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人には馬鹿にされていろ。

 酒飲みの男性なら一度は見たことがある〝親父の小言〟。そう、居酒屋の、何故かトイレに飾ってあることが多いアレです。ちなみに先ほど〝酒飲みの男性〟と、あえて男性限定で書かせて頂いたのは、果たして〝親父の小言〟が女性トイレに飾ってあるかどうかが、定かではないからです。まあ、基本入ったことがありませんからね、女性トイレには(笑)。

 『 親父の小言なんか知らない 』という方のために…居酒屋に飾ってある〝親父の小言〟とは、紙ベースだったり、木製の板だったり、時には陶板だったりもしますが、それらに〝親父の小言〟と称する四十近い文言が書かれているもの。チョット耳が痛い、それでいて『 なるほど、その通りだ 』と思わず唸ってしまうような文言の数々は、なかなかのものです。さぞかし見識のあるお方が書かれたのだろうと、調べてみると…もともとは、福島県浪江町にある大聖寺のご住職であられた、青田暁仙さんが書かれたものとのこと。やはり、仏の道に入られたお方ですから、人の心を唸らせるものを書くのも納得です。ちなみに、青田暁仙さんが書かれた文言は、全部で45とのことだそうですが、どうも巷に出回っている〝親父の小言〟は、その中から抜粋した30~40位の文言を乗せている場合が多いようです。

 この親父の小言、前述のように、いい事がたくさん書いてあります。最初は『 朝きげんよくしろ 』の文言で始まる場合が多いようですが…まず一発目の文言からしてなかなか秀逸なモノ。1日は朝から始まります。確かに朝は、気持ちが不安定な状況にある場合が多いかもしれませんが、そこはグッと抑えて『 きげんよくしろ 』とのこと。それで、1日が爽快に過ごせるのなら、確かにお安いご用かもしれません

 そんな秀逸された文言の中でも、私が気に言っているのが、ブログタイトルでもある『 人には馬鹿にされていろ 』。ちなみに、親父の小言では4番目に位置している場合が多いようです。人には馬鹿にされていろ…。この言葉、何気に奥が深いものがあると思います。『 アイツは馬鹿だ 』とされるのは、誰しも快いものではありません。だから、何かしらの反発行動を行います。しかし、親父の小言では、その反発行動を止めなさいと言っています。『 人に(馬鹿にされたら、馬鹿にされたで)馬鹿にされていろ(動くことはない) 』と、私は解釈しています。

 私も人から馬鹿にされることはよくあります。もちろん面と向かって口に出されることは少ないですが、『 馬鹿にする 』ということには、何も口で言うばかりではありません。そういう態度、つまり相手を馬鹿にした態度を取ることも、立派に『 馬鹿にする 』ことに含まれます。『 ああ、この人は私の事を馬鹿にしているんだなぁ 』と感じることはよくありますし、『 蔑まれているなぁ 』とか、『 しょうがない奴だと思われているな 』と感じることは多々あります(もちろん、これは被害妄想ではありません。態度や物言い、表情で伺えますので…)。でも私は、あえて気にはしてはいません。ブログで何度も書かせて頂いていますが、基本、人がどう思おうかは勝手だからです。他人が私のことをどう思おうが勝手…。相手が私を馬鹿だと思おうが、しょうがない奴だと思おうが、蔑もうが勝手だということ。だって、仕方が無いじゃありませんか?相手は、そう思っているんですから。そこで『 私の事をそう思わないで 』と意見するのも、なんだか違うような気がするのです。十人十色。人はそれぞれ好き勝手に思う生き物なのです。どう思われようが、ある種仕方がないことではないでしょうか?

 ただ一言、言わせて頂くならば…そう思っている人は、その対象としている人からは何も得ることが出来ないということ。つまり、『 この人は馬鹿だな 』と思っている人は、〝この人〟からは何も得ることが出来ないということです。それはそうですよね?自分が蔑んでいる人間からなど、何も学ぶことは出来ませんから。他人を馬鹿だと思う、他人を蔑むということは〝自分以下〟〝自分の方が優れている〟と思っている、つまり、自分の方が優れている人間だという考え方が根底にあると思います。自分の方が優れていると思っているのですから、自分以下の人間からは学ぼうとはしないし、学ぶことがあることにさえ気がつくはずはありません。そして、それがもったいないことだと言っているのです。

 人を馬鹿にするということは、自分が上だと思っていること。他人を蔑むということは、自分が間違っていないと思っていること。人の一部の言動だけで、どうしてその人を〝自分以下〟と判断出来るのでしょう?その判断の結果『 自分の方が上だ 』としたところで、何が得られるのでしょう?その人の一部の言動だけで、どうして『 自分は間違っていない・自分は正しい 』と言えるのでしょう?正解なぞ無数にあります。何が正しく、何が間違ってるかは、その時々の状況によって変わるものです。もちろん『 正解が一つしかない 』などということは、現実世界の事象には、まずあり得ません。そう、世の中…特に人間社会には沢山の正解があるのです。なのに、どうして自分の見識だけが正しく、他人の見識は間違っていると、蔑んだり、馬鹿にしたりすることが出来るのでしょう?

 蔑むことは簡単ですし、相手を馬鹿にすることも簡単です。そして、それで優越感に浸ることもできますし、自分の正当性に浸ることもできます。しかし、その代償は大きなものとなります。そう、その対象とした人からは、何も学ぶことが出来ないからです。沢山の正解の一つを、その対象の人が持っていたとしても、その一つの正解を手にすることが出来なくなってしまいます。前述のように、馬鹿にしたり、蔑んだりした自分以下の人間からは、だれも学ぼうとはしないのですから…。

 人には馬鹿にされていろ。良く考えれば、馬鹿にされたところで、蔑まれたところで、こちらの方には何ら害は無いのです。多少、不快な思いはするかもしれませんが、それさえもこちらの捉え方次第で、いくらでも軽減することは出来ますし、場合によっては0にすることさえ可能です。何かしらの反発行動を行ったところで、水掛け論が展開されることは目に見えていますし、場合によっては新たなる問題を引き起こすことにもなりかねません。そんなことをしたところで…やはり何も得るものはないのです。

 馬鹿にされているということは、前述のように、下にされているということ。下から見上げれば…下からは色々なものが見えます。上からの目線では、決して見ることのできなかったモノが見えてきたりもします。馬鹿にされていれば、色々なものが見えてくるのです。それ故、色々な人や事象から物事を学ぶことが出来るのです。そして…〝(自分の事を)馬鹿にしている人〟が、どういう人なのか、どうして馬鹿にするのかも見えてきます。さらには、その人の言動からも、多くの事を学ぶことが出来るようになります。どちらが得かを考えてみれば…やはり『 人には馬鹿にされていろ 』ということが、正しいことだと分かって頂けることと思います。

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2016年9月26日 | コメントは受け付けていません。 |

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赤ウインナーよ永遠に…

 赤ウインナーが好きである。あらびきウインナーよりも、皮なしウインナーよりも、フランクフルトよりも赤ウインナーが好きである(注:魚肉ソーセージは、今回のブログではソーセージ対象外とさせて頂きます:魚肉ソーセージについても、いつの日かブログで書かせて頂くことにはなるとは思いますが)。つまり、色のついていないチョット高級そうなソーセージ類よりも、あの庶民的な赤ウインナーが好きだ、ということである。

 幼い頃は、あの赤ウインナーが食卓にあると大喜びしたものだ。一番記憶に残っているのは、祖母の家に行った時のこと。従姉は皆、学校に行っており、家には私と祖母しかいなかった。祖母は私のためにと、真空パックに入っている赤ウインナーを買ってきてくれ、それを昼食時に炒めて出してくれた。その赤ウインナーは魚肉がメインの赤ウインナーであったが、その美味しさは今も忘れられないものとなっている。

 月日は流れ、私が居酒屋に通うようになった時のこと。現在も通っている居酒屋さんのメニューに〝ウインナーのベーコン巻〟というメニューがあった。何のことはない、赤ウインナーにベーコンを巻いてつまようじに刺し、それを炒めたものであるが、その居酒屋さんに行く度に必ずと言っていいほど、そのメニューを注文していた。

 先ほど『 あらびきウインナーよりも、皮なしウインナーよりも、フランクフルトよりも 』と書かせて頂いたがこれらのウインナーには無い味が、赤ウインナーにはあると思う。あらびきウインナー、皮なしウインナー、フランクフルトの類は、確かに味にそれぞれ違いはあれど、基本的な味の部分は同じように思える。それに比べ赤ウインナーは、それらとは違う独自の味を持っているような気がするのだ。だからこそ、あえて『 赤ウインナーが好き 』と明言させて頂いているのである。

 赤ウインナーが好きという人は意外と多い。いや、嫌いな人を見たことが無い。誰からも愛される味。それが赤ウインナーにはあると思う。俳優、タレントとして御活躍の渡辺徹さん。皆さんご存じのように、奥さんは、やはりタレントで女優の榊原郁恵さん。有名な話であるがおしどり夫婦として有名なこのお二方が、初めてした夫婦喧嘩。その原因が、この赤ウインナー。榊原郁恵さんがウインナーとして使っていたのが、高級なあらびきウインナー。それを、食卓に出していたそうであるが渡辺徹さんが好きなのは赤ウインナー。なのにいつもいつも出てくるウインナーは、あらびきウインナー。それに怒った渡辺徹さんが『 家を出ていく! 』とまで言うほどの夫婦喧嘩になったとのこと。渡辺徹さんが、如何に赤ウインナーが好きなのかが伺えるエピソードだと思う。夫婦喧嘩はともかくとして、渡辺徹さんの気持ちが分からなくもないのは、私だけではないと思う(もちろん、あらびきウインナーが悪いと言っている訳ではないことは、ご理解頂けることと思う)。

 老若男女を問わず好かれている赤ウインナー。昔は〝ウインナーソーセージ〟といえば、赤ウインナーだったが、最近はあまり目にしなくなってきている。もともと赤ウインナーは、昭和の中頃に日本で考案されたものとのこと。そう、赤ウインナーは日本生まれなのだ。その頃は、ソーセージに良質の素材を用いることができず、発色の悪さを隠すため、やむを得ず赤く着色したそうである。もともとは、発色の悪さを隠すために生まれた赤ウインナー。その誕生秘話も驚きであるが、日本で考案された、日本固有の食材であることも驚きである。

 発色の悪さを隠すため、やむを得ず赤く着色したと書かせて頂いたが、この着色に使われているのが赤色102号、赤色3号、コチニール色素等の着色料。特に赤色102号(カナダ、ベルギー、アメリカなどでは食品への使用が禁止されている)や赤色3号(ドイツやポーランド、アメリカでは食品への使用が禁止されている)は、海外ではあまり評判のよろしくない代物。コチニール色素にも諸説紛々あるようだがやはり健康志向の高いご時世において、着色料はあまり居心地のいい状況とは言えないようである。そのせいか、ネット等で調べてみても『 赤ウインナーは身体に』的な考え方が横行しているようである。皆が大好きなのに、今一つ見かけなくなってきている。その背景には、そういった健康志向に関する要因があるのだろう。では、着色料を使用しなければ残念なことに、それでは〝赤ウインナー〟ではなくなってしまう。

 しかしやはり赤ウインナーは人気者なのだろう。最近は、植物由来の色素を使ったり、トマトの赤い色素(リコピン)等を使ったりして、その存続を図っている赤ウインナーがあるそうである。やはり企業側としても、赤ウインナーの人気を認めているのだろう。認めているからこそ、〝赤ウインナーの赤〟を存続させる方法を試行錯誤しているのだと思う。試行錯誤の結果いつの日か、以前のように赤ウインナーが並ぶ日が来るのだろうか?以前よりも、健康的で美味しい赤ウインナーが。そんな日を待ち望みながらも、いつもの居酒屋で『 赤ウインナーのベーコン巻復活しないかなぁ 』と酒を飲みながら、ボンヤリ考えている今日この頃なのである。

 

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2016年9月20日 | コメントは受け付けていません。 |

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冤罪ある日常:後編

 前回は『 何気ない日常にも冤罪はある 』として、色々と書かせて頂いたが、その続きである。

 

 前回のブログの最後に、次のような内容を書かせて頂いた。冤罪をかける前に、何故、当事者に『 やったんですか? 』と問わないのか?問もせずに、何故、勝手に『 あの人が… 』と判断するのだろうか?事件を収束へと導きたいのなら、当事者に話を聞き白黒つけ、その結果から別の方法を取っていった方が、効率がいいのではないだろうか?私がやっていないのに、私がやったと話している輩は、何故、事件収束の方法をとらないのだろうか?そう、事の収束を取らずに、冤罪をかける方を取るのは何故なのだろうか?

 答えは簡単である、そういう輩は事件の収束が目的ではないからである。あらぬ罪を着せて『 あの人が… 』と、野卑な仲間同士で低劣な話に花を咲かせたいだけなのである。本人は冤罪を作っているなどとは、夢にも思っていないのだろう。自分の虫の好かない人間を悪く言う〝正当(?)な理由〟を作り出すことや、それを野卑な仲間同士で語り合うのが目的なのだ。事件収束など二の次である。いや、別に事件などどうでもいいのだろう。むしろ、何か事が起これば『 これ幸い 』と、自分たちの虫の好かない人間を標的にする〝野卑会〟を開くが出来るのだ。その証拠に、私がやったと吹聴している輩は、いつも同じ人間達であった(ちなみにこの人達、他の人間にも同じように冤罪を被せていたが…)。私のことを快く思っていない人間たちで、私がやったと吹聴して回る。私の耳に入らないように…。しかし、いずれは広まり、私が気が付くころには、完全に私がやったことになっている。まあ私にとっては、はた迷惑な話であるが…幸い、私は人にどう思われようが、割と気にしないタイプである。私がやっていないのだから、あえて力説する必要もない。中にはそんな与太話を本気と信じて、私がやったと思い込んでいる人間もいたようだが…まあ、その程度の低俗な噂話を、何の確信もなく受け入れる人間なぞ、所詮その程度であろうと、そういう人間達もあえて気にはしなかったのだが…。

 以前、野卑会メンバーの一人(女性)に対し『 あなたは私がやったと言っているそうですが、私はやっていませんよ。何を証拠にそういうことを言っているのですか? 』と聞いたことがある。その女性、私と目を合わせることもなく、黙ったまま…。もう一度同じことを、こちらが言うと…『 ○○さん(私)が悪いんじゃないですか… 』とやはり目を合わせずに、呟く。『 何故、私が悪いんですか? 』とさらに問い続けると…やはり目も合わせずに『 ○○さん(私)が悪いんじゃないですか… 』を繰り返すだけ…。証拠もなければ、目も合わせない。訳の分からない発言を繰り返すだけ…。話にも何もなったものではないが…こういった言動からも『 単に自分の虫の好かない人間に対し、ありもしない罪をかぶせ楽しんでいるだけ 』であることが、しっかりと伺える。この女性のような〝野卑会参加者〟にとっては、虫の好かない人間に、ありもしない罪をかぶせることは〝楽しい野卑会の材料〟であるかもしれないが、やっていることはれっきとした冤罪である。本人たちは、これを分かっているのだろうか?ニュースで冤罪と聞くと『 とんでもない 』と口にするくせに、自分たちで冤罪を作り出している。なんとも、奇妙な話であるが…後ろめたい気持ちはないのだろうか?

 以前の事。〝幸せになりたくない男〟というブログで書かせてもらった男性が、こんなことを話していた。その彼の兄が映画館に映画を見に行った。楽しみにしていた映画だったそうだが、付近の席にやたらうるさい人間がいる。あまりにうるさいので、映画を見るのをやめ、怒り心頭で帰ってきたそうである。その話を聞くや、件の男性は『 それは○○だ 』と私の名を告げたそうである。もちろん、私ではない。大体、何を証拠に私の名前を挙げ、『 それは○○だ 』と告げたのだろう?確かに映画館と私の住まいは近所ではあったが、それだけのことで私が犯人にされたのではたまったものではない。あまりの理不尽さに、どういうことですかと問い詰めると…『 イヤ、何かそんな感じがしてさ… 』と、これまた理不尽の上塗りのような発言。これには、さすがの私も憤慨し『 それ、おかしくないですか? 』とさらに問い詰めると…逆切れした男性の一言。『 そういう風に思われるお前が悪いんだろ! 』…なるほど、冤罪を作っている輩は自分が悪いのではなく、自分たちに冤罪をかけられる方が悪いと思っているのか…。そう言えば、先の野卑会メンバーの女性も『 ○○さん(私)が悪いんじゃないですか… 』という言葉を口にしている。罪を犯している自分たちが悪いのではなく、自分たちから罪を犯していると決めつけられる方が悪い…そういう理論なのだろう。これでは、後ろめたい気持ちなどあろうはずもない。どうりで、いじめも冤罪も日常から無くならないはずである。日常ある冤罪から身を守る方法は、そういった輩とは関わらない事である。距離を置く。そして、自分自身も日常ある冤罪を人にかぶせないようにすること。この二つが、日常ある冤罪を防ぐ、最も有効な手立てである。

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2016年9月14日 | コメントは受け付けていません。 |

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冤罪ある日常:前編

罪がないのに罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ(デジタル大辞泉より)

 

 Wikipediaでは、冤罪は『 「無実であるのに犯罪者として扱われてしまうこと」を指す言葉である 』と書かれているが、こちらの方がピンとくる言葉かもしれない。そう『 犯罪者として扱われてしまうこと 』が、冤罪のもっとも重要な部分だからである。

 世の中には、様々な〝冤罪事件〟が起こっている。誰もが、〝冤罪事件〟という言葉を耳にするたびに、何ともやりきれない気持ちとなってしまうはずである。無実であるのに犯罪者として扱われてしまう。こんな理不尽なことはないだろう。それを分かっているからこそ、『 冤罪というのは、とんでもないことだ 』と誰もが憤慨し、やりきれない気持ちとなってしまうのだろう。

 しかし…誰もが冤罪という言葉を聞き、やりきれない気持ちになり、果てはその理不尽さに憤慨しているはずなのに、巷にたくさんの冤罪が溢れているのは何故だろう?『 冤罪が巷に溢れているって…そんなに沢山の犯罪が周りにあるのか? 』と思った方がいるかもしれない。何も冤罪とは、ニュースで大騒ぎされるような、重大事件のモノばかりとは限らない。日常生活の中にある、『 やったことがないのに、やったことにされてしまうこと 』も立派に冤罪ではないだろうか?今回のブログでいう所の〝冤罪〟とは、この〝日常生活の中にある冤罪〟のことである。

 『 やったことがないのに、やったことにされてしまうこと 』これを経験したことがある人は、少なくないと思う。かくいう私も、よくこの標的とされる。目立つ人間というのは、何気に標的化されやすいのだ。一人が標的とすると…他の人間は、自分が標的化されたくないがために、同じ人間を標的化する。すると、他に人間も…という具合に負の連鎖が始まることとなる。気が付くと〝皆の標的とする人間〟が出来上がっており、その結果『 あの人には何を言っても、何をやっても許される。例えやっていない罪をかぶせても、許される 』という、人間としての最も野卑たる部分が跋扈することとなる。そう〝いじめ〟の誕生である。日本古来からの言い方では〝村八分〟といい、権力を使った場合は〝パワハラ〟などと言われたりもする…(まあパワハラは、権力を持つ一個人によって行われるとされるが、こういう輩には太鼓持ちが多く、その太鼓持ちも一緒になってやっている場合が多いのも事実である)。今もって〝いじめ〟が問題になり、命が失われる悲しい事件も毎度のように起こっているが…何のことはない。古来より長きにわたって行われてきた『 気に入らない人間を弾圧する 』『 自分が標的化されたくないがために、誰かを標的化にして身を守る 』がいまだ繰り返されているだけの話である。そう、今に始まった話ではない。

 閑話休題。冤罪と聞くと『 とんでもない 』という輩が、日常生活で冤罪を作り出している、つまり『 やっていない人を、やった人にしてしまう行為 』を行っているのは、どういうことだろうか?『 冤罪を作り出すなんて、とんでもない! 』と思っている方も多いかもしれないが、何のことはない。日常、よくあることである。

 以前勤めていた職場では、何か事が起きた時、私がやったとされたことは、一度や二度ではなかった(一応断っておくが、その中のどれ一つも私がやったことではない。大体、何か事があった場合は、自ら即座に言うようにしている。こちらの方が、事件を重大化させずに、速やかに収束させることが出来るからである)。私がやっていないのに、私がやったことにされているのだが…このような経験をされた方は多いのではないだろうか?これを冤罪と呼ばずして何と呼ぶだろう?まさに、冤罪以外の何物でもない。

 件の職場の冤罪事件。どういう訳か、いずれの場合も、当事者である私の耳には入ってこないところが、なんとも不思議な話である。何か事が起き、その犯人が私と思うのならば『 やったんですか? 』と聞けばいいだけの話ではないだろうか?そうされたとて、そのことで腹を立てたり、暴れたりするようなことはない。誰しも勘違いというものはあるだろうし、それ相応に考えたり、状況的なモノから私と判断したのであろう。別に『 やったんじゃないのかな? 』と思うことは悪いことではないし、疑問に思えば問うのはある種当たり前の話である。だから私としても『 いいえ、違いますよ 』と答えて、それで終わりである。大体、事件を収束したいのなら、そちらの方が、効率がいいのではないだろうか?私がやっていないのに、私がやったと話している人達は、何故、事件収束の方法をとらないのだろうか?

 

 何故その人達は、事件収束の方法をとらないのだろうか?その驚愕の理由とは?

それは次回の講釈にて!See you next week

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2016年9月5日 | コメントは受け付けていません。 |

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