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合格のABCD

 今回のブログタイトルは、〝株式会社 新規開拓〟の代表取締役社長である朝倉千恵子氏のお言葉を、拝借させていただいています。朝倉千恵子氏は、小学校教師、税理士事務所、証券ファイナンス会社などの勤務を経て、〝株式会社 社員教育研究所〟に入社。営業未経験ながら、努力を重ねトップセールス賞を受賞するまでに。『 教育で日本を変える 』といった信念の下、全国各地で研修・講演活動を精力的に展開されているお方なのです。

 その朝倉千恵子氏のお言葉に、『 ABCDの法則 』というのがあります。あまりにもいい言葉なので、色々な方面で引用されており、『 成功のABCD 』と表現されている場合もあるようです。

【 ABCDの法則 】

  A:当たり前のことを

  B:馬鹿にしないで

  C:ちゃんとやる

  D:(それが)出来る人

『 ABC:A(当たり前のことを)、B(馬鹿にしないで)、C(ちゃんとする) 』と、ABCで表現している場合も、時折、目にしたりしますが…。発した朝倉千恵子氏も『 このABCD法則をとても大事にしてきました 』とブログで書かれています。朝倉千恵子氏が、このABCD法則を、如何に大事にしているのかが伺われることと思います。

 このABCD法則、『 さすがは年間売上げ1億円を達成し、トップセールス賞を受賞された人の言葉だけはある! 』と、しみじみ思ってしまうのです。およそ、どの様な事柄においても、このABCD法則は当てはまるのではないでしょうか?もちろん、試験対策においては、確実に当てはまる法則。もし、朝倉千恵子氏のお言葉を、試験対策における言葉として拝借させていただくのなら…ブログタイトルにあるように『 合格のABCD 』となると思います。

 お会いしたことはないのですが…このABCDのお言葉からして、朝倉千恵子氏が如何に優秀なお方かは、十分窺い知ることが出来ると思います。『 当たり前のことを、馬鹿にしないで、ちゃんとやる。それが出来る人 』が大事。この言葉の中に、突飛な表現や力強いフレーズ、奇をてらった語句が入っていますか?そう、そんなモノはどこにも入っていないのです。ある意味、小学生でも口にできる簡素なフレーズ。しかし…得てして重要なことというのはそんなも。誰もがすぐに理解出来るほど簡単な内容。では、それが出来るかというと…そう、それが難しかったりするのが、世の常…。

 当たり前のことほど、皆やらない。知ってはいるけれど、やらない。やっても、馬鹿にして、いい加減にやる。ちゃんとやらない。だから、それが出来ない…。

 試験対策においても、全く同じことが言えます。私は学習指導の時に、1週間の計画表を書かせます。そして、『 毎日、何時から何時まで何時間勉強するか? 』を記入させるのですが…思いのほか、これが出来ない人が多い。何故、出来ないのか?私は不思議でたまらないのです。だって、そうでしょう?(国家試験の)受験生なのだから、毎日勉強するのは当たり前。勉強するには、何時から何時まで勉強すると決めるのは。これまた当たり前の話。だから計画を立たせているのですが…何故か、その通りやらない。始める時間もいい加減なら、勉強に費やしている時間も、計画表に記入したものとは全く違う時間(少ない場合が圧倒的に多いのですが…)。自分で『 何時から何時まで何時間勉強する 』と決めた。それを実行することが、そんなに難しいことでしょうか?時間になったら、机に向かって勉強を始めればいいだけの話ではないでしょうかね?そして、決められた時間までやればいいだけの話ではないでしょうか?そんなに、難しいことでしょうか?ましてや、国家試験合格を目指している訳ですから、日々勉強しなければならないのは当然の話。しかし、それが出来ない…。

 基礎的な事を講義していると…『 こんなこと… 』と馬鹿にする方がいらっしゃいます。『 こんな基礎的なことじゃなくて、国家試験に出る内容を… 』という方もいらっしゃいます。そういう方達に限って、成績が芳しくないのも事実。それはそうでしょう。基礎的な部分をマスターするからこそ、全てが成り立つのは当たり前の話。基礎的マスター抜きで、物事の成就など成し得ないのも、これまた当たり前の話。なのに…そこの所を馬鹿にする。そこの部分を疎か(おろそか)にする。(基礎的な部分をマスターするという)当たり前のことを、馬鹿にして、ちゃんと出来ない人は…成績が芳しくない。(基礎的な部分をマスターするという)当たり前のことを、馬鹿にしないで、ちゃんと出来る人は成績が良好。これも至極当然の話…。

 第一…『 こんな基礎的なことじゃなくて、国家試験に出る内容を… 』という方にお尋ねしたいのですが…〝こんな基礎的なこと〟から始まって、〝こんな基礎的なこと〟が集積されて、国家試験に出題される内容になるのではないでしょうか?そこもマスターせずに、『 国家試験に出る内容を… 』と言われても、それは土台無理な話とは思いませんか?物事には順番というモノがありますので…。その順番を飛ばしてやろうとしても…それは、やはり『 当たり前のことを、ちゃんと出来ない 』ということに、なるのではないでしょうか?体操を始めたばかりの人間が、その基礎を習っている時に『 こんな基礎的な事じゃなくて、オリンピックで金メダルを取ることが出来るような技を教えて欲しい 』と言ったら、どうなりますかね?まあ…基礎的な部分もマスターせずに、国家試験の内容をやるとなれば『 覚えておいて下さいね 』の一言で済ませるという方法になってしまいますが…残念ながらそれで済ませてもらうからには、とてもではありませんが、〝講義〟とは呼べない代物になってしまうことも、ご了承いただきたいと思う次第です。

 私も薬剤師国家試験対策に長く関わっていますが、やはり合格していった人達を見ると、皆、『 当たり前のことを、馬鹿にしないで、ちゃんとやる。それが出来る人 』でした。特に難しい何かをするのではなく、特殊な事をするのでもなく、ただ、当たり前のことを、馬鹿にしないで、ちゃんと出来た人。そんな人達が、合格を掴んでいったと思います。チョット厳しい意見ですが…難しいと言われても、薬剤師国家試験は受験者の70~80%が合格する試験。やはり、当たり前のことを、馬鹿にしないで、ちゃんと出来る人が、合格をつかみ取るのではないのでしょうか?

 しかし前述のように、これが中々難しかったりすることも事実。そして、それを継続することも、大切なこと。昨今は、続かない学生さんが増えてきているのも事実。前述のように、『 毎日、何時から何時まで何時間勉強するか? 』と計画を立たせても、それが続かない人も少なくはないのです。自分で立てた、勉強の計画を実行するということも、受験生にとっては、ある種当たり前のことなのですが…。

 朝倉千恵子氏の言葉である〝ABCD法則〟。これが試験対策においても、如何に重要なことであるかが、お分かりいただけたかと思います。格別、難しいことではありませんよ。当たり前のことを、馬鹿にしないで、ちゃんとやる。そして、それが出来ればいいだけの話ですから…。試験対策に臨まれる方は、この〝ABCD法則〟をしっかりと認識して、試験対策に励んでもらいたいと思っています。何と言っても、これは〝合格のABCD〟でもあるのですから…。

 

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2018年6月25日 | コメントは受け付けていません。 |

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意地悪な人への対処法。

 最近も相談を受けたのだが…。世の中には、意地悪な人というのがいる。チョット、いたずらを仕掛けてくるといった意地悪というか、ちょっかいではない。確実にこちらにアタックしてきている、打撃を与えようとしている〝嫌味を仕掛けてくるタイプ〟である。その中でも厄介なのが『 私も意地悪だからさぁ… 』などと公言している輩。人に言われる前に言ってしまえばこっちのもの。先に言ってしまうということは、裏を返せば相手に言わせないということ。相手に言われるのが嫌なのかプライドが許さないのか、はたまた『 正直に言っているじゃん! 』といった開き直りなのか…まあ、理由はいかんとせよ、先に言ってしまい相手を封じる。厄介この上ない。

 まあ意地悪にもいっぱいあるのだが…目の前の相手が対象になることを言いながら、その人を攻撃してくる輩。これが厄介。かくいう私もそういう人間を知っているのだが…私に当てはまる事項を並べ立てては『 こういう人間は… 』とか『 私が知っている限り、こういうタイプの人は… 』などと言ってくる。まあ、本人は腹の中で『 お前のことを言っているんだよ 』などと思って、ほくそ笑んでいるのだろうが…性格が悪いことこの上ない…のはお分かりいただけることと思う。まあ、そんな輩の顔を見ると…人としてこういう顔だけはしたくないな…と思える顔で、『 こういう人はさ… 』などと語っては、こちらをチラ見してくる…。ん~最悪だ…。まあ言っている本人からすれば『 別にあなたのことだなんて、言っていないじゃない!証拠でもあるの? 』とでも言いたそうな勢いで話しているのだが…『 あなたの視線から話し方から、そして、あなたが例えに上げた事例の全てから、それが私と伺えるのですよ。人をあまりバカにしないでください』とでも言いたい気分である。

 言っている本人は相手には打撃を与えたいがものの、さりとて相手にダイレクトに知られては困るという、何とも矛盾した状況なのだろうが…まあガッツリ相手に打撃を与えて憂さを晴らしたいのが本音なのだろう。で、反撃を避けるために、二つの伏線を用意する。一つは『 別にあなたのことだとは言っていないじゃない? 』。そして、もう一つが…『 私も意地悪だからさぁ… 』といった切り札…。しかし…よく考えればおかしい話である。何故、わざわざ自ら『 私も意地悪だからさぁ… 』という必要があるのだろうか?普通、『 意地悪だね 』と言われれば憤慨するのではないだろうか?それを、あえて自分から言うということは…確実に伏線を張っているということ。『 意地悪な人ですね 』と言われることに対する伏線を…。何故、わざわざ伏線を張るのだろうか?簡単である。『 意地悪な人ですね 』と言われることを予期しているからである。何故、予期しているのか?簡単である。意地悪なことをしているからである。つまり…『 私も意地悪だからさぁ… 』と自ら口にしているということは、『 意地悪なことをしている 』と自覚してやっている、ということになる。まあ、実際にしているのだが…。

 『 そんなに、言いたいのなら直接言えよ 』とも思ってしまうのだが、そういうことはしない。何故なら意地悪だから…。遠回しに相手のことを言いながら、しっかりと攻撃しては、腹の中で『 お前のことを言っているんだよ 』…。性格が悪いことこの上ないが…本人が事前に『 私も意地悪だからさぁ… 』などと公言している。相手にモノ言おうにも『 だから私は意地悪だっていっているでしょ! 』と逃げ切る気か?イヤ、前述のように、あらかじめ言っておいて、相手に何も言わせない、相手を封じ込める手立て。厄介なことこの上ないが…。

 『 そんなに、言いたいのなら直接言えよ 』と前述させていただいたが…おそらく直接言ってしまうと、『 この人、イヤな人と思われてしまう 』というのがあるのかもしれない。意地悪と自覚してやるのに、イヤな人と思われてしまうのは嫌…とは、やはり相当厄介ない輩ではないだろうか…。

 そういう輩は往々にして、自分の損得勘定で人を見ている場合が多い。早い話、偉い人や自分の役に立ちそうな人には笑顔で接し、『 自分の気に入らない相手で、かつ、自分が太刀打ちできる人間(早い話、自分が優位に立てる相手) 』には、強く出る…。『 こいつには強く言える 』『 この人からは好まれた方がいい 』といった判断をしている人が多いということ。ある種、人間の見極めである。私は、予備校講師稼業に長くかかわってきたが、そういった輩には何人も出会ってきた。こちらが下手に出ていると、いくらでも図に乗ってくる。まあ、わたしの友人によれば、これは何も予備校講師稼業に限った話ではないそうなのだが…。

 天網恢恢疎にして漏らさず。そういった意地悪な人間は、私が知る限り最後は芳しくない状況に陥っているパターンが多いようである。イヤ、そういう輩の人生を見ると、あまりパッとしない人生を送ってきているのも事実である。まあ、第三者であるこちらからの見た目であるから、本人が『 私の人生素晴らしい! 』と思っているのなら、それで特に問題はないのだが…。しかし、本当にそうであるなら…本当に素晴らしい人生をおくっているというのなら…果たして、人に意地悪するだろうか?

 何故、意地悪するのだろう?先ほど『 相手に打撃を与えて憂さを晴らしたいのが本音なのだろう 』と書かせていただいたが、これが理由だろう。早い話、うっぷん晴らし。だからこそ、自分より格下とみなした相手…すなわち〝反撃してこない人〟〝大人しい人〟〝立場が弱い人〟〝反論できない立場の人〟等をターゲットにするのである。そういう人間に限って、そこそこ頭がいいから、なお厄介…面倒くさい相手である。

 で、相談を受けた内容も、大体そんな内容であったのだが…。では、どう対処すればいいのか?放っておくのが一番いい。まあ、放っておいても、そういう輩はまた仕掛けてくるのだが…。前述のように、意地悪する輩は、偉い人や自分の役に立ちそうな人には笑顔で接する。これ見よがしに親しく接しては、あからさまにこちらには接してこない(まあ、見せつけているのだろうが…意地悪とはそんなものである)。前述のように、反撃してこない相手をターゲットに憂さ晴らしをしているのである。なら、やはり放っておくのがいい。『 ず~っと、憂さ晴らしの対象になるなんて耐えられない! 』という人。ご安心あれ。世の中というものは、そう甘いものではない。偉い人や自分の役に立ちそうな人には笑顔で接したところで、それでうまくいくかというと、必ずしもそうはいかないところが、世の中の妙。前述のように、私はそういう人間をたくさん見てきたが(一部はブログでも書かせていただいたこともあるが…)、皆、その後はパッとしない人生を送っているようである。まあ、人生は人それぞれであるが故、パッとしているかどうかは、その人の判断なのだろうが…。でも…そんな輩が腹の中で『 お前のことを言いているんだよ 』などと思いながら、色々とこちらを対象としたことをイヤミに語っている顔を見る限り…そして、そんな人の人生を見てみる限り…社会的にどんなに優秀とみられる立場の人であっても、『 幸せそうじゃないなぁ…っていうか、パッとしない人生だ… 』と思ってしまうのも事実なのである。こう見えても、色々な環境で、色々な人の人生を見てきている。その見てきた母集団が多いからこそ、こんなことを言わせていただくのだが…しかし、たとえ、その母集団が少なかろうと、そんな話をしている輩の顔を見れば、誰もが『 この人は幸せそうじゃないな… 』と思ってしまうと思うのだが…。

 人に意地悪をすればするほど、幸せじゃなくなってしまう。だから、放っておくのが一番なのである。早い話、自ら自滅する方向に進んでいっているのだから…。かくいう私も、そういった輩は放っておくことにしている。これが功を成す事も知っているし、実際、功を成したした場合も多々ある。第一…人に意地悪をするのにも、それ相応のエネルギーを使うものである。放っておけば、意地悪をしている本人が疲れてしまうだけである。疲れてしまえば、意地悪もそのうち止むだろう。チョットの辛抱…イヤ、放っておけばいいだけである(でも…という方はブログ〝人には馬鹿にされていろ〟をご参照ください)。やはり、意地悪な人は放っておく。これが最良の策ではないだろうか?私はそう思っている。

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2018年6月20日 | コメントは受け付けていません。 |

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カバンの中は、大パニック!その魔物の餌食になるのは、次はあなたかもしれない…。

 毎年といっていいほど被害者が出る。物を学ぶ人間、特に予備校生にとっては、想像するだに恐ろしいほどの最悪事態。その被害者になった塾生さんは、皆、嘆き悲しむしかない…。何故なら取り返しのつかない事態だから…。その被害者なった者は、皆、その事態に騒ぎ立て、そして…諦め、嘆き悲しむしかない…。

 薬進塾は、薬剤師国家試験予備校であるがゆえ、塾生さんは皆、カバンを持って登校(登塾?)している。当然、カバンの中にはプリントや色々な教材が入っていることに。それも、ただの教材ではない。講義を受け、大事と思われている箇所には線が引かれ、講師が伝えた〝大事なこと〟が記載されているプリント、そしてそれらをまとめたノートでといった、〝世界に一つしかない、かけがえのない教材〟なのである。受験生にとっては、命の次に大事と言っても、決して過言ではない教材。それが…。

 今年も早速、一人犠牲者が出ている。その塾生さん(女性)、仮にMさんとしよう。Mさん、塾に来るや否や、こう口を開いた。『 カバンの中で、お茶がこぼれちゃって… 』。見るとMさんのカバンには大きく濡れた跡が…。電車の中で、カバンをひざに抱えていたのか、スカートも若干濡れているご様子。もちろん、そこまで濡れているということは、カバンの中は更なる洪水状態であることが十分予想される。予想通り、カバンの中は大変な状態。塾生さんも、その状況に嘆いてはいたが…幸い、プリントの中心部まで濡れてはおらず、端の部分が若干濡れている状況。とりあえず、教材自体にさしたる被害はないと、胸をなでおろしてはいたのだが…やはりプリントがダメージを受けた動揺は隠せないようであった。

 数年前は、登校中(登塾中?)にマグボトルのフタが、完全に開いてしまった塾生さん(女性)がいた。薬進塾に来るなり、『 お茶が!お茶が… 』と大騒ぎ。あまりの大騒ぎぶりに、初めは何が起こったのか理解できなかったのだが…言葉の端々から伝わる内容から、事の真相が分かった次第。その塾生さんの場合は、完全にフタが開いてしまっていたようで、カバンの中は惨憺たる状況。当然、プリントやらノートは端だけに限らず、その中央部分にまでも被害が及んでいた。プリント全体が、フニャフニャ状態で、ノートも水性ペンで書いた部分は滲んでいる。不謹慎な表現かもしれないが、大騒ぎするに値する被害…そう言える状況であったと思う。

 バッグの中は一つの世界である。その中で何かが氾濫するということは、やはり大変なことである。しかし…ハッキリ言わせていただくが、前者二人の被害は、まだそれほど甚大なものではない。確かに、プリントがびしょ濡れで、書いてある文字まで滲んでしまうとなると、その被害は小さいとは言えないだろう。しかし…前者二人のカバンの中で氾濫したものはお茶である。乾かせば、まだ何とかなる。多少のシミが残ったり、プリント・ノートがヨレヨレになったりもするが、今後の使用に関してはあまり問題はない(まあ水性ペンが滲んで読めなくなった所は、書き直すしかないが…)。しかし、これがお茶では無かったら…。

 昨年の塾生さん…正確に言うと103回合格者インタビューに応えてもらったTさん(合格インタビューが未だ掲載途中で大変申し訳なく思っている次第です)。彼女の場合こそ、最悪の〝パニック in カバン〟かもしれない。Tさんのカバンの中で漏れてしまったのは、何と〝サバ味噌〟!そう、お弁当のおかずがサバ味噌だったそうなのだが、タッパーのフタのしまりが今一つしっかりとしていなかったらしく、サバ味噌の汁がカバンの中に漏れ出してしまったのである。事件後にTさんの口から聞いて知ったのだが、やはり『 もう最悪でした 』と口にしていた。それはそうであろう。相手はサバ味噌だ。しかも、その汁だ。これほどの強敵もそういるものではない。それもそのはず、お茶と違い臭いが残るのだ。そう、あのサバ味噌の臭いが…。

 例えば、これがカレーであったらどうだろう?これも、相当に悲惨な状況となることは窺い知ることができる。匂いも当然残ることになるだろう。しかし、カレーの臭いである。そう悪くはない…と思われる。消しゴムにも〝カレーの香り〟というのがある。カレーの臭いの消しゴムがあるということは『 カレーの臭いを好む人がいる 』ということに他ならない。消しゴムを使いつつも、つい香りをかいでしまう。そんな〝好まれる香り〟なのだ。しかし、〝サバ味噌の香り〟と銘打った消しゴムはない。消しゴムを使いつつも、つい〝サバ味噌〟の香りをかいでしまう。そんな輩はいないだろう。ましてや、こういった消しゴムを使用するのは小学生と思われる。小学生が、授業中にサバ味噌の香りを好んで嗅いでいる…もし、そんな小学生がいるとしたら、歴戦の豪傑も汗ばむような、さぞや豪傑チックな小学生だろう。

 そんな臭いを持つサバ味噌の汁が、カバンの中で漏れてしまう。これほどの最悪事態も、そうはないだろう。幸いにしてTさんの場合、弁当袋に多大なる被害を及ぼしたものの、教材等の被害は小さく、廃棄したものは弁当袋だけに留まったそうである。ちなみに百均で購入した袋だそうで、まあ、そういった意味からも被害は小さかったと言える。やはり弁当は、袋に入れるに限る。先人の知恵とは恐るべきものだ。

 これが袋に入っていなかったとなると…かなり凄惨な状態になることは間違いない。鞄の中をいくら拭こうとも、相手はサバ味噌だ。カバンの中を地獄に貶める魔物としては、まさに最強最悪といっても過言ではない。教材等を汚す事もさることながら、恐るべしはその臭いだ。その武器である臭いを消すことなぞ、まず不可能に近い。おそらく、消臭剤等の効果もそう期待できないはず。だからと言って、カバンをおいそれと捨てる訳にもいかない。時を待っての、自然消臭に頼るほか無いだろう。下手をすれば国家試験会場まで、その臭いを持ち運ぶ事態にもなりかねない。なんとも恐ろしい限りである。こんな魔物の毒牙にだけは、かかりたくないものである。

 そして、なにより恐ろしいのは…これは誰にでも起こり得る、つまり誰もがその被害者になってしまう恐れがあるということ。そう、明日は我が身なのである。斯く言う私も、その被害にあったことがある。まあ、魔物としては弱小の部類に入るであろう〝お茶〟ではあったが…。弱小といえども、前述のように決してその被害は侮れるものではない。私の場合…私のカバンの中には、常時、本が2冊以上入っているのだが、その本がお茶を吸ってしまい、1.5倍くらいの厚さになってしまった。乾いても、紙のヨレヨレは治らず、何ともだらしない本の状態となってしまった(数年経過しているが、未だその被害本のだらしなさは解消されていない)。

 このブログを読んでいる方も、重々気をつけて欲しい。何故なら…誰がいつその魔物の被害者になるか分からないからだ。明日は我が身である。今日もどこかで…そして、今この時にも、どこかで被害者が生まれているかもしれないのだ。年齢性別に関わらず、誰もが被害にあってしまう…なんとも恐ろしい話ではないか?さすがに、最強と謳われているサバ味噌の毒牙にかかることは、めったにないにせよ、弱小のお茶や水程度の魔物なら、誰もがすぐにその被害者になってしまう可能性は十分ある。何と言っても、これからはマグボトルやペットボトルが汎用される季節。そうなると、弱小とは言え、これら魔物の被害に合われる人も、うなぎ上りになることは間違いないだろう。だからこそ、読者の皆さんには、この〝カバンの中の魔物〟には十分気をつけて欲しいと思っている次第なのだ。明日は、あなたがその魔物の餌食になるのかもしれないのだから…。

 

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2018年6月13日 | コメントは受け付けていません。 |

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自分で決められない人が多い。

 自分で決められない人が多い。昨今の学生さんを見ていると、それを顕著に感じる。何か一つ物事を決めるにも『 友達がそうだから… 』、モノを買うにも『 友達がいいって言っていたから… 』、どこかに行くにしても『 友達がいくから… 』『 皆が行くから… 』という具合。どうも自分の判断がない。『 友達と一緒を選ぶ、という判断ではないか? 』という人がいるかもしれないが…判断とは、もともと自分ありきのものである。ここで出てくる〝自分の判断〟は『 友達がしているか否か? 』といった表面的判断であり、物事を決定する要である〝自分ありきの判断〟ではない。

 日常生活でも、そのようだ。『 良いって書いてあったから… 』で、物を購入しているようだが…往々にして、公的に何か書かれている場合。まず『 良くない 』と書かれていることなど、無いに等しい。まあ、そこら辺の推察能力も、如何なものかと思うのだが…。閑話休題。良いって書いてあるので、物を購入したようだが…ご本人はあまり納得していないご様子。良いと書いてあったから購入する…その前に、自分でその物を調べたり、実際、手にとって確かめたり、そういった行動は無かったのだろうか?

 『 何故、それにしたの? 』と聞くと、答えられない学生さんが結構いたりする。中には、こちらが聞くことによって、『 何で選んだんだろう? 』と、改めて疑問に持つ人もいる。自分で選んだのなら、『 何故、それにしたの? 』の問いには、しっかりと答えられるはずである。それ相応の考えがあり、それが判断の引き金となり選択、つまり決めたのであるから…。しかし…その理由が明確に答えられないとなると、やはり『 自ら判断していない 』『 自分で決めてはいない 』ということになる。

 『 判断 』とは『 物事の真偽・善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること(デジタル大辞泉より) 』とある。つまり、『 判断する 』という行為には『 考える 』といった行為が、つきまとうことになる。ということは、『 判断しない 』ということは『 考えていない 』ということともいえる。なるほど…確かに昨今の学生さんは、あまり考えるということをしない。往々にして、試験というモノは考えるからこそに答を導き出せるものである。考えなければ当然ながら答は導き出せないのだが…。質問に来る学生さんに、解答を導き出させるために、解法へと誘導してあげようと質問することがあるのだが…『 分かんないです 』と即答する人は少なくない。考えた挙句の『 分かりません 』はいいのだが…どうも考えることをせず、すぐに頭に何も浮かばないが故の『 分かりません 』といった発言のように見受けられる。考えずに、短時間で頭に浮かぶか、浮かばないかで『 分かりません 』と決定し、発言してしまう。ある程度の時間を要して考えなければ、答など導き出せるはずもないのだが…。昨今、考えない、考えるのが嫌いといった学生さんが多く見受けられるが…実は、これも『 自分で決められない 』ことに大きく関与しているのである。

 自分で決められないと、どうなるだろうか?友達に決めてもらう、親に決めてもらう、会社に決めてもらう、上司に決めてもらう…と〝自分以外の何か〟に決めてもらうことになる。しかし…チョット大げさな表現にはなってしまうのだが、それで果たして『 自分の人生を生きている 』と言えるのだろうか?ご存じ、シェイクスピア作品のハムレットの中に、『 人生は選択の連続である 』という名セリフがある。確かにその通りだと思うが…裏を返せばこのセリフ、『 選択なき人生はない 』ということになる。自分で選択していない、つまり自分で決めていない人生など、人生とは呼べないという事である。人生とは『 人がこの世で生きていくこと(デジタル大辞泉より) 』とある。つまり『 自分の人生 』とは『 自分がこの世で生きていくこと 』となる。すると…人生と呼べないということは、ある種、自分というものの存在が無いということではないだろうか?

 なるほど、これなら今までのことも辻褄が合う。自分というものが無いから、考えることが出来ない。考えるとは『 知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせること(デジタル大辞泉より) 』である。自分が無いなら、知識や経験などに基づくことなど出来るはずがない。つまり『 考えることが出来ない 』ということになる。考えることが出来ないのだから…考えないし、考えることも嫌いになるのも至極当然の話。もちろん、自分が無ければ判断など出来るはずもない。自分で手にとって確かめるなどということも、出来ないだろう。それには判断が付きまとうからだ。『 何故、それにしたの? 』という問いにだって、答えられるはずが無いのは言わずもがな。自分が無いのだから、自分が選んだ理由など無いに等しい。

 自分が無いからこそ、周りの意見に流される。自分が無いからこそ、他人の判断に身を委ねてしまう。だからこそ、巷に溢れる怪しい情報や、どこかの誰かが意図的に画策した情報に躍らされることになる。そう、世の中には、自分の都合のいい情報を流布して、人を思いが如く操ろうとする輩が、ごまんといるのだ。そういう輩にとって、自分無き人間、すなわち〝自分で決められない人間〟は、格好の餌食となってしまうことは間違いない。

 さらに、〝自分で決められない人間〟には、決定的なウィークポイントが、もう一つある。それは、何か事が起きた時、人のせいにするということ。自分で決めてはいないのだから、この結果は私のせいではない…と言ったところか?自分で決めないから人のせいにする。なんとも都合のいい話ではないか?自分で決めることを怠っておいて、芳しくない結果となったら人のせい。自分で選べば、何が起ころうが、選んだ自分のせいである。たとえそれが、芳しくない結果であったとしても…。それが責任というモノだと思うのだが…なるほど、その〝自らにとってのマイナスの責任〟を放棄したいが故の、一方的な決定権の譲渡なのかもしれない。しかし、自分にとっての責任を放棄するなど、まさに〝自分自身の放棄〟以外の何物でもない。

 自分の人生は自分だけのもの。そろそろ、自分一人で自分の人生を歩んでみては如何だろうが?親も友達も、自分の人生においては、外野でしかない。『 自分の人生を歩んで 』と何やら大そうなことを書かせては頂いたが、さして難しいことではない。自分自身で判断し、決めていけばいいだけの話である。確かにそれには責任が付きまとうし、芳しくない結果になったとて、それは選択した自分のせいである。しかし、それは当たり前と言えば、当たり前の話ではないだろうか?自分で選ぶことにより、様々な喜怒哀楽が生まれることになるが、それが人生というモノではないだろうか?喜怒哀楽が無い人は、お墓の中に入っている人である。お墓の中に入っているだけならまだしも…この世知辛い世の中、自分都合の怪しい情報をまき散らしては、自らの利のために人を思うがままに操ろうとする輩もたくさんいる。自分で判断し、自分で決めるという行為を怠れば、そんな輩に、操り人形のごとく骨の髄まで利用されてしまうことにもなりかねない。実際、そんな人たちもたくさん見てきている。そうならないためにも、自分自身をしっかりと持ち、例え他人や大勢と違っていても『 私はこうですから 』と周りに翻弄されず、貫くことが重要なのではないだろうか?そこには、しっかりとした自分があり、そして何よりも自分で決めた道が広がっているはずである。その道がどういう道であれ、それが自ら選んだ道ならば、必ずや何か得るものがあるのではないだろうか?少なくとも、他の誰かと一緒というだけで安易についていった道よりも、得るものは格段に多く、そして素晴らしいものが得られるはずだと、私は思っている。

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2018年6月6日 | コメントは受け付けていません。 |

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