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試験対策、目線は遠くに!

 こう見えても自動車運転免許はゴールドである。ちなみにペーパードライバーだが…。だから運転は、ほとんどできないと言っていい。以前、運転を生業としている人と酒を飲んだ時の話。色々と運転に関する話をしてくれたのだが、こんなことを話してくれた。

 運転の下手な人って、目線が近いんだよね。視覚の中に入っている範囲が狭いというか…。遠くを見ていれば全体が目に入るのに、目線が近くだから、目に入る範囲が狭い。全体が目に入れば、どこに何があるか分かるし、どういう危険性があるかが予想できるんだけど…目線が近いとそういうことができない。だから、事故を起こしてしまうんだよ。

 運転をしない私は『 なるほど! 』と感心して聞いていたのを覚えている。確かに目線が近ければ、目に入ってくる光景は狭いものとなる。目に入る範囲が狭ければ…人は目に見える範囲での危険性を考えるのだから、危険回避予想範囲及び危険対応範囲も狭いものとなってしまう。事故が起きやすくなるのも当然だろう。これに比して目線が遠い場合。遠くに視点があるので、目に入る光景は広いものとなる。当然、危険回避予想範囲及び危険対応範囲も広いものであるからして、事故が起きる確率も低くなる。

 現在、我が薬進塾では基礎講座を行っている。国家試験対策の基礎の基礎を、しっかりと身につけることにウェイトを置いた講座である。基礎ができていない学力など、基礎が無い家と同じである。チョット揺らいだだけで、すぐに倒壊してしまう。しかし…昨今は、そういった学生さんは少なくない。

 チョット面白いというか、つい『 ? 』と思ってしまう塾生さんも少なくない。話していると、色々と難しい事象を言ってきたり、ちょっと専門的な用語を使ったりするのだが…では、その事象や用語について聞いてみると、全然と言っていいほど分かっていなかったりする。何故、その事象の理論や用語の意味を知らないのに、そういったことを口にできるのだろう?何とも不思議な話ではあるのだが…。答はいたって簡単。どうしてそうなるのか分からないけど、その事象は知っている。意味は分からないけど、その用語は覚えている。つまり、意味や理屈は分から無いけど、それに関しては(表面的に)知っているということである。ラーメンを見たことも食べたこともない人間が、ラーメンを語っている…そんな感じだろうか?イヤ、これよりも、もうチョット芳しくない状況だろうか?

 『 どうしてそうなるか分からないけど、その事象を口にする 』『 意味は知らないけど、その用語を使っている 』など、ある意味、かなり曲芸的なことだと思うのだが…。『 どうしてそうなるか分かっているから、その事象を口にする 』『 意味を知っているから、その用語を使っている 』という、至極まっとうな方法の方が、よっぽど簡単だと思う。何故、曲芸的難しさの方に向かってしまうのだろうか?前述のように、意味や理解はさておいて、取りあえず〝表面的に〟覚えてしまうからなのだろう。しかし…何故、そのような事態、つまり『 表面的に覚えてしまう 』事態に陥るのだろう?何度も書かせていただくが、こっちの方が、曲芸的難しさがあると思うのだが…。

 往々にして、学生さんは問題を解きたがる傾向にある。問題が解けると〝できた気〟になるからである。それが国家試験の問題なら、なおさらである。だから、とりあえず問題を解こうとする。しかし…『 問題を解く 』ということは『 それ相応の学力がある 』ということである。それ相応の学力があるからこそ、問題が解けるのである。それ相応の学力が無ければ問題は解けない。つまり『 その問題を解くだけの学力が身に付いていない 』ということである。だからこそ、勉強してその学力を身につけるべきなのだが…。前述のように、問題が解けると〝できた気〟になり安心することができる。逆に問題が解けないと…不安になってしまう。まあ、この不安があるからこそ、『 学力をつけねば 』と勉強に取り組むことになるのだが…。どういう訳か、そうはならず、ただただ不安から逃れたいがために、安易な道に走ってしまう。そう、『 なんか分からないけど、解説を覚えておこう 』となるのである。すると…問題の答は選べるし、それ相応の問題解説も口にすることは出来るようになる。しかし…内容的、理屈的にはさっぱり理解していないといった状況が生じることになる。

 私も含め薬進塾の講師陣が、皆、口をそろえて言うのが『 国家試験の問題は、それ相応の時に解けるようになればいい 』ということ。早い話、国家試験を受ける時に、国家試験の問題が解けるようになっていればいいということ。モノにはそれ相応の順番というものがある。学力を基礎から積み重ねていき、最終的に国家試験の問題が解けるようになればいいだけの話である。時間をかけてこそ、できるようになるものを、時間をかけずに、すぐにできるようになろうとしたところで、それは土台無理な話というものである。何故、その無理なことを行おうとするのか?

 目線が近いのだと思う。『 国家試験の問題を解こうとしているのだから、目線は遠いのではないか? 』と言う人がいるやもしれないが…時間をかけて習得していくものを、ただその場で答を知り、できた気になるような行為は、その場限りの、やはり視点が近いモノではないだろうか?本当に視点が遠ければ、その問題を解くために、『 何をしなければならないか 』、『 どういうことをしていかなければならないか 』など色々なものが見えてくるはずである。だからこそ、それに留意した安全な試験対策ができるのではないだろうか?『 基礎や理解はさておいて、とにかく国家試験の問題の答を選べればいい 』という〝その場限りのとりあえずの姿勢〟は、あまりにも目線が近く、何も見えていないと言えるのではないだろうか?見えていないからこそ、理解もしていないのに、『 できた気になる 』ことの危険性に気が付かない。この〝試験対策における最大の危険〟を回避できないどころか、その最大の危険にまっしぐらに進んでいることに気が付かない。そのまま進めば、大きな穴に落ちてしまうのに、その穴さえも見えていない…。何とも危険なことなのに、その危険性に全く気が付いていない。これこそが最大の危険なのかもしれない。

 『 とりあえず国試の問題の答が分かればいいや 』といった、その場限りの目線の近いやり方では、前述のような『 どうしてそうなるか分からないけど、その事象を口にする 』『 意味は知らないけど、その用語を使っている 』といった事態が生じても、何ら不思議ではない。しかし、これは試験対策にとっては、非常に危険な事である。しかし、その危険性に気が付いている人は思いのほか少ない。

 国家試験合格に目線を合わせれば、自然と目線は遠くなるはずである。安心感を得るために、今この問題の答えを知りたい…これでは目線が近すぎる。目線が近いと…運転と同じく、危険回避予想範囲及び危険対応範囲も狭いものとなってしまい、事故は起きやすくなってしまう。国家試験合格を見据えて、試験対策に取り組んでいる人は、やるべき事をしっかりとやりながら進んでいっている。問題一つ解くにしても、『 何故そうなのか? 』と、その理由から理解していっている。しかし、やはり国家試験合格に向けての不安あはあるし、大変であることは事実である。その場限りの安心感を得たいがための試験対策(本来、試験対策と呼べる代物ではないのだが)を行っている人は、国家試験の問題をたくさん知っているし、その答も知っている。おそらく、国家試験対策なども『 こうやっておけば受かるだろう 』などと、分かった気になっていることであろう。しかし…『 分かった気になる 』ということは『 分かっていない 』ということである。そして…『 知っている 』ということと『 理解している 』ということも、往々にして違う場合があるということ。そこの違いに気がつくかどうか?それも、やはり目線が遠いか、近いかによるのではないか?私は、そう思っている。

上手は近くを知りて遠きに苦しむ。下手は遠きを知りて近きを知らず。

                                                             剣豪 高野 佐三郎

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2018年7月27日 | コメントは受け付けていません。 |

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侮るなかれ!登録販売者試験!

 縁あってか、登録販売者試験対策に携わっている。現在もある学校で登録販売者試験対策の教鞭を振るわせていただいているが、その前にも違う学校で教鞭を振るわせていただいたことがある。まあ、登録販売者試験も〝薬に関する資格試験〟。そして、薬剤師国家試験も〝薬に関する資格試験〟。薬剤師国家試験対策に長く携わっているとなると、登録販売者試験対策に関わることになるのも、コレ然り。私としては『 どちらであろうとも、試験対策で声をかけていただいている時点で光栄な話 』と思っている次第で…。『 講義をしてくれませんか? 』と声をかけられること自体、非常にありがたいこと、感謝すべきことだと、私は思っている。

 その登録販売者試験であるが…前に教鞭を振るっていた学校も含めると…少々間はあるものの、通算でかれこれ5年以上のキャリアを持っていることになる。まあ、現在も教えている関係から、今までの登録販売者試験に目を通すことも、当然ながら多いのだが…正直言って、その変動の大きさには少々びっくりするモノがある。手っ取り早く言ってしまえば、難易度が上がってきているということ。

 登録販売者試験が実施されて間もない頃(ちなみにこの頃は、まだ登録販売者試験対策には関わっていなかった)は、『 どんなものかな? 』と、実際に解いてみたことはあったのだが…まあ、その時点で有している〝薬剤師の知識〟及び〝薬剤師国家試験対策の講師としての知識〟で、何とか答は出せる状況。ズバッと『 答はコレだ! 』と出せるものも当然あるのだが、ほとんどが消去法。『1と3は確実に誤だから…4もなんかおかしいな…2かな? 』といった感じ。それでも正答を選んでいるのだから、『 全く持ってお手上げ 』『 手も足も出ない 』という状況ではなかった。当時、一緒に薬剤師国家試験対策を行っていた仲間の講師達にも聞いてみたが、やはりそんな状況で『 まあ答は選べるかな…って感じだよね 』と話していた。

 薬剤師国家試験対策を行っている教え子達の中にも、登録販売者の資格を持っている学生は、毎年何人かいる。『 薬剤師国家試験が駄目だったので、チョット登録販売者の資格を取ろうと思いまして… 』といった感じ。『 難しかった? 』と聞いてみると…『 う~ん、そうでもなかったですね。簡単ではなかったけど… 』とのこと。まあ、薬剤師国家試験に比べれば出題範囲もそう広いものではないし、問題数も多くはない。1日で終わるとあって、試験時間もそう長いものではない(あくまでも薬剤師国家試験と比較した話である)。薬剤師国家試験で少々苦労してきている学生たちにとっては、そんなに〝手に余る試験〟という訳ではなかったようである。実際、薬剤師国家試験対策をしている最中に、『 登録販売者の試験、合格しました 』と連絡してくれる学生さんも少なくはなかった。

 しかし…昨今は事情が変わってきているようである。『 登録販売者試験…受けたけどダメだったんですよ 』という声を、チラホラ聞くようになったのである。以前は大学在学中に受験して資格を取る学生さんもいたのだが、昨今は在学中に挑戦はしたものの、残念な結果となってしまったという話を聴く機会も少なくはない。卒業した後、すなわち薬剤師国家試験対策を行っている学生さんから『 登録販売者試験…ダメだったんですよ… 』といった声を聴く機会も増えてきている。やはり受かりにくくなっているのだろうか?

 登録販売者試験の合格率の推移を見ると…。まあ、登録販売者試験は都道府県の実施する試験であるから、当然ながら各県ごとに合格率の違いはあるし、もちろん問題の難易度もそれ相応の差はあるので、一括してその合格率を評価するというのも、いささか無理はあるのだが…とりあえず全国の合格率を見ると、平成27年の試験までで、大体43~47%の間を行ったり来たりといった感じである(1回目は75.7%と少々高めである)。『 各県ごとに合格率の違いはある 』と前述させていただいたが、例えば東京では最高で76.7%、最低で27.9%と、やはりばらつきがあったりするが、それでも40%代が多いようである。まあ、大体半分弱の人が受かる試験ということになる。つまり…とりわけ、受かりにくくなっているという訳でもないということ。

 以前、登録販売者試験対策の教え子と話をした際、『 自分は理系ではなかったので…結構大変ですね 』という話をしていた。『 理系でないって言っても、登録販売者試験に計算問題はないんだから、大丈夫だろ(ちなみに、今のところ計算問題は出題されていない)? 』と言ったところ…『 イヤ、計算じゃないんです。身体の仕組みとか、生物系が大変なんですよ 』とのこと。なるほど…どうも〝理系〟という言葉を耳にすると『 数字・計算 』というのが、すぐに頭に浮かんでしまうが、確かに文系では〝生物〟はやらないようだ。やはり、生物をやるのは、理系なのか…。まあ、『 生物理系問題 』は横に置いておいて…確かに生物系に触れたことが無ければ、登録販売者試験問題は少々難儀なものになるかもしれない。薬を扱う以上、体の仕組みを知っておかなければならないのは、言わずもがな。私が教えている範囲でも、普通に『 交感神経が興奮することによって… 』とか『 アセチルコリンが、ムスカリン受容体に結合するのをブロックすることより… 』『 胆汁とは、肝臓で生成され、十二指腸に分泌される消化液で… 』なんていう話をしている。確かに、生物にあまり触れたことが無い人間にとっては、未知の分野であるからして、なかなか大変なものがあるのも、これ然りである。

 ん?では、薬剤師国家試験対策を行ってきた人間は?薬学は理系。もちろん大学6年間で体の仕組みはもちろんのこと、薬に関してもたっぷり勉強してきている。もちろん、薬事関連法規・制度や医薬品の適正使用・安全対策なんかも勉強してきているはず…。なのに…私の周りでは、合格しない人が増えてきている。これはいったい、どういうことだろうか?

 受かりにくくなってきているという訳ではないのだが、試験自体の難易度が上がってきているのは事実である。漢方処方製剤なんかの問題も、少々際どいコースの投球がなされていたりする。中には『 オイ、何だこの問題! 』なんていう問題もチラホラ目にするのは事実。しかし、薬剤師国家試験対策を行ってきた人達が、なかなか合格しなくなってきている原因は、そこではないと思う。では、何が原因だろうか?私が見る限り、薬剤師国家試験対策を行ってきた人間が、登録販売者試験でいい結果を出せない場合は、往々にして〝驕り(おごり)〟が見られるということ。早い話『 薬剤師国家試験対策をやっているんだから、登録販売者試験なんて簡単だろ 』という気持ちが見受けられるということである。

 どんな試験であろうとも、試験は試験である。その対策姿勢、受験姿勢に上下はない。そして、どんな試験であろうとも、侮った時点で負けである。どのような試験であっても、侮らず100%をつぎ込む。これが試験対策というものである。武芸家はどんな相手と戦おうとも全力を尽くす。獅子は兎を狩るにも全力を尽くす。これと同じである。実際、薬剤師国家試験対策の教え子達の中にも、登録販売者試験に合格している人はたくさんいるが、皆、真面目に勉強していた人達である。昨年も、教え子が登録販売者試験に合格しているが、真面目にコツコツと勉強していたようである。もともと、真面目な学生さんであったので、登録販売者試験に対しても真摯に取り組んでいたのだろう。

 薬学出身であろうと、薬剤師国家試験対策を行ってきた人間であろうと、そうでなかろうと、そんなことは関係ない。登録販売者試験は登録販売者試験である。1つの試験として、それ相応の対策をしなければ、いい結果が出ないのは当たり前の話である。前述のように、どんな試験であれ、その対策姿勢、受験姿勢に上下はない。平成30年度の東京都における登録販売者試験は、9月9日(日曜日)に行われる。早い所では8月29日が試験日である。試験まで、あと1カ月強といったところか…。そろそろ試験対策もラストスパートに入る時期である。平成30年度の登録販売者試験に臨む方は、驕ることなく、真摯な気持ちで試験対策に精進してもらいたいと思う。驕ること無きラストスパート…そして、その勢いで合格をつかみ取ってもらいたい。そう願っている次第である。

 

 

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2018年7月21日 | コメントは受け付けていません。 |

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自分の機嫌は自分で取る。

 ご存じ、みやぞん氏のお言葉。みやぞん氏に関しては、改めてここで説明する必要はないでしょう。あらぽん氏と漫才コンビ〝ANZEN漫才〟を組んでいる芸人。体力的にも芸術的にも、多才なお方。そのくせ、そんな凄いことを鼻にかけることもなく、いつも人には優しく接している。そして、やはりニコニコ、嫌な顔せず前向きに物事に取り組む姿勢が共感を呼んでいるお方。

 その、みやぞん氏が番組中で言ったのが、ブログタイトルのお言葉。私は、リアルタイムでその番組を見ていたのですが、この言葉を聞いたときは、『 さすが! 』と思わず声をもらしてしまいました。誰かに機嫌を取ってもらうのではなく、自分の機嫌は自分で取る。〝機嫌〟という言葉を聞くと、つい『 機嫌を取る 』と出てきてしまうように、『 誰かに対して機嫌を取る 』とか『 誰かに機嫌を取ってもらう 』とか、どうも『 誰かに 』という言葉が付いてしまうもの。誰かあっての言葉であり、自分一人だけでは、チョット成り立たないように思ってしまう…そういうイメージの言葉ではないでしょうか?

 しかし、実際は誰がいなくとも、自分一人でも十分成り立つ言葉なのです。〝機嫌〟には『 表情や態度にあらわれる気分のよしあし。快・不快などの感情 』という意味があるそうです(デジタル大辞泉より)。〝気分の良し悪し〟や〝感情〟な訳ですから、確かに第三者が必ず絡むものかと言えば、そうではないということになります。

 さらに…機嫌には『 気分がよいさま。愉快なさま 』という意味合いもあるのですが…こちらの方は一般的に『 ご機嫌 』といった具合に使われている場合が多いようです。普段我々が使っている〝機嫌〟は、どちらかというと、こちらの方ではないでしょうか?すなわち『 気分がいい状態 』を指している場合が多いということ。もちろん、みやぞん氏の言っている〝機嫌〟もこちらの方。で、こちらの方の〝機嫌〟も…気分が良いといった状況も、一人の時も十分ありえますし、愉快であることも、これ然りで、やはり第三者が必ず絡むかというと、そうではないことがお分かりいただけることと思います。なるほど…第三者が絡むことなく、ご機嫌、すなわち気分がいい状態になれるのなら、確かに『 自分の機嫌は自分でとることが出来る 』ということになります。第三者に左右されないことはもちろんのこと、環境や今置かれている状況にも、左右されないことも十分可能。確かに、第三者や環境・状況といった外的要因がどうであれ、ご機嫌な場合は多々ありますし、外的要因がどうであれ、みやぞん氏のように、いつもニコニコご機嫌な方もいらっしゃる訳ですから。

 自分一人で、ご機嫌になれる。人は、自分で自分の機嫌を取ることが出来る。しかし、普段、私たちは機嫌というモノには第三者が絡むものだと思いこみ、自分で自分の機嫌を取ることなど考えようともしません。いつでも自分で自分の機嫌を取ってご機嫌になれるのに、第三者や環境・状況といった〝外的要因〟に、『 ご機嫌になること 』を依存してしまう。逆に言うならば…外的要因が機嫌を取ってくれないから機嫌が良くならない。つまり、外的要因が原因で機嫌が悪くなってしまう…ということになります。自分で自分の機嫌を取れるのに取らない。外的要因が機嫌を取ってくれることを期待する。外的要因が機嫌を取ってくれず、期待通りにいかないから、機嫌が悪くなってしまう。機嫌が悪いのは自分のせいではなく、外的要因が機嫌を取ってくれないことが原因…。ん~、チョットおかしな話だとは思いませんか?

 外的要因で、自分が不機嫌になったり、面白くなくなったりする…これって、もったいないことだとは思いませんか?外的要因のせいで、自分がつまらなくなってしまうなんて、つまらないことだとは思いませんか?周りがどうであれ、周りで何が起これども、自分は自分でご機嫌な方がいいではないですか?周りの人間からどう思われようと、自分は自分で楽しいし、ご機嫌。こんな状況がベストではないでしょうかね?『 なんで、こいつは笑っていられるんだ? 』とか『 こっちは、あんたが面白くないのに、そんなの知る由も無しかよ! 』『 何が楽しいのか知らないけど、いつも機嫌いいなコイツ 』とか思われても関係ないのです。自分だけが楽しければいいのです。もちろん周りに迷惑をかけて、自分だけが楽しいような状況はよろしくありませんが、そういう場合でなければ、自分がご機嫌な方がいいに決まっています。残念ながら、周りの人のご機嫌までは面倒見切れませんから、自分だけはご機嫌に。みやぞん氏は、ブログタイトルの言葉の後に、こう続けています。

自分の機嫌は自分で取る。人に取ってもらおうとしない

人に取ってもらおうとしない。周りに何かしてもらうことを期待しない。何故ならば、自分でできるから。自分一人で、十分ご機嫌になることが出来るから…。

 以前読んだ本に、こういうことが書いてありました(書籍名と著者を忘れてしまって申し訳ありません)。

機嫌が悪い人は〝機嫌が悪いを選んでいるのだから、あなたには関係ない。

機嫌が悪い人のそばにいると、憂鬱な気分になってしまうのは、よくある話。しかし、これもよく考えてみれば、外的要因によって憂鬱になっている、ということではありませんか?周りの人がどうであれ、自分で自分の機嫌を取れば、ご機嫌になれるのです。確かに、機嫌の悪い人がそばいると、憂鬱な気分になってしまうのも分からなくはありません。しかし良く考えてみれば、機嫌が悪い人というのは、その人自身が『 機嫌が悪いこと 』を選んでいるのですから、こちらには関係がないと言えば、関係のない話ではないでしょうか?人が何を選択しようと、自由ですから…。『 機嫌が悪いとこっちまで…。だから機嫌よくしなさい! 』なんていう具合に言ってしまう人もいるようですが、よく考えてみれば、それっておこがましいことではないでしょうか?だって、機嫌のいい人に『 機嫌いいのを止めなさい! 』って言えます?ご機嫌な人に『 機嫌いいのやめろ! 』というのと、機嫌悪い人に『 機嫌よくしろ! 』っていうのは、ある意味同じことじゃないですかね?どちらも、本人がそれを選んでいる訳ですから、第三者が『 それを選択するな! 』とは言えないはずなのです。好きにさせておけば、いいではないですか?『 でも、機嫌の悪い人がそばにいると… 』って、ホラ。自分の機嫌を外的要因のせいにしてしまっている。自分のご機嫌は外的要因には左右されません。自分の機嫌は自分で取る…自分で取ることが出来るのですから。『 機嫌の悪い人がそばにいると、私も憂鬱になるから、機嫌よくなりなさい! 』なんて、やはりおこがましい意見だとは思いませんか?自分で、機嫌よくなることが出来るのに…。

 『 機嫌がいい 』のと『 機嫌が悪い 』、どちらを選びますか?どちらも選べるのですよ、外的要因に左右されることなく…。どうせ選ぶなら、ご機嫌な方を選んだ方がいいとは思いませんか?そっちの方が楽しいですから…。前述のように、みやぞん氏は体力的にも芸術的にも、多彩な才能を見せてくれています。一見、我々がへこたれてしまいそうな事も、ニコニコと成し遂げてしまいます。何故、そんなことが出来るのでしょうか?もちろん、類まれなる感性と才能を持っていることも、その理由の一つであると思います。しかし、やはり自分の機嫌を自分で取る。人に取ってもらおうとしないで、自分で自分の機嫌を取って、いつもご機嫌でニコニコしている。これが、素晴らしき成果を成し遂げている、最大の理由なのではないでしょうか?私はそう思っています。

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2018年7月11日 | コメントは受け付けていません。 |

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失敗の中には可能性が含まれています。

 ご存知、イチロー選手のお言葉。

 イチロー選手に関しましては、ここで改めて説明するまでもないと思いますが…日本の野球界において数々の偉業を成し遂げ、その身を大リーグへと進めることに。もちろん、大リーグでも数々の偉業を成し遂げ、現在はシアトル・マリナーズ会長付特別補佐という位置づけ。MLBシーズン最多安打記録保持者、プロ野球における通算安打世界記録保持者、最多試合出場記録保持者という、とんでもない偉業を成し遂げているお方であることは、言わずもがな。

 そんな偉業を達成されているお方なので、我々凡人からすると『 もの凄い才能をもっているから、順風満帆に、進んできたのだろうな 』なんて思ってしまいがち。もちろん、失敗なんていう言葉とは、トンと無縁のお方…などと思ってしまいがちなのですが…。そんなイチロー選手が発したのが、ブログタイトルのお言葉。チョットびっくり…と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 発明王の名をもつ、言わずと知れたトーマス・エジソン。米国の発明家・起業家であり、生涯に1,300もの発明を行ったお方。諸説紛々ありますが、現在の日常生活では〝当たり前と思われるモノ〟を色々と発明されているのです。そのトーマス・エジソンのお言葉に、次のようなものがあります。

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 失敗したわけではない。
 それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ。

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 私は失敗したことがない。
 ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。

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 エジソンは、失敗したことが無いと言っています。『 1万通りの、うまく行かない方法を見つけた 』とも、言っています。『 失敗ではなく、勉強したのだと言いたまえ 』と促してもいます。この二つの言葉は、『 失敗とはダメだったことではなく、その中には成功のカギが隠されている 』ということを、暗黙のうちに示唆していると思います。その失敗の中に隠された〝成功のカギ〟こそ、イチロー選手の言っている『 (失敗の中には)可能性が含まれています 』なのではないでしょうか?

 私は、失敗という言葉は、ほとんど使いません。まあ、失敗と思うことも少ないのですが…。確かに、狙っていた事象とは違う結果になることはありますが、あえて『 失敗した… 』と感じることはありませんし、途方に暮れるなんていうことは、ほとんどと言っていいほどありません。『 このやり方じゃあダメなのかぁ… 』とか『 このやり方じゃあ、違う結果になったか…じゃあ、次はどうすれば狙った結果になるのかな… 』と考えます。別に〝ポジティブシンキング〟と意識している訳でもありません。私にとっては、恐れ多くもエジソンのように『 うまく行かない方法を見つけた 』に過ぎないといった感じ…よりも、もっと軽く『 経過点の一つで、それほど大したことでもない 』位な感じ。まあハッキリ言ってしまえば、失敗というモノを意識していないというか、失敗と思っていないというか…もっと手っ取り早く言うならば、『 失敗って何?自分とは無関係 』位に思っている…というか意識もしていないのです。意識もしていないから、失敗という言葉を使うことも、それが頭に浮かぶことも、まずないのです。それよりも『 では、次の一手はどうするのか? 』そちらの方に、意識はすぐにシフトしてしまいます。ですから、あまり失敗と捉えたり、失敗だったと意識することはありません。前述のように、そもそも失敗というモノを意識するというか、その存在を感じることもほとんどないのです。失敗という言葉も、全くと言っていいほど使いません。それよりも…次の一手はどうするのか…?

 そんな心持のせいか、失敗という言葉を使う人とは、あまり交流を持たないようにもしています。人がやった結果を指しては『 失敗でしたね 』なんていう輩がいますが、こういう輩にはなるべく関わらないようにしています。『 失敗でしたね 』という発言者から見た場合はそうであっても、そんな一言では片づけられないくらいの大きなものがその背景には隠されているからです。それを、ちっぽけな自分の観点だけから判断して、どや顔で『 失敗でしたね 』なんて語る輩には、まずロクな人間がいません。そんな輩とは関わらない、とにかく距離をおくようにするのがベスト。大体…偉そうに『 失敗でしたね 』なんて語っていますが…『 あなたの観点から見ての失敗であって、他の観点から見た場合はどうなのですか? 』と言いたくなりますね。『 偉そうに言っているけれども、物事全体が見えているのですか? 』といったところ。そういった輩は、俯瞰で物事を見ることはせず、重箱の隅でもつつくかが如く、狭い視野で判断して『 失敗でしたね 』なんて偉そうに言ってくるのがほとんどで、まず何の役にも立たない輩が多いのは確か。実際、そういった輩は『 では次の一手は? 』と聞いてみても…まず手が無かったり、あったとしても非常に程度の低い手である場合が、ほとんど。偉そうに言ってはいるのだけれど…浅はかな案だったり、ロクな手立てが考えられない…批評すれども手立てはなし…使えない人間とは、そういうモノです。そういう人間と付き合って、何か得られるものがあると思いますか?

 だから私は、ネガティブなことを言う人間とは、なるべく距離を置くようにしているのです。第一、そういう人間といても、つまらないですし…。できるだけ、近寄らないのが一番。何の得にもなりません。大体、そんなネガティブな言葉を耳にしていたら、こっちも引きずり込まれてネガティブになってしまったり、どこからかネガティブな事象を呼んできてしまいそうです。『 失敗でしたね 』なんていう人間よりも『 思ったよりもうまくいきましたね 』とか『 次は上手く行きそいうですよ 』『 得られるものはありましたよね 』なんて具合に言う人の方が、一緒にいても明るく楽しいとは思いませんか?思っていた通りにいかなったことを直視するにしても、『 なんか違う方法を考えた方がよさそうですね 』なんていう言い回しの方が、次の一手を考えている、前進に貢献してくれ、活路を見いだせそうな言葉だとは思いませんか?そう、前進。まだまだ進める。どうやって進もうか?なんか楽しいと思いませんか?『 じゃあ、次の一手はどう打とうか? 』なんて考えて試行錯誤する。あれやこれや考えては、どこかそれを楽しんでいる。そう、ネガティブな言葉には、前進が無いのです。そこでストップ。まさに打ち止めの終止符。そこで終わってしまうのですから、面白くもありません。進めなかったら、面白いもへったくれもないでしょう?そんな面白くない状況のところに、上から目線的にドヤ顔でそれを言われた日には…。そういった人間とは、お付き合いはご遠慮願いたい…そう思ってしまうのが、まあ当たり前と言えば当たり前の話ではないでしょうか?

 実はブログタイトルの、イチロー選手のお言葉には続きがあります。

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失敗の中には可能性が含まれています。これも、野球を続ける面白さなんです。

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そう、イチロー選手もやはり、『 じゃあ、次の一手はどう打とうか? 』なんて、あれやこれや考えては、それを楽しんでいるのではないでしょうか?思い通りの結果にならなかったら、『 じゃあ、次はどうしようか? 』と自らあれこれ考えては、試行錯誤する。これが、面白いのだ…そういっているのではないでしょうか?やはり、数々の偉業を成したお方だけはあります。思い通りの結果にならなかった時も、前進することを阻んでしまうようなネガティブな言葉を使わず、次の一手の試行錯誤を楽しんでしまう。だからこそ、数々の困難を乗り越えて、偉業を成し遂げることが出来たのでしょう。エジソンの『 それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ 』といった言葉の中にも、それを見出すことは出来ます。〝誤り〟という言葉はネガティブですが…『 そうではない。勉強したのだ 』と言えば、何とも次の一手が楽しくなってしまう言葉だとは思いませんか?『 次の一手の勉強をした。だから、次の一手はいいものになる 』と示唆しているのですから…。

 同じ事象であっても、受け止め方や言葉の使い方で、こうも捉え方が変わってしまうのです。それどころか…終止符を打つのか?それとも次の一手の参考にするのか?そういった、その後の行動をも変えてしまうことになるのです。皆さんはどちらがいいですか?『 失敗でしたね 』なんてネガティブな言葉を使って終止符を打ち、その後、何もできずに悶々としているのと、『 なんか違う方法を考えて、乗り切るには… 』と言う言葉を使い、前進の活路を楽しく見出していく。まあ、あえて『 どちらが… 』なんてと聞くまでもないと思いますが…。

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私たちは 失敗はしない。勉強しているだけだ。

アン・ウィルソン・シェイフ (精神科医・作家)

 

 

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2018年7月5日 | コメントは受け付けていません。 |

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