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人が多い方が楽しい…か?

 ブログで何度も書かせて頂いているが、私は酒を飲むのが好きである。もちろん、飲みに行くことも多い。一人で飲みに行くこともあれば、飲み会のような大人数で飲むこともある。そんな酒飲み仲間と色々と話をするのだが、どうやら自分は一人で飲みに行く機会が多い方らしい。私的には、誰に気遣う訳もなく酒を飲めるので、一人飲みは好きである。まあ、酒飲みは一人飲みをする人が多いと思うのだが…時には同じ酒飲み仲間から『 一人で飲んでいて面白い? 』と尋ねられることも多い。確かに皆で語らったり、ワイワイやって飲むのも好きではある。しかし、それと同じ位一人飲みも楽しい。前述のように、誰に気を使うこともなく飲めるというのもあるし、自分のペースで飲むことも出来る。一人考え事をしたり、ゆっくりと思案したりと、自分だけの時間を堪能することが出来る。私にとって一人飲みの時間は、何とも優雅で贅沢な〝自分だけの時間〟なのである。

 二人で飲むという機会も何気に多い。あまり人数が多くなると、気を使う部分もそれに伴い増えてしまうのだが、二人で飲む場合は無礼講よろしく、ざっくばらんに飲むことが出来るからだ(もちろん最低限の気遣いは忘れないが…)。話題ということから考えても、相手と自分の共通点を話せばいいだけである。さして、面倒なことでもない。人数が多くなると、これさえも大変になることが多い。まあ、二人で飲む場合は大抵の場合が〝勝手知ったる仲〟なので、普通に話しているだけで、共通の話題となる場合が多いし、例え共通の話題ではなくとも、いつものように〝相手の一環〟としてその内容を受け止めることが出来るので、相手との仲をより深められることになる。コレもある意味、〝酒を交えた交流〟という優雅で贅沢な時間だと思う。

 という訳で、その贅沢な時間の堪能しようと、飲みに誘ったりするのだが…時折、おもむろに顔をしかめる状況に遭遇することがある。例えば、私が酒を飲もうと誘った人間をAさんとしよう。私は、Aさんと酒を酌み交わして、話をしたいからAさんを誘ったのである。ところが…待ち合わせ場所に行くとAさんの横に知らない人間がいたりする。『 誰だ、コイツ? 』などと思っていると…Aさん曰く『 私の友達のBさん 』などと紹介し始めたりする。『 待ち合わせ前に一緒に行動でもしていたのかな… 』と思いきや…『 イヤ、人が多い方が楽しいかなと思って 』…。ハア?何、コイツも飲み会に来るの?イヤ、俺コイツ誰だか知らないし!そりゃあ、今、名前は教えたもらったけど、どんな奴かは知らないし!ていうか、どこの馬の骨とも知らないヤツと酒飲めってえの?そりゃあ、お前(Aさん)はいいよ、知ってるヤツなんだから。人が多い方が楽しいだと!?お前はな!『 人が多い 』ったって『 知人+他人 』だぞ!俺は(Bさんを)知らないってえの!お前(Aさん)はどっちも知っているからいいだろうけど、Bさんを知らないこっちは話題に困るだろう!第一、気も使うし。それはBさんだって同じはず…って待てよ!何でお前(Bさん)も来るかな?あなた(Bさん)は私を知らないでしょうが!見ず知らずの人間と酒飲んで楽しいか?『 会話に入れるだろうか? 』という不安はないのか?ていうか、誘われても来ないだろう普通は!『 知らない人だし… 』『 会話なさそうだし… 』『 自分は呼ばれていないし… 』という思いはないのか?ていうか、普通はそう思うだろう!そういう思いもなく、『 友達と飲むんだけど、一緒に来ない? 』と誘われたらホイホイ付いてくるのか?それはチョット問題あるのではないか?呼ぶ方も呼ぶ方だけど、付いてくる方も付いてくる方だ!ちなみに、私が知っている人間であっても関係ない。その飲み会に呼ばれてない以上、飲み会には無関係な人間であり、おいそれと付いてくるものではないと思っている。

 以前、何度かそういう状況(飲み会に呼んでいない奴が来るという状況)になったことがある。嫌な予感はしたものの、まあ一緒に飲むことになったのだが…今まで、この嫌な予感は100%当たっている。こちらが知らない話題で盛り上がったりする。こちらが盛り上がっている話題の時に、暇そうにしている。気遣いなど全くない。まあ、気遣いが出来る人なら、誘われてもホイホイと付いてきはしないのだろうが…。こんな状況で、酒など楽しく飲めるだろうか?飲めるはずもない。飲み会の後は後悔の二文字だけが残ることになる。『 飲まなきゃよかった… 』と…。前述のように、私は一人でも飲めるタイプである。金を払って後悔する位なら、よっぽど一人で飲んだ方がいい。という訳で、私は飲み会に呼んでいない人間(知らない人間はもちろんのこと、知っている人間であっても)が来た場合は、『 今日はチョット都合が悪くなって… 』と飲み会を辞退することにしている。待ち合わせの場所であろうが、飲んでいる途中であろうが関係ない。その場で辞退する。後悔するのが、目に見えているからである。そして、そういう人(呼んでいない人間を連れてくる人)とは、二度と飲まないようにしている。

 私は、その人と飲みたくて、話をしたくて飲みに誘ったのである。それを踏みにじられた思いがする。あなたと話したくて飲みに誘った。あなたと酒を酌み交わしたくて飲みに誘った。なのに、あなたは他の人を連れてきた。見知らぬ人であろうが、私が知っている人間であろうが、この飲み会には無関係な人間をつれてきた。私とあなたの大切な交流の時間を作ろうと思っていたのに、その交流の中に無関係な人間を入れた。これを『 思いを踏みにじられた 』と表現することは、大げさなことではないと思う。

 よく『 それで、知らない人と知り合いになることが出来るのだから、いい機会なのではないか? 』という言い方をする人がいるのだが…確かに、それも一理ある。そうやって知り合いになった人間がいることも確かだ。『 なんだ知らない人が来ても飲んでいるではないか? 』という人がいるかもしれない。しかし、全く状況が違う。そういう場合、つまり知らない人間が飲み会に来る場合は往々にして事前に、それ相応の連絡があるのだ。『 今度の飲み会、友達も連れていっていいかな? 』とか『 今度の飲み会、○○な人達も来るよ 』という事前連絡である。これなら私とて、特に問題にしない。その人が加わるのが嫌なら、連れてくることを拒むなり、その飲み会に参加しなければいいだけの話である。もちろんOKする場合も多々あるが、その場合は心構えがある。突然、見ず知らずの人間が参加するのとは訳が違う(もちろん知ってはいるが無関係な人間が参加するのとも訳が違う)。『 今日来る人は○○な人だって言っていたけど、どんな人かな(一応、事前にその人の情報は入れておくことにしている) 』といった楽しみもある。知らない人と飲むのがイヤなのではない。勝手に、知らない人や知人であっても呼んでいない人間を飲み会に加えるなということ。あなただけの飲み会ではない。私との飲み会(もちろん、私以外の参加者がいる場合は皆の飲み会)なのだ。一人だけの好き勝手にするものではない。あなたが、そう思ったからと好き勝手に参加させるものではない。人間同士の交流とは、そういったものではないだろうか?

 単に酒を飲むだけかもしれないが、奥は深いと思う。特に酒が入り酔いが回ると、どうしても箍(たが)が外れ易くなってしまう。だからこそ、余計に気を使ったり、気配りを忘れないよう注意しなければならないのだと思う。たかが飲み会かもしれないが…人との交流である以上、奥は深いものである。

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2016年10月27日 | コメントは受け付けていません。 |

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スマホにイヤフォン、電車ドアに激突。

 先日、いつものように電車に乗っていた時のこと。とある駅に停車していたのだが…もちろん、電車のドアは開いていた。で、出発時間も間近になり、発車メロディーが流れる状況に。そのメロディーも鳴り終わり、〝プシュー〟という音とともにドアが閉まり始めた時…ガツンという大きな音。この音、女性が電車のドアに衝突した音なのだが…。実は私は、ホームから電車に向かって歩いてくるこの女性をずっと見ていた。この女性、耳にはイヤフォンをし、スマホを見ながら電車に向かって歩いてきていたのだが…。恐らく視界の片隅で電車を確認し、さらに電車のドアがあいていることを確認したので、乗車しようと電車口に向かって歩いてきたのだろうが…。もしこれが、イヤフォンもせず、スマホも見ないで、つまり普通の状態で乗車しようとしたのなら、どうなっていたのであろうか?

 まず、発車メロディーが耳に入る。そこで、電車が出発間際であることを知ることになる。急ぐなり、何らかの行動を取ることが出来る。しかし、件の女性はイヤフォンをしている。イヤフォンが耳を塞いでいる状態で、その上、イヤフォンからは何らかの音(音楽かもしれないし、音声かもしれない)が出ているはずである。当然、発車ベルの音は彼女の耳には入らないだろうし、例え入ったにしても、今自分が聞いている〝イヤフォンからの音〟からすれば、電車の発車メロディーなど一雑音にしか受け取れないだろう。つまり、彼女にとって発車ベルは、何らその効果を発揮しないモノとなってしまっているのである。

 さらに、電車の扉が動くことから、やはり電車が発車間際であることを知ることになる。そこで前述のように、急ぐなり見送るなり、何らかの行動を取ることが出来る。しかし、彼女の目はスマホに釘付けである。スマホの視線上に電車のドアがあるならまだしも、残念ながら彼女スマホは手の中にあるため、当然、彼女の視線はうつむいた先を捕えることになる。イヤ、仮に視線上に電車ドアがあったとしても、恐らく先ほどと同じように、その視覚的情報は雑音的なものでしかないだろう。何と言っても、彼女の視線はスマホにくぎ付けなのだ。その背景に見えるものなぞ、〝見えてはいるけど、無いに等しいモノ〟となっているはずである。

 イヤフォンもせず、スマホも見ない状況(まあ当たり前の状況なのだが…)で乗車しようとすれば、今回の〝電車ドア激突事件〟は起らなかっただろう。前述のように、それを避けるための策がいくつも講じられているのだから…。逆を言うのならば〝そういった事故を起こさないため〟に発車メロディーはあるのだし、電車のドアが、そこそこのスピードで閉じるのも、そういった目的があるのかもしれないのだ。しかしながら…例えそのような策を講じようとも、自らそれを無視するような行動を取った場合は、当然ながらその効力は発揮されないモノとなる。

 普通に見かける〝イヤフォンをしながらの歩きスマホ〟であるが、よは〝耳を塞ぎ、目を閉じて歩いている〟状態である。危険極まりない行動ではないだろうか?イヤ、まだ耳を塞ぎ、目を閉じて歩いている方がましかもしれない。耳を塞ぎ、目を閉じて歩けば、誰もが不安になる。不安になるからこそ、余計〝自分の周り〟に対し、注意深く行動するようになるからである。しかし、耳からは音楽が流れ、スマホの画面上には何らかの映像が流れているのだ。耳を塞ぎ、目を閉じている状態ではあっても、当人は不安どころか、ある種ご機嫌な状態なのである。〝自分の周り〟に対し注意深く行動することなどあろうはずもない。不安だからこそ、注意深く行動するようになる。〝自分の今〟が楽しいのだから、周りの事など、お構いなしであろう。

 電車に乗るのに、耳を塞ぎ、目を閉じて歩く。何とも恐いことではないだろうか?電車に乗らずとも、耳を塞ぎ、目を閉じてホームを歩くこと自体、相当恐いことに思えるのは私だけであろうか?しかし、〝イヤフォンをしながらの歩きスマホの人〟を、よく見かけることも、また事実である。

 『 恐いこと 』と書かせて頂いたが…確かに、当人がどんな危険な目に合うか分からない〝恐いこと〟でもあるが、その〝恐いこと〟は当人だけのものではない。周りの人にとっても〝イヤフォンをしながらの歩きスマホ〟は恐いものである。発車間際の電車ドアにぶつかる位なのだから、普通にホームで電車を待っている人にぶつかることなど、当たり前のように起こるだろう。私の知人からは、そういった話は聞かされたことはないが、恐らくそういう被害に合われた方は多いのではないだろうか?実際、私自身街を歩いていて、イヤフォンをしながらの歩きスマホの人に、ぶつかりそうになったことが、何度あったことか。こちらが避けるので、事なきを得ているのだが…もしこちらが避けなければ、衝突は間逃れなかったはずである。その度にこちらは『 何で俺が避けるんだよ 』と思ってしまう。誤解のないよう、言わせて頂くが、私は何も『 避けるのがイヤだ 』と言っているのではない。歩いていてぶつかりそうになった時は、お互いに避けるものではないだろうか?こちらが半分、向こうが半分避けるからこそ、ぶつからずに歩けるのではないだろうか(江戸しぐさの肩引きなどが、これに当たると思う)。それが社会の中で生きていくルールではないだろうか?『 私は音楽を聞いているので聞こえませんし、スマホを見ているから見えません。だから、あなたが避けて下さい 』というのは、あまりにも横柄な態度ではないだろうか?

 当人にとっても〝恐いこと〟。周りの人にとっても〝恐いこと〟。こんな恐いことなら、とっとと辞めた方がいいのではないかと思うのだが…。調べてみると、やはり自分だけではなく、周りの人にケガをさせたり等の事故は既に起こっているとのこと。最近は〝イヤフォンをしながらの自転車スマホ〟を見かけることも多々ある。まあ、そういった方々は『 私は音楽を聞いているので聞こえませんし、スマホを見ているから見えません。だから、あなたが避けて下さい 』という思いなのだろうが…。やはり、自分の身は自分で守らなければならないようだ。イヤフォンをしながらの歩きスマホの人を見たら避けなければならないし、イヤフォンをしながらの自転車スマホを見かけたならば、速攻でその進路から身を外さなければならない。何とも世知辛い…イヤ、おかしな世の中になったものだ。そう思うのは私だけではないはずである。

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2016年10月18日 | コメントは受け付けていません。 |

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請流

 〝うけながし〟と読みます。〝受け流し〟とも書きますが、武道の心得がある方、特に刀や剣に関する武道を嗜んでいる方にはおなじみの言葉。斬り込んできた刀を、己の持つ刀の鎬(しのぎ:刀の刃と峰の間の高くなっている部分で、刀の側面の盛り上がっている部分)で受けてかわす技です。構えた刀を、頭上で横にする。この時、鎬がやや上を向くように刀を寝かせます(今一つイメージが分からない方は〝受け流し〟で検索して、その画像を見て頂けると助かります:笑)。相手が自分の頭上めがけ打ちおろしてくる刀を、自分の刀の側面にある鎬で受けることになるのですが…ただ受け止めるのではなく、受け止めるや否や、刀を横に流します。正確には〝横〟というよりも、相手の刀を斜め下に滑らせるように、自分の刀の柄を上、剣先を下にした体勢で己の刀は斜め上に移動させます(もちろん自分の身体も、横へ移動することになります)。相手の刀を受けた己の刀を斜め上に滑らせ移動させることにより、相手の刀の力を斜め下に逃がすことになります。ガチッと受け止めるのではなく、相手の力を受け流す。まさに『 切り込んできた刀を軽く受けて他にそらす(デジタル大辞泉より) 』のが請流という技になります。

 私の武道の師匠がお亡くなりになって、そろそろ一年が経とうとしています。私が師匠から教わったことは、単に武道のことだけではありません。今の自分自身はもちろんのこと、講義や薬進塾のあり方、塾生さんの指導の礎となるようなことまで、本当に色々な事を教えて頂きました。その師匠が言っていた言葉でも、思い出に残っているのが、次の言葉です。

 

 請流というのは、とても大切な技なんだよ。相手の力を受け止めるんじゃない。相手の力を逸らす技なんだ。もちろん、他の技も大切だよ。でも、地味に見える請流も、実はとても大切な技なんだ。ちゃんと、習得しなきゃダメだよ。

 

まあ、その時は『 技の一つであるからには、しっかりと習得しなきゃだな 』位に思っていたのですが…。確かに請流は、相手の力を逸らして、更に力を逸らされ隙が出来た相手の身体に、即斬り込むことが出来る技ですから、〝防御転じて即攻撃〟ということが出来る、まさに一石二鳥の技。武道においては、大切にしなければならない技であることは間違いありません。

 師匠が稽古の時に言っていたのが『 請流は〝受け止める〟んじゃないんだよ、〝逸らす〟んだよ 』ということ。要領が今一つ悪い私は、どうしても刀を受け止めてしまうんですよね。相手の刀を〝逸らす〟のではなく、受け止めてしまう…。その度に、師匠から『 だから受け止めるんじゃなくて、逸らすんだって 』と、よくお叱りの言葉を受けていました。今となっては、懐かしい思い出ですが…。

 人は、何か自分の意にそぐわないことがあったり、理不尽なことをされた時、憤慨したり、傷ついたり、悲しくなったり、イヤな気持ちになってしまうものです。私も長い講師生活の中で、沢山の学生さん達から『 理不尽なことをされた(意地悪をされたとか、聞こえよがしに嫌な事を言われた等々) 』と、ある時は泣きながら、ある時は憤慨しながら、又ある時は傷つき蚊の鳴くような声で、それこそ無数の相談を受けてきました。まあ、試験対策の日々は何気にストレスが溜まるものですし、精神的にも色々と過敏になる時期。ましてや色々な人間が集まって来ている訳ですから、そういった相談を受けるのも日常茶飯事のこと。そんな〝悩み多き受験生の相談〟を受けた時、私はよく『 相手が何かしてこようとも、あなたがそれを受け取らなければ、何の効力も発揮しないよ 』というアドバイスをしたものです。相手が何かしようとも、こちらが受け止めなければ、その効果は発揮されない…。早い話、気にしないということ。気にしてしまえば…相手は〝理不尽な行為〟でダメージを与えようと、攻撃してきている訳です。ですから、気にしてしまう、すなわちそれを受け取ってしまえば、おもむろにダメージを受けてしまうことになります。そう、気にするということは〝受け止めてしまう〟ことなのです。攻撃しようと相手が頭上から渾身の力を込めて振りおろした刀を、そのまま受け止めてしまうことなのです。ダメージを受けるのはもちろんのこと、下手をすれば刀が折れてしまうやもしれません。そういう時は…そう、請流。相手の攻撃を逸らすのが一番なのです。受け止めずに、逸らす…。これこそが、『 相手の行動(行為)を気にしない 』という〝請流〟になるのです。攻撃してきた方は、どう思うでしょう?攻撃したのに、それを気にも留めずに、何事もないように、するりとかわされてしまった…。もちろん、ここで攻撃した方には隙が出来るのですが…即、切り返しなんていうことをしたら、それこそ向うの思うつぼ。相手が何をしてこようとも、隙を見せようとも、どんな状況になろうとも気にしない。そう、相手の一挙一動に反応しないこと。これこそ、まさに『 相手の行動を受け流す 』 請流の技そのものでは無いでしょうか?受け止めたらダメですよ。場合によっては折れてしまうこともありますから。受け流すのが一番です

 私は知らぬ間に、師匠から教わった〝請流〟を学生さん達に指導していたことになりますね。『 人には馬鹿にされていろ 』『 イヤなことは考えない 』といったタイトルのブログはもちろんのこと、他にもたくさんのブログの中で、何気に〝請流〟のことが書いてあったりします。そう、いつもまにやら師匠から教わった〝請流〟という技を伝承していたようです。『 伝承していた 』と書かせてはもらいましたが…実は私自身、まだまだ請流の技を完全習得するには至っておりません。これからも勉強して、色々な意味での〝請流〟という技を習得していかなければ…そう思っている次第なのです。そういえば、私の師匠が口癖のように、言っていた言葉。

 

人生、いつも勉強。

 

やはり、素晴らしい師匠だったと心底思います。同時に、そういう師匠に恵まれた私は幸せ者なのだと、心より思っています。

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2016年10月12日 | コメントは受け付けていません。 |

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覚悟

覚悟

 

・ 危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる

 心構えをすること。

・ 仏語。迷いを脱し、真理を悟ること。

デジタル大辞泉より

・ 危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう

 心構えをすること。

大辞林より

 

 以前〝国家試験対策は大変である〟というブログの中で、『 「 国家試験対策は大変である 」と自覚することから、国家試験対策は始まる 』と書かせて頂いたことがある。そう、国家試験対策は大変である。まず、それを自覚しなければならない。それを自覚した時から、試験対策は始まることになる。

 覚悟していない学生さんが増えてきているように思える。〝覚悟〟とは前述のような意味であるが…『 危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して 』『 危険な状態や好ましくない結果を予想し 』とあるように、まさに『 大変であること 』が、覚悟にはつきものということになる。つまり〝国家試験対策の覚悟〟とは『 国家試験対策は困難なものであるということを予想して、それを受けとめる心構えをすること 』であり、もっときつく言わせて頂くならば『 国家試験の対策を行っていく中で好ましくない結果も予想し、それに対応できるよう心構えをすること 』ということになる。

 〝国家試験対策における困難なもの〟とは何であろうか?それは、勉強しなければならない量が膨大であったり、自分が苦手とすることにも対応していかなければならないことであったり、限られた時間や環境の中で対策を進めていかなければならないことであったり等、数え上げたらきりがない。

 同じく、〝国家試験の対策を行っていく中で好ましくない結果〟とは、どのような事であろうか?それは、講義の理解度が今一つだったり、勉強してはいるが思うように成績が上がらなかったり、模擬試験の結果が芳しくなかったり等、こちらも、数え上げたらきりがない。

 そういった事を予想し、それに対応できるよう心構えをすることが〝国家試験対策における覚悟〟である。国家試験対策は、スラスラと進むものではなく、前述のように、それ相応の困難や望ましくない状況が付きまとうことになる。薬剤師国家試験は、ご存じの通り345題。この出題数の多さも、国家試験の難関の一つだろう。題数が多いということは、当然、出題範囲も広くなるし、内容的にもそれ相応に深く掘り下げたものになる。いわゆる〝広く、深く〟というやつである。広い範囲を、深い内容まで勉強しなければならない。多くの知識を、詳しく身につけることが必要とされているのだ。広い範囲の中には、当然、各自が不得意とするものもある。もちろん、知っている知識でさえ、さらに深く掘り下げ理解していかなければならないことも多々あるはずである。そう考えたならば、前述の『 国家試験対策は、スラスラと進むものではなく、それ相応の困難や望ましくない状況が付きまとう』という言葉が、より真実味を帯びて、分かって頂けることと思う。

 〝国家試験対策における覚悟〟とは、そういった困難な事を真摯に受け止め、それに対応できるよう心構えをすることである。逆に言うならば『 覚悟が無い(覚悟していない) 』ということは、『 不利なこと、困難なことを予想していない 』『 それを受けとめる心構えが無い 』ということになる。『 不利なこと、困難なことを予想していない 』ということは、ある意味、不利なこと、困難なことなど無いと思っていると言えよう。だからこそ、不利なこと、困難なことにぶつかったり、思い通りに進まないと…パニックに陥ったり、不平・不満ばかりが口から飛び出すことになる。これでは何の解決にもならないばかりか、余計、国家試験対策の足を引っ張ってしまうことになる。『 それを受けとめる心構えが無い 』となればなおさらである。そして、ブログ冒頭にあるように、昨今は〝覚悟していない学生さんが増えてきているよう〟に思えるのだ。

 当ホームページ、主任講師挨拶で私は『 合格の秘訣は〝学習姿勢〟 』というタイトルで、如何に学習に取り組む姿勢が重要かを書かせて頂いている。この〝学習姿勢〟に、〝覚悟〟で言う所の『 それを受けとめる心構え 』が含まれていることは言うまでもない。そして、以前ブログで書かせて頂いた『 国家試験対策は大変である 』ということが『 危険な状態や好ましくない結果を予想すること』『 危険なこと、不利なこと、困難なことを予想する 』ことに結び付いていることも、前述のとおりである。やはり、国家試験合格を目指して、その対策に取り組むならば〝覚悟〟をもって、推し進めてもらいたいと思う。

 覚悟には『 迷いを脱し、真理を悟ること 』という意味や『 あきらめること、観念すること 』という意味もある。もちろん、私がこのブログで言っている〝覚悟〟は、ブログ冒頭で説明した内容の〝覚悟〟であるが…。『 国家試験対策の迷いを脱し、真理を悟ること 』という意味の覚悟。『 国家試験対策をあきらめること、観念すること 』という意味の覚悟。どちらの〝覚悟〟を取るかは、その人次第である。前者の〝覚悟〟を取るためにも、ブログ冒頭で説明した内容の〝覚悟〟をしっかりと理解し、試験対策を推し進めて頂きたいと思っている次第である。

 

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2016年10月2日 | コメントは受け付けていません。 |

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