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ハロウィンで酒は飲めるのか?

 以前、ブログでも書かせて頂いたことがあるが、今やすっかり日本の風物詩の座を射止めたハロウィン。今や、秋の風物詩の一つとして、その名を轟かせている。我が浅草橋は、イベント小物の問屋が多い店でもある。JR浅草橋から薬進塾に来るまでの間にも、そういった問屋さんが軒を連ねている。ハロウィン用の飾りつけはもちろんのこと、コスプレや仮装用品、グッズ、果てはメイク道具の類も所狭しと店内に飾られている。日本の風物詩であった〝お月見〟グッズは、とんと見かけないのだが…。もっとも、お月見にはあまりグッズは必要ない。団子とススキ位なモノだろうか?まあ、主役がお月様であるからにして、そんなにグッズを必要ともしないのは確か。ハロウィンは、どちらかと祝う方が主役的な部分がある(少なくとも現在日本で行われているハロウィンに限って言わせて頂ければ…)。ハロウィンは、もともとは、秋の収穫を祝うお祭りとの事。ならば、コスプレや仮装も頷けなくはない。我が日本人とて、祭りの時は法被を着て、神輿を担ぎ、陽気に楽しく騒ぐ。面をかぶったり少々派手な衣装を身にまとい、面白おかしく踊ったりすることもある。何ら変わりはない。『 日本の祭りは神様に対する感謝の気持ち!ハロウィンと一緒にするな! 』という、少々頭のお固い方がいらっしゃるかもしれないが…前述のように、ハロウィンもれっきとした秋の収穫を祝う収穫祭。悪いモノを追い出す宗教的な意味合いもあったそうであるから、やはり神事の一つだと考えてもいいはず。国や地域やそこに住む人により、神様を崇める方法が異なるのは当然の事。現在がどうであれ、日本のお祭りのように、ハロウィンもれっきとしたお祭りであることは間違いないと思う。

 ここで、一つ疑問に思うことがある。日本の祭りには酒が欠かせない。まあ、わが国では『 祭り=酒が飲める 』という方程式が出来あがっているといっても過言ではない。祭り中とあらば、朝から酒を飲んでいても文句を言う人は少ない。『 祭りなんだから… 』の一言で片づけられてしまうから、私のような酒飲みにとっては、こんな好都合なことはない。酒を飲んで少々羽目を外しても、許されるのだ(断っておくが、祭り中だからといって、飲酒運転は許されない。これだけは、ハッキリ言わせて頂きたい)。祭りというと『 さあ、酒飲んで楽しめるな… 』と思う人も決して少なくないと思う。で、ハロウィンは…?

 正直な話、私はハロウィンのイベント等に参加したことが無い。ハロウィンのイベントでは酒が飲まれているのだろうか?日本の祭りは、もう祭りやっている最中から飲んでる飲んでる…という感じなのだが…。まあ、ハロウィンは子供も参加するからにして、あまり飲むということをしないのだろうか?イヤ、日本お祭りだって子供が参加しているぞ?でも、何気に結構、酒は飲まれているように思う。しかも、良い具合に出来上がっているオヤジ連中をよく目にするのは、私の気のせいだろうか?どうやら、子供がいるいないにはあまり関係ないようだ。

 調べてみると、居酒屋等でハロウィンイベント等を催している店も少なくはない。毎年話題になる渋谷駅前のハロウィンイベント…というか、いつからか定かではないが、いつの間にやら人が集まり、大騒ぎしている状態となってしまっているが、やはり周りのお酒を提供するお店は繁盛しているとのこと。やはり、酒は飲んでいるようである。

 しかし…日本の祭りは、最中に酒を飲んでいる。ハロウィンは…まあ調べてみると、その最中に飲んでいる人もいるようであるが、あまり飲みながらというのは見かけない。もちろん、ハロウィンイベントをやっている居酒屋などでは、飲みながらハロウィン…という感じになっているらしいのだが…。どちらかというと、ハロウィンの場合は『 ハロウィンですっかり楽しんだ。さあ飲みにでも行くぞぉ! 』的感覚が強いようである。同じ祭りであっても、『 祭りと飲みが一体化している 』か、『 祭りの後のさらなる盛り上がりとして飲みがある 』かの違いがあるようだ。もちろん、どちらが良いか、悪いかなどということは全くない。楽しみ、騒ぎ、そして酒があることは間違いないのだから…。楽しんで酒が飲めるなど、幸せなことである。飲まれる酒とて、そうやって飲んでもらえたのなら本望であろう。

 ウチの事務の人は、なかなか交友範囲の広い方で、外国の方にも知人・友人が多い。その事務の人が言っていたのだが…外国の方々は、よく『 日本人は、お酒が好きですね 』と言っているとのこと。どうやら外国の方から見ると、我が日本人は、とにかく酒が好きな人種のようである。まあ、確かに考えてみれば、年がら年中飲んでいるような気もしないではない。昔、〝日本全国酒飲み音頭〟という歌があった。コミックバンドのバラクーダさんが歌っていたのだが…まあ、酒を飲むことに関しての歌である。作詞はバラクーダの岡本圭司氏であるが、その歌詞がなんとも逸品である。少々紹介させてもらうのなら…『 一月は正月で酒が飲める 』から始まり『 十二月はドサクサで酒が飲める 』と閉められている。歌詞の内容では、一年間、その月のイベントにより酒が飲める…ということになっている。そう、結局、理由は何であれ、酒を飲む口実としているのだ。どんなことをも、酒を飲む理由にしてしまっているのだ、日本人は。楽しければ楽しいで飲むし、悲しければ悲しいで飲む。出会いとあれば酒を飲み、別れとあっても酒を飲む。他の国の方の方と比べてどうなのかは分からないが、確かに日本人が酒好きであることは間違いない様だ。

 いまや、その経済効果が1300億円以上とも言われるハロウィンだが、日本に定着してしてから、まだそんなに経っていない。諸説紛々あるが、色々と調べてみると、一般的になり始めたのは1980年代位とのこと。まだ、40年弱である。40年弱と聞けば長いように思えるやも知れないが、1300億円の経済効果を出しているイベントが50年にも満たないとなると、やはり急成長と言わざるを得ないだろう。もしかすると、ハロウィンで酒を飲んでいるイメージがあまりないのは、このせいかもしれない。まだまだ若者のイベント的要素が強いので、オヤジ連中は酒を飲む口実に、出来ないでいるのではないだろうか?なら安心である。もう少しすれば、日本の祭りと同じように、『 今日はハロウィンだから… 』と朝から酒を飲むオヤジを見かける日も、そう遠くはないはずである。何といっても、日本人は酒好きであるからにして、このイベントを見逃すはずがない。これを好機にと、酒を飲む機会を伺っているはずである。これは間違いないと思う。何故、間違いないと言えるのか?それは簡単。そんな私も、その好機を伺っている一人だからである(笑)。

 

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2017年10月27日 | コメントは受け付けていません。 |

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隣の誘引

 私は色々な予備校に在籍していたが、どこにいても〝隣の人〟の行動に関する相談は多い。『 貧乏ゆすりがひどい 』『 寝てばかりいて、やる気が削がれる 』『 何度も髪をかき上げるので落ち着かない 』『 講義中に携帯(スマホ)をやっているのが気になる 』等、講義中の集中力を削がれてしまうといった内容から、『 飲み物をこぼしてもそのまま 』『 荷物を多く置くので邪魔 』等の、日々の生活における内容のものまで種々雑多。中には『 菓子を食う音がうるさい 』というものもあったりした。

 私が毎度話しているのが『 試験勉強をしに来ているのだから、その勉強の支障になることは、何でも相談して下さい 』ということ。試験に合格するために来て、試験に合格するために受講し勉強している。だれしも必死である。その意気込みを削ぐような行為は、やはり注意しなければならない。『 注意しなければ… 』と書かせて頂いたが、この注意の仕方も何気に難しいものがある。頭ごなしに注意すればいいのかというと、必ずしもそうではない。『 講義中に携帯(スマホ)をやっているのが気になる 』というような、完全に迷惑となる行為・非常識な行為なら強くも言える。しかし、本人が意識していなかったり、悪意があってしている訳ではない行為に関しては、注意の仕方も微妙である。『 貧乏ゆすりがひどい 』というのも、そのひとつ。『 独り言がうるさい 』『 ため息が気になる 』などがそうである。まあ、いわゆる〝クセ〟というやつなのだが…こういった、悪意が無い行為に関する注意は、なるべく相手が傷つかないように、今後の受講に支障がないように配慮している。そういった配慮のかいもあってか、注意により行為が激減したり、全く無くなったりすることが多く、こちらも胸をなでおろしている次第。確かに、本人としても隣の人に迷惑をかけているとなると、まともな人間である限り、いい気持はしないはずである。自分とて、試験対策に必死なのだ。同じく必死な相手の気持ちだって、やはりまともな人間なら、分かってやれるはずである。そう、真っ当に必死にやっている人間ならば、同じように必死にやっている人間の気持ちは分かるはずである。

 ブログでも何度も書かせて頂いているが、私は居酒屋で、一人で一杯やるのが大好きである。一人で飲む場合、カウンターに座る場合が圧倒的に多い。当然、隣には人が座っているのだが…。何気に、どんな人が座るかは重要である。ましてや、隣に座る人間はどこの誰かも分からぬお方。場合によってはとんでもないことになってしまう場合もある。以前、ある居酒屋で一杯やっていた時のこと。隣のオヤジが、酔っ払い声で話しかけてきた。私は、一人で酒を飲むのが好きなのだ。だから一人で飲んでいる。職業不詳、素性不明、住所不明のオヤジと会話するために酒を飲んでいる訳ではない。よって、こういう場合は聞こえないふりをして、完全に無視することにしている。なのに、まだ言葉をかけてくるオヤジがいるのが厄介なのだが…この親父もそうであった。10分位無視していたのだが、酒は時間感覚を狂わせる。10分といえばかなり長い時間である。その間、無視しているのに、ずっと話しかけるなど、このオヤジにとっては、10分など一瞬のものなのだろう。恐ろしいほど、相対性理論が当てはまるオヤジだ。仕方なく『 はい? 』と答えてやると…居酒屋の壁にかけてある写真を指さし『 これはね、私が撮ったんですよ 』とのこと…だから?それがどうした?という私をよそに、一人で勝手に喋る喋る。この写真を撮る時にどんな苦労があったか(ただの桜の木を撮るのに、どんな苦労があるんだい?仮にあったとしても興味はない)、この写真の特徴(別に特徴はないだろう、ただの桜の木だ)、天気がいい日が無くて大変(あなたの都合に合わせて天候が左右されるのではない)、この写真の評価について(思いっきり自己評価じゃないっすか?しかも自己満足の…)、etc…。まあ喋る喋る。こちらが相槌打つのも出来ない位、矢継ぎ早に喋る。たしかに、そのスピードなら、相対性理論が適用されるのは間違いないだろう。そのスピード&ボリュームの喋りに対し、すっかり至福の一時を壊滅させられた私…。こりゃあ、三十六計逃げるにしかずだ…。オヤジがトイレに行った時が好機と、前々回のブログではないが〝雌伏もまた静かなる戦いなのだ〟と構えていると…オヤジがトイレに行き、ドアを閉めるや否や、今が好機と〝中国大返し〟並みのダッシュで会計に走り込んだのは言うまでもない。

 ハズレの場合はこういうオヤジに当たってしまうが、ほとんどの場合はお互いの雰囲気を害さないようにして飲む人間ばかりである。前述の『 真っ当に必死にやっている人間ならば、同じように必死にやっている人間の気持ちは分かる 』と同じで、やはり酒を飲む事を楽しみに来ている人間は、同じように楽しみに来ている人間の気持ちが分かるのだ。特に一人で飲んでいる場合は、相手の飲み方に入り込まないというのは、酒飲みのルールでもある。だから通常は、あまり隣を気にすることもなければ、何かされることもない場合が多い。時には、前述のブラックホール級のとんでもないオヤジに当たったりもするのだが…。一人飲みに場合、お互いに気にしないで飲んでいる場合が多い

 しかし…気になってしまう場合もある。相手の注文である。『 ブリ大根か…美味そうだな、頼もうかな? 』『 カニミソ?そんなの…オオッ!確かにある! 』『 なめろう?それ頼もうか迷っていたヤツ…頼むのか?お勧め品だから、無くなる可能性があるな… 』などと、隣に翻弄されることは少なくない。もちろん、言葉を発した相手は、私を翻弄させるために、その言葉発している訳ではない。単に、注文しているだけに過ぎない。ここで『 私を翻弄させようとして、ブリ大根となめろうを頼んだな? 』などと発現しようものなら、大事件である。想像だにできないが、壮絶なるクライマックスが待ち構えていることだけは確かであろう。

 この翻弄の陰には『 (注文した人間が)美味しいものを食べられる羨ましさ 』が根底にあると思う。まあ、羨ましさと言っても決してドロドロしたモノではなく、素直に『 いいなぁ 』といった子供っぽいものである。そういえば、学生さんと話をしている時にも『 隣の○○さん、成績が良いから… 』とか『 隣の□□さんは、すごい勉強している 』といった話をよく耳にする。これなども、素直に『 いいなぁ 』といった子供っぽい羨ましさであろう。

 居酒屋で羨ましい注文が耳に入った場合。翻弄されつつも、それに引かれて注文してしまうことは多々ある。『 いいなぁ 』と思ったものを、自分でも経験したくなるのは、人の常。同じようにその注文メニューを頼むことがあるのも然り。そして、同じように至福の時を味わっている。注文した人も、それに誘引され注文した私も、同じ美味しい思いをしているのだ。試験対策の日々の中で、『 隣の□□さんは、すごい勉強している 』という思いがよぎったのなら…同じように自分も勉強してみてはいかがだろうか?『 いいなぁ 』と思ったものは、自分でも経験してみた方がいい。居酒屋の注文の場合と同じように、良きことを味わえるかも知れないのだ。そして、その結果『 隣の△△さん、成績が良い 』と、逆隣の人から言われるようになるやもしれないのだから…。隣に座っている人に誘引され、感化されるのは、居酒屋であろうが、教室であろうが同じであろう。それによって、良き方向に触発され、良き結果を得られるならば、それもまた良しである。『 隣の○○さん、成績が良いから…。私も頑張ろう 』だとか『 隣の□□さんは、すごい勉強している。私もまだまだ勉強出来る 』と感化されたのなら、受験生として、お互いにこんな良いことはないのではないだろうか?『 汝の隣人を愛せよ 』はキリストの言葉であるが…たとえ宗教観は違えども、隣人の美味しいものを取り込むことは、決して悪いことではないし、居酒屋の隣人も教室の隣人も、何かを与えてくれる良きものであるのだから愛すべき存在であるという考え方は、決して間違ってはいないと思う、今日この頃である。

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2017年10月26日 | コメントは受け付けていません。 |

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超能力者か、お前は!

 と、つい叫んでしまいたくなる輩がいる。超能力には何種類かあるが、サイコキネキス、テレパシー、予知、透視、テレポーテーションなどが代表的。『 薬剤師国家試験予備校たる〝科学を教える学校〟が、超能力などというモノをブログに書くのはけしからん! 』と言われる人がいるかもしれないが…。ブログ『 カッパは今の日本を憂えているのか? 』でも書かせて頂いたのだが…人がどう思おうかは自由である。とりあえず、私は超能力が存在しないとは思っていない。では、存在すると思っているのかというと…カッパと同じく、理論的に考えさせていただくならば、それ相応の証言があるということは、一概に存在を否定できるものではないと思っている(一応、私もそれ相応の経験をしたことがあるのは、付け加えておきたい)。森羅万象の理は、人間がおいそれと理解し、簡単に釈明出来るものではないはず。同じように、この大宇宙の法則というモノも、やはりとてつもなく雄大で深いものである。せいぜい、ここ200年位で確立された人間の科学で追いつこうにも、とてもではないが、おいそれとは追いつけるものではない。だからこそ『 自分がガチで経験したことが無いから、そんなもの存在しない 』という考え方には陥りたくないのである。『 現代科学で証明できないものは、存在しない 』という考え方も然りである。『 現代科学では解明できないものもある 』そう考えることが重要ではないだろうか?それを認めるからこそ、『 分からない…何故だろう? 』と考えるからこそ、科学という歯車は回りだすのではないのだろうか?『 そんなものあり得ない 』と否定している限り、その歯車が回り出すことはないだろう。

 で、超能力の存在の是非およびその考え方については、各々に任せるとして…その超能力の中に〝テレパシー〟と呼ばれるものがある。〝道具・言葉等を使用せず、離れた相手と通信を行う能力〟を指す場合が多いのだが、〝相手の思考・心理を読む能力〟も指している。おおっ!こうして文字にしてみると、中々素晴らしい能力だ。便利なことこの上ないのだが、通信を生業としている関係者の方々にとっては、これ以上、はた迷惑な能力もないだろう。『 ス○ホ代、○○円! 』なんていうものではない。全部タダでいけるのだ!おまけに充電も必要なければ、周りを気にする必要もない通信手段なのだ。乗り換え100%は間違いないだろう。

 閑話休題。人と話をしている時。時折、上から目線で話してきたり、挑戦的な言葉を投げかけてくる輩がいる。まあ、こちらも色々な分野で、色々な人達と関わってきた人間。上から目線や挑戦的な言葉には、あまり動じない性分。で、動じないで応対していると…どういう訳か、何やら不機嫌なご様子…。何故だ?何故、不機嫌になる?どっちかって言うと、上から目線や挑戦的な言葉をくらった私の方が、不機嫌になる権利を持っているのではないか(まあ、その権利は放棄しているが…)?なのに何故、発した方が不機嫌になる?という疑問を胸に抱きつつも、その後も応対していると…。不機嫌な相手側はこう言うのである『 そう言ってますけど…僕には分かってるんですよね… 』と…しかもドヤ顔で…。ココである!ここで言いたくなるのである!『 超能力者か、お前は!(正確には「 テレパシストか、お前は? 」) 』と!何で分かる?イヤイヤ、そもそも何が分かる?お前は超能力者か?テレパシー持ってるんか?他心通が出来るんか?苦行によって他心通力でも身に付けたんか?ついでに言わせていただくならば、そのドヤ顔はなんだ?〝?〟が怒涛のように押し寄せ、訳が分からない状況の中、素直に『 何が? 』と聞くと…より一層のドヤ顔で『 いや、僕には分かるんですよ… 』と、そのドヤ顔に悠々と浸っているような雰囲気を醸し出しつつ、御満悦のご様子…。う~ん、これこそ科学的に謎である。

 そういう輩が発する『 僕には分かるんですよね… 』という言葉に付いて、色々考えてみるのだが…。もちろん、テレパシーや他心通が出来ている訳ではないのは100%確実。何と言っても、私の思いというか、まあ心の中は全く読めていないのだから。読めていないのに、読めていると思っている…なかなか厄介な輩かもしれない。超能力を持っていないのに『 自分は超能力を持っている 』と思い込んでいるのだ。中二病満開な輩ではあるが…世の中、こういった輩が一番面倒くさい。私の知り合いにも、〝自称超能力者〟や〝自称霊感がある人間〟が何人かいるが、付き合っていく上では、皆、中々のツワモノである。手っ取り早く言わせて頂くならば、面倒くさい相手であることは間違いない。うん?〝自称超能力者〟も面倒くさい。『 僕には分かるんですよね… 』という輩も面倒くさい。こりゃあ、〝 自称超能力者 = 面倒くさい=『 僕には分かるんですよね… 』という輩 〟で、波動方程式にも匹敵する公式成立ではないか?と思いきや、どうもそうではないらしい…。『 僕には分かるんですよね… 』という輩は、自分が超能力を持っているとは、一言も口にしていないのだから…。

 ポイントは、ドヤ顔である。何故、ドヤ顔になるのか?ドヤ顔になる場合は、往々にして優越感に浸っている場合が多い。なるほど、こちらが隠していることを見抜いたと思ったのなら、『 してやったり 』と思い優越感に浸ることもあろう。まあ、実際には見抜いていないのだが…。では、何故、見抜いていないのに、見抜いたと思っているのだろう?

 何のことはない『 見抜いたと思い込みたいだけ 』なのだろう。上から目線で話す人物や挑戦的な言葉を発する人物は、どうも相手を手玉に取りたいという思いがあるようだ。自分の都合いいように相手を動かしたい。そういった挑発に相手が乗らないと…それが気に入らないようである(しかし、面倒くさいヤツだなぁ…)。で動じてもらわないと、発した方としては、あまり喜ばしい事態ではない。そこで…『 イヤ本当は動じているはずだ、そうに違いない 』とでも、思い込みたいのではないか?だからこそ『 動じたのを隠しているのだろう?お見通しだよ 』ということで、前述のような発言&ドヤ顔をするのだろう。これはこれで、やはり中々面倒くさい相手だ…。

 何度もブログで書かせて頂いているが、人は皆それぞれ。人が、中々自分の思い通りに動いてくれないのは、世の常である。だからと言って、不機嫌になるのはナンセンス。こちらがどう応対しようと、人それぞれ受け止め方が違う以上、その言動とて違うモノになってしまうのは当たり前の話であるのだから…。ましてや、上から目線で話したり、挑戦的な言葉を投げかけて、相手を思い通りに動かそうなど言語道断。人には人それぞれ、プライドというモノがある。そういった行為は、人のプライドを、ある種踏みにじっている行為である。ましてや、相手が自分の思いと違う言動を取った時、不愉快になり、さらには『 隠しているんだろ?分かっているんだから 』などと自分都合で解釈し、それを言葉として発するなど、相手のプライドなどお構いなしといった行為ではないだろうか?まあ、相手のプライドを無視することで、優越感を感じる人間もいるようなので、本人としてはそれで御満悦なのかもしれないが…あまり関わりたくない人間であることは間違いない。

 せっかく、超能力に踏み込める壮大な話になるのかと期待していたのだが、何ともちっぽけな優越感がその根源ということで、幕が閉じてしまった。向こうが本当にテレパシーで攻めてきているのなら…じゃあ、こっちも負けずにサイコキネシスで応戦。相手に多大なるダメージを…オオッ、超能力バトル勃発か?善悪二手に分かれての人類の存亡をかけた、壮大なる超能力バトルでも起きるのか!と期待していたのだが…。とんだテレパシー茶番であった。もし、件の輩が本当に超能力を持っているとするのなら…その超能力を、相手を思い通りに動かすとか、そうならない相手に対しダメージを与えるとかのレベルではなく、もっと世のため人のためになるような…イヤイヤ、そんな壮大なことで無くていい。周りの人を笑顔にするような、そんなことに使って頂きたいと思っている。まあ私なら、そっちの方に使うと思うのだが…。下手な優越感を感じるより、皆が笑顔という方が、いいんじゃないでしょうかね?少なくとも、私はそっちの方が楽しいので…。

 

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2017年10月19日 | コメントは受け付けていません。 |

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雌伏もまた静かなる戦いなのである。

 当ブログご愛読の方なら、ご存知の事と思われますが、私はブログの中に古今東西の格言・名言を織り込むことがよくあります。実はファンというか、格言・名言がかなり好きなのです。当然のことながら、格言・名言に関する書籍も、かなりの冊数有することに。ちょっとした時間でも読むことが出来る。大して頭を使う必要もなく、すぐに読める。続きを気にせずとも読める。それでいて感動することも多い。ということで、格言・名言集は大好きなのです。もちろん、感銘を受け、座右の銘にしたいなという名言・格言も星の数。

 そんな私が好きな名言・格言の一つが、ブログタイトルの言葉。小説家である早乙女貢(さおとめ みつぐ)先生のお言葉です。早乙女貢先生は、歴史小説・時代小説作家で、司馬遼太郎先生、池波正太郎先生と並ぶ〝時代物御三家〟とも称された偉大な作家先生です。時代劇好きな私にとっては、とにかく偉大な存在の先生。そんな早乙女先生が、作品〝風雲児列伝〟の中で書かれたのが、ブログタイトルの言葉。

 雌伏には『 人に屈伏して従うこと(デジタル大辞泉) 』といった意味もありますが、『 実力を養いながら活躍の機会をじっと待つこと(デジタル大辞泉) 』『 力を養いながら、自分の活躍する機会をじっと待つこと(大辞林) 』といった意味で使われる場合が多いようです。つまり、大人しくしていながら、または耐えながらも、じっと好機を伺っている。不本意な状況の中でも、いつか来る活躍のために、しっかりと力を養う。目立たぬながらも、来るべき時のために力を溜めている。そういう意味で用いられる場合が多いということ。

 そして、その〝雌伏〟も『 また静かなる戦いなのである 』。これが早乙女先生のお言葉。『 不本意な中であっても、来るべき戦いのために、しっかりと力を養っておく。これも、戦いなのだ 』という意。耐えねばならぬ状況の中、戦いの時のために力を養っておくことも、これ即ち戦い…そして、これは〝静かな戦い〟。〝戦い〟というと、力出し切って激しくぶつかることを想像してしまうが…〝静かな戦い〟というものもある。目立って戦ってはいないし、力をぶつけることもしない。しかし、目立たぬよう耐えながら、しっかりと力をつけていくことも、立派に戦いの一つ。そして、それが〝雌伏〟である。早乙女先生は、そう言いたいのだと思います。

 確かに…いざ事を起こそうとした時。その〝時〟が、己にとって常にいい状況であるかと言えば、そうではない場合の方が多いのが世の常。『 機が熟す 』という言葉があるように、物事を起こすのには、ちょうどよい時期というモノがあります。では、いざ事を起こそうとした時、機が熟していない場合は、どうするのか?やはり、熟すまで待たねばなりません。機が熟していないのに、急ぐこと焦って事を起こし…急いては事をし損じるの言葉通り、散々な目に合った人が沢山いることも、歴史を見ればお分かり頂けること。

 機が熟していない時は、熟すまで待たねばなりません。では、ただ黙って待つのか?以前、ブログタイトル〝冬休みは受験生にとって『天下分け目の関ヶ原』!〟の中でも書かせて頂いたのですが…歴史にその名を轟かせる、御存じ徳川家康。徳川家康と言えば『 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトドキス 』といった気性の持ち主。そんな気性の家康ですから、当然〝己が天下を手にする機〟が熟すまで、待っていたのでしょうが…もちろん、ただ待っていた訳ではないでしょう。

 徳川家康は天下を手中に収め、その後何百年も続く江戸幕府を開いた人物ですが…そこに至るまでの道のりは、過酷なものでした。幼少時から人質となり、苦難の道のりを耐え、最愛の妻も子供も殺され、時には蔑まれ、それでも生き残りの選択を迫られ続けた半生でした。そんな辛い人生に耐えながら、機が熟す、すなわち自分が天下をとるまでは、まさに『 雌伏もまた静かなる戦い 』と、力を蓄え、腕を磨き、知恵をつけていたのではないでしょうか?そう、『 鳴くまで待とう 』ですが『 鳴くまで、ただ待っていた 』訳では、決してなかったと思います。前述のように、待っている間は、それこそ不本意な状況、苦労の連続…。それでも、急ぐこと焦って事を起こさず、耐えながら好機をうかがい、力をつけていったのです。これぞ、まさに『 雌伏もまた静かなる戦い 』と言えるのではないでしょうか?

 諸説ありますが…〝徳川家康の天下取り〟は、家康一人で一からなされたものではないというのが通説です。織田信長が、乱世を終息させようと天下統一を進め、それを継いだ豊臣秀吉が、取りあえず天下統一を成したということで、一旦は戦国時代は終了。その豊臣秀吉の取った天下を、上手い具合に手中に収めたのが、徳川家康ということになっています。明日をも知れぬ、そして辛いばかり人質生活を、十年以上も送っていた小豪族の嫡男が天下を取るなど、その当時、誰が想像できたでしょう?

 『 織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川 』という狂歌があります。『 織田信長が基盤を作り、豊臣秀吉が成した天下を、徳川家康は苦労もなく手中に収めた 』という風刺の歌ですが…。確かに徳川家康は、上手い具合に天下を手中に収めましたが…では、さして苦労もせずに手に入れたのかというと、決してそうではないと思います。〝『 さして苦労もせず天下を手に入れる 』ための苦労〟は、並々ならぬものがあったのだと思います。『 鳴くまで待とう 』の〝待とう〟は、『 ただ待っている 』ではなく、『 静かなる戦い 』である『 雌伏の〝待とう〟 』だったと思います。そう、一見『 ただ待っている 』ようですが、それは、静かなる戦いであった…そう思うのです。

 人は生きている間、機が熟しておらず、鳴くまで待たなければならないことが多々あります。そこで、急ぐこと焦って事を起こしてしまえば…急いては事をし損じる、となってしまいます。機が熟すまでは、例え辛い状況であっても、耐えて待たねばならない時があります。いえ、機が熟すまでは辛い、過酷な状況である場合の方が多いのです。時には蔑まれたり、嫌な思いをしたりすることも、あるかもしれません。それでも、機が熟すのを待たねばなりません。でも、忘れないでください。それも戦いなのだと…。雌伏もまた静かなる戦いなのだと…。事を起こして、勝負に出ることだけが戦いではないのです。機をうかがう。それまでは、例え辛い状況であっても待つ。もちろん、ただ待つのではありません。『 これもまた戦い 』と待つのです。そして、来るべき機が熟した時のために、万全に備えておくのです。

 薬剤師国家試験を受験する人にとっては、試験が勝負の時です。本ブログ読者の中には、その時に向けて、勉強されている方も多いでしょう。真っ当な試験対策を行っているのなら、そろそろ大変な日々となってきているはずです。結構、辛い日々を送っている方も少なくないでしょう。しかし、今が〝雌伏の時〟であることを、忘れないで欲しいと思います。そして、それも静かなる戦いであるということも…。そう思えば、急ぐことに焦り、安易な危ないモノを取ってしまうこともないでしょう。今は、静かなる戦いの時と、来るべき国家試験の日のために、万全の備えを築いていって欲しい…。心から、そう願っている次第なのです。

 

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2017年10月11日 | コメントは受け付けていません。 |

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汗をかく、物をかく、恥をかく:後篇。

 前回は、〝汗をかく、物をかく、恥をかく〟の3つのうち、〝汗をかく、物をかく〟をメインにブログを書かせて頂いた。

 汗をかいてでなければ得られないものがある。それは、生きていく上でこの上なく大切なものである。汗もかかずに人のモノを失敬し、上手くやろうとしたところで、それこそ大損。確かにそういう人間は、ぱっとしない生き方の人が多い。

 物を書くことも重要なこと。『 書く=読む 』であり、コミュニケーションの一つでもある。書くことが上手い人間は読むことが上手い人間であり、コミュニケーション能力も高い人間である。『 読み書き 』は、コミュニケーションの送受信と同じであり、それには往々にして頭を使わなければならない。優秀な人間に限って、コミュニケーションには人一倍頭を働かせている。そういった観点からも『 物を書く 』ということは、非常に有益で大切な行為であることは、間違いない。前回は、そんな内容で書かせて頂いたと思う。

 今回は〝汗をかく、物をかく、恥をかく〟の〝恥をかく〟。〝恥をかく〟とは『 恥ずかしい思いをする 』ということである。誰しも、恥ずかしい思いなどしたくはない。しかしながら、生きていれば恥ずかしい思いをすることもあれば、恥ずかしい思いをしなければならないこともある。もちろん、〝汗をかく〟と同じように、恥をかかなければ手に入れることが出来ないものがあることも、これ然り。

 恥をかく場合とは、どういう場合であろう?往々にして、自分が誤った何かをした時、恥をかく場合が多い。誤ったことを言ってしまった。誤った行動をしてしまった。これが、恥をかく場面であろう。私には師と仰ぐ人間が何人もいるが、その師といえる人、皆が皆、口にするのが『 恥をかくことは、勉強である 』ということ。月並みな意見に聞こえるが…確かによく考えてみればその通り。前述の内容からすれば『 恥をかいた 』ということは、『 誤った言動をした 』ということになる。これ即ち『 誤りを見つけた 』ということになる。〝誤り〟は、見つけなければ直すことは出来ない。そして見つけた〝誤り〟は、直すことにより正しきものとなる。これを勉強と言わずに、何が勉強であろうか?もちろん…これは薬剤師国家試験対策にも、十分言えることであるのは言うまでもない。

 生きていれば恥をかくこともある。もちろん、本人は恥をかこうと思って、かいている訳ではない。恥をかくことは、恥ずかしい思いをする事である。誰しも恥ずかしい思いなど、したくはないはずである。

 世の中には『 恥も外聞もなく 』という言葉がある。『 恥ずかしいと思ったり、人の目を気にしたりということがない(大辞林より) 』という意味で、良い方にも悪い方にも使われる言葉。私は、良い方の意味である『 人目を気にしている余裕がないさま 』『 目的を達成するためには、体面など気にしていられないほど必死であるさま 』といった内容で使わせて頂く場合が多い。類語にある『 なりふり構わず 』なんていう言葉も、よく使わせて頂いている。目的を達成するためには、体面など気にしてはいられない…それほど必死。大切なことではないだろうか?そう、目的完遂のためには、体裁なんか、かなぐり捨てなければならない場合など山ほどある。そして…私は今まで、そういった学生さんを何人も見てきている。薬剤師になりたい。とにかく薬剤師になりたい。そのためには、体裁なんかにこだわっている場合ではない。他人がどう思おうと、他人が何と言おうと、薬剤師になるのだ。そのために、まさに恥も外聞もかなぐり捨てて勉強する、質問する、ひたすら打ち込む。そういった〝恥も外聞もかなぐり捨てた学生さん〟を、何人も見てきたのである。その必死な姿を見る度に、胸打たれることになる。そう、必死に打ち込む姿は、人の心を動かすのだ。

 恥も外聞もかなぐり捨て、勉強するからこそ、手に入るものがある。他人から、恥ずかしいと思われようとも、打ちこまなければならないことがある。もちろん本人は、他人からどう思われているかなど、目にも入らない。とにかく必死なのだから…。しかし、世の中には、そんな恥も外聞もかなぐり捨てた人を『 恥ずかしい人間 = 恥をかいた人間 』と揶揄する人間や嘲笑する人間がいる。何ともあさましい限りである。一生懸命やっている人は、恥も外聞もかなぐり捨てている訳だから、確かに傍目から見れば『 恥ずかしい 』と見える場合があるやもしれない。しかし、何かを得るために、恥も外聞も捨てて行動しているのだ。だからこそ、手に入るものがある。それを手に入れようと必死なのだ。往々にして、そうやって恥も外聞も捨てて行動している人を嘲笑する人間は、自らは恥をかかないよう振る舞う場合が多い。当然、恥をかくことによって得られるモノなど、得られないということになる。得てして、恥をかいてこそ得られるものほど、貴重なものだったりするのだが…。

 私は〝恥をかく〟とは〝端(はじ)を欠く〟ことだと思っている。〝端〟には『 物事の核心から遠い部分、重要ではない部分 』という意味がある。そう考えるならば、〝端(はじ)を欠く〟ということは、物事の重要ではない部分を欠いていき、より重要な核心部分の割合が高くする、核心部が濃厚にするということではないだろうか?重要な部分の濃度が高くなる、核心部の割合が増す…良いことではないか?肝心な部分、物事の本質をしっかりと捉えることになるのだから…。そう言えば、成功者と呼ばれる人間の手記を見ると、まず間違いなく恥をかいた経験が書いてある。その経験も一度や二度ではない場合が多い。なるほど…『 恥をかいた経験 = 端を欠いた経験 』が多いからこそ、核心を捉えることが出来たのだろう。端から手を伸ばしても、決して手の届くことのない〝成功の核心〟に手が届くことが出来たのは『 恥をかいた = 端を欠いた 』から…。確かに、恥をかくことを避けたり、極端に嫌がる人間は、私が知る限り大成している人間はいないようである。前述のように、恥をかいた人間を嘲笑する人間は、自らは恥をかかないよう振る舞っている。だからこそ、〝恥をかかなければ得られない貴重なもの〟を、手にすることが出来ないのだろう。そんな姿勢で、大成なぞする訳が無い。リスクを背負わずして上手くやろうとしたところで、手に入るモノなどたかが知れている。いや、リスクを背負う背負わないに関わらず、恥も外聞も捨てて一つのことに打ち込めない人間など、何も手にすることは出来ないだろうし、その前に人間としてもつまらない、そして…つまらない人生を歩んでいる人間なのではないだろうか?

 時折、人に恥をかかせては、優位に浸っているような輩がいる。まあ、人としてはかなり下品な部類に入る輩ではあるが…そういう輩は、相手に『 恥をかかせている = 端を欠かせている 』ことになる。つまり、相手に対し『 物事の重要ではない部分を欠かせていき、より重要な核心部分を与えてやっている 』ということになる。恥をかかせていると嘲笑しながら、本人は優位に立っているつもりなのかもしれないが…とどのつまり、恥をかかせている相手の大成の手助けをしてやっていることになる。確かに、バカにされ嘲笑されていた人間が成功する事例など、数えきれないほどあるのは言わずもがな。もちろん、人に恥をかかせては、優位に浸っているような輩は、〝恥をかくことによって得られる貴重なモノ〟を得られない訳だからして、成功からは程遠い人間ということになるし、実際そのようである。なるほど、世の中というのは、上手く出来ているものである。何はともあれ、やはり〝恥をかく〟ということは、大事なことのようである。

 汗をかく、物をかく、恥をかく。今まで書かせて頂いたように、いずれも大切な事である。それでしか手に入れられない貴重なものもある。それほど大切で有益な行為ではあるのだが…その割には、汗をかくことも、物をかくことも、恥をかくことも、それほど大変なことではない。恥をかくことだって、一見ハードルが高そうではあるが…聞くは一時の恥と、分からぬことを尋ねてみればいいだけの話である。だったら、それ相応に汗をかいてみればいいし、物を書いてみればいいし、恥をかいてみては、どうだろう?そして、それによって貴重な何かが得られたならば…次は、もう一段階上の汗をかけばいいし、物を書けばいいし、恥をかけばいい。そうやって人は、一人の人間として成長していくのだと思う。汗をかいたり、物をかいたり、恥をかいたりしなければ…そういった人間が、どのような人間になるかは、今まで書かせて頂いた通りである。やはり、汗をかくこと、物をかくこと、恥をかくこと、この3つは人の成長、そして人の成功にとっては、とても大切なことのようだ。

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2017年10月4日 | コメントは受け付けていません。 |

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