汗をかく、物をかく、恥をかく:前篇。
先日、ウチの非常勤講師の先生が、こんなことを言っていた。『 私は学生には、恥をかけと言っている。恥をかけ、汗をかけ、物を書けと…。最近の学生さんは、物も書かないし、汗もかかない。当然、恥もかかない。だから何をやっても、ちっとも勉強にならないし、上手くならないんですよ 』。なるほど、御尤も。
そういえば、以前、私が足しげく通っていた居酒屋のマスターも、同じことを言っていた。出張で講義を行った後に、よく行ったお店であったのだが…頻繁に顔を見せるからであろう、ある日マスターが横に座って話しかけてきた。なんとなく話しているうちに、薬剤師国家試験の予備校の講師をしていると話したのだが、その時にマスターが口にしたのが、件の言葉。『 人にものを教えるには、自分がたくさん勉強しなければならない。私はウチの店員に「若い人は汗をかけ、物をかけ、恥をかけ」といっている。それは、先生も同じですよ 』と…。なるほど、と思った。そのころの私はと言えば、まだまだ若造と言える年齢。若気の至りも多い時期であったが、何故かマスターのこの言葉はしっかりと頷くことが出来た。そして、今に至るまでしっかりと覚えている言葉でもある。
汗をかくというのは、何となくわかる。自らしっかり動けということ。手を抜かず、無意味な楽をするものではないということ。あの頃も、それ位のことは分かっていたのだが…今となってみると、ずいぶんその解釈は変わったものとなっている。世の中には、苦労しなければ手に入らないものがある。汗を流してこそ得られるものがある。それは、手を抜いたり、無意味な楽をすれば、決して得られることはないものである。苦労の最中は『 何で、こんなに… 』と途方に暮れるようなこともあったが、その苦労が、後々役に立つことが何と多いことか!上っ面だけ撫でたところで、得られるものなど限られている。汗をかくことでしか手に入らないものがある。今は、それを身にしみて感じている。
私は『 インスタントで得たモノは、所詮、インスタントの価値しかない 』という言葉をよく口にするのだが…これが、まさに『 汗をかく 』と同じ内容のことであるのに気付いたのは最近のこと。自分では理解したつもりになっていても、自らよく使っている言葉にさえ、それだったと気付かないことが多々あったりする。私もまだまだ若輩者である。閑話休題。世の中には、どういう訳か人が苦労して作ったものを平気で失敬しては、あたかも自分が作ったかのように振る舞う輩がいる。失敬した輩は、それで御満足かもしれないが…。前述の文章をもう一度見てもらいたい。〝作ったもの〟の前に〝苦労して〟という言葉が付いている。そう『 汗をかいて作った 』のである。作った本人は汗をかいている。だからこそ、得られたものがある。失敬した方は汗をかいていない。『 良いものがあった。頂戴しよう。ラッキー… 』と思ったかどうかは定かでないが、ラッキーでないことは確かである。上っ面だけ撫でたところで、得られるものなど限られているからだ。確かにモノは手に入り、さらには自分のモノとして功績も手に入ったかのように思えるが…実際は、『 自分が汗を流せば、手に入れることが出来たであろうもの 』を得ることが出来なかったのである。その〝得ることが出来なかったもの〟は、失敬して手に入れたモノなどとは比べ物にならぬほど、大きく尊いものなのだ。失敬した人間にとっては、多大なる損失である。そういえば…汗をかかずに、人のモノを失敬し、自分の功績のように振る舞う人間を何人か知っているが…私が知る限り『 上手くやっている 』と本人が思っているほど、上手くやれていない場合がほとんどのようである。早い話、ぱっとしない状況にある人間が多いということ。まあ、当然と言えば当然であろう。汗をかくべきところで汗をかいていないのだ。世の中には、汗を流さなければ手に入らないものがある。そういったものを持っていない人間とは、人として何と軽きものであろうか?軽きものは、軽きものとして対応される。それは世の常である。
物を書く。講師という職業柄、パソコンに向かっては、物を書く日常。まあ、『 パソコンを打つ 』ということが、果たして『 物を書く 』に相当するか否かは、人それぞれ見解が微妙であるが…。まあ、便宜上、『 パソコンを打つ 』ということも『 物を書く 』に相当することとして、話を進めさせていただきたい。話は戻るが…我々のように、物を書くことを常としている人間でなくとも、物を書くということが、とても有益なことであるのは言うまでもない。
物を書くということは、1つの伝達手段であり、コミュニケーションの1つでもある。物を書く能力が上達するということは、自らの伝えたいことを、相手に伝える能力が上達するということである。さらに『 どのように伝えるか? 』『 どうすれば、分かり易く伝えられるか? 』ということは、自分らしさを表現することでもある。自らを表現する、つまり自分らしさを醸し出すということは、一人間の存在という観点からして、非常に大切なことではないだろうか?物を書くということは、『 自らを表現する 』ことを鍛えることでもあるのだ。伝達能力の向上、自分の表現法の確立。その二つが得られるなんて、何と有益な行為であろうか?
私は常々『 書く=読む 』と思っている。よく日本では『 読み書き 』と一緒にするが、これは『 読む+書く 』ではなく『 読む=書く 』だと思っている。つまり、『 書くこと 』と『 読むこと 』は表裏一体で切り離せないものであるというのが、私の認識である。モノが書ける人間は、モノが読める人間(もちろん、棒読みではなく、内容深く読み取ることを指している)。モノが読める人間は、モノが書ける人間。そう思っているし、実際、物を書くのが上手い人は、しっかりと文章を読むことが出来て、内容を的確にとらえている人ばかりである。
『 物を書くということは、1つの伝達手段 』と書かせて頂いたが、『 書く 』ことが送信ならば、『 読む 』ことは受信であろう。人とのコミュニケーションには、当然ながら送受信どちらも大切である。私が知る限り、物を書くのが上手い人は、コミュニケーションも上手いよう思える。これは、気のせいではないだろう。『 書く 』ということは、自分の真意をハッキリと表現することが出来るということである。自分の真意をハッキリと表現することが出来る人なら、書くこと以外でもそれを表現することができるのは当然であろう。『 読む 』ことも、これ然りである。『 読む 』ということは、書いてある内容をしっかりと読み取ることが出来るということである。書いてあることの真意をハッキリと読み取ることが出来る人なら、他人の表現した真意もしっかりと読み取り、受け止めることが出来るはずである。そのような人が、コミュニケーションが上手くない訳が無い。
『 書く 』ことは『 読む 』ことであり、『 伝える 』ことであり『 受け止める 』ことである。『 読み書き 』は、コミュニケーションの送受信と同じであると言っても、決して過言ではないだろう。もちろん、それには往々にして頭を使わなければならない。如何に伝えるか?如何に受け止めるか?優れた人間に限って、コミュニケーションには人一倍頭を働かせるている。そういったことから考えてみても、やはり『 物を書く 』ということは、非常に有益で大切な行為であることは、間違いない。
どうも、また悪い癖で文章が長くなってしまったようである。私の場合は、『 書くという有益な行為 』が度を過ぎてしまい『 書き過ぎるという悪癖 』になってしまっているようだ。過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如しである…と分かってはいるのだが…。
閑話休題。『 汗をかく、物をかく、恥をかく 』の3つのうち、まだ二つしかかけていない。これでも、かなり短く書いてきたつもりなのだが…。という訳で、今回のブログも前篇・後編の2部構成にさせて頂きたいと思う次第である。来週のブログを乞うご期待あれ!
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2017年9月27日 | コメントは受け付けていません。 |
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百花繚乱、目玉焼き!
最近、昼食にタイ料理の店によく行く。以前からあったらしいのだが、場所的にあまりその場所を通ることもなく、今まで知らない店であった。まあ『 タイ料理の店がある 』と認識しても、入ることはなかったであろう。今まで、タイ料理を食べたことが無い訳ではないが、特別、思いに残っている感はない。『 そう言えば食べたな… 』といった程度である。チョットしたきっかけで『 美味しいお店である。ランチもやっている 』といった情報を得たので、行ってみたところ、なるほど値段もリーズナブルで美味しいお店。ということで、足しげく通うこととなった次第。
その店でガパオライスを注文した時のこと。ご存じのように、ガパオライスには目玉焼きが付いている(ちなみに、タイ現地でのガパオライスには目玉焼きは付いていないという情報も)。正確には、目玉焼きではなくフライドエッグであるが、まあ見た目は目玉焼き。どういう訳か、私は目玉焼きを見ると嬉しくなる。『 おっ!目玉焼きが付いているのか 』というだけで、嬉しい気分になれるのだから、ある意味、私の幸せは簡単だ。ランチや定食などでも『 目玉焼き付き 』なんていう言葉がついていると、チョット嬉しいというか、『 おお、目玉焼きがついているのか? 』と何となく得した気分になってしまうのだが…恐らく、それは私だけではないはず。その証拠に、何気に目玉焼きが付いているランチや弁当は多いではないか?もし、これが『 ゆで卵付き 』だと、そうはならないような気がする。『 ゆで卵…ふ~ん 』となってしまう。断わっておくが、私はゆで卵が嫌いな訳ではない。むしろ好物の方である。しかし、付いている時の喜びが、目玉焼きの時に比べると、やはり劣ってしまうのは否めない。同じ卵一個なのに、こんなにも受け止められ方が違うのも、珍しいのではないだろうか?
目玉焼きがついていると嬉しい。そんなことを考えていて、ふと気がついた。そう言えば…やはり、昼食に私がよく行くハンバーグのお店。手作りハンバーグが美味しく、しかも注文してから焼くので、その美味しさも一入である。そのお店は、〝ハンバーグ + メンチカツ〟だとか〝ハンバーグ + 海老フライ〟といった、〝ハンバーグ + 一品〟のセットメニューが多い。もちろん、ハンバーグ単品の定食もあるのだが…気のせいかセットメニューの場合は、ハンバーグが若干小さいような気がする(あくまでも私の個人的見解であって、真偽のほどは定かではない)。私としては、そこのハンバーグを堪能したいので、ハンバーグ一品のハンバーグ定食を頼むのだが…そこでもハンバーグの上に目玉焼きが乗っかっていたりする。目玉焼き大好き人間の私としては、一挙両得。しっかりと、ハンバーグと目玉焼きのコラボレーションを堪能させてもらっている。
さらに…やはり、昼食でよく利用する焼きそば屋さんがあるのだが…オプションで目玉焼きを乗せることが出来る。詳細は忘れたが、そこのメニューには『 焼きそばと言えば目玉焼き 』的なことが書いてあったりもする。確かに〝焼きそば+目玉焼き〟のコラボレーションは良く見かける。私も、時折、目玉焼きのオプションを付けたりする。こうやって、改めて私の昼食を振り返ってみると…何気に、私が利用しているお店三軒で、目玉焼きが重要な地位を占めていることに驚かされる。
目玉焼きには、二つの調理法がある。サニーサイドアップとターンオーバーである。片面だけ焼き上げればサニーサイドアップ、ひっくり返して裏表焼きあげればターンオーバーである。皆が目玉焼きと聞いて、真っ先に頭に思い浮かぶのがサニーサイドアップ。外食で見かける目玉焼きは100%サニーサイドアップだろう。誰もが目玉焼きとして、子供のころから親しみなれた姿である。しかしながら…私の母が作る目玉焼きはターンオーバーであった。子供ながらに『 これは目玉焼きではない! 』と何度思った事か!『 ターンオーバーでも目玉焼きだろ? 』と思った人がいるやも知れないが…ターンオーバーでは、ターン、すなわち引っくり返す時に、黄身が破れる確率が非常に高い。ウチの母親が作るターンオーバーも、ご多分にもれず黄身は破けていた。おまけに、古い人間なのだろうか『 生は良くない 』といった考え方のようで、ガッチリと火を通す。黄身が破れて、両面ともに火をがっちり通してある…。悲しいかな、人はそれを目玉焼きとは呼ばない。だからこそか、サニーサイドアップの目玉焼きには憧れたものである。
サニーサイドアップの目玉焼き…何のことはない、卵を割ってそのまま焼いただけの目玉焼きである。しかし、そんな目玉焼きに強い憧れがあったのだ。〝目玉焼き付き〟という文字を見ると、つい引かれてしまうのは、そんな背景があるやも知れない。しかし〝目玉焼き付き〟に惹かれるのは私だけではないだろう。前述のように、何気に目玉焼きが付いているランチや弁当は多いではないか?色々な料理で、そのサイドメニュー的な存在として、目玉焼きがついているのは誰もが知るところである。野菜炒めやグリル料理は言うに及ばず、ピラフやチャーハンのようなメイン食に付いている場合もある。『 とりあえず定食には… 』といった感じで付いている場合もある。目玉焼きが付いていればなんとかなる。そんな考え方が、見え隠れしているよう思えなくもないが…ある意味、恐るべき存在である。
以前、友人達と食事をしていた時のこと。チョットした論争が起こった。論争の種は『 目玉焼きには何をかけるか? 』。確か、人数は5、6人だったように思うが、その皆が違う意見を出した時には、正直驚かされた。まあ私は、自分の食べ方が『 チョット違う食べ方だろう 』という自覚があったので、そのおかしさを指摘されたところで、さして驚きはしなかったのだが…他の連中はそうではなかった。皆、自分の食べ方が当たり前であり、他に人の食べ方はおかしいと言って譲らない。まあ、誰しも普段自分が行っている行為に対し、疑問を抱くことなど、そうそうあるものではない。それが日常というものである。その日常に埋没された行為など、誰しも『 当たり前のこと 』として疑問にも思わず、受け入れてしまっているものなのだ。だからこそ、その〝当然のこと〟が当然ではなくなった時、人は狼狽えることになる。『 目玉焼きには何をかけるか? 』それも、いい例であろう。
チョット違う視点から考えれば、目玉焼きには無数の食べ方があるということになる。目玉焼きに使う調味料でさえ、たかだか5、6人の人間で異なり、論争になるのだから。私も愛読させて頂いている、おおひなたごう先生のマンガ〝目玉焼きの黄身 いつつぶす?〟。このマンガは『 食品をどう食べるか? 』に焦点が置かれ話が展開していくのだが、その狙いは見事だと思う。人それぞれ〝食べ方〟は異なるのだ。前述の日常に埋没した〝当たり前の食べ方〟は、本人だけの〝正しい食べ方〟であり、誰しもに当てはまる〝正しい食べ方〟ではない。そう、食べ方には正解などないのである(よほどの常識的範疇を超える場合を除いては…)。そこの所も面白おかしく描かれている〝目玉焼きの黄身 いつつぶす?〟。視点の鋭さといい、話の展開といい、名作だと思う。
目玉焼きは、単純な食べ物である。しかし、その単純な目玉焼きでさえ、これほどのことがネタとしてあるのだ(まあ、私の悪い癖での長文化もあるのだが…)。言い方を変えれば、その単純であることが、目玉焼きの魅力のようにも思える。単純だからこそ、多くの人が親しめる食べ物なのではないのだろうか?単純だからこそ、どんな料理に付いていても、特に違和感もなく、美味しく食べられるのではないだろうか?そして、単純だからこそ、色々な食べ方を堪能できるのではないだろうか?単純であることが、目玉焼きの魅力。『 単純なものほど、奥深い 』と、よく言われるが…これは目玉焼きにも当てはまることのようである。イヤ…むしろ『 単純なものほど、奥深い 』ということを、目玉焼き自信が証明してくれている。そんな気がするのである。
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2017年9月20日 | コメントは受け付けていません。 |
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嫌いなモノには触らない。
普通の人間はコレ。嫌いなモノには触れようとしない。イヤ、触れないどころか見るのもイヤ。場合によっては、思い出すのもイヤ…となる。これが、真っ当な人間の反応。以前、知り合いに、蝶が嫌いという人がいた。私は別に蝶が嫌いな訳ではないのだが、そこは人それぞれ。当然ながら、その人物は蝶に触れようとはしない。もちろん、見るのもイヤという状況。時には、蝶の話題を出すだけでも『 チョット、止めて… 』となる。まあ、これが普通の人間の〝嫌いなモノ〟に対する反応であろう。
ところが、その対象が人間となると…どういう訳か事あるごとに、その〝嫌いな人間〟に触れようとする輩がいる。嫌いなモノ…すなわち、当人が嫌いというか、気に入らないというか、まあ、あまり芳しくない感情を抱いている人間の話題を、持ち出してくる人間がいる。事あるごとに、口角泡を飛ばし『 ○○さんは嫌いだ 』的発言で、対象の人間を非難しているのだが…これが不思議でたまらない。
先に書かせて頂いたように、普通、人は自分が嫌いなモノには触れようとしないはずである。話題にするのさえイヤ…。これが真っ当な人間のように思う。とにかく関わらないようにする。それが、嫌いなものに対する、人間の普通の姿勢だと思う。前述の、蝶の話を例にとって考えていただいても、それはお分かりいただけるはず。なのに何故、事あるごとに、嫌いな人間の話題を出すのだろうか?
私的立場から言わせていただくならば…私は嫌いな人間の事は、思い出さないようにしている。思い出しても、すぐに違うことを考えるようにしている。嫌いな人間の話題も、出来るだけ逸らすようにしている。嫌いな人間の事を考えれば、間違いなく不愉快な気分になる。こちとら聖人君子ではないのだ。嫌いな人間もいれば、付き合いを避けるべきとしている人間もいる。そんな人間の事を思い浮かべるたびに、嫌な気持ちになる。これは、誰しも同じであろう。嫌いな人間を思い浮かべて、いい気分になる人間なぞ、いまだかつて出会ったことが無い。だからこそ、私は自分が嫌いとする人間は思い浮かべないようにしている。触れないようにしている。思い浮かんだらなるべく早く、違うことを考えるようにしている。難しいことだろうか?イヤイヤ、難しくはない。前述の蝶の話のように、人は本来、嫌いなモノには触れないようにするのが当たり前。だから、私も当たり前の行動をしているだけである。蝶が嫌いな人は、蝶の話題だけでも敬遠してしまう。それと同じである。嫌いな人間に関しては、できる限り思い出さないようにしているし、思い出してもすぐに違うことを考えるようにしている。
こういう発言をすると、チョット面倒くさい人間が『 人を嫌うなど、とんでもない!どんな人とでも仲良く… 』みたく、しゃしゃり出てくる場合があるから厄介である。人を嫌うなど、とんでもない?イヤイヤ、『 世界中の人間を好きになれ! 』ということの方が、よっぽどとんでもないことではないだろうか?人は皆、人それぞれ。嫌いな人間がいることも、これ然りである。人である以上、嫌いな人間がいるのも当然のことなのだ。しかし、ここで注意しなければいけないことが二つある。一つは、嫌いな人間だからといって、攻撃する理由にはならないということ。好きか嫌いかは自由。しかし、自分が嫌いだからといって、その対象人に何らかの攻撃をすることは、間違いなく誤った行為である。前述のように、人は皆、人それぞれ。自分の理論・理屈に合わない人間がいることも、これ然りなのである。自分が嫌っているからといって、非難する、攻撃するということは、『 自分の理論・理屈以外は認めない 』ということになる。これは、明らかに過ちである。
もう一つは、『 自分のことを嫌うことも認める 』いうこと。自分が人を嫌っているのだ。ある種、自分は他人を嫌う権利を持っているということになる。ということは、他人も自分のことを嫌う権利を持っているということである。この権利を認めないと…『 私はあなたの事を嫌うけれど、あなたは私の事を嫌ってはダメ! 』ということになってしまう。これも、とんでもないことであるのは言わずもがな。〝嫌う権利〟を主張するからこそ、〝嫌われる権利〟を受け入れなければならない。〝嫌う権利〟と〝嫌われる権利〟は表裏一体である。ということは…そう、嫌われることも、悪いことではないということ。つい『 嫌われる=悪いことをした 』と、あたかも自分に100%落ち度があるように考えてしまいがちだが、そんなことはない。まあ、そういう場合が無くもないが、何もしなくても、何の落ち度が無くても、嫌われてしまうこともあるのだ。何もしていないのに、嫌われることもある。それは、致し方ないことであり、そして相手の〝嫌う権利〟を受け入れることでもある。そう考えれば、嫌われたところで、さしてそれを重く受けとめる必要が無いことが、お分かりいただけるだろう。仮に100%自分に落ち度があって嫌われたところで…前述のように、人は聖人君子ではない。ミスがあることは致し方ないこと。致し方ないことで嫌われてしまっても…やはりそれは致し方ないことではないだろうか?まあ、こちらにミスがあったという理由で、これ見よがしに〝鬼の首でも取ったように〟過剰に攻撃してくる人間も中にはいるが…そういう人間を嫌うことが出来るのも、一つの権利である。
〝嫌うこと〟も〝嫌われること〟も、決して悪いことではない。それは人として、ある種当たり前のことであるし、権利でもあるからだ。ただ、前述の〝二つの注意しなければいけないこと〟。これを守らなければ、いささか、困った状況になってしまう。先ほど書かせて頂いた、事あるごとに嫌いな人物の話題を出す人間。どうも、そういった輩は、この二つに抵触している場合が多いようである。特に、その話題の中には、対象人に対しての攻撃的な意味合いの言葉や、非難めいた言葉が多々含まれていたりする。本人は、いたって平気でそのような言葉を発しているのだが…果たして楽しいのだろうか?自らが嫌いとするものを、わざわざ思い出しては、如何に嫌いかを事細かく述べる…。これは、ブログ冒頭の蝶が嫌いな人間が、『 如何に自分は蝶が嫌いか? 』を、事細かに説明しているようなものである。『 蝶の羽が… 』『 触ったときの鱗粉が… 』『 管のような口が… 』等、事細かに思い出しては、それについて如何に嫌いかを語る…何か矛盾しているような気がするのは、私だけだろうか?普通の人でさえ、今の私の蝶に対する文章を読むと『 おいおいチョット… 』となってしまう人がいるのではないだろうか?蝶が嫌いならば、そんな思いも一入のはず。そう考えると…事あるごとに嫌いな人物の話題を出す人間の行動は、矛盾しているということになる。本当に嫌いなら、思い出さないようにするどころか、話題にも出さないはず。それを、わざわざ思い出しては、攻撃的話題を持ちかけてくる。何故だろう?そうすることによって、何か得られるものがあるのだろうか?おそらくそうであろう。本人が自覚している・していないに関わらず、人の行動には何らかの意味がある。事あるごとに嫌いな人物を話題とする人間の行動にも、そうすることにより何らかの得られるものがあるのだろう。それが何か定かではないが…いや、あえて知ろうともしないし、知りたくもない。そんなことには関わらない方がよさそうだからだ。そういう人間のことを考え、その言動を追及した所で…どうも面白くなさそうなことが待ち構えているような気がする。探求心旺盛な私ではあるが、そんなものを探求するのはご免である。私は面白くいきたいのだ。だからこそ、私は嫌いな人間の事は思い出さないようにしているし、できるだけ関わらないようにしている。そっちの方が楽しくやっていけるからである。別にそれで害はない。まあ、人間というのは気まぐれな生き物であるからして、何かの拍子で〝嫌い〟から〝好き〟になることも、あるやも知れない。その時は、またはその時である。今は、嫌いなモノには触らない。これで、いいのだと思っている。
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2017年9月17日 | コメントは受け付けていません。 |
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いつから薬剤師国家試験は、こんなにも簡単なものになってしまったのだろう?〔後篇〕
前回は中篇として、『 合格した人のやり方をやれば、それと同じ結果が得られる 』という考えは、あまりにも安易な考え方ではないだろうか?第一、『 合格した人のマネをして合格しよう 』という姿勢には、往々にして、手間暇かけずに楽に合格しようという魂胆が見え隠れしている。『 楽をして受かろう 』という考え方こそ、『 薬剤師国家試験は簡単なモノ 』と考えている、いい証拠ではないだろうか?ということで〆させて頂いた。その続きである。
前編、後編を読んで、薬剤師国家試験受験に対し不安になった人がいるかもしれない。しかし、別に脅かしたり、不安にさせるために本ブログを書いているわけではない。前編の終わりに、寺田寅彦先生の〝正しく恐れること〟について書かせて頂いたが、まさにその思いなのである。私はよく『 薬剤師国家試験は、ほとんどの人が受かる試験である 』と言わせて頂いている。実際、7、8割の人間が合格するのだ。しかし、ここで注意しなければならないことがある。それが〝率〟である。およそ、この言葉に翻弄される人間は多い。〝率〟というのは〝加工された数字〟である。実体ある〝真の数字〟ではないということ。10人中1人でも、1000人中100人でも、10%である。1000人で合格率80%ということは、200人は落ちているということである。『 合格率80% 』などというと、なんとなく皆が合格してしまうような気になってしまうが…実際はそうではない。20%の人間は残念な結果になっている、つまり1000人なら200人は残念な結果になっている、ということ。実際、第103回薬剤師国家試験では、3,700人近くの不合格者が出ている。
もちろん、これは〝真の数字〟でも〝残念な結果になった方だけを見ている場合〟である。しかし〝真の数字〟を見ている人が少ないのが、現状ではないだろうか?〝真の数字〟の、ましてや残念な結果になった数字に注目する人間などほとんどいない。しかし、〝率〟という加工された数字に翻弄されないためには、こちらも見る必要がある。往々にして、学力のある学生さんは〝どちらの真の数字〟も見ている。受かった人数もそうでない人数も…。これこそが、寺田虎彦先生の言われた『 物事を必要以上に恐れたり、全く恐れを抱いたりしないことはたやすいが、物事を正しく恐れることは難しい 』の姿勢ではないだろうか?恐れ過ぎることもなく、さりとて恐れが全くないわけでもなく、加工された数字に翻弄されることなく正しい数字を捉える。そういった状況で、初めて現れる心境こそ〝正しく恐れる〟というモノではないだろうか?加工した数字を見て『 ほとんど受かるんだよな… 』と思ってしまう人間は、数字に翻弄され、恐れを抱かない人間なのではないだろうか?恐れを抱かない以上…やはり軽んじているとしか思えない、薬剤師国家試験を…。いたずらに不安になればいいという訳ではないが、『 火事になったら… 』と備えている人間と『 火事なんか起こらないよ 』と侮っている人間では、その姿勢、対策、そしていざ事が起きた時の応対は、雲泥の差があるものとなってしまうことは、言わずもがなである。
では、その対策には〝どれほどの対策〟が必要なのだろうか?残念ながら、薬剤師国家試験に『 これだけやっておけば必ず合格しますよ 』などといったものは存在しない。薬剤師国家試験どころか、全ての資格試験において、おおよそそのようなモノは存在しない。まあ、真っ当な資格試験であればの話だが…。残念ながら薬剤師国家試験は真っ当の中の真っ当な資格。『 これだけやっておけば受かる 』だの『 コレさえやっておけば合格確実 』などといったモノなど、あろうはずもない。もちろん、〝必ずやっておかなければならないこと〟はある。では、それを全てやったから必ず合格するのかというと、そういうものではない。少々厳しい意見ではあるが『 こうやれば100%合格しますよ 』などという方法はないのだ。まあ、薬剤師国家試験を受験する年齢ならば、それ位のことはお分かり頂けることと思うが…。何度も言わせていただくが、およそ真っ当な試験対策において『 こうやれば絶対受かりますよ 』などというやり方など、古今東西存在したことはない。大体、『 コレだけやっておけば、絶対に薬剤師国家試験に受かるんですよね 』といった考え方こそ、薬剤師国家試験を簡単なものに貶めてしまっている考え方ではないだろうか?
我々、薬剤師国家試験に携わる人間が、真っ当な試験対策として行っているのは『 こうやれば、合格する確率が高くなりますよ 』という方法である。1%でも合格する確率が高くなる方法。少し少し、しかし確実に、個人個人の合格する確率が高くなっていく方法。それが、正しい試験対策である。一か八かの方法ではない。そういったやり方は、試験対策ではなく〝博打〟だからである。薬剤師国家試験対策は〝博打〟で乗り切るものではない。しかし、昨今は〝博打〟で乗り切ろうとする人間も多く見受けられる。『 これが出そうだ 』『 これは狙われそうだ 』。確かに、試験対策を行っていれば、ある程度はそういったモノが見えてくる場合もある。もちろん、そこに多少のウエイトを置くことも、ある程度は必要である。しかし…それ相応の力も身に付けずに、それだけで乗り切ろうといのなら、やはりそれは〝博打〟としか言いようがない(これに関する話は、前篇や〝学力が無いというのなら…。〟というブログの中でも書かせて頂いている)。それ相応の学力を身に付けずに〝博打〟で乗り切ろうというのは、やはり薬剤師国家試験を軽んじている行為としか言いようがない。つまり、薬剤師国家試験は、博打で乗り切れる簡単なものになってしまった…と言わざるを得ない状況と言えよう。少なくとも、〝博打〟で乗り切ろうとしている人間にとっては…。
楽して合格するためには苦労しなければならない。もちろん、効率の良さは必要である。しかし〝効率がいい〟ということと〝何の苦労も伴わない〟というのは、全くの別物である。これも、よく言わせていただくことなのだが…成績のいい人は成績がいいなりにやっている。『 あの人は成績がいいな 』という人であっても、何もしていない訳ではないのだ。確かに、パパっとやって、それ相応の成績を取ったりする人もいるが、その勉強効率の良さとて、それ相応の苦労をして得たものである。何もせずに楽をして、パパっと出来るようになった訳ではない。『 あの人はパパっとやって出来るから、私も同じように… 』とやってみたところで、上手くいかないのは前回のブログの通りである。
前篇、中篇、そして今回のブログを読んでお気づきになられたことと思うが、薬剤師国家試験は薬剤師国家試験でしかない。それを、どう捉えるかによって難しいものにもなり、易しいものにもなるのである。つまりは、本人次第ということ。もし、『 薬剤師国家試験を簡単なもの 』と貶めているのであれば、それは他でもない、その人自身が貶めているということである。当然、そこには〝侮る〟という姿勢が生じる事になる。同じように『 薬剤師国家試験は一筋縄ではいかないもの 』と用心深く捉えるならば、自然、そのような姿勢で取り組むことになる。もちろん、必要以上に難しいものと捉え、怯えて動けなくなってしまう必要はない。必要以上に恐れるのではなく、さりとて全く恐れを抱かないわけでもなく、正しく恐れることが大事なのだ。本人が、薬剤師国家試験をどう捉えるか?それにより、国家試験は難しいものにも易しいものにもなる。だからこそ、正しく恐れ、正しい対策を講じることこそが、試験対策においては何よりも重要なのである。正しく恐れればこそ、〝片手間な安易なやり方〟〝『 まあ受かるだろう 』といった考え方〟〝テクニックだけで乗り切ろうというやり方〟〝合格した人の表面だけの真似事〟〝博打〟〝コレだけやっておけばいいんだという姿勢〟、そういったものが、如何に試験対策に不要なものどころか、試験対策自体にどれほど害を成すものかが、見えてくるはずである。
薬剤師国家試験は難しいものと捉え、
日々苦労しながら試験対策を行い、楽に試験を乗り切るか?
薬剤師国家試験は易しいものと捉え、
日々楽をしながら試験対策を行い、苦労して試験を乗り切るか?
それは、その人次第である。
運は、我能く(よく)勤め応ずる所に在り、怠るべからず。
念流兵法心得
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2017年9月7日 | コメントは受け付けていません。 |
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