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ちびまる子ちゃんよ、永遠に…。

 先日、〝ちびまる子ちゃん〟でお馴染みの、さくらももこ先生が逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 いまだに覚えていることがあります。今から28年ほど前(こんなに経っていたのかと驚きですが…)、寝ようとベッドに入った時、何気にラジオでも聞こうと、スイッチを入れました。私はあまりラジオを聞かないのですが、何故かその時はラジオを聞こうと思ったのです。松任谷由美さんがパーソナリティーを務めていたラジオ番組でしたが、その中で『 この曲はヒットしそうな予感です 』と、ある曲を紹介して番組内で流したのですが…その曲が〝おどるポンポコリン〟でした。それからしばらくして…ベッドに入った時、また何気にラジオでも聞こうとスいッチを入れると…松任谷由美さんがパーソナリティーを務める同じ番組が…。そして、松任谷さんが言ったのが『 やはり、私の思い通りヒットしましたね 』と紹介して流した曲が〝おどるポンポコリン〟だったのです。我ながら『 スゴイ偶然だなぁ 』と感銘したので、今もって覚えている次第なのです。

 シングルリリースが1990年4月4日。オリコンシングルチャートでは、1990年6月18日付にてベスト10圏内に初登場とのことですから、たいそうなものです。ある人が『 この曲には色々な要素が含まれている 』と評価していましたが、確かにメロディーといい、歌詞といい何とも言えない独特の、それでいてつい耳を傾けてしまう要素があると思います。何といっても秀逸なのがこの歌詞。以前、ブログで書かせていただいたのですが…私は、どちらかといえば一般的思考とはちょっと離れた思考をする人物。〝意外性〟が好きで、それを求めるし、自ら〝意外性〟を創作しては、人を驚かせるたりする人間です。その〝意外性〟好きな〝意外性〟創作人間である私でさえ、あの歌詞には思わず絶句してしまうほどの秀逸さ。〝意外性〟ということに関しては完膚無きまでに叩きのめされた感があります。『 素晴らしいものを、「 何故、素晴らしいのか? 」と解説してしまう行為ほど、その素晴らしさを壊してしまうことはない。大体、そんな行為は野暮 』というのが私の持論。ですから、あまりその凄さを説きたくはないのですが…それでも言わせていただくならば、この歌詞が秀逸なのは『 歌詞全体を見ると、全体では意味を成していないが、部分部分のセンテンスは成り立っている。でも、何故か歌詞全体として捉えた場合、意味を持つような…それも何とも言えないニュアンスを醸し出している…決して作り出そうとしても作り出せないニュアンスを… 』といったところか?しかし、それを作り出してしまっているのが、この歌詞の凄いところ。そして、その歌詞を作った人こそ、さくらももこ先生なのです。

 実は、〝ちびまる子ちゃん〟がTV放送された当時、私は〝ちびまる子ちゃん〟の大ファンでした。毎週欠かさず見るのはもちろんのこと、オンタイムで見ているにもかかわらず、録画も欠かさず行っていました。バッジを買ってはリュックにつけ、テレホンカード(時代を感じますね)も買い、もちろん本も購入していました。私が〝ちびまる子ちゃん〟のファンになった理由は、『 ブラック過ぎない、微妙に冷めたナレーション 』。テレビではキートン山田氏が、絶妙な話術でナレーションを入れていましたが、これも秀逸の一言。誰もが日常で経験したことのある、何とも言えない状況、どう対応していいか分からない状況で入る、あのナレーションは、今までのテレビには無かったもの。その魅力に、ぐいぐいと引っ張られていきました。ご存じの方も多いと思いますが、実はあのナレーション、マンガの方にも入っているのです。ブラック過ぎない、微妙に冷めたナレーションが入っているマンガ。これも、私が知る限り既存のマンガには無かったパターンですが…つまり、あのナレーションを考えたのも、さくらももこ先生という訳です。

 そうとう、色々な目線というか角度でモノを見ることができる方なのだと思います。独自の視点が、あまりにも並外れていると言ってもいいのではないでしょうか?確かに、初期エッセイ集三部作はいずれもミリオンセラーを記録したとのことですから、独特の視点で物事を見ることができるのは確かだと思います。私は、さくら先生にお会いしたことはないのですが、私がよく講演を聞きに行くある先生が親しい中とのことで、よく話をされていました。まあ、かなりお酒が好きだということを、お聞きしたりしていたのですが…やはり、他の人には無い、鋭い視点を持っている的なことを、お話しされていたのを覚えています。

 そんな鋭い視点のさくら先生が考えた人物が、大活躍している〝ちびまる子ちゃん〟。少々癖はあるけれど、憎めない、個性豊かな登場人物ばかり。さくら先生が考えだした人物ですから、当然、口から出す言葉もさくら先生のお言葉ということになるのですが…その登場人物のお言葉にも、秀逸なものがたくさんあることは言わずもがな。

 

ムダに見える時間も人生には必要らしいよ。

さくらすみれ(まる子母)

 

 さすが、まるちゃんのお母さん。そう、ムダに見える時間も必要なのです。ポイントは『 見える 』という部分。その時はムダに見えるけど…実はそれがムダじゃなかったりするのが、人生の妙と言ったところ。

 

俺はしなくてもいい苦労はしない主義なんだ。

人生なんて面白おかしく過ごしたほうが勝ちなんだよ。

さくらひろし(まる子父)

 

 お父さんも、素晴らしいことを言っていますね。人間、利口にやっているつもりでも…実はやらなくてもいいことを、苦労してやっていたりする場合がチラホラ…。そんな時は往々にして、どこかに見栄や利己主義があったりするもの。『 根拠のない不安を自ら作り出しては、あたふたいている 』なんていうのも、しなくてもいい苦労をしているということ。不安の実態は〝現実には無いもの〟ですから、そんなものを勝手に作り出しては、翻弄される苦労なんていうのは、まさに〝しなくてもいい苦労〟の代表格。そんなことに翻弄される〝しなくてもいい苦労〟よりも…人生、面白おかしく過ごしたほうがいいに決まっています。

 

未来や過去にしばられるような生き方は自然じゃないさ。
明日は自分で作るものなのさ。
 

どんな状況でも楽しむことが人生を有意義に過ごすコツさ。

 花輪くん(まる子友人)

 

 まるちゃんの友達の中では、欠かすことができない存在の花輪君。ブログでも何回か書かせて頂きましたが…過去にあるのは後悔。未来にあるのは不安。その両方に捕らわれているから、今が見えなくなってしまう。過去も未来も、目の前にはありません。目の前にあるのは〝今〟だけなのです。今を大切にすることが重要なのです。今を満ち足りたものにすることが、大切なのです。今は明日につながっているからです。今を楽しく過ごすことこそ、ステキな明日を作ることになるのではないでしょうか?今がどんな状況であれ、楽しく過ごすことが、明日を、そして人生を有意義に過ごすことになるのではないでしょうか?どんな状況でも楽しむことが、満ち足りた人生を送るコツなのではないでしょうか?

 どの名言も、全てさくら先生が考え、発した言葉です。簡単だけれども、人の心を打つ言葉だとは思いませんか?だからこそ、ちびまる子ちゃんは老若男女問わず、愛される作品なのではないでしょうか?そんな、さくらももこ先生は、やはり素晴らしい方だったのだと思います。

 さくら先生は『 まる子ちゃんは、経験に基づいた自分自身 』と話していたそうです。そんな、ちびまる子ちゃんは、こんなことを言っています。

 

待ってるだけじゃダメだよ。幸運は自分の力で引き寄せなきゃ。

 

そう、確かにその通りです。さくら先生が漫画家になるのにも、紆余曲折あったそうです。しかし、待っているだけではなく、自分の力で色々とやり通してきた。そうやって、自分で幸運を引きよせてきた。だからこそ、多くの珠玉の作品を、世に送り出すことができたのではないでしょうか?待っているだけではなく、自ら動いて掴み取る。そういうスタンスだったからこそ、色々なモノを掴み取ることができたのではないでしょうか?色々な目線や角度でモノを見ることができたのではないでしょうか?そして…そういった経験をたくさんしてきたからこそ、前述のような素晴らしい言葉を、自らの作品のキャラクターに言わせることができたのではないでしょうか?私はそう思っています。

 

イヤなことがあっても、明日を信じて生きていかなくっちゃね。

ちびまる子

 

 

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2018年8月28日 | コメントは受け付けていません。 |

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vs 睡魔

 我が薬進塾、8月16日から国家試験対策講座が始まりました。半年コースの塾生さんも加わり、国家試験対策に更に熱が入った次第です。

 1年コースの塾生さん達は、今まで基礎講座(5月14日~8月15日)を受講していた訳ですが、8月16日からは国家試験対策講座へとシフトする形に。当然、カリキュラムが異なるので、時間も基礎講座とは変わることになるのですが…。どうも、今までの時間と異なるリズムとなるせいか、まあ〝時差ボケ〟という訳ではありませんが、今一つしっくりいかないご様子。そのせいか、妙に眠気が襲って来るらしく、なかなか苦労している塾生さんもいらっしゃるようです。

 時間のリズムが変わらなくとも、講義中に眠気と戦っている塾生さんは、必ずいるものです。中には眠気に負けてしまい、眠ってしまう塾生さんもチラホラ。長い講師生活の中で、眠気と戦っている学生さんを何人見てきたことか…。同時に、眠っている学生さんを見かけたことなど、それこそ星の数…。

 まあ、そういう私も、学生時代は同じように睡魔と闘ったり、時には眠ってしまった事など数えきれないほどあります。もちろん、このブログを読んでいただいている方も、これ然りだと思います。『 学生時代は… 』と書かせて頂きましたが…現在も、講演等を聴講しにいった時など、眠気に襲われてしまうことは多々あります。やはり、いつになっても眠気とは無縁にならないということ。ある意味、眠気に対する問題は、人にとって解決することのない永遠の課題なのかもしれません。

 眠気のことを〝睡魔〟といったりもします。〝魔〟という字が付いていますが…。〝魔〟という字には『 人をまどわし、災いをもたらすもの。化け物(デジタル大辞泉より)』という意味があります。なるほど…確かに眠気は、『 勉強しよう、学ぼう 』と受講している人間を、『 眠ろう、眠ろう 』と惑わしていますね。その結果、聞き逃してしまい…災いをもたらすことなってしまいます。まさに化け物!睡魔と闘うということは、『 化け物と戦う 』ということになりますから、やはり大変なことには間違いありません。魔物と戦うなんて、ロールプレイングの勇者並みの活躍ですからね。そう考えれば、睡魔に負けてしまって、眠ってしまうのも、ある意味、致し方ないこと。しかし『 致し方ないこと 』で済ませる訳にもいきません。何といっても、その結果、『 講義内容を聞き漏らしてしまう 』という、災いがもたらされてしまうのですから。

 一般に、人間の三大欲求といわれているのが、〝食欲〟〝性欲〟そして〝睡眠欲〟。まあ、諸説紛々あるようですが…。一般的に言われていることから考えるに、睡眠に関しては、人間の〝欲〟の中でも、ベスト3に入るモノ、ということになります。まあ、それはそうでしょうね。眠らなければ、人は非常に危険な状態になってしまいますから。あのギネスブックも、現在、健康に対する影響が大きいことから断眠の世界記録は、認めていないそうです。眠らないというのは、それ位危険なこと。生物は、本能的に自分の生命を守ろうとする訳ですから、『 眠るための欲求を欲する 』というのも、当たり前と言えば当たり前の話。

 そう考えれば、眠くなってしまうことも、これまた致し方ないこと…となってしまいますが、これまた『 致し方ないこと 』で済ませる訳にもいきません。では、この魔物にどう対応すればいいのか?

 以前勤めていた予備校でのこと。講義中に眠くなってくると、コンパスの針で腕を刺す学生さんがいました。何と、この学生さんは女性!講義中、腕をコンパスの針で刺しているのを見て、当時、講師として経験の浅かった私は『 眠気覚ましなのだろうけど…そんなに自分の講義は眠くなるのか? 』と悩んだものでしたが…他の講師曰く『 誰の講義でもやっているよ 』とのことで、胸を撫で下ろしたのですが…それにしても、何と過激な対応というか、化け物の退治方か!自らの腕を傷つけるとは!まさに、ロールプレイングの勇者並みの行動と言えますが…あまり推奨できる行為ではない事も確かです。

 実は、私も現役時代、予備校の講義を受講して国家試験対策に備えていたのですが…やはり睡魔との闘いはありました。チョット時代が古い話になってしまいますが、その当時は飲み物は缶がメインで、今のようにペットボトルなどない時代。さらに缶入り飲料の飲み口というか開け口は、リングプルになっていました。リングプルとは『 環を引くと、ふた全体が取れるもの(デジタル大辞泉より)』で、缶から外れるタイプのフタのこと。当時は、このリングプル方式の缶飲料しかなかったのですが…私は講義中眠くなると、このリングプルで左手の甲を傷つけて眠気を覚ましていました。缶のフタですから、当然、金属な訳で、その金属の切り口部分で手の甲を切って眠気を覚ましていたのです。国家試験を受ける時に、左手を見ると手の甲が傷だらけ。その傷を見て『 コレだけ頑張ったんだから! 』と自分を励ましていたのを覚えています。もちろん、これも決して推奨できる〝眠気覚まし〟ではないので、真似をしないようにして下さい。まあ、もうリングプルタイプの缶飲料はありませんが(笑)。

 眠気覚ましと書かせて頂きましたが…現在も、塾生さんは色々な方法で眠気を覚まそうとしています。ミントの飴やガムを食したり、コーヒーを飲んだり、その方法は飲食に頼るものが多いようです。もっとも、それ以外の眠気覚ましとなると、講義中おおっぴらにできる内容ではないようですから、飲食に頼る眠気覚ましに頼ってしまうのも致し方ないこと。まあ裏を返せば、眠気覚ましを使うという行為には、『 眠ってしまってはいけない 』といった思いがあるということも確か。ある意味、やる気がある証拠とも言えるでしょう。実際、講義中、何のためらいもなく熟睡されている方もいらっしゃいますが、あまりやる気が感じられないのも、これまた確かなのです。『 合格するためには、講義をモノにしなければならない。そのためにも眠ってはいけない! 』と自分を奮い立たせている訳ですから、ある意味〝気力勝負〟ともいえるでしょう。敵も化け物ですから、なかなか侮れません。そうやって、受験生vs睡魔 の果てしなき戦いは、繰り広げられることになるのです。なるほど、確かに昔から『 如何に、受験生は睡魔と闘うか? 』が話題になることも多いですし、そのためのグッズや方法も世界的に色々と考案されています。古今東西、それほどこの戦いは壮絶なものなのです。まあ、コレといった決定打が無いことも、悲しいかな事実なのですが…。薬剤師国家試験受験生に限らず、やはり受験生にとって、睡魔という化け物との闘いは、古今東西、永遠の課題のようです。

 

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2018年8月25日 | コメントは受け付けていません。 |

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屈辱を受けたり、悔しい思いをした人こそ、優しく強くなれる。

 屈辱を受けたり、悔しい思いをした経験は、誰しもあると思います。往々にして、そういった経験は理不尽な場合が多いようです。世の中には、あえて人に屈辱を与えたり、悔しい思いをさせる人間がいます。自己保身のために、人に悔しい思いをさせる。自己満足を得るために、人に屈辱を与える。悲しいかな、そういった人間がいることも確かです

 私もそういう経験、すなわち屈辱を受けたり、悔しい思いをした経験はあります。まあ忘れるように、そして思い出さないよう心がけてはいますが…。思い出しても、気分がよくなることはありませんから…。むしろ、思い出すと気分が悪くなる場合が圧倒的に多い。ご機嫌でいきたいですからね。私は、人生は楽しむためにあると思っています。だから、気分が悪くなる様なことはなるべく考えない、思い出さないよう心がけているのです。

 閑話休題。思い出さないようにしているのですが…やはり思い出しては、憤慨したり、悲しくなったり、やりきれない気持ちになってしまうことはあります。『 どうして、そんなことをするのだろう? 』と、そういうことをしてきた人たちのことを、考えてしまうこともあります。『 自己保身や自己満足なのかな… 』と考えることもあります。なるほど、考えてみればそれで辻褄(つじつま)が合うような場合も多々あります。でも、そう考えて辻褄が合ったところで、何にもなりません。悔しい思いが消える訳でもありません。

 強気な人間に限って、弱い人間に対して屈辱を与えたり、悔しい思いをさせる場合が多いよう思えます。まあ、弱気な人間はあまり相手を攻撃しようとはしませんから…。傲慢な人間、人を見下す人間、表面的には優秀な人間…そういった人間は強気に出る場合が多いようです。まあ世間的には、そういった人間を強い人間と判断する場合が多いようです。弱い人間は強い人間に太刀打ちできません。だからこそ、強い人間は弱い人間に対し屈辱を与えたり、悔しい思いをさせるのでしょう。弱い人間は、そんな理不尽な仕打ちに対し、ただただ泣くばかり…。辛く悲しい経験をすることになります。

 だからこそ私は、学生さんにはそのような思いをさせたくないと思っています。やはり、薬剤師国家試験予備校に来る人間は、弱い人間が多いのは事実です。弱いことは悪いことではありません。強い人間は、あたかも弱いことが悪いことであるかのような発現をします。しかし、私はそうではないと思います。強い人間は、弱い人間の気持ちを分からない。だからこそ、強気の発言をする。『 そんな弱くてどうする! 』 『 強くなれ! 』 『 くじけるな! 』 『 甘い! 』と…。しかし、世の中には弱い人間もいるのです。そんな人間に、そのような強気の発言をしたところで、弱い人間はただただ困惑してしまうばかり…。場合によっては、折れてしまうこともあるやもしれません。弱いことは悪いことではありません。だからこそ弱い人間には、弱い人間に合った指導をしなければならないと思っています。そして、それが分かるのは弱い人間。弱い人間だからこそ、弱い人間の気持ちが分かる。そう思っています。一般論やありきたりの説教など、誰にでも言うことはできます。しかし、本当の意味で弱い人間を励まし、導くことができるのは…弱い人間にしかできないと思います。屈辱を受けたり、悔しい思いをした、弱い人間でなければできない。

 世間的に言われている強い人間は、本当に強い人間なのでしょうか?本当に強い場合もあるでしょう。しかし、そうではない場合があることも事実です。偽りの強い人間も沢山いるからです。本当の強い人間とは、弱さを知っている人間だと思います。弱さを知っているからこそ、弱い人間に優しくできる。弱い人間を応援してあげることができる。弱い人間を手助けしてやることができる。それが、本当の強い人間ではないでしょうか?私はそう思うのです。

 力技で乗り越えてきた経験があるから、歯を食いしばりながら耐えて生きた経験があるから…だからと言って強い訳ではないと思います。そういう経験があったところで、弱い人間に対して優しくなることができなければ、それは見せかけだけの、独りよがりの偽りの強さだと思います。力技で乗り越えることができなかったり、歯を食いしばることができなかったり、耐えることができなかったりしても、弱い人間に優しくなることができるのなら、その人は十分強い人間だと思います。

 屈辱を受けたり、悔しい思いをした経験がある。それで辛い思いや、悲しい思いをした経験がある。だからこそ、人にはそのような思いをさせない。これが本当の強い人間だと思うのです。確かに、屈辱を受けたり、悔しい思いをするは嫌なものです。辛い思いや悲しい思いも、決していいものではありません。でも、その分強くなれる。人の弱さを分かってあげることができる。本当の意味での強さを身につけることができる。弱い人の気持ちを分かってあげられる、弱い人を助けてあげることができる本当の強い人間になることができる。そうではないでしょうか?人は、屈辱を受けたり、悔しい思いをしたからこそ、本当の意味での強い人間になれるのです。

 逆に…屈辱を与えたり、悔しい思いをさせた人は…いつまでたっても、強くなれないということになります。上辺だけの強さは持っているでしょう。しかし、それは本当の意味での強さではないのです。傲慢で、高飛車で、人を見下す人間は、本当の意味での強さを身につけることは、できないと思います。力技で乗り越えてきた経験がっても、歯を食いしばりながら耐えてきた経験があっても、それは本当の意味での強さではないのです。そこに、弱い人の気持ちを分かってあげられる、弱い人を助けてあげられる…それが加わって、初めて本当の意味での強い人間になれるのだと思います。実際、力技で乗り越えてきた経験や、歯を食いしばりながら耐えてきた経験がある人にも、弱い人間に優しい人は沢山います。もちろん、そういう人も強い人間であることは間違いありません。やはり、強さは『 弱い人間に、いかに優しくできるか? 』だと思います。『 そんな弱くてどうする! 』『 強くなれ! 』『 くじけるな! 』『 甘い! 』なんていう強気発言で、弱い人間を打ちのめす事は、本当の強い人間がやることではないのです。

 屈辱を与えたり、悔しい思いをさせた人は、いつまでたっても強くなれない…と先ほど書かせて頂きましたが…。上辺だけの強さはあるが、本当の意味での強さは持ち合わせていない…。本当は強くないのに、弱い人間に対し傲慢に、高飛車に、見下しては強気の発言を押しつける…。そんな、意地悪な人間になってしまうような気がします。そういう輩に限って、弱いと思われたくないがため、弱さを見せないように躍起になります。だからこそ、人に対して傲慢に、高飛車に、見下すような態度を取るのでしょう。そこまでして、強いと見せかけたいのですかね?別に弱いことは悪いことではないのですが…。上辺だけの強さを誇示して、独りよがりの強い人を気取るよりも…弱い人の気持ちを分かってあげたり、助けてあげて『 ありがとう 』と声をかけられる〝弱いからこそ強い人〟の方がいいんじゃないでしょうかね?屈辱を受けたり、悔しい思いをしたからこそなれる、優しくて強い人…。本当に強い人とは、そういうものではないでしょうか?私はそう思っています。

 

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2018年8月20日 | コメントは受け付けていません。 |

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お化けのいないお化け屋敷

 夏はお化けの季節。テレビから雑誌から、果てはネットまでもが夏になると、お化け一色になる。まあ、ネットは一年中、お化け一色のページも多々存在しているようであるが…。それでも、夏にあると気合に入り方が違うようである。やはり、夏はお化けの季節であるからして、ここは一段と派手にお化けを盛り上げてもらいたいものである。

 夏に行われる様々なイベントにも、お化けたちは大活躍である。幽霊画展や怖い話のトークイベントなど花盛りである。もちろん、お化け屋敷等の体験型(?)お化けイベントも盛りだくさん。各テーマパークは、これでもかという位に趣向を施した、怖いお化け屋敷を作り上げては、集客に躍起になっている。そして、そのお化け屋敷に足を運ぶ人も多く、ご盛況とのこと。何とも景気のいい話ではないか。

 私も、そういった〝テーマパークにあるお化け屋敷〟に行ったことはあるのだが…。確かに怖かった。正直、狼狽えてしまう位、怖かったのは事実である。足が進まない…どうしていいのか分からない…。一人で入らなかったのが不幸中の幸い。まあ、おそらく一人では入らないだろう。そこの所は小心者であることは認める。閑話休題。同伴者がいたからこそ、何とか進めたし、どうにか出てくることも出来たのだが…何とも怖いモノであった。私が子供の頃に入ったお化け屋敷は、こんなに怖かっただろうか?

 実は、テーマパークのお化け屋敷にはい行った時も、様々なテーマパークのお化け屋敷の情報を得た時も、私の中にはある違和感が生じていた。確かに怖いし、怖そう。しかし…お化けがいない…。〝呪い〟があったり〝曰く〟があったり〝祟り〟があったり…〝怨霊〟がいたり〝復讐する霊〟がいたり、〝とりつき殺そうと襲ってくる邪霊〟もいたりする。しかし…お化けがいない…。恐怖はあるが、お化けはいない…。

 そもそも〝お化け〟とはなんだろうか?

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ばけもの。妖怪。変化(へんげ)。
死人が生前の姿になってこの世に現れるというもの。幽霊。

デジタル大辞泉より

 

 何物かが霊能によって姿を変えたもの。特に、異様・奇怪な形をしたものをいう。
 ばけもの。死人が再びこの世に現れたときの、想像上の姿。幽霊。

大辞林より

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とある。なるほど…幽霊もお化けに入るらしい。となると〝怨霊〟も〝復讐する霊〟も〝とりつき殺そうと襲ってくる邪霊〟も、お化けという括りになる。そうなると、お化け屋敷にいるのも当然であろう。そう言えば、私が子供の頃に入ったお化け屋敷にも幽霊(もちろん本物ではないフェイクの方)がいたような…。だが、昨今のお化け屋敷の幽霊とは違い、もっと幽霊幽霊していたような…。昨今のお化け屋敷にいるのは〝幽霊〟ではなく〝霊〟のような…。『 じゃあ、幽霊と霊の違いって何なの? 』と聞かれても困ってしまうのだが…昨今のお化け屋敷の〝霊〟の方は、ずいぶん生々しいような気がする。人の形はしているものの、念と言うか、恨みと言うか、そういったモノを身にまとった、〝本物の人間のネガティブな性〟をもったもの。そんな〝霊〟が演出されているよう思える。実際、人が演じている場合が多く、より一層それを感じてしまうのも演出なのだろうか?少なくとも『 お化け 』よりも『 念や恨みといった〝本物の人間のネガティブな性 』の方が、存在感が強いお化け屋敷であることは間違いないと思う。

 前述の様に、私が子供の頃のお化け屋敷にも、幽霊はいた。ただし、人が演じている訳ではないし、仕掛けもそんなに凝ったものではない。墓の陰から機械音とともに、白い衣装で頭の上に天冠(三角の白い布のこと)をつけた、如何にも〝作り物〟といった幽霊が姿を現す程度である。まあ『 怖い 』というよりも『 驚く 』『 びっくりする 』感の方が強かった気がする。霊ではないお化けも沢山いた。沼らしきオブジェで釣りをしている人間(もちろん人形)達が、カッパが出てきて驚く。ろくろ首の首が伸びる。からかさ小僧が跳ねている。提灯お化けが上下している。う~ん、お約束だったなぁ…。そんな〝お化けがいるお化け屋敷〟。でも、どういう訳か、また入ってしまう。次にお化け屋敷が来るのを楽しみにしている(私の実家の方では、お化け屋敷は常設のものではなく、祭りの屋台の一つとして興行されていた)。そんな、お化け屋敷だった。

 確かに昨今のお化け屋敷にも〝霊ではないお化け〟がいなくはない。しかし、ゾンビだったり、得体のしれない異形のものだったり、やはり今一つ〝お化け〟という言葉にそぐわないような、そんな感じがする。先ほど『 本物の人間のネガティブな性 』と書かせていただいたが…やはりゾンビ等の昨今のお化け屋敷の〝霊ではないお化け達〟にもそれは感じられる。そのせいだろうか…昨今のお化け屋敷には、〝お化け屋敷〟という言葉がそぐわないような気がる。『 ホラー 』や『 スリラー 』と言った言葉の方が適切ではないだろうか?怖いことは間違いない。しかし、肝心の〝お化け〟はいないのだから。

 昨今のお化け屋敷の住人達に比して…カッパやろくろ首、からかさ小僧などの〝昔のお化け屋敷の住人達〟に、どことなくポジティブなものを感じてしまうのは、私だけだろうか?愛着が無いとは言えないが…我々には理解できない怖いモノ。念や恨みや復讐…そういった人間のネガティブな性を一切感じさせない。どこから来るのか、どこにいるのかもわからない。不思議で怖いもの。それが、昔のお化け屋敷の住人達だったのではないだろうか?だからこそ、得体のしれない不気味さがあったのではないだろうか?そう、人間以外の何かが存在する。闇の中に潜む理解できない何か…。人間が理解できない何かがある。それを知ることの恐怖。これこそが、昔のお化け屋敷の演出だったのではないだろうか?

 前述のように、昨今の夏のイベントでは、お化け屋敷はご盛況である。私も足を運んでみようかな…などと思っていたりする。と同時に…昔のお化け屋敷にも行ってみたいと思っているのも確かである。イヤ、どちらかと言うと、昔のお化け屋敷の方が、行ってみたいという欲求が強い。墓の陰から機械音とともに白い衣装でで出てくる幽霊、沼らしきオブジェから出てくるカッパ。首が伸びるろくろ首、跳ねているからかさ小僧。彼らに、そして彼らの仲間達にまた会いたいと心底思っている。チープと言えば失礼かもしれないが、だからこそ愛着があったあのお化けたち。いろいろ調べては見るのだが、なかなか会えないのが事実。残念なことに、昨今のお化け屋敷に彼らはいない。恐怖はあるが〝お化けのいないお化け屋敷〟なのだから。〝お化けのいるお化け屋敷〟を探しているのだが、どうも探すことが出来ない。まあ、お化けとはそういうモノであるからして、探すのも容易でないのはこれ然り。見つけたら、是非とも〝お化けのいるお化け屋敷〟に入ろうと思っている。まあ、入ったら入ったで、また昔のように、ビビりまくりなのは目に見えているのだが…。

 

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2018年8月11日 | コメントは受け付けていません。 |

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何故、試験対策において夏休みは重要なのか?

 以前、ブログ『 夏休みは国家試験の天王山! 』で、受験生にとって如何に夏休みが重要か?ということを書かせていただいたことがある。学習指導を依頼され、色々な場所で指導する機会も多いが、やはり夏休みが如何に重要であるかは、口酸っぱく言っている。では、何故受験生にとって夏休みが重要なのだろうか?この問いに、的確に答えることができる人は少ないと思う。

 『 夏休み位から、皆、国家試験の勉強を始めているみたいだ 』との情報で、夏休みあたりから薬剤師国家試験対策に本腰を入れる人は多い。確かに、夏休み明けから始めるとなると、正直、チョット遅いといっていい。ただ昨今は、卒業試験が早めに行われるのに伴い、国家試験対策にも早めに取り組む人が増えているようである。卒業試験のほとんどが、国家試験にリンクしたものとなっている以上、卒業試験対策を行うことは、それ即ち、国家試験対策を行うこととなる。皆それも十分承知の上で、『 国家試験対策=卒業試験対策。卒業試験が秋に実施されるのだから… 』と、夏休み前からに試験対策に取り組むのだろう。理由はどうであれ、試験対策に早めに取り組むことはいいことである。

 夏休み前から試験対策に取り組む人は増えているが…それでも、やはり受験生にとって夏休みが重要であることは変わらない。それは何故だろうか?おそらく多くの人が『 学校が休みなので、試験対策だけやっていればいい。つまり、試験対策に多くの時間をかけることができるから 』と答えるだろう。確かにそれもある。本来、大学の講義がある時間も、試験対策に使うことができる。復習やら課題もないわけだから、普段よりは、試験対策にウエイトをかけることができるのは確かである。しかし、この『 夏休みは試験対策にウエイトをかけられるから 』という理由は、どちらかというと『 受験生にとって夏休みは重要である 』の脇役的理由であり、本質ではない。受験生にとって夏休みが重要であることには、もっともっと大きな理由があるのだ。

 先に答を言ってしまおう。受験生にとって夏休みが重要なのは『 自分自身で自分を管理して生活することができるから 』ということ。もっと分かり易く言うならば、『 自分で自分を管理することができるから 』ということである。

 試験対策において、もっとも重要なことは『 自分自身を如何に管理できるか? 』である。何時に寝て、何時に起きて、何時から何時まで何を勉強して…という自己管理が試験対策にとって、何よりも重要なのである。自分自身を管理できない人間は、試験対策に向かない…と言うよりは、試験対策が出来ない人間である。当たり前であろう。好きな時に寝て、好きな時間に起きて、勉強する時間も何を勉強するかも決めないような、場当たり的な生活をしている人間に、試験対策などできる訳がない。私が常々『 生活管理が重要 』と指導しているのは、そういった観点からである。

 普段は学校があるから、起きる時間や寝る時間、勉強時間などはこちらが意図しなくても、何気に決まってしまう場合が多い。つまり、あえて自分で管理しなくても、それ相応の生活管理ができていたということ。しかし、夏休みは学校が休み。意図しなくても、それ相応の生活管理ができていたが、今度は自分で意図的に管理していかなければならない。ここで〝自分自身を管理する能力〟が試されることになる。もちろん、すでに〝自分自身を管理する能力〟を身に付けている人間にとっては、夏休みは更なる磨きをかけることできる機会となる。

 夏休みで、しっかりと自分自身を管理することを身に付ければ、試験対策はスムーズに進む。卒業試験間近、国家試験間近では、ほとんどの場合が学校の束縛はなく、自分自身で対策を行っていかなければならない。それゆえ、『 如何に自分自身を管理して試験対策を進めていくか 』ということが、非常に重要になってくる。そう、『 誰かが試験対策をやってくれる 』のではなく『 自分自身で試験対策を進めていく 』ことになるのである。前述のように、学校がある場合は意図しなくても、ある程度は管理されている状況であったが、今後は自分で自分を管理していくことが求められるということ。

 『 管理する 』ということは、当然、〝管理能力〟というモノが求められることになる。能力であるから、身に付けなければならない。身に付けるためには、実際に試行錯誤してやってみるという行動が必要になる。それができるのが、夏休みということになる。中には、初めて『 自分を管理する 』ということを、行う人もいるのではないだろうか?

 『 自己を管理する 』と聞くと、何やらとてつもなく大事(おおごと)に聞こえるが、何のことはない。前述のように、何時に寝て、何時に起きて、何時から何時まで何を勉強して…と計画を立て、その通り実践していけばいいだけである。さほど難しいことではない。しかし、今までそういったことをやってこなかった人間…例えば、寝る時間や起きる時間が決まっていない、行き当たりばったりで勉強して来た…そういった人にとっては、少々難しいものになってしまう。だからこそ、夏休みから『 何時に寝て、何時に起きて… 』といった、自己管理能力を身に付けておくことが重要なのである。もちろん、すでに身に付いている人間は、『 どこまでやることができるか? 』と、更に管理を強化してみることも悪くはない。あまり無理をする必要もないし、ある程度自分のやり方が決まっているのに大幅に変更する必要もないが、微調整しながら、より良き状態に持っていくことは悪いことではない。そこから、また新たなるやり方が見つかる可能性もあるのだから…。

 もう一度言わせていただくが、受験生にとって夏休みが重要なのは、『 自己管理能力を身に付ける、または身に付いている自己管理能力をパワーアップできるいい機会だから 』である。この機会を逃してしまうと、次の機会は冬休みということになるが…正直な話、冬休みはそれどころではない。と言うか、冬休みまでにはしっかりとした自己管理による試験対策を行っていき、それ相応の学力を身に付けておかなければならない。冬休みに自己管理能力を身に付けるとなると…正直、手遅れであると言っても決して過言ではない。やはり、夏休みが自己管理能力を身に付ける最後のチャンスと言ってもいいだろう。試験対策を行っていくには、どうしても自分で自分を管理していくということが必要になる。そのためにも、その最後のチャンスである夏休みを有意義に使ったもらいたい。そして、自分を管理する能力をしっかりと身に付け養ってもらいたい。そう思っている所存である。

 

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2018年8月4日 | コメントは受け付けていません。 |

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