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いつから薬剤師国家試験は、こんなにも簡単なものになってしまったのだろう?〔 中篇 〕

 前回のブログの続きである。昨今は『 薬剤師国家試験に合格するのは大変なこと 』と考えていない学生さんが、増えてきている。その結果、薬剤師国家試験は『 簡単なモノ 』に成り下がってしまっているようである。それは、学力・基礎力はさて置いておき、テクニックだけで乗り切ろうと考えている学生さん達が増えてきていることからも伺える…と、前回のブログでは〆させて頂いた。前回のブログに続き、今回のブログも少々辛辣なことを書かせて頂いているが、御了承願いたい。

 前々回のブログ〝学力が無いというのなら…〟でも、少々書かせて頂いたのだが…どうも昨今の学生さん達は、合格した人と同じことをやれば、自分も合格できると思っている節があるようだ。確かに、上手くいった人の行動を参考にすることは、悪いことではない。しかし、あくまでも参考程度である。よく〝試験対策のノウハウ本〟に、『 成績のいい人や合格した人のやり方を真似する 』等の内容が書いてあったりするが、いささか眉唾物である。巷に出回っている〝試験対策のノウハウ本〟の中には、参考にならないどころか、逆に足を引っ張ることになってしまうことが書いてあったりするので、注意が必要である。もちろん、『 なんの試験対策か? 』によっても、勉強方法や試験対策は当然異なったものになってくる。そこの所を十分考慮したうえで、〝試験対策のノウハウ本〟を参考にしないと、前述のように大変なことになってしまうので、注意が必要なのである。ちなみに…学習指導とは『 試験対策のノウハウ本に書いてある内容を話せばいい 』といった安易なモノでないことも、一言付け加えておきたい(もちろん『 学習指導の資料を手に入れて、それを話せばいい 』『 誰かの学習指導の内容をそれらしく話せばいい 』いった安易なモノでないことも、至極当然な話)。

 閑話休題。前述のように、確かに、上手くいった人の行動を参考にすること自体は悪くはない。しかし、それをそのまま真似すれば合格するという程、薬剤師国家試験は甘いものではない。それは〝その方法でうまくいった人〟と〝それを真似する人〟との間には、往々にして大きな隔たりがあるからである。現在の成績・学力は?試験対策を始めるまでの総学習量は?自分一人で勉強をする能力は?生活状況は?…等、勉強に関するすべての部分が試験対策には絡んでくることになる。その成績・学力に至るまでの過程。それが、試験対策には非常に大きな要因となってくるのである。そういった過程を無視して、上手くいった人の表面だけを真似した所で、同じ結果が出来るのかといえば…そう簡単に行くはずがないことは言わずもがな。人は人、自分は自分。およそ真摯に物事に取り組む人間に限って、そういう考え方をするものである。

 誰もが知っているおとぎ話。花咲か爺さんに出てくる意地悪爺さんは、花咲か爺さんの真似をすれば上手くいくと思い、その真似をしてこっぴどい目に合う。コブ取り爺さんに出てくる意地悪爺さんも、正直爺さんの真似をして美味いことやろうと思うが、逆の目に合ってしまう。したきり雀に出てくる欲張り婆さんは、心優しい隣のおじいさんのやり方で、もっと美味しい思いをしようとして痛い目に合っている。前述のように、何事も〝そこに至るまでの過程〟というものがあるのだ。その過程を無視して〝上手くいった(と見える)やり方〟だけ真似をしても、こっぴどい目に合うのは、おとぎ話の通りである。『 (他人が)上手くいったやり方をやれば、それと同じ結果が得られる 』という考え方は、これらおとぎ話の被害者達(?)と、どこが違うのだろうか?やはり『 (他人が)上手くいったやり方をやれば、それと同じ結果が得られる 』という考えは、あまりにも安易な考え方と言わざるを得ない。そんな安易なやり方で、薬剤師国家試験に合格できるものと考えているのなら…やはり、薬剤師国家試験は『 簡単なモノ 』に成り下がってしまった…といえるのではないだろうか?

 何故そのような、『 (他人が)上手くいったやり方で… 』というような、〝安易なこと〟をするのだろうか?簡単である。『 ハブ取り名人は、こうやってハブをとっています 』というやり方を見て、『 じゃあ、その通りやってみよう… 』という人間はいるだろうか?まず、いないはずである。『 名人は、何年もやっているのだ。それを真似した所でうまくいくはずはない。ましてや、下手をして咬まれでもしたら一大事。危険極まりない 』と思うからである。そう、〝ハブ取り〟の場合は『 下手をすれば命を失うかもしれない 』という不安が付きまとっているのである。その不安があるからこそ、慎重にもなれば、『 名人の真似をしても… 』というセーブがかかる。では、なぜ薬剤師国家試験対策においては、そう考えないのだろうか?慎重にならないのだろうか?不安が無いからである。『 まあ受かるでしょう 』といった姿勢には、不安など微塵も存在していない。不安があるから人は慎重になる。不安が無いからこそ『 あれで上手くいったならば… 』と、慎重さを忘れ、それまでの過程も自分自身もわきまえずに、同じことをやり、同じ結果を得ようとしてしまう。その考えや行動は、前述のおとぎ話の被害者達(?)と、何が違うのだろうか?楽をして美味いことを得ようとする人間の末路は、…おとぎ話で示唆されている通りのものとなるような気がするのだが…。

 『 楽をして… 』と書かせて頂いたが…もちろん、無理に苦労する必要はない。それ相応の効率の良さは大事である。しかし『 効率良くやる 』ということと『 楽をする 』ということは、少々違う。効率良くやるということは『 それ相応の苦労を覚悟して(または体験して)、そこから少しでもやり易い方法を見出す・作り出す 』ということである。そこには〝認識された苦労〟や〝大変だったという体験〟、そして〝それを克服しようという能動的な試み〟が伴っていることになる。楽をするということは、苦労も体験もそこそこに、手間暇かけず、受け身で持っていこうという考えが存在している。だからこそ〝上手くいっている人のマネ〟を定石が如く用いようとするのだろう。何故ならば〝上手くいっている人のマネ〟をすることには、苦労も体験もさして必要なく、手間も暇もかけず、受け身でいいからだ。確かに楽であること、この上ない。

 効率良く試験対策を行うことは重要である。しかし、楽をして合格しようというのは、少々的外れな考え方と言わざるを得ない。もっとも…『 楽をして受かろう 』という考え方こそ、『 薬剤師国家試験は簡単なモノ 』と考えている、いい証拠ではないだろうか?

 前回のブログの終わりに『 前編・後編の二部構成 』と書かせて頂いたのだが、悪い癖はなかなか治らないようで、やはり書き始めると筆が止まらなくなってしまう(キーボードが止まらないか?)。ということで、〝いつから薬剤師国家試験は、こんなにも簡単なものになってしまったのだろう?〟は、三部構成のブログという形にさせて頂きたいと思う。まあ、タイトルがタイトルだけに、それ相応の内容が伴ったブログにした方がいいのかなとも考えている。次回のブログ、後編をば乞うご期待!

 

我々は、最初から苦しむ方向をとったから、あとは楽になった。

真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる。

                               本田宗一郎(日本の実業家、技術者、本田技研工業の創業者)

 

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2017年8月30日 | コメントは受け付けていません。 |

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いつから薬剤師国家試験は、こんなにも簡単なものになってしまったのだろう?〔 前篇 〕

 心底そう思う。いつから薬剤師国家試験は、こんなにも簡単なものになってしまったのだろうと…。もちろん難易度の話ではない。こう見えても、薬剤師国家試験200題時代から講師をやらせて頂いている身分である。そんな200題、240題、そして345題の国家試験を目の当たりにしている身分から言わせて頂ければ、現在の国家試験は歴代の国家試験の中でもMAXの難易度だろう。ウチのベテラン講師陣でさえ『 早めに合格しておいてよかった 』『 (現在の345題の国家試験など)受ける気もしない 』と、皆、口をそろえて言っている。それくらいの難易度なのだ。

 では、いったいブログタイトルは何を意味しているのか?薬剤師国家試験を受ける学生さん達の意識である。どうも、昨今の学生さん達には『 薬剤師国家試験は難しいもの 』といった意識が薄れてきているよう思える。もちろん、全員ではないが…。色々な学生さん達と接してきているが、その言動から、前述のような意識の薄さを実感せずにはいられない場合が多い。講師という立場で言わせて頂くのなら『 そんなんで、受かると思っているの? 』『 あなたは、薬剤師国家試験をそんなに簡単にとらえているの? 』といった学生さんが多くなってきているということ。我々から見ると、難しくなっている国家試験なのだが、前述のような学生さん達の言動から察するに、本人たちはどうやら大したものではないと思っているようである。

 国家試験の〝難易度〟の認識が出来ていない学生さんがいる。それも一人や二人ではない。結構、多くの学生さん達が、その認識が出来ていないようである。だから、昔に比べると『 (受験生にとって)薬剤師国家試験は、簡単なものになってしまった 』ということになる。それが、ブログタイトル。

 予備校に来る学生さん達にも、それは十分に感じられる。『バイトあるから講義休みます 』、『短いコースで合格できるでしょう 』、『 講義は休んで自分で勉強します 』、『 参考書をひたすら読んで過去問をやっておけば受かりますよね 』、『 苦手な科目だけ何とかすればいいでしょう 』といった内容を口にしたりだとか、何の問題もないように、平気で講義に遅刻・欠席するだとか…事例をあげれば、枚挙に暇が無い。昨今は『 まあ、受かるでしょ 』そういった姿勢の学生さんが、多くなってきているのは事実である。『 そんな片手間な安易なやり方で、本当に国家試験に受かると思っているの? 』『 そんな甘い考え方で、本当に乗り切れると思っているの? 』と、こちらの方が思わず不安になってしまう状況。不安…『 まあ、受かるでしょ 』といった言動の中には、国家試験に対する不安が、あまり無いよう感じられる。もちろん、不安が無いのはいいことであるが…こういった〝不安が無い状況〟は、果たして如何なものなのだろうか?

 薬剤師国家試験が200題の頃。難易度的にも、今より十分易しく、それこそ過去問をしっかり解けるようになりさえすれば、そこそこの点数を得ることが出来た時代。そんな時代にさえ、『 まあ受かるでしょう 』といった姿勢の学生さんは、皆無だったような気がする。皆、必死。何が何でも受からなければならない。だから、とにもかくにも勉強していた。覚えろと言われたことは覚え、やれと言われたことは皆やっていた。もちろん、たまには息抜きもしていたが、勉強第一。勉強以外の事は、ほとんどと言っていいほど何もしていなかったよう思える。そして、いつも不安と隣合わせだったような気がする。出来る学生さんも、出来ない学生さんも…。

 それが、今やどうだろう?こちらも一応は国家試験対策のプロ。数多くの学生さん達を見てきているし、チョットビックリしてしまうような〝試験対策〟と称するモノも、たくさんお目にかかっているはずなのだが…そんな我々でさえ、昨今の学生さんの言動を見ると、『 君、そんなんで受かると思っているの? 』と驚いてしまうことが多々あるのだ。ましてや、それ相応の学力があるのならまだしも『 君、そんなに余裕あるの?っていうか、とてもじゃないけど、そんな余裕ある学力じゃないんだけど… 』と思ってしまう場合がほとんどだったりもする。本人は『 大丈夫ですよ 』といたって自信満々なのだが…果たしてその自信は、どこからきているのだろうか?まあ、自信だけで言わせて頂ければ、大したものだと思う。ただ、その自信たるや『 マット運動できるから、オリンピックで金メダル取れるでしょ 』と言っているのと、さほど変わらない自信のように思えるのだが…。

 薬剤師国家試験を難しいものと考えていない。だから、片手間で勉強して合格することも出来れば、安易な方法で合格することも出来ると思っている。前回のブログ〝学力が無いというのなら…〟でも書かせて頂いた、『 「 学力・基礎力は置いておいて、テクニックだけで乗り切ろう 」そう考えている学生さん達が増えてきている 』といったことにも、それは現れていると思う。学生さん達の平均的な視点から見た場合、間違いなく薬剤師国家試験は『 簡単なモノ 』に成り下がってしまっているようである。もちろん、中には『 薬剤師国家試験に合格するのは大変なこと 』と、しっかり認識している学生さんも数多くいることは確かである。以前の受験生のように、とにかく必死。受からなければならないから、とにもかくにも勉強。たまには息抜きもするが、勉強第一。こんな学生さんも、もちろん沢山いる。不思議なことに、そういった学生さんに限って、成績が良好であったりする。本来心配しなくていい人間が心配し、心配しなければならない人間が心配していない。心配しなければならない学生さんに限って『 薬剤師国家試験に合格するのは大変なこと 』という意識が薄れているよう思える。そして、そういった学生さんが増えてきているのも、今まで書かせて頂いた通りである。

 いつもの悪い癖で、書き始めるとその量がつい多くなってしまう。ということで、今回は前編・後編の二部構成にさせて頂き、残りは次回のブログでという形にさせて頂きたいと思う。乞うご期待をば!

 

 ものを恐がらな過ぎたり、恐がり過ぎたりするのは易しいが、正当に恐がることはなかなか難しい。

 寺田 寅彦(物理学者、随筆家、俳人)

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2017年8月24日 | コメントは受け付けていません。 |

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学力が無いというのなら…。

 あちらこちらに学習指導に赴くことが多い関係もあるのか、実に様々な学生さんとお話しをする機会が多々あります。もちろん、ウチの塾生さん達とも面接等で色々な話をするのですが…。そんな色々な方々と話していて、昨今よく耳にするのが『 私は学力がホントに無くて… 』とか『 自分は基礎が出来ていないので… 』といった内容。謙遜されているのか?それとも、自分のことをよく分かっているのか?本当に沢山の方が、そう言った内容の話をされます。私の記憶が確かならば、年々そういった学生さんが増えてきているような、そんな気がします。

 こと試験対策において、自分の学力を判断するということは、とても大切なことです。私が学習指導でよく言うのが『 自分の学力が分からないということは、時速何kmで走っているか分からないで車を運転しているようなものですよ 』といった内容。自分が運転している車のスピードが分からないなんて、危険極まりないことだとは思いませんか?車の操作どれ一つとっても、現在のスピードが分からない状況で行えば、大変なことになってしまうのは言わずもがな。試験対策においても『 現在の自分はどのような状況にあるのか? 』が分かっていなければ、試験対策の足を引っ張ってしまうことになり兼ねないので、注意が必要です。まずは『 自分の学力が、どの程度なのか? 』を十分把握すること。これが、試験対策においては必須の事なのです。

 前述のように『 私は学力がホントに無くて… 』とか『 自分は基礎が出来ていないので… 』といった内容の話をする学生さんが増えてきているようである。そして、これが決して悪いことではないのは、今まで書いてきた内容からもお分かりいただけることと思う。しかしながら…どうも様相が違うようである。学力が無い。基礎力が無い。それは判断している。では、どうするのか?ここからが様相が、チョット違ってきている所なのだが…。普通は、『 学力をつけねば 』『 基礎力をつけねば 』と奮闘するはずである。実際、以前の学生さん達がそのように行動して試験対策を行っている姿を、私は何年も見てきているのだ。しかし…どうも、昨今の学生さん達のベクトルは、そちら側には向かないようである。では、一体どこに向くのであろうか?どうも、『 学力をつける 』『 基礎力をつける 』ことではなく、むしろ『 そういったものを身に付けないで、如何に国家試験を乗り切るか? 』といった方にベクトルが向いているようなのである。

 早い話、『 学力・基礎力は置いておいて、テクニックだけで乗り切ろう 』そう考えている学生さん達が増えてきているのだ。ここで言う〝テクニック〟は本来の意味からずれている〝テクニック〟である。つまり、学力をつけることはそっちのけで、『 こうやれば試験の点数が伸びる 』といった『 点数のとり方 』だけに重点を置いた〝眉唾物のテクニック〟である(まあ、本来そういうモノはテクニックとは呼ばないのだが…)。これも、学習指導の時によく話すことなのだが…確かに試験には、ある程度、点数を伸ばすためのコツとかテクニックはある。しかし、それは『 基礎力がついている・ある程度学力がついている 』ことが前提で、使うモノである。基礎力も学力もついていなければ、何の役にも立たない。しかし、『 基礎力がついている・ある程度学力がついているからこそ使える 』ということには目もくれず、とにかく『 点数を伸ばすためのコツ・テクニック 』の方だけに目が言っているのである。もう一度言っておくが、〝ある程度、点数を伸ばすためのコツやテクニック〟は『 基礎力・学力がついていない 』ような状況では、全くの意味を成さない代物なのである。

 試験対策というのは基礎力・学力をつけるものである。何故、それをしようとしないのか?自分に基礎力が無いこと、学力が無いことは重々承知しているはずなのに…。勉強のやり方にしてもそうである。基礎力・学力が無いからこそ、〝基礎力・学力がある人〟とは、違うやり方をしなければならないのではないだろうか?『 自分は、基礎力・学力が無い。だから、皆と同じようにやっていても… 』と考えて、自分なりの方法を見出していかなければならないのではないだろうか?基礎力・学力が無いと言っているわりには、皆と同じようなことをしている学生さん達は多い。そういった学生さん達を見る度に『 あなたは他に人と比べて、学力や基礎力が無かったんじゃないの?なのに、他の大勢の人と同じようなことを、何故やるの?ましてや、あなたより学力のある人も、その大勢の中には含まれているのに…』と不思議に思ってしまうのだ。まあ、大勢の中に入ったがため、ことさら自分の学力や基礎力のなさを目の当たりにしてしまったのかもしれない。だから、手っ取り早くテクニックに走ってしまうのだろう。なんともしがたい、悪循環である。最も昨今は、指導する立場にある講師自身が、学習指導の資料やら講義の教材やらを、どこからか入手しては間に合わせ、その〝テクニック〟を我がモノが如く活用しているようであるから、指導を受ける学生さん達がそうなってしまうのも、致し方ないことなのかもしれないが…。

 学力・基礎力をつけるためには、自分自身の学力をしっかりと見つめ、それに見合った学習をしていかなければならない。他の人に比べて、基礎力・学力が無いというのなら、なおさら他の人と違う何かをしなければならないのは、至極当前の話である。それが本来の〝一人ひとりの学習法〟であり〝その人に見合った試験対策〟である。『 皆がやっているから… 』というのは結構であるが、その〝皆〟の中には、自分よりも学力がある人が大勢含まれていることも事実である。耳が痛い話かもしれないが、そこの所をしっかりと考えていかなければならない。あとで、そのことに気づいたところで、時遅しとなっている場合も多々あるのだから…。『 そこを、テクニックでカバーしよう 』と思ったところで、それは基礎力・学力が無い状況では、全く意味を成さない代物でしかないことも、やはり耳が痛い話かもしれないが、重々ご理解いただきたい。せっかく『 自分は学力がない 』『 基礎が出来ていない 』と分かっているのだから、そこの所をしっかりと認識した〝自分自身の試験対策〟を熟考して、テクニックなんかに頼らなくてもやっていけるだけの、堅固たる学力を身に付けていってもらいたい。そう、思っている次第である。

 

Quienes se preocupan por la técnica yerran en todo.

テクニックばかりに気を取られる人たちは、全てにおいてミスをする。

by サルバドール・ダリ(スペイン・フィゲーラス出身の画家)

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2017年8月17日 | コメントは受け付けていません。 |

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なぜ人を不安にさせるのか?

 以前、似たような題名のブログを書かせて頂いたことがある。そのブログタイトルは『 何故、人を不安にさせるの? 』といった内容。この時は、薬剤師国家試験を受験しようとする人たちに、あちらこちらから〝魔の手〟を伸ばす人たちのことについて書かせて頂いた。〝魔の手〟と言う表現は、多少大袈裟に聞こえるかもしれないが…国家試験対策に明け暮れている人間にとって、自分を不安に陥れるなどということは〝魔の手〟以外の何物でもない。試験対策の日々は、ある種、不安との闘いの日々でもある。自分との葛藤…そう過ごしている人も多い。そんな中、外野から投げかけられる〝不安へと誘う〟〝不安を増長させる〟言葉を、〝魔の手〟と言っても、差し障りはないと思う。まあ、不安にさせている本人たちが〝魔の手〟を伸ばしているということに気が付いているかどうかは定かではないが(おそらく、そんなことをしているとは夢にも思っていないのだろうが…)、まあ結果的に〝魔の手〟とを伸ばしている状況となってしまっているのは、確かである。『 何故、人を不安にさせるの? 』といったブログは、そういった内容であったと思う。

 現代社会では、人を不安にさせる言葉が蔓延している。薬剤師国家試験受験生だけではなく、社会の中で生活している人、全てを不安にさせる言葉が蔓延しているのが現代社会である。断っておくが、私は別にマスコミ批判をするわけではない。マスコミは有益なモノである。と、同時に危ないモノでもある。その両方を併せ持ったものが『 諸刃の刃を持つマスコミというモノ 』と、私は思っている。だから、あえて批判をしようと思っている訳ではないことを、ご理解いただきたい。閑話休題。雑誌、電車の中吊り広告は言わずもがな、テレビ番組の紹介欄とて、人を不安にさせる言葉が氾濫している。商品の宣伝の中にさえ、それは使われていたりする。私は、あえてその言葉をここで羅列する気はない。書いた瞬間、このブログも〝人を不安にさせるブログ〟になってしまうからである。まあ、書かずともマスコミが、日夜、雑誌等に掲載したり、報道している言葉を思い出せば、書かずともその言語の2、3は誰の頭の中にでも思い浮かぶであろう(もちろん、全てのマスコミがそうとは限らないが…)。雑誌や広告等で見かける言葉、テレビのニュース番組等で耳にする言葉…そういった言葉の中で、あなたが不安になったり、イヤな思いをしたりする言葉を思い浮かべればいいだけの話である。確かに、多少の危機感を誘発させるための、ある程度…というか〝軽度の不安誘発言語〟は必要なのかもしれない。しかし、単に『 衝撃を与えるためだけ 』、『 多大なる不安感を与えるためだけ 』に使用される〝不安誘発言語〟の乱用は、ハッキリ言って好ましいことではないと思う。

 何故、このような〝人を不安にする言葉〟が汎用されているのだろうか?前述の『 何故、人を不安にさせるの? 』といったブログでは、『 自分よりも不安になっている人間がいるということで安心する。自分も不安でしょうがない。でも、自分よりもおびえている人間がいると「 自分よりも不安になっている人間がいるんだ 」と、自分より下の人間がいることで安心してしまう 』といった内容を、〝人を不安にさせる理由〟として書かせて頂いた。自分が安心するために、人を不安に陥れる。それが〝個人が用いる不安への誘い〟。では、マスコミや企業は、何故〝人を不安にする言葉〟を用いるのだろうか?簡単である。『 人を不安にさせることで、その人を操ることが出来るから 』である。早い話、不安になった人は自由自在に操ることが出来る。それが目的である。

 以前、ある人から聞いた話。インチキ占い師を見分けるにはどうしたらいいのか(ここで『 何を言っている!占いなんて、全部インチキだろう! 』という人がいるならば、読み飛ばしていただいても大丈夫である)?それは『 人を不安にさせるようなことを言う、または悪いことを言う占い師はインチキ占い師 』だそうである。なるほど一理ある。人を不安にさせてしまえば『 どうすれば、いいのだろう? 』と誰しも、縋りつく(すがりつく)思いとなるはずである。ましてや、目の前にいるのは自分を導いてくれる(であろう)占い師である。そこで…あれやこれや言われてしまえば、不安になっている人間は、間違いなくそれを受け入れる…という寸法である。一昔前に流行った(?)『 この不運から逃れるためには、この300万円のツボを買いなさい 』というヤツである。そう、不安になった人は操り易いのである。

 思い通りに動かすために、人を不安にさせる。なんとも、姑息な手段だと思うのだが…。思い通りに動かしたいがために、不安にさせる方はいいかもしれないが、そのために不安にさせられた方は、たまったものではない。思い通りに動かなかった場合、仕掛けた方は『 失敗したか 』で終わらせることが出来るが、不安にさせられた方は、今後も、それをずっと引きずって生きていかなければならないかもしれないのだ。こんな理不尽なことがあるだろうか?私が言いたいのはここである。日常生活、至るどころで不安になる言葉が汎用されているが、それを受けとって嫌な気持ちや不安になった人は、どうすればいいのだろうか?思い通りに操りたい方は垂れ流しでいいかもしれないが、その毒に当たって苦しむ人もいるのだ。それを考えているのだろうか?

 悲しいかな、講師という職業人の中にも、こういう輩はいる。つまり、学生さんを、ただ不安にさせる言葉を発する輩である。どう考えても『 それを口にするのは、如何様なモノだろうか? 』と、つい耳を疑ってしまうような言葉を発している。口にしている本人は、発破をかけているつもりなのか、平気で発言しているのだが…。前述のように、発している方は、それでその学生さんが思うように動かなかった場合、『 動かなかったな… 』位に考えればいいだろうし、実際そう考えているのかもしれない。しかし、言われた方は、それをずっと引きずっていくことになるかもしれないのだ。そこまで考えて、不安にさせる言葉を発しているのだろうか?そして、ここで気を付けなければいけないことがある。それは、『 人を不安にさせるれば、その人を操ることが出来る 』ということ。つまり、不安にさせれば学生さんを自由に操ることが出来る…意識しているかしていないかは定かではないが、学生さんを自由に操ることを目的として、不安にさせる輩がいるということ。それは試験対策でもなければ、教育でもないのではないだろうか?思い通りに動かしたいがために、人を不安に陥れる。これは、ある意味〝洗脳〟と呼べるのではないだろうか?

 人を不安にさせる言葉が氾濫している現代。その毒に当てられないには、どうしたらいいのだろうか?幸いにも、私と同じように『 不安にさせる言葉の危険性 』について、語ってくれている人たちは多い。もちろん、私なぞ、足元にも及ばない見識者であり素晴らしき成功者であったりする。その人たちが語っている、不安にさせる言葉への対応は…。要約すると、次の二つである。

 

 ① 不安にさせる言葉と関わらない。

  → そういう言葉が書いてあるもの、伝えるものに接しない。

 ② 不安にさせる言葉を見聞きしても受け取らない。

  → 無視するか、受け流してしまう。

 

なるほど。毒を触れば毒されてしまう。毒に触れずば、毒されることはない。そういうことであろう。確かに、至極ご尤もな話である。

 世の中には、不安にさせられてしまう言葉が氾濫している。だからこそ、その毒に当たらぬためには、自分自身が気を付けなければならない。特に試験対策を行っている人間は、前述のように不安になり易い状況にある。だからこそ、余計に〝不安を誘う言葉〟は避けた方がいいのではないだろうか?君子危うきに近寄らず。これは〝己を危うくする言葉〟に対しても、言えることなのである。

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2017年8月11日 | コメントは受け付けていません。 |

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考えない人が多い。

 講師稼業を長く続けているが、昨今、強く感じることがある。それが『 考えない学生さんが増えている 』ということ。以前から、学生さんと接していて『 チョット考えていないのかなぁ… 』と感じることはあったのだが、昨今はハッキリと『 考えていない学生さんが多くなってきている 』と感じる機会が多い。ウチの塾生さんに対しても、そう感じることはあるのだが…企業研修や大学へ赴いての学習指導時に、学生さんと話している時にも『 …考えていないなぁ 』と思ってしまうことが多々ある。

 何気に計算問題が苦手という学生さんは多い。私も学習指導をしている中で、計算問題がウィークポイントになっているということを、聞くことは何気に多い。もちろん薬進塾で講義を行った場合も、講義後の質問では、計算問題の応対をすることが多く、そこで塾生さんから『 計算が苦手で… 』よいった話を聞くことも、毎度のこと。で、色々と計算問題の質問に応対するのだが…。そこで感じるのは『 計算問題が苦手というよりも…考えることをしない、考えることがイヤだという学生さんが多い 』ということ。実際、色々な学生さんと話してみても『 考えるの嫌いなんですよね 』と言う言葉を耳にする機会は何気に多いのである。

 計算問題とは、どういう問題であろうか?計算問題には公式を必要としない場合もあるが、往々にして試験に出題される計算問題は、公式が必要な場合が多い。あとは、覚えた公式に数値を代入していけばいいだけの話なのだが…やはりそこは試験。それ相応に考えて、代入する数値を見出さなければならない場合が多かったりする。もちろん、公式とてそのまま用いる場合もあるが、そこそこ考えて用いなければならないことも多い。ある意味、そういったことが計算問題の醍醐味でもあるのだが…そこで『 考えることがイヤ… 』となってしまうと…この醍醐味は味わえないことになる。味わえないだけならまだいいのだが、それが試験問題となると…解けないという結果が待っている。これは、非常に困ったことである。

 せっかく公式を覚えていても『 考えるのがイヤ 』だから試験問題が解けない…。これは、受験生としては由々しき問題ではないだろうか?大体、試験合格に関して『 イヤ 』だとか『 嫌い 』などということは、言ってはいられないはずである。何としても合格しなければならないのだから。ある種個人的感情というか趣向というか…早い話、好き嫌いなど言ってはいられないはずではないか?『 好きであろうが、嫌いであろうが1点取らなければならない 』それが、試験に対する正しい応対の仕方ではないだろうか?

 私が学習指導で、毎回、口を酸っぱくして言っていることは『 分からなかったら、考えて解けばいい 』ということ。何のことはない。試験で分からないことがあれば…考えればいいということ。至極当たり前のことであるが…私がなぜ口を酸っぱくして言うのかというと…考えない学生さんが増えているからである。考えることがイヤという学生さんが増えているからである。だから言わざるを得なくなる。『 考えて解いてくれ 』と…。

 実は気になっているのは試験対策だけではない。前述のように、色々な場面で学生さんと話す機会があるのだが…『 なんで、そうしたの? 』と尋ねるのも多々あること。もちろん、試験内容のことだけではない。今までの歩み方についてや、その時々における選択に関しても『 何故、それを選んだのか? 』と聞くことがよくあるのだが…返ってくる答は『 いや、なんか… 』とか『 何となく… 』といった、すっきりしないものが多かったりする。自分の一生に関わるような重大な内容に関して『 なんで、それを選んだの? 』と聞いても、何ともあいまいな返答だったりする場合が少なくないのだ。多額のお金がかかることだったり、人生の選択に値するといっても過言ではない事だったりするのに、それを選んだ理由を聞くと…『 何となく… 』といったすっきりしない返答が多い…。これは如何なものであろうか?自分の人生の岐路に関することの返答が『 何となく… 』。どうにも理解しがたい返答である。『 何故、そんな返答をするのだろう?大事なことなのに… 』と、長年疑問に思っていたのだが…。ある日突然、閃いた(ひらめいた)。何のことはない。単に『 考えていない 』だけなのである。普通、自分の人生の岐路であったり、多額のお金がかかることであるならば、人はそれ相応に考えを巡らせるものである。『 お金がかかるんだから… 』とか『 自分の一生が決まることなんだから… 』等、そういった要因を基に、考えを巡らせ、決断をしていくはずである。それが、無い…。そう、そういった場合でも『 考える 』ことを、していないのである。だから、『 何故、それを選んだのか? 』と聞いたところで、返ってくる答は『 いや、なんか… 』とか『 何となく… 』といったすっきりしないものとなってしまうのである。

 考えなければいけない。ましてや受験生ともなれば、試験に関する内容はもちろんのことながら、将来に関することに関しても、それ相応の考えを巡らさなければならない。何が自分にとって最善なのか?どのように生きていくのか?自分の現状では何をすべきなのか、何を選択しなければならないのかと…。残念ながら、そういった事は『 考えるのはイヤで 』で済まされることではない。人は生きていく以上、常に何かを選択していかなければならないのだから。選択をするためには、考えるという行為は切っても切り離せないものであることは、言うまでもない。

 あらためて紹介する必要もない、日本映画界の金字塔『 男はつらいよ 』。その中で、主人公の寅さんが甥の満男 から『何のために勉強すんのかな 』と問われるシーンがある。その問いに対して、寅さんはこう答えている。

 

人間長い間生きてりゃ、いろんなことにぶつかるだろう、なあ?

そんな時に俺みたいに勉強してない奴は、振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるしかしょうがない。

ところが勉強した奴は、自分の頭できちんと筋道をたてて、こういく時はどうしたらいいかなと考えることができるんだ。

 

あの寅さんも、人生考えて生きていくものだと言っているのだ。やはり、人間、考えることは必要なのである。そう言えば…どの作品でも、寅さんが考えごとをしているシーンが何気に多かったような…。それにしても…車寅次郎さん。あなたは凄い人だ。『 何のために勉強すんのかな 』なんていう質問に答えられる人など、おいそれとはいないのだから…。色々と物事を考える人は、やはり違うようだ。

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2017年8月2日 | コメントは受け付けていません。 |

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