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人は、思っているほど愚かではありませんよ。

 早いもので、2010年5月から始まった当ブログ〝薬進する日々〟も、7年と半年を超えることに。塾生さんはもちろんのこと、卒業生たちからも『 毎週ブログ見ていますよ 』という言葉を頂くことがあり、嬉しい限り。企業を訪問した際にも『 ウチの誰それが、ブログをよく読んでいるそうです 』という言葉を頂いたり、大学を訪問した際には先生方から『 ブログ、面白いね 』という言葉なぞ頂いたりで、嬉しさも一入。

 確かに『 読んでいる 』『 楽しみにしている 』『 面白い 』という言葉を頂けることは、嬉しいことであるが…。その分大変なのが、毎週ブログを書き続けるということ。まあ、幸か不幸か文章を書くのは苦手ではない方。それどころか、筆が進み過ぎて(キーボードの打ち込みが進み過ぎてか?)短くするのに一苦労する有様。お気づきの方もいらっしゃると思うが、最近は徐々に徐々に、しかしながら確実にブログが長くなって来ている始末。

 まあ、書き始めてしまえば、こっちのモノとばかりに筆は進むのだが、問題はその前。つまり〝ネタ〟。実は、何気に書きたいネタは沢山ある方で、毎回毎回『 何を書こうか? 』と苦悩する状況とは、あまりなっていない状況で。しかしながら、やはりネタがないという場合が無い訳でもなく、そんな時はアレやコレやと頭を絞っては、ネタを絞り出している次第。おこがましいと言われてしまうかもしれないが、やはり、こちら側としても楽しんでもらえるような、役に立ってもらえるうような内容を書きたいと心がけている。ただのネタではなく『 これは面白いだろう 』 『 こういうことは知っておいた方がいいかも 』 『 こんなことがあったけど、私の見解はこうである 』という具合に、『 読者の方に、何らかのモノを投げかけることが出来るような内容を… 』、ということを心がけている。だからこそ、ブログに関して評判のいい言葉が耳に入ると、嬉しいこと一入…となるのである。

 そうやって書いているブログであるが…時おり、『 薬剤師国家試験予備校のブログなんだから、薬に関することを書いていった方がいいんじゃない? 』 『 やっぱり、薬剤師国家試験に関して書いた方が、みんな見てくれるからさぁ… 』などと、分かっているように偉そうに〝したり顔〟で『 助言してやっている 』的態度で話してくる人間がいるのだが…。はあ? 薬剤師国家試験予備校のブログなんだから、薬に関することを書いた方がいいだぁ? そんなこと、5000兆人いたら、5000兆人全員が考えるわ!薬剤師国家試験のことに関して書いた方が、みんな見てくれるだぁ? そんなことミジンコでも思いつくわ!…と、少々言葉が汚くなってしまって申し訳ないのだが、そういう〝勿体ない御意見〟を賜る度に、心の底からそう思ってしまうのだ。こちとら、単なる思い付きでブログを構成している訳ではない。前述のように、『 楽しんでもらうことを書く 』等の目的もさることながら、それ相応に考えて、ある種、戦略をもってブログをというモノに取り組んでいる。そんな〝5000兆人全員が考えること〟や〝ミジンコでも思いつくこと〟など、わざわざ御意見頂かなくとも、とっくに考えて…イヤ、あまりに低レベルすぎてそんなことスルーしていた次第で…。『 薬剤師国家試験予備校のブログなんだから、薬に関することを… 』…考えも戦略も何もない…っていうか、人に偉そうに御意見する前に、考えないかなぁ…。『 普通、考えたらこうするだろうに、何でそうしないのだろう? 』って…。自分の考えが、誰もが考え付く安っぽい考えだと、どうして気がつかないのだろう?それとも、こちらのことを、そんなことすら考え付かない〝うつけ者〟だと思っているのだろうか?自分の考えは誰も思いつきもしない優れた考えで、こちらは〝そんなことさえも考えられない大うつけ〟とでも思っているのだろうか?イヤ、そう思っているのだろう。だからこそ、したり顔で『 薬剤師国家試験予備校のブログなんだから… 』などと、忠告めいた安っぽい内容を、御意見してくれるのだろう。そうでなければ、そんな誰が考えても一発で分かるような〝5000兆人レベル〟の安っぽい考えを、したり顔で言ってくるわけがない。こちらは、そんなことも思いつかない人間…。ある意味、人を馬鹿にしているんじゃないだろうか?そう心から思ってしまうのだ。

 人の御意見はありがたく頂戴して…などとは言うが、その御意見がどのようにして出てきたかによって、〝身になる忠告〟になるか〝頓珍漢な忠告〟になるかが決まるのではないだろうか?どうも、前述のような〝頓珍漢な忠告〟を述べてくる人は、どこか人を小馬鹿にしているというか、見下している傾向があるように思える。または、大した意見もないのにプライドが先行して『 何か言ってやろう 』的な言動をする人間であったりする場合もある。知りもしないのに、あたかも知っているかの如く振る舞おうとするがために〝頓珍漢な忠告〟となってしまっている場合もある。強いて言わせていただくならば、発現している人の〝自己満足の御意見〟でしかないということ。こちらもバカではない。その御意見が、とても的外れな〝頓珍漢な忠告〟であること位、すぐにお見通しである。そりゃあそうであろう。私のブログの場合で言わせていただくならば、少なくとも7年以上も、毎週、頭をひねっては書き続けているのだ。何の考えもなく、ただ思い付きを書いている訳ではない。それ相応の結果を出している立場からの御意見ならまだしも、それこそ『 何か言ってやろう 』的な思い付きで、ご意見されたのではたまったものではないし、思い付きだからこそ〝頓珍漢な忠告〟になってしまうことなど、手に取るように分かってしまうのだ。こういうことを言うとと『 人の意見はありがたく頂戴するものだ 』などという人がいるかもしれないが、何と言ってもそのご意見は、自己満足な〝頓珍漢な忠告〟であるからして、とてもではないけれど、ご参考にはならない代物。それさえも『 ありがたく頂戴せよ 』というのは、いささか無理な相談である。

 人は思っているほど愚かではない。自分の考えとは異なるかもしれないが、人はそれ相応に考えて事を行っている。人にご意見する前に、その人自身をよく見つめることが大事ではないだろうか?そして、『 何故、その意見を発しようとしているのか? 』と、自分自身を見つめることも、やはり大事なことではないだろうか?単なる思いつきや、自己満足から出るだけの御意見は、結局は自分自身の愚かさを露呈してしまうことになるのだから…。

知る者は言わず、言う者は知らず。

老子

 

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2017年11月29日 | コメントは受け付けていません。 |

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鍋の中身は なんじゃらホイ?

 先日、いつもの飲み仲間4人で酒を飲みに行った(ちなみに全員男性)。で、季節も季節だったので、鍋を頼むことに。野郎4人で、ああだこうだと鍋をつつくのも、これまた一興。ワイのワイのと、鍋をつついては盛り上がっていた。そんな状況であるからして、話題は何気に鍋の話に…。実はこの4人の中には、私の他にもう一人、北海道出身の人間がいた(ご存じない読者の方もいらっしゃるかもしれないが、私は北海道出身である)。仮にその北海道出身の飲み仲間をA君としよう。で、A君と話しているうちに、話題はジンギスカンの話に。ジンギスカンについては、あえて説明するまでもないと思うが…マトンやラムなどの羊肉を用いた焼肉料理で、鍋料理に分類されることも(実際、北海道ではジンギスカン鍋と表現する人もいる。だからして、鍋の話題の最中にジンギスカンの話が出てきたのだが…)。中央部が凸型になっている独特の鍋で羊肉を焼き、そこから出る肉汁で野菜に旨味をつけて食べる料理である。まあ、食べ方の詳細については色々とあるので、ここでは省かせて頂くが…。で、A君と話題になったのが『 ジンギスカン(鍋)に何を入れたか? 』であった。北海道と一言に言っても、御存じのように大変広いのだが、私の地元付近ではジンギスカンにコンニャクを入れていた。『 何故? 』とは聞かないで欲しい。物心ついた頃から、ジンギスカンにはコンニャクが入っていたのだ。何故と問われた所で答えようがない。ところが…A君からは『 なんでコンニャク入れるの!? 』と問われてしまった。何のことはない。A君の地元では、ジンギスカンにコンニャクは入れないとのこと。で、何を入れるのかと聞いてみると…私の地元では入れない白滝(しらたき)を入れるそうである。それを聞くや否や『 そうか、従兄弟と同じか… 』という考えが頭をよぎる。実は、私の従兄弟の地域でも、ジンギスカンにはコンニャクは入れないそうで、白滝を入れていたのである。A君が食べていたジンギスカンは、その流れを汲んでいるのだろう。北海道は広いのだからして、まあ私が知らないだけで、『 えっ?ジンギスカンに、コレも入れるの? 』と思ってしまうような食材など、おそらく山のようにあることだろう。

 一般的な鍋料理ともなれば、ジンギスカン以上に種々雑多な食材が用いられていることは十分予想される。料理全般に言えることだが『 何を入れるべきか・入れないべきか? 』よりも『 何を入れると美味しく食べられるのか? 』の方が重要なことである。以前〝百花繚乱、目玉焼き!〟というタイトルのブログで、以下の様な事を書かせて頂いた。

 

 人それぞれ〝食べ方〟は異なるのだ。前述の日常に埋没した〝当たり前の食べ方〟は、本人だけの〝正しい食べ方〟であり、誰しもに当てはまる〝正しい食べ方〟ではない。そう、食べ方には正解などないのである。

 

この記述は、『 目玉焼きに何をかけるか? 』という内容の所で書かせて頂いた文章であるが…。別に何をかけるかに限ったことではなく、『 何をどのように食べるか? 』という観点からすれば、『 ジンギスカンに何を入れるのか? 』 『 鍋に何を入れるのか? 』ということも同じ内容であり、やはり正解などはない。自分が思いもかけないモノが、思いもかけない料理に入っていることなど、当たり前と言えば当たりまえの話なのである。

 私が高校生の頃。社会の授業で牛肉の話になった。先生が『 まあ牛肉なんかは、すき焼きなんかに使うけれども… 』と話をした時…『 !! 』となる私。思わず『 すき焼きに牛肉入れます? 』と声高らかに言ってしまった。そう、私が子供の頃から〝すき焼きと称して食べさせられていたモノ〟は、牛肉ではなく豚肉だったからである。そんな私の発言に、先生も含めクラス中が『 ? 』。沈黙の後に先生が『 すき焼きには牛肉使うでしょ? 』と一言。パニックになりつつも、周りの皆に『 ええっ!?すき焼きって豚肉だよね? 』と振りまくる私であったが…皆、沈黙で首を横に振るばかり。すき焼きって牛肉なのか!?という疑問を抱きつつも、講義後に部室へと急ぎ、やはり部員に尋ねてみると…返ってくる答は、すき焼きは牛肉…。すき焼きアイデンティティが一気に崩壊するなか、部活もそこそこに、急いで帰路につくことに。その際中も『 すき焼きは牛肉なのか? 』の思いを胸に、ひたすら家路を急ぐ。家に着くや否や、おもむろに母に向かって『 すき焼きって、牛肉使うんじゃない?ウチ、すき焼きって豚肉使っているじゃない! 』というと、母の一言。『 豚肉だって美味しいじゃない? 』。…そういう問題じゃないんだよ、お袋…。本来あるべき、すき焼きの姿が牛肉なんだよ…それを豚肉使ってすき焼きと称し、さらには『 美味しいでしょ 』って、そりゃあ違うだろ…。そういやあ、昔からテレビやマンガを見て、『 すき焼き、御馳走! 』みたいなセリフが出てくる度に、疑問符が浮かんでいた。『 すき焼き、御馳走! 』といいながら、皆で大喜びしているが、それほどのものだろうか?確かに、〝すき焼きと称して食べさせられていたモノ(この時点では、私の中では、まだすき焼きとして認識されていた)〟もマズイ訳ではないし、それ相応に美味しいことは認める。が、『 特別な日に食べる 』『 めったに食べられない 』『 皆で大喜びの御馳走 』といったものではないはず…と、不思議に思っていたのだが、そりゃあそうだろうなぁ、牛肉なんだから!私が知っていた〝すき焼きと称して食べさせられていたモノ〟は、牛肉ではなく豚肉なんだから…。別に豚肉が嫌いなわけではないし、悪く言っている訳ではない。しかし、すき焼きが牛肉を使っているとなれば(もちろん、こっちが本家本元ノーマルタイプ)、話は別である。特別な日に食べることも然り、めったに食べられないものであることも然り、皆で大喜びの御馳走であることも然りである。ちなみに…罪滅ぼしであるのか、はたまた長年の偽りが露呈してしまったからかは定かではないが、その後の我が家のすき焼きは牛肉となったことを付け加えておこう。

 鍋料理とは『 食卓上で、野菜・肉・魚介類を鍋で煮ながら食べる料理(大辞林) 』とある。さらに『 一つの鍋に、魚介類・肉・野菜などを入れ、食卓で煮ながら食べる料理(和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典) 』とあるし『 材料として淡白な魚介、肉、野菜、麩、うどん、豆腐などが使われる(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) 』ともある。そう、鍋料理と一口に言っても色々あるが、結局は具材には何を入れてもいいということで、決まりはないのである。もちろん、出汁というかスープにおいても同じことが言える。美味しい出汁で何を煮ても〝鍋料理〟であり、そして美味しければ何ら問題はない。逆に、何を入れても美味しく食べられるのが、鍋料理の魅力であろう。恐らく、今後も『 えっ?鍋にそんなもの入れるの? 』といった食材が次から次へと出てくることだろう。『 何を入れるべきか・入れないべきか? 』よりも『 何を入れると美味しく食べられるのか? 』の方が重要なのだから…。前述の〝すき焼きと称して食べさせられていたモノ〟とて、決してマズイ訳ではなく、美味しいものであったことは間違いない(偽りに関しては少々問題あるが…)。『 中に何が入っているのかな? 』と楽しんで食べることも、鍋料理の美味しさに一役買っていることは間違いないと思う。例え、意外なものが入っていたとしても…イヤ、むしろ意外なものが入っていた時の方が、鍋料理の醍醐味が味わえるのではないだろうか?そう『 鍋の中身は何だろう? 』と見た時。思いもよらぬ、意外なものが入っていた。この時こそが、本当の意味での鍋料理を堪能できる、いい機会なのかもしれない。そんな想いで、鍋を覗くことも…これまた一興ではないだろうか?

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2017年11月22日 | コメントは受け付けていません。 |

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真似では勝利は得られない.

 以前『 いつから薬剤師国家試験は、こんなにも簡単なものになってしまったのだろう?〔 中篇 〕 』というタイトルのブログで、最後に締めさせて頂いた言葉です

 

我々は、最初から苦しむ方向をとったから、あとは楽になった。

真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる。

本田宗一郎(日本の実業家、技術者、本田技研工業の創業者)

 

恐れ多くも、本田宗一郎氏の御言葉。さすが一代にして、〝世界のホンダ〟と言われるまでの会社を作られたお方。言うことが違います。

 以前、ブログにも書かせて頂いたことなのですが…どうも多くの人が『 人の技を盗む 』ということを勘違いしているような気がします。同じく『 上手くいっている人のマネをして… 』などという言葉も良く聞きますが、これも巷では間違って使われているような気がします。どうも『 人の技を盗む 』という言葉は『 人のマネをする 』と解釈されているようで、その『 人のマネをする 』ことは『 上手くいっている人のマネをすると、上達すると言われているから、マネをすることは良いことだ 』と、その弁解に導かれているような気がします。

 私は武道を習っていましたが、稽古中は師匠の技を『 なるほど。ああやってやるのか… 』と、その一挙一動を食い入るように見ていました。もちろん、先輩方の技に関しても同じです。初めのうちは、その技をマネるだけ。もちろん表面的にマネているだけですから、しっくりいかないし、上手くもいきません。それを何度も繰り返し、そして『 どうすればいいんだろう 』と試行錯誤ているうちに、しっくりといくようになるのです。しかし、しっくりと行くようになった時、例え同じ技であっても、師匠や先輩諸氏とは若干は異なるものとなっています。それも当然、私がやっている訳ですから。寸分の狂いもなく、全く同じ所作になる訳でないことは言わずもがな。自らのモノとして、自らが使いこなせるようになる。人それぞれの立ち居振る舞いではあるけれど、その技の主旨は貫いている。技を習得するというのは、そういうことです。技の習得とは、師匠や先輩方と、形だけ同じ立ち居振る舞いをすることではありません。もし、形だけ同じ立ち居振る舞いをしているだけなら、それは技を習得したとは言えません。ただ〝マネ〟をしているだけです。当然、技を盗んでいる事にもなりません。本人は例えその気になっていようと、そしてそのマネを『 自分流だ 』としたところで、マネはしょせんマネでしかなく、それは〝習得〟ということとは大きな隔たりがある行為なのです。

 私は師匠から了解を得て武道を習得させてもらっていましたが…もし、了解を得ずに、何かで勝手に師匠の技を見てマネしたら、どういうことになるでしょう?イヤ、それどころか…そのマネをして『 これは私の技ですよ 』と公言したらどうなるでしょう?誰もが『 とんでもないことだ! 』と言うのは必須だと思います。本人に無断でマネして、ましてやそれを『 自分のものだ 』と公言しているのですから…。もし、マネをしている当人に『 それは○○師匠の技ではないですか? 』と聞いたとき、『 改良しているんで(私の技です) 』と答えたらどう思います?とんでもなさに輪がかかるというか、呆れてモノも言えないほどの愚行と言えるのではないでしょうか?人の技を勝手にマネして、もちろん技を習得している訳でもなく、ただ表面的にマネをしているだけで、それを指摘されると『 (マネじゃない)改良した 』と公言するなど、とてもじゃないけど正気の沙汰とは思えません。しかし、そんな〝正気の沙汰とは思えないこと〟が、悲しいかな横行しているのが現状なのです。

 ゼロから物を作ることには、大変な労力と知力、そして時間がかかります。誰かの技を習得することも、『 ゼロである自分が、一つの技を習得した自分になる 』という意味では、『 ゼロから物を作る 』ことと同じです。いずれも大変であることは間違いありませんが、それを成した時、人は大きく成長することになります。己が持つ全てを注ぎ込みながら、一つのことを成す。成長して然るべきと言えるでしょう。成長とは『 今までの自分とは変わること 』です。今までの自分を変えるということは、ある意味、今までの慣れ親しんだ自分を壊すということでもあります。蛹から羽化するが如く、中身から新しく生まれ変わって、今までの蛹を壊して出ていかなければらないからです。そう、表面ではなく、中身から変わる。それが成長ということだと思います。どんなに表面だけ取りつくろって見せたところで、それは表面の見た目を変えただけであって、成長した事にはありません。蛹の表面が若干変わっただけであり、成虫として羽化してはいないのです。そう、それではいつまで経っても蛹のまま、成長はしません。

 〝猿まね〟という言葉があります。『 猿が人の動作をまねるように、考えもなく、むやみに他人の真似をすること(デジタル大辞泉)』 『 猿が人の動作をまねるように、他人のすることの表面だけまねること(大辞林) 』。もちろん、良い意味合いで用いられることはありません。この言葉には『 考えもなく表面だけまねたところで、当人は何も得られない 』という意味合いが含まれています。それはそうでしょう。表面だけをマネる〝猿まね〟では、決して人は成長することはないのですから…。その時は『 マネして、公言して自分のモノとした。ラッキー! 』位に思っているやもしれませんが、長い目で見た場合、それは自分の成長の足を引っ張っているだけにしか過ぎないということ。どんなに『 私のもの 』と公言しようが、『 改良した 』とごまかそうが、それは単に自分の成長を妨げているだけにしか過ぎないのです。結局は、自分が一番損をすることになる。冒頭の本田宗一郎氏のお言葉『 真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる 』はまさにそれを語っているのだと思います。

 私も丹精込めて作ったものがマネされ、しかも、それをあたかもマネした当人が作ったかの如く公言されることが、よくあります。その時は、憤りを覚えるのですが…そういった行為が、結局はマネした人間自身の足を引っ張ってしまうのだなぁ…と考えると、『 何だか哀れな人だなぁ… 』と思ってしまうのです。ましてや、その当人が誇ったような顔つきで、人のマネ事を如何にも自分が考えたか如く振る舞っている姿を見聞きすると、一入哀れさを感じてしまうのです。

 

ものの種類であれ、つくり方であれ、売り方であれ、新しいものを考案しよう。

人真似、猿真似はやめておこう。真似では勝利は得られない。

井深 大(実業家電子技術者、ソニーの創業者の一人

 

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2017年11月16日 | コメントは受け付けていません。 |

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そんなの聞いたことがない…ほ~っ、お前は何でも知ってるんかい!

 ブログで、何度か書かせてもらった内容がある。それは『 巷には、つい不思議に思ってしまう言葉がある 』といった内容。不思議な内容と言っても『 よき薫陶を受ける 』だとか『 情誼に厚い 』とか『 問題を社会全般に敷衍し論じる 』といったような〝立派な言葉〟で、その意味が分からず『 ? 』となっている不思議な言葉ではない。なんで、そんな言葉を使うのだろうか、全くもって理解できない…そういった不思議な言葉である。

 人と話をしている時、こちらが何か言うと…『 そんなの聞いたことがない 』という人がいるが…。さらに言うならば、この言葉を発している時の相手の表情。蔑んでいるような表情の時もあれば、人を小馬鹿にしているような表情の時もあるし、若干怒りを含んだ少々険しい表情の場合もあったりする。まあ、あまり高尚ではない表情という事である。こちらとしては『 ? 』となってしまう、ダブルの意味で…。

 そんなの聞いたことがない…。この人は何でも知っているのだろうか?『 そんなの聞いたことがない 』という言葉には『 自分は何でも知っている 』 『 自分に知らないことはない 』というニュアンスが含まれているというか、それ前提で発現しているということになる。ほーっ、何でも知っているのか…じゃあ『 そんなの聞いたことがない 』という人に聞きたい。宇宙の果てはどうなっているの?人はどこから来て、どこに行くの?人類の起源は?坂本竜馬を暗殺したのは誰?邪馬台国はどこにあったの?三億円事件の真犯人は誰?フェルマーの最終定理の証明は?答えられるんだろうなぁ、何でも知っているんだから。ついでに、〝レバニラ炒め〟が正しいの?〝ニラレバ炒め〟が正しいの?日本で一番うまいラーメン屋はどこ?どうだ、答えてみろ!だって『 そんなの聞いたことがない。何でも知っているんだから。だから聞いたことがないことは、存在しないんだ 』というスタンスの言葉を発しているんだから、答えられるでしょうが?

 『 ? 』となってしまう、ダブルのもう片方が、その言葉を発する時の表情である。どして、人を小馬鹿にしているような表情なの?なんか、おかしいことでも言ったのだろうか?別に『 ○○って□□なんだよ 』と言っただけなのだが…。往々にして、こちらが知っていることを話した場合に、件の言葉は発せられる場合が多い。ということは『 自分は何でも知っている。聞いたことがないことは、存在しない 』と言っているのだから…やはり、私が言ったことは過ちであり、戯言であり、単なる空論なのだろうか?イヤ、イヤそんなことはない。こちらとて口から出す以上は、それ相応に責任があるからにして、適当なことを闇雲に行っている訳ではない。ましてや、確実に真実であったり、事実であることを言っている場合が圧倒的に多い。なのに…前述の表情で『 そんなの聞いたことがない 』と言われてしまう…。う~ん、謎だ…。

じゃあ果たして、それに関して詳しく知っているのかと問うてみると…全くお門違いも甚だしい言葉が返ってきたりするので、唖然としてしまう場合が多…イヤほとんどである。『 それは違う 』だの『 そんなことはない 』の一点張り。何故か?どうしてなのか?そう言った理由付けが全くされずに、ただ言葉だけ押し付けられる場合がほとんど。それって、単なる個人的見解じゃないの?中には『 そんなの聞いたことがない 』を貫き通して、終わってしまう輩もいる。しかも、例の表情持続で…。『 (自分は)そういうの詳しいんですよ 』なんて、極め付きの一言を放ってきたりする輩もいる(もちろん例の表情付き)!詳しいと言っている割には、満足なことが話せていない…。詰んだな…会話としては、コレで詰みである。だって、こんな状況になったら唖然とするしかないでしょう、こちらとしては!

 ハッキリ言わせてもらうが『 そんなの聞いたことがない 』と言うわりには、そのこと自体を知っていない場合が、これまた圧倒的に多い。何度も書かせて頂いたが『 そんなの聞いたことがない 』という発言の背景には、『 自分は何でも知っている。だから自分が聞いたことがないことは、存在しない 』というスタンスがあるはずである。なのに、実際は知っていない…。なのに、何故そんな発言をするのだろうか?ポイントは、その言葉を発する時の、例の表情である。蔑んでいるような表情、人を小馬鹿にしているような表情、若干怒りを含んだ少々険しい表情…。何故、相手を非難するような発言をしている訳でもないのに、そのような〝攻撃的な表情〟になるのだろうか?何か機嫌を損ねるような発言でもした訳が…まさか、こちらが知っていることが面白くないのか?なるほど、そう考えると全てにおいて辻褄が合う。自分を知らないことを、相手が知っている。それが面白くない。否定しようにも、否定するだけの材料は持ち合わせていない。それに、おもむろに否定するのも大人げない(まあ、この時点でかなり大人げない思考回路になっているが…)。そこで、『 自分はそんなこと聞いたことないけど、それ事実じゃないでしょ? 』となっているのではないか?面白くないことに対する、否定…。そりゃあ、問い返してもまともな返答が返ってくるはずないわなぁ…。

 そんなの聞いたことがない。よく考えれば、恐ろしい言葉である。これに対抗する言葉は、ブログタイトルにある『 ほ~っ、お前は何でも知ってるんかい! 』しかない。しかし、どういう訳か、『 そんなの聞いたことがない 』と言われた時、この言葉を発する人はいない。何故か?呆れてモノも言えないからであろう。かくいう私がそうなのだから…。何と言っても『 自分は何でも知っている 』 『 自分に知らないことはない 』スタンスで発現しているのだ。モノも言えなくなるのは当然である。

 別に、自分の知らないことを相手が言ったところで、さして気にする必要もないと思うのだが…。私は、相手が私の知らないことを言った場合は、逆に興味を持ってしまう。『 へ~っ、そうなんだ。じゃあさぁ… 』なんて、それについて事細かに質問してしまったりする。その方が色々な事を知ることが出来て面白いと思うのだが…。下手なプライドよりも、興味引き付けることを知ることの楽しみ。それは次か次へと、色々な事を知る機会を作り出すことになると思う。こちらの方がよっぽど有益で、そして楽しくやっていけるのではないだろうか?『 そんなこと聞いたことがない 』と道を閉ざしてしまえば、そこから先にある美味しいモノにはたどり着けない…私はそう思っている。

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2017年11月9日 | コメントは受け付けていません。 |

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勝手に話を作られると困るんだよなぁ…。

 世の中には、人がやってもいないことを、やったが如く吹聴する人がいるから困ってしまう。イヤイヤ、〝やったが如く〟位ならまだ可愛いかもしれない。もっとひどい人になると〝『 やった 』と決定事項として吹聴〟したり、〝『 そうである 』と断言して吹聴〟したりするもんだから、コレが大変。完全なる事実として流通させている。吹聴している方は、口角泡を飛ばして吹聴している場合が多く、コレがまたまた厄介。吹聴に熱が入って、自分で自分を盛り上げるもんだから、吹聴も盛り上がる盛り上がる。まあ、陶酔しているんだろうなぁ…。また熱が入れば入るほど周りの人間も、その迫真性の故、本当かも知れないと思ってしまう状況に。こりゃあ、そうとうに厄介だぞ…。

 もともと〝吹聴〟とは『 言いふらすこと(デジタル大辞泉より) 』とある。しかし、美味しいお店があった場合、『「あのお店は美味しい」と吹聴している 』という言い方はしない(もちろん、このお店が本当に美味しい場合)。吹聴は言いふらすことであるが、良きことを言いふらす場合には、まず用いられない。まあ〝言いふらす〟という言葉自体、あまり良い意味では用いられていないのだが…。吹聴の〝吹〟には、『 吹く:出まかせや大げさなことを言う(デジタル大辞泉より) 』という意味もある。いわゆる『 ホラを吹く 』の〝吹く〟であるからにして、やはり吹聴というのは、あまり芳しくないことを、大げさに言いふらしていることになる。まあ、口角泡を飛ばして吹聴しているなんて人は、一種の大ぼら吹きともいえるだろうなぁ…。

 人は自分の思いで行動する。人の行動のパターンなど、そう読めるものではない。一つの行動を考えた時にでさえ、無数のパターンがあることは言わずもがな。例えば『 飲む 』という行動を考えた時にでさえ、『 何を、どれくらい、どのように、etc… 』等、無数に考えられる訳である。まあ、ファーストフード店に入った時に『 コーヒーを頼むんだろうな 』位は読めなくもない。しかし、これとて、例えコーヒーを頼んだところで、その理由までは中々読めるものではない。行動パターンは読めても、その理由まで読むなど、おいそれと出来ることではない。イヤ、不可能に近いと言った方が、適切だろうか?『 コーヒーを注文する 』と行動は読めたとしても、その注文理由など、まず読めたものではない。『 ここのコーヒーを飲むのは久しぶりだから 』だったり、『 さっき飲んだコーヒーが不味かったんで口直しに 』というのもあれば『 しばらくコーヒーを飲んでいなかったので 』なんていうのもあったりする。例えコーヒーを飲むという行動が読めていたとしても、その理由は全く思いもよらないモノだったりする。そう、〝読めている行動〟であっても、その理由など分からないのだから、〝読めていない行動〟の場合も含めれば…人の行動理由を読むなどということは、まさに藁山の中から針を探すようなものであろう。

 ところが、人が何か行動をするとき。勝手に『 あの人は○○だから、□□するんだよ 』などと勝手に思い込んでは、事実として周りに吹聴する人がいる。おおっ、ここにも〝人の行動の理由が読めてしまう超能力者〟出現か!?などと思ってしまう(ブログ〝超能力者か、お前は!〟ご参照ください)。前述のように、人の行動理由を読むことなど不可能なのだからして、それを読んでしまうとなればやはり超能力だろう。う~ん、世間には何と超能力者が多いことか!前述のように、例え大した行動でなくても、その背景というか、行動理由などは、とてもじゃないが読めるものではない。しかし、その行動理由までも読んでしまう人がいるんだなぁ、コレが!『 あの人は○○だから、□□するんだよ 』なんていう具合に。こりゃあ、超能力者の中でも、〝超〟が付く超能力者だぞ!超超能力者か?私はそっちの方の世界には少々詳しいが、超超能力者などついぞ耳にしたことが無いぞ?そんな凄い人がいるなら、FBI超能力捜査官としてスカウトが来るのではないか?その人間の行動理由が読めるなど、犯罪捜査には欠かせない能力、間違いない。

 しかし『 日本からFBI超能力捜査官誕生! 』などというニュースは、ついぞ耳にしたことがない。イヤイヤ、チョット待て…先ほど『 読んでしまう 』と書かせて頂いたが、本当に読めているのか?そう、全く読めていないのである。『 読めた 』と思っているのは、当の超能力者本人だけであって、全く読めていない場合が100%。早い話、自分で勝手に『 こうだ 』と思ったことを、事実と捉えて『 こうなんだよ 』としているだけである。つまり妄想…。こりゃあ、相当面倒くさいヤツだぞ!前のブログでも書かせて頂いたが、〝自称超能力者〟は、かなり面倒くさいヤツが多い。本人が『 こうだ! 』と思った事を真実とする。思い込みが激しいとかのレベルではない!自分で勝手に考えた内容を、周りに事実として吹聴しては『 私には分かっているんだ 』と自惚れているのだ。歴戦の豪傑も汗ばむほどの厄介な…イヤ、面倒くさいやつであることは間違いない!自分で勝手に思い込み話を作っては、それを事実として周りに吹聴する。世間ではそれを〝事実〟とは言わず〝妄想〟とか〝でっち上げ〟というのだが…つまり 妄想=事実 となっている訳で…こりゃあ本当に面倒くさいぞー!

 このブログを読んでおられる方の中にも、そんな〝厄介な超能力者〟の被害にあわれた方も、少なくないのではないだろうか?かくいう私も、その一人である。どちらかといえば、その被害が多い方ではないだろうか?何か事あるごとに『 あの人は○○だから、□□するんだよ 』と吹聴される。もちろん、事実として…。何か言えば『 □□だから、そう言ってるんだよ 』、何か行動すれば『 ○○だから、ああするんだよ 』、行動しなければしないで『 △△だから、何もしないんだよ 』…あ~面倒くさいなぁ!そんなに一々、周りの事考えて行動しているかってーの!大体、人間の行動理由に、そんなに意味深いものが常にある訳ないだろうが!っていうか…人がどんな行動をとろうが、その人に直接迷惑がかかるような行動でない限り、別に関係ないんじゃないのかね?

 自分でシナリオを書き、『 そうなんだ 』としておくと、確かに当人にとっては都合がいいかもしれないし、気持ちいいことなのかもしれない。『 あの人はこういう人 』『 あれはこういうこと 』という、自分の感じ方による判断や思いを、自分の中だけに仕舞っておく分にはさして問題ないだろう。しかし、自分の感じたモノを事実として吹聴したり、『 あの人は○○だから、□□するんだよ 』と勝手に決め付けた妄想を、事実として流布するのは如何なもの…イヤ、確実によろしくないことだろう。やられた当人としては、面倒くさいこと、この上ない。まあ、やっている当人としては、自分に都合のいいシナリオを書き、そのシナリオ通りの自分だけの世界に君臨しているのだから、心地いのかもしれない。自分に不都合な人間は『 あの人は○○だから 』、自分に不都合な現実は『 あの人が△△したから 』。自分が気に入らない人間の行動、一挙一動を『 あの人は○○だから、□□するんだよ 』として、自分に都合のいい世界を作り上げているのだろう。そして、己の世界と現実の世界を、ゴッチャにしているんだろう…。対象となった方は、いい迷惑である。勝手に話を作られると困るんだけどなぁ…。やっぱり、面倒くさいことこの上ないのは確かだ。ましてや、本人は〝単なる個人的な妄想〟であることなど、微塵も疑っていないのだから、こりゃあ、相当面倒くさいぞ!そういう面倒くさい人間への一番の対処法は…それは関わらないこと。三十六計逃げるに如かず(面倒なことが起こったときには、逃げるのが得策であるということ:デジタル大辞泉)。これが勝手に話を作ってしまうような面倒くさい人間への、一番の対処法である。

 

君子、面倒くさいヤツには関わらず。

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2017年11月3日 | コメントは受け付けていません。 |

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