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居酒屋考

 私が居酒屋で一杯やる話は何度もブログで書かせて頂いているので、私が酒好きであることは当ブログご愛読の皆様にはおなじみの事と思われる。さらには一人飲みが好きなこともそれとなく、ご存知の事と思われる。一人飲みにおいて、何が一番重要なのかというと〝一人飲み出来る店〟の存在。『 居酒屋なんかはどこにでもあるだろう 』なんて思われる方も多いかと思うのだが…実は、これがなかなか大変なことなのである。一人で落ち着いてゆっくりと飲めること。この条件をクリアする店というのは、そうあるものではない。店内がうるさ過ぎるのは問題外としても、あまり静かすぎるのも芳しくはない。〝自分の雰囲気を消せる位の騒めき〟は、あった方がいい。明るさも重要な要素である。明るすぎるのは落ち着かなくてよくない。かといって暗すぎると…居酒屋なのか、違うタイプの〝お酒のお店〟なのか分からなくなってしまい、やはり落ち着かない。広さも重要である。だだっ広いというのは、やはり落ち着かない。お客が少なければ、一人ぽつねんとしている感があるし、多ければうるさくなるのは必然のこと。かと言って狭いのも…まあ、チョット狭い位がいいのだが…。狭すぎると、やはり他人との距離的に落ち着かなくなるし、チョットした人数でうるさくなってしまう欠点がある。〝うるさくなく、静かすぎず、明るくなく、暗くもなく、広すぎず、狭すぎず〟…。ああ、面倒くさい客だなぁ、私は(笑)。

 居酒屋は多けれど、そういう条件に合うお店に出会う機会は、そうなかなかはない。まあ、これだけ我儘を言ってしまえば、条件に見合う店が減ってしまうのは至極当然のこと。だからこそ、〝(我儘な)条件をクリアした店〟に出会った時は嬉しさも一入である。で、その結果として足繁く通うことになる…のかというと、実は素直にそうなる機会も少なかったりする。ここで、さらに重要な〝我儘な要因〟が出てくることになるのだが…まあ、今度の要因はどちらかというと、誰にでも当てはまる真っ当なこと。そして、先ほどの条件ところでは触れなかった大事な事。そう〝料理が満足出来るものなのか?〟〝酒が満足出来るものなのか?〟といったこと。コレも、条件としては大事である…というか、飲み食いしに来ているのだから、これにうるさいのも至極当たり前の話である。

 〝料理が満足出来るものなのか?〟と書かせて頂いたが…『 料理が美味しいということですよね? 』と、素直に思われる方も多いと思うのだが…。確かにそれもなくはない。しかし、少々ヒットポイントが異なることになる。前述の〝料理が満足出来るものなのか?〟という言葉の中には『 料理が美味しいのはもちろんのこと、品数も豊富ですか? 』という意味合いも含まれているからである。そう品数も重要。せっかく料理が美味しいのに、品数が少なければ…嬉しさも目減りしてしまう。何といっても〝飲み食いしに来ている〟訳であるのだから、その品数が重要な要因となるのも、これまた至極当然な話。酒を嗜みながら『 次、何食べようかなぁ… 』というのは、酒飲みにとっては、コレまたたまらない至福の時なのである。酒が美味くて、酔いも回って、食べ物も美味しい…でも、そろそろ食べものが無くなりそうだ、次はどうする?ほうれん草の胡麻和えもいいし、塩サバ焼きもいい。山かけという手もあるし…ちょっと重たくなるけど、串揚げ盛り合わせという手もある…ああ、どれにしようかな…なんて悩んでいる時こそが、酒飲みにとっての至福の時なのである。そう、酒飲みとは〝卑しい人間〟なのである。でも、誰に迷惑かける〝卑しい人間〟ではない(まあ、時には少々迷惑をかけてしまうことはあるのだが…)。『 どんな美味しいものが食べられるのか? 』それを純粋に楽しめる〝卑しい人間〟なのである。

 もちろん食べ物だけではない。〝酒が満足出来るものなのか?〟と前述させて頂いたのだが…やはり酒飲みである以上、酒も間違いなく重要な要因である。『 酒で、店によって不味い・美味いがあるのですか? 』と言われる方もいらっしゃることと思うが…。確かに酒の美味い・不味いが、どうこうというのもあるる。しかし、それは『 いい酒を使っているかどうか? 』であって、直接、(酒の素材の味どうこうに関し)居酒屋にその責任がある訳ではない。私が言いたいのは…私はサワーを多く頼むのだが…氷がやたら多いお店がある。想像してもらいたい。そこそこの大きさのグラスに…大きな氷がゴロゴロ入っているのと、やや小さめの氷が少し入っている場合を…。そう、大きめな氷がゴロゴロ入っていれば…こちらが物思いにふけって、グラスを傾けていると、酒が底をつくことになる。で、新しいサワーを頼むことになるのだが…いい感じで飲んでいると、またもや酒が底をついている状況に…。そう、落ち着かないのだ。大きな氷がゴロゴロ入っていると、すぐに酒が底をついてしまう。これでも〝酒飲み〟と自称しているくらいなのだ。すぐに底をついてしまうような状況など、落ち着けるはずなどない。

 と、気が付くと居酒屋について、色々書かせて頂くこととなってしまったのだが…実は今回のブログ、違う内容で書こうと思っていたのである。その前哨として居酒屋の話を書いていたのだが…これも当ブログご愛読の方ならご理解いただけるように、いつの間にやら筆が進んでしまい…気が付けば『 もうお時間 』という結末になってしまった次第である。何とも情けない話なのではあるが…逆に言うならば…居酒屋というものが、如何に奥が深いかを、表現することが出来たのではないだろうか?今回、字数制限の関係もあり、ここでお開きとさせていただく所存ではあるが、私としてはまだまだ居酒屋に関しては書き足りないくらいであるし、実際、もっともっと書こうと思っていたことがあるのも事実である。それは、また次回以降の講釈とさせて頂くことにはなるのだが…居酒屋というモノが、如何の奥深いものであるのかは、少なからず伝えられることが出来たのではないだろうか?そう、居酒屋は奥が深いのである。まだまだ、まだまだ…。

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2016年11月30日 | コメントは受け付けていません。 |

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温度調整も佳境に入る。

 講師生活を長く続けていて、何気に頭を抱えてしまうことの一つが〝教室の温度設定〟。夏の暑い日はもちろんのこと、四季の変わり目になると、何気に切実な問題なのです。特に最近は寒い日と暖かい日が、入れ替わり立ち替わり続いているような状況。しかも朝・昼・晩と、その寒暖差が異なるとなると、その調整の難しさも一入。さらに…当然のことながら、人によって〝適温〟というのは異なるもので、その調整にも頭を抱えてしまうことになるのです。塾生さんの中にも〝暑がり屋さん〟と〝寒がり屋さん〟がいるわけですから、どこに照準を合わせていいのやら…。『 コノ温度じゃ暑い 』『 イヤ少々寒い位だ 』…どの室温が適温なのか?コレは毎度毎度の悩みのタネなのです。

 さらに、我々講師陣は動き回りながら、声を張って講義を行っている訳ですが…コレが中々の重労働。当然、体温も上がってくることに…。おまけに塾生さんよりも高い位置(教壇上に立っていますから)にいる訳ですから、講師陣より低い位置に座っている塾生さんとは、当然『 暖かい空気は上の方に、冷たい空気は下の方に 』という〝位置的温度差〟も出てくる訳で。さらに…基本的に塾生さんは、動かず講義を聞いている訳ですから(何故か動いている塾生さんもいらっしゃいますが)、動いている我々講師陣とは〝運動的温度差〟もある訳です。となると…講師陣は〝運動的高温〟+〝位置的高温〟のWパンチで中々大変な状況。で、塾生さんは〝静的低温〟+〝位置的低温〟の状況で、もちろんコレがちょうどいいという塾生さんもいらっしゃるのですが、これでは寒いという方もいらっしゃる訳で…中々、適温設定が難しい状況なのです。私も色々な環境で講義をしてきましたが、やはりどこに行っても〝室温設定〟は難しい問題なのです。

 講義をする環境以外にも、教務室の温度設定もコレがまた中々難しい問題。薬進塾では、あまり教務室の温度に関しては問題点はないのですが…以前勤めていた職場では、どこでも室温設定は悩みのタネ。当然ながら講師・スタッフ、一人一人〝適温〟が異なるわけですからね。どこの職場であっても『 先生寒くないですか? 』やら『 ここ風が直接当たるんですよ 』等の声を良く聞かされたものです。まあ大抵は夏の暑い盛りも、冬の寒い日も、〝暑がり屋さん〟が折れて、汗を拭き拭き我慢するはめになるのですが…。ただ寒がり屋さんの中には、何気に身につけている服装が露出面積の高いものだったり、薄着をされている方もチラホラ。夏なんかは、季節的にもそういう服装になるのは致し方ないにしても、冬は少々厚着をした方がいいのでは…と思っていました。熱い日は、寒がり屋さんが暑がり屋さんのことをチョットだけ考えて、体温調節できる服装にする。逆に寒い日は、暑がり屋さんが寒がり屋さんのことをチョットだけ考えて、体温調節できる服装にする…ということで上手くいかないものかなと、当時は良く考えていました。

 このブログを読んでいる方のほとんどが薬剤師を目指す方、または薬剤師の方と思われます。つまり医療従事者、または医療従事者を目指す方ということになるのですが…ご存じのように、医療従事者は自分の好みに室温を設定することは出来ません。室温は患者さんのために設定されるものです。患者さんが立ち入りできない場所であっても、医療現場の温度は勝手に設定できるものでないことは言わずもがな。そうなると、必然的に温度調整は自分の服装で行うより方法はありません。ましてや白衣を着ている訳ですから、温度調整は個人の責任による管理というよりほかありません。もちろん、医療現場で働く訳ですから、それ相応の服装が求められる訳で、これにも色々と制約が付きものであることも言うまでもないことです。

 薬剤師という医療従事者を目指すために集い勉強している人にとって、〝温度調整は個人の責任による管理〟という考え方は、これからは特に重要になってきます。というのも…試験対策もこれからが佳境に入る時期。体調管理は必須のこととなります。ここで体調を崩す訳にはいかないのですが、やはり日々の試験対策の疲れから、精神的にも肉体的にもかなり疲労困憊されているのが実情。そんな中、自分の温度調整を怠ると…途端に体調を崩してしまうことになります。そう、『 試験対策が佳境に入る 』ということは『 体調管理も佳境に入る 』ことなのです。その体調管理に欠かせないのが、温度調整であることは言わずもがな。次の国家試験を目指している方は、そのことをしっかりと心に刻んで、自らの温度調整に責任を持ちながら、試験対策に臨んでいってほしい。そう思っている次第であります。

 

 

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2016年11月23日 | コメントは受け付けていません。 |

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未来は見えない、お楽しみ。

 先週、世界中の話題をさらったことと言えば、アメリカ大統領選の結果。この一言に尽きるでしょう。クリントン氏を抑え、大統領になったのはトランプ氏。トランプ氏が大統領選に出馬するとなったとき、下馬評では確実に泡沫候補扱いでした。イヤ、泡沫候補どころか、出馬すること自体、『 本気なのか? 』『 なれるわけないだろうに 』『 ふざけているのか? 』といった批判めいたことさえ、当たり前のように囁かれていました。ところが…選挙中に、ライバル候補が次々に選挙戦から撤退。気がつけば大統領選は、クリントン氏とトランプ氏の一騎打ちという結果に。一騎打ちとなった後も、トランプ氏に対する下馬評は変わらず、クリントン氏圧倒的有利という予想でした。ところが…いざ蓋を開けてみれば、トランプ氏の圧勝。まさに『 勝負は下駄を履くまで分からない 』ですが…英語では『 It ain’t over until it’s over 』となるそうです。訳すと『 終わるまでは、終わらない 』というそうですが…『 勝負は下駄を履くまで分からない 』こちらの方が、今回の大統領選にはピッタリの言葉のように思えます。

 結果がどうなるかは、誰も分かりません。無理と言われて成功した例など、いくらでもあります。その〝無理〟は、現時点でデータを集めて予測された結果の〝無理〟です。データではなく、単なる個人的見解で予測された結果の場合もあります。森羅万象いかなるものも、刻一刻と変化しています。森羅万象生々流転。悠久にして劫なる森羅万象の流れは、決して同じ状況を保ち続けるということはないのです。その時集めたデータとて、その時限りのものであり、やはり刻一刻と変化するものなのです。もちろん、個人的見解など千変万化が日常。データも個人的見解も日々刻々と変化している以上、未来を見るためには、ある種役立たないということになります。

 さらに〝予想〟というのは、ある意味『 こうなるであろう 』という思い込みの一種とも言えます。〝思い込み〟とは『 そうだとばかり信じきっていること(大辞林より) 』とあります。『 現時点でのデータがこうだから、こうなると思い信じること 』が〝予想〟ですから、〝予想〟が思い込みという表現も、あながち間違いではないと思います。データも個人的見解も日々刻々変わるもの。それを基に考えた思い込み。それが予想と考えるならば…先のことを予想する、すなわち、これから起きることに対する可不可の判断など、やはり当てにならないものと言えるのではないでしょうか?そう、先のことなど、誰にも分からなくて当然なのです。

 ヒッチコック監督の映画の主題歌として使用された有名な曲〝ケセラセラ〟。その曲に『 The future’s not ours to see. 』という歌詞があります。『 先のことなど分からない 』『 未来のことなど予測できない 』『 未来は見えない 』『 未来は私達のものじゃない 』等々、色々な言葉で翻訳されています。〝結果〟とは何でしょう?『 先のこと 』であり『 未来のこと 』です。ということは、『 The future’s not ours to see. 』という歌詞は、『 結果(未来)がどうなるかは、誰も分からない 』ということを表していると言えるのではないでしょうか?そう『 結果がどうなるかは、誰にも分からない 』のです。ちなみに…この〝ケセラセラ〟という曲、色々な翻訳がなされて歌われていますが…『 The future’s not ours to see. 』を、次のような日本語歌詞で歌っている曲もあります。『 未来は見えない、お楽しみ 』。そう、〝分からない〟からこそ〝お楽しみ〟なのです。

 人が何か事を成そうとした時。必ず悲観的な事を言う人間がいます。『 無理だ 』の『 出来る訳が無い 』だの…。しかし、何故そんなことが言えるのでしょう?結果(未来)がどうなるかは、誰にも分からないのです。悲しいかな、世の中には否定的な言葉を投げかける人間がいるのは確かです。前述のトランプ氏の出馬の件でも、それは伺い知ることが出来ると思います。でも、その否定的言葉は〝移ろい易きデータや個人的見解による思い込み〟でしかありません。『 現時点でのデータがこうだから(or 自分の個人的見解がこうだから)、こうなると思われる 』といった、思い込みでしかないのです。それで、〝人が成そうとしている事=人の志〟の何が判断出来るのでしょう?

 その前に…悲観的な事を言った人間は、本当にその人の志や、未来のことを考えて『 無理だ 』とか『 出来る訳が無い 』と発言しているのでしょうか?先のことは分からない。だから、何を言っても構わない、自分の好きな事を言ったところで別に問題はない、と思っているのでは…。さらに…そういう否定的言動は、ある種、上から目線の言葉である言えます。上から目線の言動を行うことで、人に対し優越感を得ることが出来るのも事実です。否定的言動は、ある種人を見下げる行為でもあるのです。悲しいかな、人を見下げて、自分が優越感に浸る人間がいることも確かなのです。そういう人間にとっては、『 無理だ 』の『 出来る訳が無い 』などといった〝否定的未来判定用語〟は、己の欲求を満たすための、格好の道具になります。せっかく、人が何か事を成そうとしているのだから、それを応援してあげるような言動を取った方がよろしいのでないでしょうか?『 未来は見えない、お楽しみ 』と…。

 そういえば…我が薬進塾が立ち上がって間もないころ…。薬進塾で講師をされていた方が、同業者の方から『 こちらの予備校に来ないか? 』と、引き抜きの声をかけられたそうです。その講師、そちらに行く気は全くなかったので『 薬進塾で講師をしているので… 』と断ったそうですが…。その同業者の方、不機嫌にこう言ったそうです。『 ウチはこれから、どんどん大きくなっていくんですよ。小さい予備校は、これからどんどん無くなっていくんです 』と…。あれから5年近い月日が経ちましたが、おかげさまで小さい我が薬進塾、以前よりも順調に予備校稼業を務めることが出来るに至っております。本当にお力添えを頂いた方々には、ひたすら感謝する日々を送っている次第にあります。

 前述のように、未来は見えません。自分で志を持ったならば、それを遂行しようと行動してみてはいかがでしょうか?周りの意見を聞くことは確かに大切な事です。しかし、周りの意見に振り回されるのは、芳しいことではありません。そして前述のように、悲しいかな世の中には、事を成そうとしている人に対し、悲観的な事を言う人間がいるのも確かなのです。そんな人間のために、志を諦めるというのはいかがなものでしょうか?そんな外野の意見に振り回されず、志を遂行してみては如何でしょうか?未来は見えないのですから…。勝負は下駄を履くまで分からないのですから…。未来は見えない、お楽しみ…。

 アメリカ合衆国の著作家で、成功哲学の祖としても世界的に有名であるナポレオン・ヒル。私も何冊か著書を読ませて頂いていますが、その内容には、ただただ共感するばかり。そのナポレオン・ヒル、このような事を言っています。

 

『 君にそんなことができるはずはないよ 』とあなたに言ったのは誰ですか?その人は、あなたの限界を定める資格を持つほど大きな成功を収めたというのでしょうか?

 

やはり、すごい人間は言うことが違いますね。

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2016年11月16日 | コメントは受け付けていません。 |

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自分で判断する。

 どうも自分で判断しない…イヤ、出来ない人が多いような気がする。他人の見解やマスコミの情報に左右され過ぎの感がある人が多い。あまりに左右され過ぎた結果、自分というもので判断出来なくなっている人も多々見受けられる。先日、知人とある映画の話をしている時のこと。その知人が『 ○○は面白いらしいですよ 』と言ったので『 そうなんだ…私は観たけれど、あまり好きじゃないなぁ 』と答えたところ…『 皆が面白いって言っているんだから、面白いに決まってるじゃないですか! 』と言われたことがある。ちなみにこの知人は、その映画を見ていない…。皆が面白いと言っているのだから面白い…。似たようなことをよく言われる。『 皆が美味しいと言っているんだから、美味しいに決まっている 』 『 皆がいいと言っているんだから、よくないというのはおかしい 』 『 私の息子が面白くないって言っているんで、面白いっていうのはおかしいですよ 』等々。自分というものが無いにも程がある…。

 以前、勤めていた職場での話。私の知り合い、仮にAさんとしよう。Aさんは上司とも言える存在のBさんを好意的に思っていた。好意的と言っても恋愛感情ではなく、優秀な人、話も面白い、知識も豊富、人間としての魅力もある人と、Bさんに対しなかなかの好意の持ちようであった。傍目から見ても、Aさんが如何にBさんを好意的に思っているかは手に取るように分かった(まあ、Aさん自身が我々に対し、そう語っていたのもあるのだが…)。ところがAさん…両者の知人であるCさんから、Aさんの芳しくない情報を得たらしい。Cさんの意見では、Bさんは自分勝手、気分屋、常識が無い等、AさんがBさんに持っていたモノとは間逆の評価であったとのこと。これを聞いたAさん。急にBさんに対する考え方や態度を変えるようになった。傍目から見ても、それは十分に伺い知ることが出来た。今までBさんと頻繁に話をしていたのだが、話をする回数も激減し、ついにはほとんど話をしなくなった。聞いたところによると、メール等での接触も全くなくなったとのこと。確かにAさんとCさんは、以前から仲が良かったのだが…これは、いかなるものであろうか?

 前述のように、AさんはBさんの魅力や人柄に好意を寄せていた訳である。何故、好意を寄せたのかというと、Aさん自身がBさんの魅力や人柄に感応したからである。つまり、Aさんという一人の人間が感じ、判断した結果生じた好意である。そこには嘘偽りや、第三者の意見等は何もなかったはずである。仮に第三者からの意見が多少はあったにせよ、それを踏まえて好意を持ったのはAさん自身である。自分で捉え、自分で判断した結果の好意。そこには純粋たるAさん自身があったはずである。ところが…Cさんの意見を聞くや否や、その意見に靡いて(なびいて)しまっている。そこに、Aさん自身はあったのだろうか?おそらく無かったであろう。だからこそ、今まで培われたBさんに対する好意が、Cさんの意見一つで吹き飛んでしまったのだ。前述のようにBさんに対する好意は、Aさん自身が感応し培ってきたものである。それを、たとえ自分とは仲がいい関係であったとしても、第三者であるCさんの意見でアッサリと捨ててしまうというのは、あまりにも自分自身というものが無さ過ぎるのではないだろうか?『 Bさんって○○なんだよ 』と聞いて『 そうなんだ。じゃあ、距離を置こう… 』では、あまりにも軽過ぎはしないだろうか?『 Cさんが何と言おうが、私は私。私はBさんを好意的に思っている 』というふうに自分自身を貫く…というより、自分自身を大切にすることは出来なかったのだろうか?今まで通りの付き合い方をすることは、出来なかったのだろうか?前述のように、これではあまりにも自分自身が無いというか、自分自身というものを蔑にしているのではないだろうか?

 私は基本的に他人の評価や判断は信用していない。自分自身で評価し判断する。何も『 他人の評価は間違っている 』だとか『 他人の判断はいい加減である 』と言っているのではない。その人の評価や判断は、その人のものである。その人の観点で評価したものであり、その人の立場から判断したものである。私は〝その人〟ではない。私は私である。だからこそ、私自身の観点で評価し、私自身の立場から判断する。他人が『 悪い人 』と評価しても、私が『 いい人だ 』と評価すればいい人だし、他人が『 自分勝手な人 』と判断しても、私が『 気遣いの出来る人だ 』と判断すれば、その人は気遣いの出来る人である。交友関係が種々雑多である私は『 よく、あんな奴と付き合っているよな 』という意見を、ちょくちょく頂くのだが…全く問題ない。私にとっては、その人はいい人であり、好意を寄せている人間だからだ。私が誰とどう付き合うかは、私自身の問題である。少数の人間の見解で流されてしまうほど、私は軽い人間ではないと思っている、

 往々にして、観点や立場が異なれば、評価や判断など変わってくるのは当たり前の話である。外部からの評判などあてにならないことも多い。ましてや一個人の見解で判断しようなど、危険極まりない行為である。それを…自分が持っていた好意を、Cさんの意見であっさり捨ててしまうというのは如何なものであろうか?AさんのBさんに対する好意というものが、それだけのものでしかなかったのか?それとも、他人の意見で自らの思いを流されてしまうAさんという一人の人間の重さが、それほど軽いものだったのか?それとも、そのどちらでもあるのか?自分自身で評価し、判断し行動する。これは人間として、ましてや社会人なら当たり前の行動ではないだろうか?他人の意見に、その評価・判断が流されてしまう。自分が培い、持っていた好意を捨ててしまう。それでは、前述のように、あまりにも一人の人間としての重みが無いのではないだろうか?

 残念なことに、AさんはBさんへの接触が減ったどころか、しまいにはCさんと一緒にBさんへの芳しくない意見を交わすようになってしまった。それを知った私は、何とも悲しいというか『 もったいない 』という思いがしてならなかった。前述のように、AさんはBさんの様々な魅力に自ら好意を持ったのだ。それほど魅力的な人間であるならば、以前のような付きあい方をしていれば、そのBさんから得られるものも多かったはずである。せっかくBさんという自らが好評価した人間と知り合い、付き合いの中から得られるものも多かったはずなのに、それをみすみす捨てるような行動を取ってしまったのだ。それも他人の意見一つで…。もったいないとは思わないのだろうか?ましてや、芳しくない評価まで口にするようになっては…得られるものも得られないどころか、逆に自分にとってマイナスの因子を呼び寄せることになるであろうに…。ちなみに…私から見て、Bさんは確かに癖のある人間かもしれないが、それを補う位の面白さを持つ、有能な人間である。

 『 ○○が美味しい 』だの『 □□は面白い 』だの、巷には様々な情報があふれている。他人の評判も然りである。ある程度参考にするのは構わないが、完全に感化されるのは如何なものであろうか?まあ他人の評価に流されるのは構わないが…それで失うものは、もの凄く大きなモノではないだろうか?それは、単なる情報や本来得られるべきはずのモノを失うだけではなく、自分自身をも流され失ってしまうことになるからである。せっかくの宝の山を前にしても…他人の『 それはゴミだよ 』の意見に流されてしまえば…その宝を手に入れることも出来なくなれば、その宝を発見した自分の努力や機会までをも捨ててしまうことになるのだ。そして何よりも…『 これは宝の山だ 』と判断した自分自身をも捨てることになってしまうのである。これを、もったいないと言わずして、何がもったいないことであろうか?

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2016年11月6日 | コメントは受け付けていません。 |

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キレイな言葉。

 どうも気になる言葉遣いがある。『 違くね? 』『 寒くね? 』『 おかしくね? 』などの〝『ね』付き言葉〟である。本来なら『 違うんじゃない? 』『 寒くない? 』『 おかしくない? 』といった言葉遣いになるはずである。まあチョット乱暴に『 違うんじゃねえ? 』『 寒くねえ? 』『 おかしくねえ? 』となるのも、分からなくはない。こちらは以前から耳にしていた言葉遣いであり、この言葉遣いをされたところで何ら気になることはない。ところが、語尾を上げて『 ○○じゃね? 』という言葉遣いは、どうも気になってしまう。

 この言葉遣い…あえて本ブログでは〝『ね』付き言葉〟と書かせて頂くことにする。前述のように〝言葉遣い〟と表現した方がいいのか、あえて『 そういう使い方をされた言葉 』として〝言葉〟と表現するかで迷ったのだが…まあ、このブログを読んでいる方にはどちらも表現していることは通じるであろうし、字数の関係もあるので、両者まとめて〝『ね』付き言葉〟とさせてもらおう…となった次第である。もちろん、この〝『ね』付き言葉〟には、『 語尾が上がって発音する 』という発音もセットになっていることも付け加えておきたい。

 この『ね』付き言葉。耳にするようになったのは、ここ十数年ではないだろうか?以前勤めていた職場、その前に勤めていた職場で上司が口にしていたのを覚えている。今だからこそ言えるが『 いい歳して、若い奴が使っているような言葉使うんじゃないよ 』と当時は思っていた(もちろん、今も思っている)。今までの文章からお分かり頂けるように、私はこの『ね』付き言葉を不愉快に思っている。耳障りな言葉…それが『ね』付き言葉に対する、私の正直な意見である。例えば『 違くね? 』という『ね』付き言葉であるが…もともと『 違うんじゃない? 』という言葉は、相手に意見を聞く内容の言葉である。『 私はこう思っているのですが、あなたはどうですか? 』という内容が根底にある。そして『 私の思考、見聞と異なっていますよ 』と伝えるための言葉である。相手にかけている言葉であるからには、かけている相手にはそれ相応の気遣いを持って接することが大切ではないだろうか。まあ『 違うんじゃねえ? 』という言葉遣いになったとしても、乱暴ではあるが、まだ相手に対する気遣いが見えなくもない。しかし…『 違くね? 』という『ね』付き言葉には、どうもその気遣いが見えない…イヤ、無いような気がする。

 正しい言葉遣いではないこともその一因であろう。以前、私の後輩が先輩から叱責する場面に同席したことがある。その後輩、何か軽いミスをやらかし注意されていたのだが…その際、謝りの言葉で使ったのが『 スンマセン 』という言葉。以前からその言葉を多用していてらしく、それを聞いた先輩が『 だからスンマセンって言うなと言ってるだろう! 』とより一層怒ることに。当たり前である。悪い事をした際、謝罪する言葉は『 すいません 』『 すみません 』である。それを『 スンマセン 』などという、正当な謝罪で使うべき言葉とは違う言葉を用いた時点で、反省の色が無いと取られても致し方が無い話である。『 違くね? 』という『ね』付き言葉にも同じことが言える。本来相手に尋ねるべき正当な言葉ではない言葉である。多少乱暴になっても『 違うんじゃねえ? 』という言葉の方が、まだある種正当な言葉遣いに思える(まあ状況的に、あまり適切ではない表現の場合もあるが…)。相手にモノを尋ねる時には、前述のようにそれ相応の気遣いを持って接することが大切である。正当ではない言葉を使うことには、その気遣いが見受けられない…イヤ、気遣いが無いよう思えるのである。

 語尾を上げることも、気遣いが見えない一因であることは言うまでもない。語尾を上げられると…馬鹿にされたような感じがするのは私だけであろうか?と思い、ネットで調べいたのだが…ビックリした。『 語尾を上げて話すこと 』に対しての意見が、こんなにもあろうとは!そして『 バカにされているように感じる 』といった、私と同じ意見も多数見受けられた。『ね』付き言葉に関する意見も然りである。どうやら、私と同じ思いの人は多いようだ。

 同じ意見が多数ネット上で存在しているようなので、私的にチョット視点を変えてみると…。『ね』付き言葉は、言葉としての美しさが無いように思える。『 違うんじゃない? 』と『 違くね? 』は、どう見ても『 違うんじゃない? 』の方が、言葉としての美しさがあると思う。私の師とも言える人から『 汚い言葉を使うと運が逃げていくよ。だから汚い言葉を使ってはいけない 』と教わったことがある。なるほど、そうかもしれない。私の知っている限り、言葉遣いの汚い(=汚い言葉を使う)人は、あまりいい人生を送っていないように思える(あくまでも私からの視点であるが…)。逆に…言葉遣いのキレイな人は、いい人生を送っているように思える。やはり、汚い言葉を使うと運が逃げていくらしい…。

 日本FP協会さんによる〝2015年度『 将来なりたい職業 』ランキングトップ10〟で、小学生女子がなりたい職業として9位にランキングされたのがアナウンサー。確かに女子アナウンサーには魅力的な方が多く、女の子が憧れるのも分からなくはない。そんな女子アナウンサーの魅力とは、なんであろうか?確かに容姿もあると思うが、その言葉遣いが大きいのではないだろうか?当たり前の話であるが、職業柄、彼女たちは決して汚い言葉遣いをしない。我々が見ている時は、常にキレイな言葉遣いをしている(=キレイな言葉を使っている)。そこが、彼女たちの魅力に多大なる影響を与えているのではないだろうか?容姿は人並み以上であっても、汚い言葉遣いの人は魅力に欠ける…というか、ハッキリ言って下品に見えてしまうのではないだろうか?実際、容姿は人並み以上のタレントが、汚い言葉遣いをしている場面を最近のテレビではよく目にするのだが…容姿はそこそこなのに、どうしても綺麗とは思えないのは私だけではないだろう。この理由こそが、言葉遣いにあるのではないだろうか?

 『ね』付き言葉は、決してキレイな言葉遣いではない。それは前述のように、ネット上でも多くの方が指摘されている。キレイな言葉遣いでなければ、その人の魅力は著しく減退していく。運も逃げていく。やはり、本人の魅力のためにも、そして運気のためにも、ここは『ね』付き言葉ではなく、正当な、そしてキレイな言葉を使った方がよろしいのではないか?そうと思っている次第である。

 

For beautiful lips, speak only words of kindness

美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。

オードリーヘップバーン(アメリカ合衆国の女優)

 

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2016年11月2日 | コメントは受け付けていません。 |

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