で…。コレも何度も書かせていただいたが、不平・不満なんか言っている暇もないのである。それどころではない、受からなければいけないのだから…合格していった人達は、皆、そういう感じであった。

 一人で、黙々とやっていたと書かせていただいたが…不平・不満を口にする人達は、何故、あえて他人にそれを語るのだろう?合格していった人達にも、もしかすると不平や不満はあったかもしれない。しかし、それを口にすることは無かった。不平・不満を口にすることが、試験対策の足を引っ張ることだと分かっていたのかもしれない。もちろん、そんなこと言っている暇もない…というのが、本音なのかもしれないが…。なぜ、不平・不満を口にする人達は、他人にそれを語るのだろう?不平・不満があるのなら、自分一人でそう感じていればいいだけではないのか?

 ここにも、〝つるむ〟の原理が働いているのだろう。不平・不満というのも、ある意味、自分の主張である(まあ主張と言うほどの高尚なモノではないのだが…)。そして、自分で自分の主張をすることができない。一人で何もできない人間が、自分の主張など出来るはずがないことは、言わずもがな。で、同調する人を探す。または、同調させる。そう、不安と同じように不平・不満も感染させることができるから厄介なのだ。同調してくれる人がいれば…一人では何もできない人間にとっては、こんなに都合のいいことは無い。こうやって、不平・不満仲間が、増大していき…そういう仲間で、つるむことになる。

 しかし…中には同調しない人もいる。イヤ、どちらかと言うと同調しない人の方が圧倒的に多い。当たり前である。試験対策に励み、日々勉強して合格を目指さなければならないのだ。そんな不平・不満を聞いている暇もなければ、同調している場合でもない。とにかく受かるために必死なのだ。なのに…同調してもらいたい方は、何としても同調させたい。自分一人では何もできない。自分一人ではイヤなのだ。何としても同調してもらいたいがため…付きまとっては不平・不満。LINEで不平・不満。さらに、勉強出来ない環境へ誘う。これでは、その対象となった人間は、たまったものではない。こちとら、試験対策に励み、日々勉強して合格を目指さなければならないのに…。で、私の所に『 困りました… 』と、相談に来ることになる。

 そんな相談に来た人に、私が言うのが、ブログタイトルの『 人間関係を断つことも、試験対策の一環だよ 』という言葉。一見、厳しい意見のように思われがちだが…よく考えれば当たり前の意見であることが、お分かり頂けると思う。合格するために勉強しにきているのだ。その足を引っ張る人間との交流を絶つことは、ある意味、当たり前の話ではないだろうか?実は、相談にくる人のほとんどが、優しい学生さんである場合が多い。話を聞いてあげなければならない、LINEもスルーしちゃいけない、誘われて断るのも悪い…何ていうふうに思ってしまう人が、圧倒的に多いのだ。しかし…言い方は悪いが、不平・不満同調者を探している人間にとっては、良いカモである。で、そんな優しさが災いして、餌食となってしまう。

 断ればいいのである。LINEはスルーで構わない。メールも返信する必要は無い。不平・不満を持ちかけられたら、それとなく席を外せばいい。勉強に支障があるものは取り除く。これは、試験対策の必須条件である。それで疎遠になってしまったのなら、所詮、それだけの仲でしかなかったということ。〝それだけの仲〟のために、試験対策を棒に振るなど、勿体ないの極みではないだろうか?それで、一人になってしまったのなら…ラッキーなことこの上ない!試験対策というモノは、そもそも一人でやるものなのだ。そこで初めて、試験対策に本腰が入れられるというもの。誰からもやる気を削がれるようなことを言われず、自分一人で好き勝手に、気ままに行動出来るのだ。試験対策にとって、こんな素晴らしいことは無いのではないだろうか?

 『 チョット人間関係に… 』という人。人間関係を断つことも、試験対策の一環であることを、思い出してほしい。どうも、『 人間関係は、大切にしなければならない 』という考え方が巷には溢れているようだが…正直、それを自分のいいように利用している人がいることは、確かである。第一…確かに人間関係は大切にしなければならないものだが、ではどんな人間との関係も大切にしなければいけないのかというと、そうではないことは言わずもがな。試験対策の足を引っ張られているなと感じたのなら、その人間関係は大切にするような人間関係ではないということ。そんな人間関係はとっとと切ってしまって、しっかりと試験対策に打ち込んでもらいたい。そして合格を勝ち得てもらいたい。そう思っている所存である。

 

 

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2018年11月28日 | コメントは受け付けていません。 |

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泥中の蓮:環境に左右されない強い心

泥中の蓮

汚れた環境の中にいても、それに染まらず清く正しく生きるさまのたとえ

(故事ことわざ辞典より)。

 この時期、私が学習指導でよく話すことが、『 流言飛語や人の言うことに惑わされないように 』ということ。流言飛語とは、ご存じのように『 世の中で言いふらされる確証のないうわさ話(大辞林) 』のことで、早い話、デマ。この時期から、本格的に暗躍し始めることになる。薬剤師国家試験で暗躍する流言飛語には ①国家試験自体に関する流言飛語、②試験対策に対する流言飛語 の2種類があるが…どちらも気をつけねばならないことは言わずもがな。

 この時期に入ると、試験対策も佳境に入ってくる。ましてや、模擬試験を受けたばかりという人も少なくは無いと思う。そこはかとない不安感が、滲みだしてくる時期であり、受験生たちは非常に〝揺らぎ易い状況〟となっている。そんな所へ…『 今度の国家試験は○○である 』などという、嘘か真か分からない情報(まあ100%といっていいほど嘘の情報)が耳に入ると…やはり、なびいてしまうのも致し方ない話。

 しかし、なびいてしまうのが〝100%といっていいほど嘘の情報〟であるとしたら、芳しくない話である。まあ、当たり障りのない情報(=さして役に立たない情報)が入ってくることもあるが…『 試験対策の軌道修正をしなければ 』というほどの情報ではないことは、確かである。軌道修正ずべきではない情報のために、軌道修正してしまうことも、やはり試験対策にとっては芳しくない事であることは言わずもがな。

 この時期、よく出てくるのが『 今年の国家試験は難しいor易しい 』といった内容。私はこれを耳にする度に『 だから何? 』と言ってしまう。第一、国家試験の難易度など漏れるはずもない。イヤ、例え漏れたところで、では、それが学生さんにとって、果たして難しいのか、優しいのかといったら…それは、誰も知る由が無い話である。出題委員の先生達が『 易しい問題に… 』としたところで、それが学生さん達にとって、易しいのか、難しいのかは正直未知数な話。誰の主観での〝易しい〟〝難しい〟なのか?そこの所に大いに疑問を感じるのは拭えない。それに…例え〝易しい〟〝難しい〟といったアバウトな情報であっても、国家試験の情報である限り、そう易々と漏れるものではない。

 先ほど〝今年の国家試験は難しいor易しいといった内容を耳にする度に『 だから何? 』と言ってしまう〟と書かせていただいたが…。『 今年の国家試験は難しい 』だったら、どうするのだろう?一生懸命勉強するのだろうか?では、『 今年の国家試験は易しい 』だったら、どうするのだろう?勉強の手を緩めるのだろうか?難しかったら一生懸命勉強するけれど、易しいと分かったら勉強の手を緩める。どこかおかしくは無いだろうか?相対評価とは言えど、225点以上取っていれば、まず合格と考えていい試験である。それでも、やはり1点でも多く取らなければならない。1点でも多く取ること。これが合格の秘訣だからである。なのに、難易度によって試験対策のやり方を変えるなど言語道断。国家試験にしても卒業試験にしても、『 簡単だろう 』『 こんなもんだろう 』とタカをくくっていた人間が、足元をすくわれた例などゴマンと知っている。

 もちろん、『 今年は難しいから… 』と手綱を緩めることが無いよう、注意することは悪いことではないが…あまりに『 難しい 』に捕らわれる過ぎると…不安が先行してしまい、あまり良い状況にならないこともよくある話。やはり、難しいとか、易しいとかに振り回される国家試験対策は、芳しくないものであるといえる。

 もちろん、『 今年の国家試験には○○が出る 』といった巷談(こうだん)も、実しやかに流れてくるのもこの季節。前述のように、国家試験の情報が漏れるなどということは、あり得ないのが現状。なのに、もっともらしく、アレが出る、コレが出るだのが飛び交う状況になっていたりする。まさに流言飛語の極みと言えよう。これも毎回言うのだが…試験対策は博打ではない。『 コレが出そう 』『 アレが怪しい 』といった、当てモノをしている訳でもない。毎回思うのだが…試験対策の本質とは、『 どんな問題が出ても対応出来るだけの学力をつける 』ことではないだろうか?まあ、やるだけのことをやった後、最後にチョット見直してみる時に…位なら分からなくもないが、『 コレが出そう 』『 アレが怪しい 』といった胡散臭い情報を当てにしている試験対策となると…まあ、本来このようなやり方は試験対策とは呼べる代物ではないのだが…。

 何度もブログ等で書かせて頂いたり、学習指導等で話させていただいているのだが…そういった情報に左右されないことが重要である。およそ試験対策において、自分のスタンスを維持するということは、非常に大切な事である。しっかりとした『 試験対策における自分のスタンス 』を持たないと、怪しい情報や、他人の勉強状況、眉唾ものの勉強方法等、そういったものに振り回されることになる。人は人、自分は自分。周りに流されない。周りがどうであれ、自分のスタンスを崩さずに、地に足のついたしっかりとした勉強をしていくことが大切。これは、ある意味試験対策の基本中の基本でもある。

 ブログタイトルの〝泥中の蓮〟。『 汚れた環境の中にいても、それに染まらず清く正しく生きるさまのたとえ 』である。チョット、趣旨がずれるのかもしれないが…『 外部に影響されず、自分なりのスタンス・やり方を通す 』という意味にも取れるのではないだろうか?どんな状況に置かれても、周りに影響されない。これが試験対策においては、とても重要であることは前述してきた通りである。そして…汚れた環境の中にいても、それに染まらず清く正しく生きる蓮が、そんな環境の中でもキレイな花を咲かせるように、外部に影響されず、自分なりのスタンス・やり方を通せば…合格という花を咲かせることができる。〝泥中の蓮〟には、そういった意味もあるのではないか?そう思っている次第なのです。

 

 

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2018年11月23日 | コメントは受け付けていません。 |

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うどん と 試験対策

 最近、うどんにはまっている。ちょっとしたマイブーム。それというのも、我が薬進塾のある浅草橋に、今年7月、某有名チェーン店のうどん屋さんが出来たのが始まり。実は、お店自体は知ってはいたものの、利用したことは一度もなかった。という訳で、これ幸いとばかりに、うどんを食べに行ったところ…美味しい!そして量も申し分ない!値段もリーズナブル。店の中も落ちつく雰囲気で、注文してから出てくる時間も短い。『 いい店が出来たものだ 』と嬉しい限り。で、気が付くと…足しげく通っては美味しいうどんを堪能している…といった次第である。

 毎年、この時期になると、気になることがある。それが塾生さんの食事。まあ、食事といっても我々が見るのは昼食がメイン。昼食だけでは、一概に食生活を判断できないのは事実だが…やはり気になってしまうことは確かである。『 なんで塾生さんの食事が気になるの? 』と思われた方もいらっしゃるかもしれない。何度かブログでも書かせていただいたが、やはり受験生活において、食事というのは非常に重要なモノ。塾生さん達が、しっかりとした受験生活を送るということを考えた場合…やはり、塾生さん達の食事は、気になってしまうものである。

 そんな塾生さん達の食事…まあ、前述のように昼食の話なのだが…。時期も時期なだけに、勉強しながら昼食をとっている塾生さんもチラホラ。ちなみに年が明けると、ほとんどの塾生さん達が昼食をとりながら、勉強している次第。やはり、有効に時間を使いたい。まあ、勉強しながら食べるというのは、お行儀の方はともかくとしても、気持ちは分からないでもない。だから、そこの所を細かくいう気はない。かくいう私も、国家試験受験を控えていた時は、同じように食べながら勉強していたものである。私が気になるのは〝食べているもの〟なのである。

 どうも、この時期あたりから、しっかりとした食事をしなくなる塾生さんが、増えるような気がする。量が極端に少なかったり、インスタント食品が多くなったり、『 お菓子なのか、食事なのかどっちなのか? 』といった食生活になったり…。栄養学的に、そして本来あるべき〝昼食のあり方〟として見た場合、あまり芳しくない状況になっている…そんな感じである。

 コンビニの食事ばかりという塾生さんも少なくはないが…昨今は、コンビニの食事も中々のもの。栄養学的にも、しっかりとしたものが多く、添加物等を配慮したものも多い。塾生さんが、コンビニの食事ばかりというのは、この時期から始まるものではないので、前述の『 この時期あたりから、しっかりとした食事をしなくなる塾生さんが増えるような気がする 』といった記述からは、少々趣旨が外れてしまうことになるが…しかし、この時期からコンビニ食ばかりになってしまう塾生さんが多くなるのも、確かである。どんなに栄養学的に、しっかりとしたものが多くても、添加物等に配慮されたものが多くても、毎日となると…やはり気になってしまう。

 まあ、コンビニの食事は、気になってしまう程度なのだが…〝昼食のありかた〟として見た場合、あまり芳しくないモノだと、さすがに色々考えてしまう。インスタント食品ばかり取っている塾生さんなんかは、まさにその対象であろう。そういう私もインスタント食品は嫌いではない。食することもよくある。しかし、あくまでも〝たまに〟である。毎日のように食べることなど、まずない。そんな、自分にとって〝まずない〟状況を毎日見ていると、やはり『 大丈夫か? 』と思ってしまうのは、致し方ない話ではないだろうか?

 『 こんな小食で大丈夫かの? 』と思ってしまう塾生さんもいるが…そもそも小食かどうかの判断は、こちらである(しかも目視)。こちらが『 大丈夫なのか? 』と思っても、向こうとしては『 これで十分 』といった状況であることも否めない。実際、103回国家試験に合格し、合格体験記を書いてくれたC大学卒のY.Iくんなど、お昼はコンビニのサンドイッチ1個であった。『 大丈夫なのかな? 』と思ってはいたのだが…お父さんが合格のあいさつに来てくれた時、何気にその話をしたところ、『 親戚の者からも、あんなに食べなくて大丈夫なのか?と昔からよく言われていた 』とのこと。まあ、小食かどうかは相対的なものであるからして、こちらでは適正かどうかは判断は付きにくいのだが…やはり、しっかりと昼食をとってもらいたいのは、正直なところである。

 〝しっかりとした昼食〟といった観点で言わせていただくならば…お菓子なのか、食事なのかどっちなのか?といった状況は芳しいものではない。まあ、スナック菓子か、それに類するものとなるのだが…。気を付けて欲しいのは、スナック菓子が悪いと言っている訳ではないということ。スナック菓子も、それ相応に用いれば、それ相応の効力を発揮するモノであるからして、一概に否定できるものではない。〝マンガの神様〟と誰もが認める手塚治虫先生の言葉に『 マンガはおやつです。主食だけでは、子どもたちは心も体もバランスを失ってしまいます 』という名言があるが、まさにこれと同じである。逆を言うならば、主食とおやつは別のモノ…ということ。やはり、栄養学的な観点から考えても、試験対策ではしっかりとした主食は取ってほしいと思う。

 宣伝をするわけではないが…試験対策では、〝うどん〟なんかはお勧めではなかろうか?ご存知のように、うどんは小麦粉で作られており、メインは炭水化物。これまたご存知のように、脳の栄養となるブドウ糖は、炭水化物や糖分を分解してつくられる。栄養が欠乏した脳は、甘いものや、うどんのような炭水化物を欲しがっている状況。うどんは消化に良いため、脳の栄養素となるブドウ糖を、素早く送り込むことができるのである。つまり、消化に良いうどんは、受験生にとってはいい食事であるということ。クロム、モリブデン、セレン、銅、食物繊維、マンガン、パントテン酸、ナイアシン等も含まれており、何気に栄養豊富な食品である。

 まあ、マイブームであるうどんを例に出させては頂いたが…やはり塾生さん達には、しっかりとした食事をとってもらいたいと思う。食事とは栄養を取ることである。体調もさることながら、やはり頭を使う仕事をしているのだから、しっかりとした栄養をとってもらいたい。そして…食は楽しみでもある。日々追われる試験対策の日々の中、ホッと一息つけるのは食事時間位のものではないだろうか?試験対策においては、食を楽しむことも、大切なことだと思う。味を堪能する。美味しいものを食べる。『 今日の昼食は○○だ 』とワクワクしたり、『 ん~コレは美味しい 』と舌鼓を打つ。こういったことも、試験対策にとっては、大切なことだと思っている。切磋琢磨する日々が続く試験生活だからこそ、1日1回はそういった安らぎが必要なのだ。そういった意味からも、やはり、しっかりとした食事をとってもらいたい。そう思っている次第なのである。

 

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2018年11月16日 | コメントは受け付けていません。 |

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無きものに翻弄される。 ~ 石は石でしかない ~

 石があるとする。両手で抱えあげて持つくらいの大きさの石である。その石をどう思うか?

 『 こんな石で人の頭を殴ったら、人は死んでしまうだろう。凶器そのものだ 』と思うのか?『 漬物石にちょうどいい大きさだ。便利な石だ 』と思うのか?中には『 何という芸術的な形と色合いだろう。芸術品だ 』と思う人もいるかもしれない。

 しかし…如何に思われようとも石は石である。石自身はどう思われても、石のままであり何ともない。凶器と思われようが、便利と思われようが、芸術品と思われようが、石は石であり、そのままである。石自身にとっては、凶器でもなければ、便利でもなければ、芸術品でもない。人の思考が、勝手に凶器だの、便利だの、芸術品だのといったものを作りだしているだけであり、本来、凶器だの、便利だの、芸術品などといったものは、どこにも存在していない。石は石でしかない。

 『 以前、この石で人が殺されたことがあるかもしれない。つまり、この石は人を殺した、呪われた石なのだ 』と怯える人がいるかもしれない。何という恐怖の石。縁起でもない。

 『 この石で美味しい漬物が作れるかもしれない。イヤ、作れるはずだ。よし持って帰って漬物を作ろう。美味しい漬物が食べられるぞ 』と喜ぶ人がいるかもしれない。何という便利な石。こんな石を見つけることができてラッキーだ。

 『 それにしても、いい石だ!色といい形といい、自然が作り出した芸術品。持って帰って飾ろう 』と感激する人もいるかもしれない。素晴らしい芸術作品。こんな芸術作品を手に入れることができたなんて、儲けものだ。

 どう捉えるかは、本人の自由。しかし、どう考えたところで石は石である。石は、どう思われようと石に変わりない。

 『 以前、この石で人が殺されたことがあるかもしれない。つまり、この石は人を殺した、呪われた石なのだ 』と思った人は…この石が恐くてたまらない。こんな石を見てしまったのだから、不幸が訪れるだろう。イヤ、呪われてしまったのかもしれない。石には関わらないようにしよう、見ない聞かない、傍にもよらない。思い出す度に恐怖にさいなまれる…。

 『 この石で美味しい漬物が作れるかもしれない。イヤ、作れるはずだ。よし持って帰って漬物を作ろう。美味しい漬物が食べられるぞ 』と思った人は…どんな漬物を作ろうか?この際だから、今までとはチョット違う漬物を作ってみるのも面白いかも。色々調べてみるのも悪くない。そうだ、それ相応の道具も必要だ。考える度にワクワク楽しくなってくる。

 『 それにしても、いい石だ!色といい形といい、自然が作り出した芸術品。持って帰って飾ろう 』と思った人は…この石はどこに置こうか?リビングに置くのも悪くないが、落ち着いてじっくり見られる場所に置いた方がいいのかもしれない。それにしても、自然というのは素晴らしい。こんな芸術品を作り上げるなんて。自然の崇高さに、ただただ感激である。

 石は石でしかない。なのに、この三者三様はいかなるものだろう?ある人は石に怯え、ある人はワクワク楽しくなり、またある人は感激している。

 どう思っても石は石でしかない。どう思われても石は石でしかない。つまり、凶器でもなければ、漬物石でもなければ、芸術品でもない。石は凶器や漬物石、芸術品として存在している訳ではないのだ。ただ石として存在している。その石に、凶器や漬物石、芸術品といった想いを被せているのは、それを捉えた人である。すなわち、凶器も漬物石も芸術品も実際に存在している訳ではない。存在しているのは、ただの1つの石だけである。

 人は、こうやって無きものに翻弄される。石は石でしかない。その上に、自ら幻影を被せる。そして、その幻影に翻弄される。恐怖に翻弄される人もいれば、ワクワク楽しくなる人もいるし、芸術性に心酔している人もいる。ただの石一つを見て…。石は石でしかない。なのに、三者三様…。そう、人は石そのものに対して、おびえている訳でもなければ、楽しくなっている訳でもないし、心酔している訳でもない。石に被せた己の幻影に反応しているだけである。幻影…そう、初めから恐怖も楽しさも芸術性も、存在していないのである。

 存在していないものを自ら勝手に作り出しては、三者三様のふるまいである。ある意味、愚かと言えば愚かなことなのかもしれない。無いものを勝手に作り出しては、それに翻弄されているのだから。しかし、実際はこんなものではないだろうか?

 人は色々な不安に翻弄される。その根源には恐怖がある。しかし、〝不安の根源にある恐怖〟は…実際のものだろうか?前述の『 こんな石で人の頭を殴ったら…呪われた石だ 』という類の恐怖と、さほど変わらない幻影なのではないだろうか?そして、翻弄されている不安の正体も『 こんな石を見てしまったのだから、不幸が訪れるだろう。イヤ、呪われてしまったのかもしれない 』といった類の不安と、同じようなものではないだろうか?その結果…そんな幻影に翻弄されるがあまり、『 石には関わらないようにしよう、見ない聞かない、傍にもよらない 』といった具合に、行動さえも制限されてしまっているのではないだろうか?しまいには、思い出す度に恐怖にさいなまれ、日々、疲れきって生活してしまう…。こんな具合になっているのではないだろうか?

 先ほど、『 ある意味、愚かと言えば愚かなことかもしれない。無いものを勝手に作り出しては、それに翻弄されているのだから 』と書かせていただいたが…愚かとは言えない部分もある。美味しい漬物をと、歓喜に包まれる場合もあるし、芸術性に心酔することもできる。こちらの方は、思い出す度に良い気分になるし、日々楽しく生活できる。同じ、ただの石を見てである。『 呪われた石だ 』と思えば、恐怖にさいなまれた日々を送ることになる。『 便利な石だ 』と思うと、ワクワク楽しい日々を送ることになる。『 芸術品だ 』と思えば、芸術に心酔する日々を送ることになる。どう思おうと、石はただの石。だったら、ワクワク楽しい日々を送ったり、芸術に心酔する日々を送った方がいいのではないだろうか?どうせ幻影を見るのなら、ワクワク楽しくなる幻影や、芸術に心酔するような幻影の方がいいではないか?石は石でしかない。幻影は自ら作るもの。石自身には何の責任もない。怯えるのも、楽しくなるのも、心酔するのも石の責任ではないのだ。自ら作り出した幻影の責任…イヤ、自らの責任なのだ。そして、自らが選べる、自らが作りだせるものなのだ。

 自分の身に起きる、あらゆる事象にも同じことが言える。石は石でしかないのと同じように、事象には怯える理由も、楽しくなる理由も、心酔する理由もないのだ。人は、その事象に対する怯える幻影、楽しくなる幻影、心酔する幻影を自ら作り出しては、それに反応しているだけである。どうせ作り出せるのなら、ワクワク楽しかったり、芸術に心酔したりする幻影の方が、いいではないか?楽しくなれるか、恐怖に怯えるかは石の責任ではないように、その事象の責任ではない。石は石でしかないのと同じである。そして…石の場合と同様に、自らが好きな幻影を被せることができるのだ。どんな幻影を被せ、そして、それをどう捉えるかは、その人次第なのではないだろうか?。

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2018年11月8日 | コメントは受け付けていません。 |

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不安を感染させるな!

 私はいくつかの教科を教えていますが、感染症も私の教えている教科の一つ。ちなみに皆さん、感染とは何か説明できますか?感染とは…

微生物が宿主の体内に入り、定着して、増殖すること。

となります。よく話すのが『 微生物が体内に入ってきた=感染 ではないよ 』ということ。まあ、365日、24時間、微生物は体内に入って来ている訳ですから、そこを考えても分かるはず。さらに『 感染=発病 ではありませんよ 』というのも、必ず伝える話。人間には免疫というシステムがある訳ですから、そう易々余所モノを自分の体内に定着させて、住み付かせるなどということは起こり得ない訳です。

 私が教えているのは薬剤師国家試験の内容。よって、前記〝感染〟は、医療で言うところの感染。もちろん巷には、医療とは関係ない感染という言葉もあふれています。そう、微生物以外にも感染するものは沢山あるのです。

 以前〝何故、人を不安にさせるの?その1〟というタイトルのブログの中で、次のような内容を書かせていただきました。少々長いので、割愛させていただきますが…。

 『 何故、人を不安にさせるようなことを言うのか?不安にさせるようなことをするのか? 』と、私の恩師に聞いてみると『 自分も不安でしょうがない。でも、自分よりもおびえている人間がいると「 自分よりも不安になっている人間がいるんだ 」と、自分より下の人間がいることで安心してしまうんだよ 』という返答。私が『 でも、そんなことしても何にもならないじゃないですか?第一、それで自分の不安が消えるわけではないんだし 』と言うと『 自分よりもおびえている人間を見れば「 自分はあそこまでではない、まだまだ自分よりも下がいる、自分はましなんだ 」という位置を取れる。自分より下がいることで、自分は下じゃないからと、優越感を感じることができ、安心できるんだよ 』とのこと。

 当時の私としては分かったような、分からないような感じでしたが…講師という仕事に就いてからは、恩師の言葉が分かるようになった気がします。

 そして、私なりにもう一つ『 何故、人を不安にさせるようなことを言うのか?不安にさせるようなことをするのか? 』ということに対して、分かったことがあります。それは…相手も不安にさせることにより、不安を共有して、自らの不安を軽減しようとしているということ。もちろん、軽減など出来るはずもありませんが…。

 自分一人が不安になっているのが怖い。だから、自分と同じように不安を持つ人間を作ろうとする。そして、不安を共有し合うことによって、自らの不安を軽減しようという魂胆。『 やっぱり皆が不安なんだ。私は正しいのだ 』と考えれば、一時は不安が和らぐのでしょう。賢明なる読者の方は、お気づきのことと思いますが…人を不安にさせたところで、自らの不安は軽減されません。前述のように、一時は不安は和らぐかもしれませんが、あくまでも一時の話。一時過ぎたら…また不安はぶり返します、確実に…。しかし…その一時を求めるがあまり、次から次へと自らの不安を基に、相手を不安にしていく…そう、不安も感染するのです。そして、そうやって不安の感染者は増えていくことになるのです。

 試験対策で不安でない方はいません。どんなに成績が優秀であろうとも、皆、小さな不安の火種は抱えているものです。そんな人に…自分の不安をぶちまける『 大丈夫なのかな? 』『 成績上がるのかな? 』『 間に合うのかな? 』といった不安を吹き込むと…。聞いていた方は、『 確かに… 』と、自らの小さき不安の火種を、大きな業火としてしまうことになる。これが、不安の感染。

 重症になると、〝不安〟は〝不平〟へと進化します。不平は感染力が絶大ですから厄介です。今置かれている状況が不安なあまり『 こんなことやっていても 』『 題数が少ないから 』『 この講義は… 』と不安を進化させた〝不平〟を相手に感染させると…感染力が強力なだけに、あっという間に相手を不安にさせることができるようになります。不安を感染させられた人は、とにかく不安から逃げたいがための、一時の〝安楽な試験対策〟に走ってしまう場合が多々ありますが…これが試験対策とは呼べない代物であったりするから、性質が悪いのです。

 長いこと講師をやっていますが…入って来たばかりの学生さんの中には、成績も今一つで、勉強のやり方も分かっていない…なんていう方がたくさんいます。そんな学生さんに対し、基礎から教えて、学習指導をしていく。理解して学力が付いていき、自らの勉強方法をコツコツと積み上げていくようになる。成績も良好となって、勉強も毎日続けてできるようになる。嬉しい限りです。

 ところが…『 おっ、調子出てきたかな…まじめにやっているし 』と、その成果を喜んでいたところに、不安を感染させられてしまう…。その不安のために…今まで積み上げてきたものを放り出して、指導とは全くかけ離れた〝とんでもないこと〟を行い、基礎からの理解など目もくれずに、ただただ暗記だけをこなす、やみくもに量だけをこなすようになる。早い話、試験対策としてはめちゃくちゃな状態に…。指導する立場としては、こんなに腹立たしいというか、理不尽極まることなど、そう他にはありません。折角、懇切丁寧に指導して、成果が出始めたと思ったら…不安を感染させられてしまい、成績が滞る事態に…。苦労して育てて来た農作物が、台風で一夜にして失われてしまったような状態。台風は天災ですが、『 不安を感染させられた 』のは、人災。それもかなりたちの悪い人災です。

 大体、不安なら、自分一人で不安になっていればいいのではないでしょうか?何故、他人を巻き込むのでしょう?答えは前述しましたように、『 自分一人が不安でいることが不安 』だから。何人もが同じように不安なら安心…何とも言い難いパラドックスですが…。前述のように、それで得られるのは安心ではなく、『 一時だけ和らぐ不安 』。でも、一時だけでも和らげたい、人を巻き込んでも…。

 仲間を増やして、不安を言い合ったところで、決して不安化は解消されません。それどころか、徐々に徐々に大きくなってしまう。さらに厄介なのが…一人が話した不安に頷き、頷いた人もまた不安を語り、その不安に頷いた違う人もまた不安に…などと無限ループに陥ってしまうこと。そして不平へと進化すること…。

 不安の感染を防止するにはどうしたらいいのでしょう?不安といえども感染するモノ。考えた場合、疾病の感染とその予防法は変わらないはずです。試験対策の不安は無くすることは出来ません。これは、微生物に接触することを、無くすることができないのと同じことです。そう考えるならば…『 微生物が体内に入ってきた=感染 ではない 』ですから『 不安情報が入ってきた= 感染 ではない』と考えることができます。不安が入ってきても、定着させずに、増殖させない…つまり、不安情報なんか聞き流してしまい、自分の中にある小さな火種の不安を大きくさせなければいいのです。そう、聞き流してしまえばいいのです。自分を不安にさせるような情報は、例え耳に入って来ても、スルーしてしまう。これが感染を防ぐ一番の手立てなのです。微生物と同じように、入ってくることは止められないものの、住み付かせたり、増殖させなければいいのです。『 でも、やっぱり気になってしまう… 』という人は…不安になるような言動をする人に『 ああ、この人は不安なんだな 』と思ってしまえばいいのです。人の不安に付き合う必要はありません。そして『 私はそんな不安、受けとめませんよ。やることが沢山あって忙しいんですから… 』とスルーしてしまえばいいだけの話なのです。

 インフルエンザが流行する季節になってきましたが…インフルエンザの感染と同じように、試験に対する不安の感染も増えてくる時期。インフルエンザの予防も大切ですが、不安の感染予防も怠ってはなりません。インフルエンザウイルスが体内に入って来ても、免疫というシステムで破壊されるように、不安が入って来ても『 私は、そんな不安受けとめませんよ。やることが沢山あって忙しいんですから… 』とスルーしてしまうシステムで、不安を破壊してみてはいかがでしょうか?くれぐれも、感染してはいけませんよ!

 

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2018年11月4日 | コメントは受け付けていません。 |

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