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奇妙な…漬け丼。

づけ(漬け・漬):醬油につけたマグロの赤身のにぎりずし。また、その赤身。

大辞林 より

 

 ブログでも何度か書かせていただいているが、浅草橋は何気に飲食のお店が多い街。おまけに、名だたる名店もチラホラある街で、何気に飲食には困らない。もちろん、料金的にもリーズナブルなお店が多く、塾生さん達も気安く利用できる次第で。実際、『 せっかく浅草橋に来る機会が増えたのだから、この際、この付近の美味しいものを… 』と、あちこちのお店で舌鼓を打っている塾生さんも少なくはない。

 そんな浅草橋であるからして、飲食店の入れ替わりも決して少なくはないし、新規出店のお店も何気に多い。まあ、利用するこちらとしては『 おっ、新しい店が出来たのか(or新しい店になったのか) 』と、ランチのネタが一つ増えると同時に…『 どんな美味しいものを、食べさせてくれるのやら… 』と、お店に行くまでの、楽しみも一入。もちろん…そんな期待していたお店であっても、全てが当たりという訳ではないことも、これ然り。悲しいかな『 なんか…今一つだな… 』なんていうことも、全くない話ではない。中には…極めて遺憾な状態…となってしまうお店も…。

 まあ、お店の詳細は避けさせていただくが…そんな浅草橋に、あるお店が登場した。新規出店なのか、移店なのか、改装したのか…まあ、そういった詳細はここでは省かせていただくことにする。内容が内容だけに、あまりお店を特定できるような情報は与えない方がいいのと思うからである。そこは、以前書かせていただいたブログ〝驚きのラーメン〟の中にある『 当然ながら、その店の名前も出さなければ、詳細な場所も出さない。特定できる内容は一切排除して書かせてもらおうと思っている 』という趣旨と、全く同じに書かせていただこうと思っている。

 で、そのお店。『 おっ、こんな店が出来たのか。じゃあ行ってみようか… 』位のチェックは入れておいたのだが…いざ、言って飲食してみたところ…ハッキリ言わせていただくが、全てにおいて今一つ。その割に、値段の方は、今一つ高いような…。料理の出し方にも、今一つ納得のいかない所がある。まあ、気分も含めて、トータルとして『 全てが今一つ 』のスッキリしない状況のお店ということ。で、『 今度は値段もリーズナブルな〝漬け丼〟にしよう 』となった訳だが…今思えば、ここから全ての出来事は始まっていた…運命の歯車は回りだしていたのかもしれない…。

 で、先日。そのお店に入り『 漬け丼! 』と注文したのだが…。やはり料理の出し方には、今一つ疑問が拭えないような状況。まあ、それは取りあえず横においておこう。やはり『 如何に舌鼓を打てる料理か? 』かが、大切なのであるから…。で、運ばれてきた漬け丼を見るや否や…第一に思ったのが『 コレ…何の漬け丼? 』。前述のように、基本〝漬け丼〟はマグロである。しかし、目の前の丼の上に乗った魚は、どう見てもマグロではない。では、この魚は何?そう、漬け丼の魚が何か分からない…。こう見えても、私の父は寿司職人で、私の実家は元寿司屋。多少の魚は見て分かるはずである。そんな私が分かるのは…『 これはマグロではない 』ということ。まあ、確かに『 漬け 』と一口に言ったところで、マグロに限らず色々な『 漬け 』あるのは事実。サーモンもあれば、サバもある。マグロに限ったことでないのは、十分承知なのだが…この魚はいったい何であろうか?

 そして、何故かその漬けの魚には…とろみがついている…。そう、あの〝とろみ〟…手っ取り早く言えば、あんかけのチョット薄いやつである。確かに、味醂を入れた場合、多少、料理に〝テカり〟が出る場合もなくはない。しかし…これはテカりではなく、どう見ても〝とろみ〟…あんかけのチョット薄いやつである。『 何故だ?何故、漬け丼の魚がマグロじゃない…のは、まあいいとしても〝とろみ〟が付いているのは何故だろう? 』疑問が疑問を呼ぶ料理である。

 まあ、どんな魚であれ、一口食べてみれば、大概にしてその正体は分かるはずである。とろみの謎とて、解けるかもしれない。と、漬けの魚を一口食してみると…分からない。分からないぞ、この魚?なんだ、この魚は?『 なんだ、魚の味も分からないのか! 』と叱咤されそうだが…『 イエイエ、違うんです。魚の味がしないんです 』と言ったところか?そう…魚の味がしない…これじゃあ、何の魚か分かるはずもない。しかし驚愕の事実は…私が魚を口にしたとき、一番に感じたのが『 何だ、この魚? 』ではないということ。私が一番に感じたことは…『 この漬けは…なんでこんなに生温かいの…? 』。〝漬け〟とはいえ、刺身の一種である。そう考えれば、当然、そこそこ冷えているものを想像するのが普通…っていうか、〝漬け〟と言ったところで生モノなんだから、冷えているのは当然であろう。それが…生温かいのである。『 多少温かい 』でもなければ『 ご飯の上にあるから温かい 』でもない。生暖かいのである。そう、目の前にあるのは、生暖かい正体不明の魚…。

 いや、それどころではない。私が頼んだのは漬け丼である。〝漬け〟とは前述にあるように『 醬油につけたマグロの赤身 』である。最近は醤油ではなく、そのお店独自のタレで漬け込むそうだが…そのタレの味もしない…。魚の味もしなければ、タレの味もしない…。なんだか生暖かい、何かの魚の肉が口の中にある…それも何の味もせずに…。食べながら考えた…『 何を食べているのだろう?何の魚か分からない…何の味もしない…そして生暖かい… 』と…。そこで、ご飯をほおばると…おおッ、美味しい!ご飯と刻み海苔の味が…って、漬けの味は全くしていないじゃん!何で漬けを食べているのに、こんなにご飯と刻み海苔の味が新鮮なんだ!で…美味しい、美味しいと、ついほおばってしまうご飯と刻み海苔…。

 何キレ食べても、魚の味もしなければタレの味もしない、そして生暖かい〝漬け〟…。でも、ご飯と刻み海苔があるから大丈夫か…と、本末転倒というか、手っ取り早く言えば支離滅裂な状況で、おそらく本人もどこかショートしてしまった状況だったのだろう。そんな中…さすがに、ご飯と刻み海苔の味にも飽きてきた。かといって〝漬けと称する何か(恐らく魚)の肉〟は味がしない。どうしようかと思って丼の横を見ると…おおっ!漬物があるではないか!では、これで味を補おう。ということで、正体不明の肉を頬張りながら、漬物を食することに。なるほど、漬物の味がして美味しい。そうか、そのためにこの漬物は供えられているのか…と、全く違う理由であろう漬物の添付でさえも、妙に納得してしまうトランス状態に陥っていたのである。

 私は、基本食べものを残すのは嫌いなので、何とか完食しようとするタイプ。御多分に漏れず、この〝とろみのかかった何の魚か分からない、味のしない生暖かい漬けで食べる、刻み海苔とご飯、そして漬物がおいしい漬け丼〟も完食させていただいたのだが…店から出るや否や、一番に思ったのは『 お腹、大丈夫だろうな… 』ということ。確かに傷んでいる訳ではなかったし、妙な味がしたわけでもない(むしろ、味は全くしなかったのだから…)。でも、そんな〝生暖かい正体不明の味のしない漬け〟を食べたからには、やはり不安が付きまとうのも事実。まあ同じような状況なら、誰だってそうであろうとは思うのだが…。幸にして、お腹の方は何ともなかったのだが、自分の中には『 何ともなかった 』では済まされないような、驚愕の事実が残ってしまったことは事実である。

 漬け丼とは、ある意味シンプルな料理である(もちろん、シンプルであっても手間暇かかる料理であることは間違いない)。今回は、ある意味シンプル過ぎたのだろうか?冷やしもしなければ、魚の味も分からない(というか、魚が何かも分からない)。タレの味だってシンプル…というか、シンプル過ぎて何の味もしない。そして、ご飯と刻み海苔の美味しさを堪能できる〝漬け丼〟。シンプルと言えばシンプルなのかもしれない。しかし、こうなると果たして、それを〝漬け丼〟呼べるかどうかは、正直疑問である。まあ、ほとんどの人はそれを〝漬け丼〟とは呼ばないだろうが、店のメニューには〝漬け丼〟と、しっかり記載されている。ということは…やはり〝漬け丼〟なのだろうが…。まあ、私から言わせていただくならば、それは〝奇妙な漬け丼〟。そう言わざるを得ないような…そんな気分なのである。

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2018年5月29日 | コメントは受け付けていません。 |

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比べるからこそ迷いは生じる。

doubt

疑う、(…を)疑う、(…を)疑わしいと思う、信用しない、疑わしいと思う、なさそうだと思う。

Weblio英和辞典より

疑うという意味の『 doubt 』。語源は『 dou 』からきており、その『 dou 』は『 2つ 』という意味。そう『 2つ 』あるから『 迷ってしまう 』。『 (2つあることで)迷ってしまう 』ということは…単刀直入に言ってしまうと『 どちらかが違う 』ということ。もちろん『 違う 』と一言に言ってもたくさんあるのだが…『 (自分が求めているものとは)違う 』もあれば『 (真実とは)違う 』もあるし、『 (考えていた状況とは)違う 』もある。まあ、そういった種々雑多な違いがあるからこそ、人は『 違っていない方 』、すなわち現時点で自分が正解又は適としている方を選ぶことになる。ところが…正解や適としている方を選べないことなど多々ある。早い話、『 何が正解か分からない 』『 何が適しているのか分からない 』という状況。その判断が付きかねると…『 どちらにしようかな? 』と迷ってしまうことになる。そして…『 どうもこっちは正解じゃなさそうだ 』『 こちらは適していなさそうだ 』疑うことになる。正解と不正解、敵と不適。二つの中から、『 これが疑わしい 』と思考・推測していくことになるのだが…なるほど、確かに『 dou 』つまり『 2つ 』は、『 doubt 』つまり『 疑う 』ということにつながるようだ。

 人は何かと比較してしまう生き物である。まあ、それが役に立つ場合も多々あるのだが、時として混乱を生じてしまう原因となる場合もある。例えば…比較できないものを比較してしまうとき。これなんかは、混乱を生じさせてしまう比較の最たるものであろう。予備校の講師としてン十年、色々な学生さんを見てきたが、何気に比較する学生さんは多い。もちろん、何を比較するのかも色々であるが、私から見て『 何でそんなモノを、そんなことを比較するの? 』と、思わず首をひねってしまうような場合も決して少なくはない。そして…往々にしてそういった学生さんは、その『 ? 』と思ってしまうようなことで比較しては、悩んでいる場合が多いのである。

 『 あの人はあんなにできるのに、私は… 』『 あの人はあんなに点数がいいのに… 』と比較しては悩む学生さんも少なくはないのだが…これなども、首をひねってしまう比較の一つ。『 首をひねるなどとんでもない!受験生が、学力のことで悩んでいるのに、なんだその態度は! 』と一喝されてしまいそうだが…。学力の付き方や成績の伸びは人によって千差万別である。一概に、点数や質問の応答だけでは判断できない場合は多い。だからこそ、普段から学生さんと接しながら、その学生さんに関するいろいろなデータを構築して、学習を指導していかなければならない(これが学習指導である)。ハッキリ言ってしまえば、単に点数だけで比較したところで、その学生さんの学習状況や学力状況は判断できないということ。一概に点数で比較して導けるほど、学習状況や学力状況の判断というものは簡単なものではない。まあ、そこをしっかりと判断していくのが我々講師の仕事であるのだが…正直、学生さんには、その判断はできないのが実情である。

 点数や質問の応答だけで比較したところで、結果が出ないどころか…悩みこんでしまう場合の方が多いはず。それどころか…『 このままでいいのだろうか? 』『 このやり方は違うのではないだろうか? 』と、今やっている勉強のやり方を疑ってしまうとなると…少々厄介なことになってしまう。もちろん、〝いけない勉強のやり方〟というのはある。学力がつかないやり方もあれば、成績が伸びないやり方もある。そういった〝いけない勉強のやり方〟に気が付き、それを正していくことは間違いではない。むしろ有益な行為である。しかし…往々にして、人と比較した場合。たとえ正しいやり方をしていても、『 このやり方は… 』と疑心暗鬼に陥ってしまう場合が多いのも事実なのである。

 実は、真っ当な勉強法というのは、すぐに結果が出ない場合が多い。長く続けることにより、少し少し結果が付いてくる場合が多いのである。実力とは、そうやって身に着いていくものなのである。『 あの人は… 』と皆がうらやむ成績の人も、何もしないで成績がいいわけではない。成績がいい人は成績がいいなりに勉強している。正攻法で時間をかけて勉強してきたからこその成績であり、パッとやってすぐに好成績が得られたわけではない。

 点数や質問の応答だけで比較して、自分のやり方、それも結果を出すのに時間がかかる正攻法のやり方を手放してしまうのは、もったいないどころか、試験対策にとっては非常に危険なことである。人は往々にして安易な方を選択してしまう。すぐに結果を出せると思ってしまう〝安易な方法〟に飛びついてしまうことは、珍しくないことなのだが…その安易な方法では、残念ながらいい結果が出ないのも事実である。だからこそ、日々学習指導を通じて『 正攻法で勉強しているのか? 』をチェックして『 いたずらに比較しないように 』と注意喚起しているのである。『 あそこのやり方は… 』と違う予備校のやり方を口にする人もいるが…これももちろん『 あそこはあそこのやり方、ウチはウチのやり方 』と指導するようにしている。やり方が違う以上、単純に比較しても仕方がないどころか、前述のように、正攻法の試験対策の足を引っ張ってしまうことに、なりかねないからである。

 およそ何事においても『 人は人、自分は自分 』というスタンスをとることは重要である。人は人のやり方。人は人の状況。自分とはすべて異なるのだ。それを比較したところで、〝比較できないものの比較〟になってしまうことは目に見えている。そして、それが混乱を生むことも目に見えていることである。確かに、今の状況を変えるために〝基準となる何か〟を見出し、それと比較して新たなるものを創り出すことは有益なことである。しかし、それだとて〝基準となる何か〟があってこそ成り立つやり方であり、単純に『 成績がいい 』『 点数がいい 』といった、一面から見ただけの結果と比較したところで意味はない。まず初めに自分のスタンスをしっかりと持つこと。そして、時間をある程度かけて、そのスタンスを保つこと。そして、望み通りの結果が出ない場合には、何故なのかと考えてみること。そして、それ相応の指導を受けて、新たなるやり方を試してみること。これが、一番の試験対策なのである。お気づきの方もいらっしゃることと思うが…この〝一番の試験対策〟には『 他人との比較 』は一切入っていない。何故、入っていないのか?それは、当ブログを最後まで読んでいた皆さんなら、お分かりいただけることと思う。

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2018年5月23日 | コメントは受け付けていません。 |

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バカか、こいつは?

 先週に引き続き、いきなり下品で無礼な言葉を使ってしまったことを、まずお詫びしなければならない。気分を害された方には、ただ、ただお詫びする次第である。

 ましてや先日のブログで『 私はバカという言葉を使わないようにしている 』と書かせて頂き、さらに『 どうせ使うのなら、例え苦笑いであっても笑顔で、そして愛を感じられる〝バカ〟の方が断然いい 』とまで書かせて頂いた。なのに…いきなり、このタイトル。ましてや、前回のブログを真っ向から否定してしまうよう思える、このタイトル。一体、如何なものなのか?

 言い訳ではないが…前回のブログでは、こう書かせて頂いた。

よって、私は『 バカ 』という言葉を使わないようにしている。もちろん、全く使わない訳ではない。しかし、前述のように〝できない人間〟〝知らない人間〟を指さし、バカと言うことはしない。

 使わないようにしている。そう、全く使わないと言っている訳ではない(そのことも、あらかじめ断ってあるのが、お見受けいただけることと思う)。バカという言葉を、使う場合もあるということ。しかし、〝できない人間〟〝知らない人間〟を指さし、バカと言うことはしない…ということである。

 実は、ここ最近、そのバカという言葉を使う…まあ使うといっても、口にしたわけではないが…そのバカという言葉を、ありありと思ってしまう状況に、二度ほど遭遇した。しかも、どちらも同じ行動をとっている人間に対して…。

 先日、とあるコーヒーショップに行った時の事。注文をするのに並んでいたのだが…。最後尾だった私の後ろに、男性が並ぶことに。まあ、季節外れの猛暑日とあって、Tシャツ・短パン。如何にも『 スポーツやってきました 』状態のいでたちで、リュックを背負い、耳にはイヤフォンが差し込まれていた。最近よく見かけるタイプの人間ではあるが…。で、私がお目当てのコーヒーを注文して、商品が出されるのを待っていると…当然ながら、後ろの〝スポーツいでたち男性〟の注文の番となる。で、その男性、注文をしたのだが…店員さん、注文された商品に対して、何かを聞き返してきた。まあ、商品に対する至って普通の内容だったと思う。奇抜な内容なら、こちらも覚えているだろう。大体、何か商品を注文した際に、店員さんが話しかけてくることなぞ取り立てて特別な行動ではないのだからして、こちらもさして気にしてはいなかった…というのが本音ではあるのだが…。で、その店員さんが件の男性に話しかけたところ、その男性『 えっ? 』と聞き返した。店員さんが、再度同じ内容を話すと『 ああ… 』と答えていたのだが…ここで思ったのだ『 バカか、こいつは? 』と…。

 それよりも、一週間ほど前の事。浅草橋のコンビニでの話。コンビニのレジに並んでいた私であったが、私の前に並んでいたのは若い女性。そして、耳にはイヤフォンが…。その女性の番となったので、レジに行き商品をレジ台に出して、いざ、お会計となったのだが…。そこでも店員さんが、何か女性に話しかけてきた。これも覚えてはいないが、コンビニで物を買う時の差し障りない内容だったと思う。すると…その女性、店員さんに向かって『 えっ?何ですか? 』と聞きなおしていた。そして、やはりここで思ったのである。『 バカか、こいつは? 』と…。

 イヤフォンをしているということは、当然、曲か何かを聞いているということだろう。まあ、聞いていようがいまいが『 耳を塞いでいる 』ことには変わらない。コーヒーショップやコンビニで物を買う場合において、当然ながら店員側が話しかけてくることはあるだろうし、それは十分予想されることでもある。それが分かっていて、コーヒーショップも利用すれば、コンビニも利用しているのではないか?

 では、何故、耳をふさぐ?『 曲を聞いているのだ。耳をふさいでいる訳ではない 』という輩がいるかもしれないが、目的がどうであれ、行動が『 耳をふさいでいる 』ことになっているのは、紛れもない事実である。耳をふさいでいれば、外界の音が聞こえないのは当たり前の話。前述のように、コーヒーショップやコンビニを利用すれば、店員さんが話しかけてくるのは、百も承知のはず。なのに、耳をふさいでいる…。耳をふさいでいれば、店員さんの話が聞こえないのも、当たり前のこと。なのに…店員さんが話してくることを百も承知で耳をふさぎ、店員さんが話しかけてきた内容が聞き取れないから『 えっ? 』『 何ですか? 』と聞き返す。この行動を見て『 バカか、こいつは? 』と思うのは、至極当然の考え方ではないだろうか?

 何度も言わせていただくが、耳をふさげば聞こえないのは当たり前の話。ましてや、曲など聞いていれば、聞こえないのも一入である。こういうことを言うと『 イヤ、聞こえますよ 』という輩がいるが…〝聞こえている〟と〝耳を傾ける〟では、行動として全く違うものである。〝耳を傾ける〟とは『 注意して聞く。熱心に聞く(デジタル大辞泉より) 』とある。店員さんが、こちらに何か問いかけてきているのだ。注意して聞くのが当たり前の話ではないだろうか?イヤ、店員さんに限らず、人が話しかけて来た時は、注意して聞くのは当たり前のことではないだろうか?

 〝聞こえる〟には、色々な意味があるが『 音や声が耳で感じられる(大辞林より) 』とある。〝感じられる〟と〝注意して聞く〟とでは雲泥の差がある。ましてや曲など聞いていた日には、『 (曲の)音と(店員さんの)声が耳で感じられる 』状態になるのだから、とてもではないけれど、店員さんの言っている事に耳を傾けることなど出来るはずがない。

 なのに、聞き返す。自ら耳をふさぎ、曲を流して、耳を傾けられない状況にしておきながら、聞き返す…。全くもって理解できない行動ではないだろうか?店員さんの声に応えている所を見ると、全くもって話をしたくない、聞きたくないという状況ではなさそうである。となると…『 耳をふさいで聞こえない状況にしていますけど、私にとって必要なことは教えて下さい 』ということになる。ますます、理解できない…。第一、店員さんから自分に必要な情報を得るつもりならば…店内に入った時点で、イヤフォンを耳から外せばいいだけの話ではないだろうか?

 第一…話すということは『 互いに言葉をかわす 』ということである。相手が話をしているのに、耳をふさいでいるということは、失礼ではないだろうか?『 相手の話に耳を傾ける 』ということは、相手を尊重することである。相手が話しているのに、耳をふさいでいるなど、尊重も何もあったものではない。たとえ客と言えども、店員さんを尊重することは大切な事ではないだろうか?

 店に入れば、店員さんと話をすることになる。イヤ、店員さん以外の人と話をしなければならないことも十分ある。『 相手の話に耳を傾ける 』ということは、相手を尊重することだから、話が出来る体制を作っておくことは、当然ながら必要な事である。そして、店員さんの話に耳を傾け、応答しなければならない。そういったことのために、難しいことをしろと言っているのではない。店内に入ったら、イヤフォンを外せばいいだけの話。ただ、それだけの事である。それすら分からないのだろうか?そして…イヤフォンをしていれば、話が聞こえないことが分からないのだろうか?こういったこと…さして難しいことではないと思うのだが、こういったことが分からない人間を見ると、つい思ってしまうのだ。『 バカか?こいつは 』と…。私だってこういう言葉は使いたくはないし、どうせ使うなら前回ブログで書かせていただいたように、例え苦笑いであっても笑顔で、そして愛を感じられる〝バカ〟の方が断然いいと思っているのだが…。やはり、こういった輩を見てしまうと、『 バカか?こいつは 』と思ってしまう、今日この頃なのである。そして…そういう人に遭遇する機会が日に日に増えてきているなぁ…というのも、憂える私の思いなのである。

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2018年5月16日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

同じバカでも…。

 のっけから、いきなり下品で無礼な言葉を使ってしまったことを、まずお詫びしなければならない。気分を害された方には、ただ、ただお詫びする次第である。

 私はモノを教えることを生業としている人間。私が、その生業を始めた時から使わないようしている言葉に『 バカ 』という言葉がある。世の中には〝できない人間〟〝知らない人間〟を、バカと嘲る人間がいるようであるが…全く持って、理不尽な行動であるとしか言いようがない。初めからできる人間などいるわけはないし、何でも知っている人間などいる訳がないからだ。

 バカという言葉は、往々にして相手を見下すときに使われているようである。例えば…できる人間は、できない人間を指さしバカという。知っている人間は、知らない人間を指さしバカという…こんな感じである。モノを教える人間の生業は、『 知らない人にものを教えること 』である。『 できない人間を、できるように導くこと 』である。つまり、モノを教える人間が対象としている人達は、できない人間であり、知らない人間ということになる。そういった人達に教えるからこそ、仕事として成り立つのである。全員が初めからできたり、初めから全部知っているとなれば、物を教える生業自体が存在しなくなる。だからこそ、我々の稼業においては、知らない人やできない人のことを『 バカ 』と蔑むという行為自体、全く矛盾した行為であると言わざるを得ない。よって、私は『 バカ 』という言葉を使わないようにしている。もちろん、全く使わない訳ではない。しかし、前述のように〝できない人間〟〝知らない人間〟を指さし、バカと言うことはしない。何度も言わせていただくが、〝できない人間〟〝知らない人間〟に教え、できるように導くのが、私の仕事だからだ。

 大体、私はモノを知っている人間が偉いだの、できる人間が上だの、そういった考え方が大っ嫌いである。『 こんなことも知らないの? 』と嘲るように言ってくる輩が、時折いるが…『 ええ、知りません。だから、どうしました? 』といった具合である。声に出しては言わないが『 心の中ではバカにしているな… 』という人間も多々いる。断わっておくが、もちろん被害妄想ではない。こちらも人間として長く生きているのだ。その人が、私をバカにしているかどうかなど、言動はもちろんのこと、ちょっとした仕草や態度、雰囲気で分かるものだ。まあ、心の中でバカにされていようとも…やはり私としては、前述の声に出して言われる場合と同様、『 ええ、あなたほど知りませんし、できないでしょうね。優秀なお方の様ですから…でも、それがどうかました? 』といった感じである。相手が心の中で思っている以上、まあ、こちらも大人であるからして、態度には出さずに…同じく心の中で、そう思わせていただくことにしている。

 知っていると称する人間、できると称する人間の、あの優越感に浸っている、上から目線というか、尊大な態度、人を小馬鹿にしたような態度には、正直、吐き気を催す(今回のブログは、少々言葉遣いが汚くて、申し訳ない限りである)。知っているから偉いのか?できるから偉いのか?確かに、時と場合によっては、知っている人間やできる人間が、指導的立場につくことは往々にしてある。だからといって偉ぶるとか、尊大な態度になるとか、上から目線で指図するとか、そういうことは間違いなのではないだろうか?イヤ、間違いどころか、私には何とも浅ましい行動としか見受けられないのだ。

 何度もブログに登場している、私の武道の師匠。逝去されて3年以上の月日が経つが、それでも師匠の教えを思い出すことは多い。その師匠は武芸十八般、全てにおいて精通していた。この人位、武道の事を知っている、そしてできる人間はいないのではないだろうか?心底そう思っている。そんな偉大な師匠であったが…稽古をつけてもらっている時、偉ぶることもなければ、尊大な態度をとることもなく、上から目線で指図することもなかった。確かに稽古は厳しかったし、怒鳴られなかった日などない。いつも怒られながら、稽古していたが…『 知っているから、できるから偉ぶっている、優位に立っている、上から目線だ 』などと感じたことは、一度もなかった。もちろん、腹の中で人を小馬鹿にしている…などと感じたことも、一度もなかった。

 稽古の時だけではない。常日頃から、そういう偉ぶる態度であったことは、一度もなかった。どちらかというと…そういった態度とは無縁の方であったよう思う。そんな師匠を見ながら『 本当に知っている人間、できる人間というのは、こういうものなのだ 』と、学んだものである。だからこそ、こちらから『 自分よりも各上の人物 』と見上げていたのである。そう、別に上から目線にならずとも、皆が見上げてくれる存在。皆が、『 この人はスゴイ 』と評価して、それ相応の人物として接するようになる。わざわざ、自分から偉さや上から目線を誇示しなくとも、皆が一歩も二歩も引いて見上げてくれる…これこそが、本当の〝できる人間〟〝知っている人間〟の、あるべき姿なのではないだろうか?

 そう言えば…師匠から『 バカ 』と言われたことは一度もない。私は、そんなに出来のいい方ではなかった。どちらかというと、下から数えた方が早いタイプ。なのに、師匠から一度も『 バカ 』と言われたことはない。私だけではない。稽古をつけてもらっている、他の人間に対しても『 バカ 』と言ったのを、一度も聞いたことが無い。もちろん、『 バカだなぁ 』と苦笑いされたことはよくある。私の腕のあざを見つけて『 どうしたのコレ? 』と聞かれた時、『 エレベーターに乗っていたんですけど、両手が塞がっていまして…降りる間際にドアに挟まれました 』というと…苦笑いして『 バカだなぁ 』と言われたことが懐かしい。まあ、この程度の事はよくあったことだ。

 『 バカだなぁ 』と『 バカ 』…もちろん、同じバカという言葉でも、全然違う。師匠が、苦笑いして私に言った『 バカだなぁ 』には愛情が感じられた。やはり、できなかろうとも教え子であるからして、それ相応の愛情があったのだと思う。実際、『 かわいがってもらっているな 』と感じたことは多かったし、だからこそ逝去されて3年以上の月日が経った今でも、師匠のことを思い出すことが、よくあるのだろう。

 苦笑いと言えども、笑顔で愛を感じられる『 バカだなぁ 』。優越感に浸って、上から目線の尊大な態度で言われる『 バカ 』(心の中で言っているバカも、これと同類である)。同じバカもでも全然違うのは、ご承知の通り。どうせ同じ言葉を使うのなら、自分一人が尊大な態度で、人を見下げて『 私はすごいんだ 』と自己満足に浸っている〝バカ〟よりも、言った方も言われた方も、つい苦笑いしてしまう、そして愛情感じられる〝バカ〟の方を使った方がいいと思うのは、私だけではないと思う。『 自分はモノを知っている人間だから偉い 』『 自分はできる人間だから上 』と思うのは、その人の自由である。〝できない人間〟〝知らない人〟をバカと嘲るのも勝手であるし、心の中で小馬鹿にするのも自由だ。しかし…本当にそう思っている人間、そう言っている人間は、それで満足なのだろうか?まあ、それも人それぞれなのかもしれないが…私は、どうもそれでは満足できない人間のようである。

 私は『 バカ 』という言葉を使わないようにしているが、『 バカだなぁ 』という言葉は使わせて頂いている。同じ〝バカ〟という言葉であるが…どうせ使うのなら、例え苦笑いであっても笑顔で、そして愛を感じられる〝バカ〟の方が断然いい。私は、そう思っている。

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2018年5月8日 | コメントは受け付けていません。 |

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正解は1つなのか?

 以前、ある営業の仕事をしていた時の事。休憩中に、リーダー的存在のSさんが、簡素なパズルを取り出し『 コレやってください 』と、ニヤニヤ顔で話しかけてきた。詳細は省くが、中からコインを取りだすというものだったが、パズルである以上、オイソレとは取れないようになっている。こちらは、チョット一休みしたい状況。『 イヤ、いいですよ 』とやんわり断ると…『 ダメですよ、やってください。昨日、みんなでやったんだから 』とのこと。前日は、私は休みだったのだが…その前日に、そのパズルで盛り上がったそうで、同乗している他の営業仲間もニヤニヤ顔で『 やらないとダメですよ 』などと言ってくる。…誰もが、私が一番苦手なタイプ。

 以前、〝じっくりと考えていたい〟というブログで、次のように書かせて頂いた。

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 私は、じっくりと考えるのが好きである。分からないことを、分からないままとして〝保留〟にしておきたい。そして、事あるごとに思い出しては「何だろうなぁ」と考えるのが好きなのである。確かに、答は知りたい(だから考えているのだ)。しかし、早急に知ろうとは思わないし、知りたくもない。自分で考えて答を出したいのだ。別に時間がかかることなぞ問題ではない。試験問題ではないのだ。ゆっくり、じっくり考えればいい。ゆっくり、じっくり考えれば、あの手この手で色々な方法で問題を考えることができる。それが好きなのだ。自分で考えたクイズの答が正答であり、さらに一般的な解法とされているやり方と異なる解法で答を導きだしていた時なぞ、言葉にできない嬉しさがあったりする。そんな時が、まさに至福の時なのだ。

i

だからこそ、私が一番苦手なタイプ…となる。そこらへんは、ブログ〝じっくりと考えていたい〟で、色々書かせてもらったので、ご一読いただきたい(それらは、今回話したい内容とは、少々別の話になるので…)。まあ、こういう連中に限って人が取り掛かると、あれやこれや口出ししてくるから厄介だ。『 そうじゃないんですよねぇ 』やら『 そう思うでしょ、でも違うんですよ 』等、例のニヤニヤ顔でうるさく言ってくるんだろ…。そこまで読めてしまっているから、なおさらやりたくないのだ。

 まあ、事の経過は省略させて頂くが、結果として私は見事にコインを取りだす事が出来た(もちろん、想定通りの口出しをしてくる中で…)。『 ハイ、取りだしましたよ 』という私に、驚く外野達。『 え~取れたんですか 』『 昨日、それじゃあ出来なかったですよ 』『 ウソだよ 』…ホントだよ、見てただろうに…それにしても一挙一動にうるさい…。Sさんも『 あれっ、おかしいな 』と言いながら、パズルとコインを眺めている。まあ、こっちはやっとお役御免。ゆっくりできるな…と思っていたら…コインをパズルの中に戻したSさん。私にパズルを差し出し『 もう一回やって下さい 』。これだ。これが面倒くさいんだよ。やったらやったで、ああだこうだ難癖つけてくる。だから、初めに確認したのだ。『 コインを取りだせばいいんですよね? 』と…。『 私は取り出しましたよ。取り出せばいいのかと聞いたら、そうですと答えたじゃないですか? 』というと…『 もう一回やって下さい 』と食い下がらないSさん。これも想定内のことだが…こういうのが面倒くさいから、パズルやクイズを出してくる連中は厄介なのだ。『 じゃあ、もう一回取り出せばいいんですね?それで大丈夫なんですね? 』と更に念を押したところ、『 もう一回取り出せばいいです 』とのこと。これだけ確認しているんだから、もう一回くらい付き合ってやろうかと、先ほどと同じやり方で、パズルに取りかかる。で、結局、また取り出すことに成功した私。Sさんに『 ハイ、取りだしましたよ 』と手渡す事に。二度も確認した上、最後には『 もう一回取り出せばいいです 』とまで口にしたのだから、もうお終いだろう…と思っていたら、コインを戻すや否や、パズルを差し出しつつ、これまたとんでもない事を口にした。『 その方法じゃないやり方で取り出して下さい 』…ハア?取り出せばいいと言ったのは、どこの誰?しかもコインを取りだすパズルで、コインを取りだしたのに、何だそれ?さすがにこちらも我慢の限界だったので『 あなたが取り出せと言ったから取り出したんですよ?しかも2回。どちらも確認しましたよね、取りだせばいいんですかって?それが成功する度に、あなたは何やかんや言うけど、それっておかしくないですか? 』と言うと…これまた、たまげた返答が…。『 そのやり方は、正しいやり方じゃないです。正しいやり方で取り出して下さい 』…。これには正直驚いた。正しいやり方でなければダメ…。パズルってそんなつまらないものなのか…。色々な試行錯誤があって、色々なやり方が見いだせるのが面白いのではないか?なのに、正しいやり方でやれとは…それって、単に『 自分が知っているやり方でやれ。それ以外は答として認めない 』と言っているのと同じことではないか?こりゃあ、パズルどころの話ではないぞ…。

 私は以前、こういう言葉をよく口にしていたことがある。学生さんにも、よく言ったものだ。

i

正解は無数、事実は多数ある。しかし、真実は一つしかない。

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正しいやり方など無数にあるということ。確かに間違ったやり方もある。それが正しいやり方か間違ったやり方なのか、どこで判断すればいいのだろうか?それは、一つしかない真実で見極めればいい。今回の件で言うのなら、『 コインが取り出せた 』というのが真実である。取り出せたことが真実である以上、そのやり方は正解ということになる。何と言っても、正解は無数にあるのだから…。

 しかし…正解が一つしかないと思っている人は少なくない。前述のSさんのように、自分の知っているやり方だけが正解だと、それだけを握りしめ手放さない人もいる。それどころか、〝他の正解〟を非難する人さえいる。前述のパズルの話ではないが、これは少々厄介な事である。

 正解が一つしかないと思い、自分のやり方を正解だと思って手放さない人がいる。例え、それが正解ではなくても…。どういう訳か、そういう人に限って強情に〝間違っているやり方(つまり正解ではないやり方=自分は正解だと思っているやり方)〟を手放さないから困ってしまう。こちらが、何度指摘しようともお構いなし。自分はこれでいいんだと思い込んでいるのだろうが、その結果(=真実)は…残念なことに、〝その人が望んでいる結果〟とは違うモノとなっている場合がほとんどのようである。そう、〝結果=真実〟は一つしかないのだ。それが、自分の思っているものとは違うのだとしたら…やはり、その〝正解〟と思っているものは〝正解ではないもの〟となるのではないだろうか?

 私はン十年にわたって学習指導を行ってきた。このブログのご愛読者には、あえて説明するまでもないが、学習指導とは『 勉強のやり方を指導する 』という事である(私が学習指導を始めた経緯に関しては、学習指導のページに書いてあるので、そちらを参照にしてもらいたい)。ン十年にわたり、数多くの学生さんと向かい合い、マンツーマンで勉強を指導してきたのだが…何気に多いのが、自分のやり方を手放さない学生さん。しかも、そのやり方では、望んだ結果を見出す事が出来ないような方法。実際、国家試験でも残念な結果になっていたり、学力が付いていなかったりしている状況。〝国家試験が残念な結果になっている〟〝学力が付いていない〟というのは真実である。それが真実である以上、そのやり方は正解ではない、間違ったやり方ということになる。

 それを認めたくない気持ちも分かる。今までやって来た自分のやり方である。それを、おいそれと手放すということは、なかなか心苦しいものがあるし、不安も伴う事である。しかし…お望みの真実を手に入れたいのならば、それを手放すことが必要なのである。これもブログで何度も書かせてもらったことだが…同じやり方では、同じ結果しか得られないのだ。

 正解は無数、真実は一つ。これは裏を返せば『 一つの真実を手に入れるにも、色々なやり方がある 』ということである。そう〝間違ったやり方〟もたくさんあれば、〝正解=正しいやり方〟もたくさんあるのだ。だったら、今までの〝間違ったやり方〟を手放したところで、結構、簡単に〝正解=正しいやり方〟が手に入るかもしれないということ。そう考えれば、やり方を変えてみるという方法は、有用な方法の一つといえるのではないだろうか?正解が一つしかないのならともかく、正解は無数にあるのだ。それを手にする確率も非常に高いということではないか?それに…今までと違う方法でやってみることにより、今まで見いだせなかった色々なことも発見できるはずである。やり方が変われば、今までとは違う視点でものを見ることが出来る。気付かなかったことにも気づけるし、今までと同じことに接しても、新鮮味だって、当然変わってくるはずである。このことを試験対策で言わせて頂くならば…今までの芳しくない結果が出ていたやり方を手放し、新しいやり方を試みれば、違う視点で問題を見ることもできるし、今まで気付かなかったことにも気が付くようになる。そして、惰性で解いていた問題も、新鮮な感覚で解くことが出来るようになる…ということになる。『 そんなこと… 』と思う人がいるかもしれないが…私は学習指導において、そういった学生さん達を、それこそ無数に見てきているのである。

 前述のSさん。何故、私がパズルを解いたとき『 そんな方法もあるのか! 』という具合にならなかったのだろうか。逆の立場なら、私は間違いなく、自分の知らなかった方法でコインを取りだしたことに感銘を受けていると思う。でも、パズルとは本来そういうモノではないだろうか?世の中には色々な方法がある。そのパズルを作った人間とて気がつかないような方法だって、たくさんあるのではないだろうか?おこがましい意見かもしれないが…Sさんと私では、どちらが本当にパズルを楽しんでいるのだろう?まあ、事はパズルの話かもしれないが…国家試験のやり方一つ取ってみても、やはり正解を1つとするのではなく、正解は無数にあるとした方が、色々とやり易いのではないだろうか?Sさんのように、1つの正解だけにこだわるのか?色々な正解があることを知りながら、より良いやり方を模索して進めていくのか?それは、その人次第であるが…その結果には雲泥の差があるよう私は思うのである。

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2018年5月1日 | コメントは受け付けていません。 |

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