驚きのラーメン:前編
人それぞれに味の好みというものがある。だから自分判断だけの『 美味い 』『 不味い 』を、大っぴらに公言してはいけないと思っている。それを『 美味い 』としている人間がいるかもせず、その人間を不愉快にさせてしまう可能性があるからだ。『 私は好きじゃないなぁ 』 位を口にするのは構わないだろう。前述のように、味の好みは人それぞれ違うからだ。出来る限り、相手を不愉快にさせないよう、かつ自分の感じたことを伝えるというのは社会人としての常識である。しかしだ…私とてまっとうな人間。特に味覚に障害があるわけでもない。おおよそ、人が『 不味い 』というモノは不味かったし、『 美味い 』というモノは美味いと思い今日に至っている。もちろん、人が『 不味い 』というモノが美味かったこともあるし、人が『 美味い 』というモノを不味いと思っことも少なからずある。だが、さすがに『 これは不味いだろう? 』と思うモノに対し、他人に『 どう? 』と意見を求めると、やはり不味いという答が返って来ることがほとんどであった。だから微妙なモノはさておき、『 これはどう考えても不味いだろ 』というモノに関しては、まずその判断は間違いないと思う。あまりにも内容がひどいものであれば、やはり万人に近い人間が『 不味い 』と思うのは、ある種当然ではないだろうか?
もちろん、相手を攻撃したり、嫌がらせをするつもりで『 不味い 』と言うことなど言語道断である。だが、悲しいかな世の中にはこういう輩がいることも確かである。私の実家は以前飲食業を営んでいた。これ幸いにと、『 お前のうちの○○は不味い 』とよく嫌がらせというか、イジメを受けたものである(ちなみに、そのバッシングをする輩は、うちの料理を一度も食べたことがなかったことを付け加えておこう)。ヒドイ時など、私が実家を離れて関東で暮らすようになってからも、嫌がらせ的に言われたものである。さらにひどい輩になると『 お前のうちの料理は不味い。俺がそう思っているんだから仕方ないだろ 』なんて、どや顔で話してくる輩もいた。しまいには『 俺が不味いと思っているんだ。不味いお前の所が悪いんだろう 』などと逆切れする始末(一応断っておくが、ウチの店は地元では人気店であった)。そういう輩に同調して『 そうですね 』などと、せせら笑ったような笑顔でいるコバンザメのような輩がいたりするから、また厄介である。そういう輩の〝人間の卑しさを一気に集めた顔〟を見ればすぐに分かる。『 こいつらは不味いとは思っていない。単に嫌がらせをしているだけだな 』と…。まあ、そんな輩だからこそなのか、その後はパッとしない人生を送っているようであるが…。
世の中には、相手が反撃できない内容を見つけてきては、これ幸いとばかりに、そこに難癖をつけたり攻撃したりする輩がいる。前述のうちの店の料理のことにしてもそうである。『 不味い 』と言ったところで、私が反撃などできるはずなどないと知っているのだ。たとえ反撃されても、前述のように『 俺が不味いと思っている 』と言い切ってしまえばいいだけである。『 俺は不味いと思っているんだ 』と…。その輩が不味いと言い切ってしまえば、こちらは何も言えなくなってしまう。それを知っている。つまり『 自分は絶対反撃されない 』という姑息な条件で攻撃してくるのだ。どんなに横柄であろうと、上から目線であろうと、絶対に反撃されない。それを知ってやっているのだから性質が悪い…というか、人間としてある種最低ともいえる。そういえば、以前勤めていた予備校で、新人ばかりをいじめる講師がいた。これも、その一つであろう。新人には何を言ったところで反撃されないと知っている。だから、新人に対しては横柄な態度をとる。そういえば、その講師。普段はわざとらしい位親しげに接してくるのだが…こちらが何かミスをすると、急にデカイ態度で偉そうに意見を言ったり、上から目線で嫌味たらしく非難するようなことをしていたが、これなぞもそうであろう。『 反撃されないことが前提の攻撃 』…姑息この上ないことであるが…現代社会が、そして人類が抱える多くの問題が、ここを起点としていることに、何故気がつかないのであろうか?まあ、ブログでも何度か書かせて頂いている通り、そういう人間たちとはお付き合いを避けた方がいいことは言わずもがなである。そして、私が知る限りにおいて、そういった輩が芳しくない人生を送っていることも言わずもがなである。
閑話休題。だから、今回〝驚きのラーメン〟について書かせて頂くにあたり、決してその店を非難したり、その料理人を攻撃するために書くのではないということを、ご理解いただきたいと思う。当然ながら、その店の名前も出さなければ、詳細な場所も出さない。特定できる内容は一切排除して書かせてもらおうと思っている。〝不味いラーメン〟という表記も使わずに、書こうと思っている。前述のように、もしかするとそのラーメンを美味いと思っている人がいるかもしれないからだ。賢明な読者の方の中には『 だったら書かなければいいのでは? 』と思う方がいらっしゃるかもしれない。確かにその通りかもしれない。しかし、あまりにも衝撃的だったのである。そのラーメンが、私のラーメン人生を吹き飛ばすほどの驚きのラーメンだったのである。こんなラーメンがあるのかと…。どうしても聞いてもらいたい、誰かに話したい。我を忘れて、そう思ってしまうほどの衝撃的なラーメンだったのである。
では、果たしてその〝驚きのラーメン〟とは、いかなるラーメンだったのか?
それは次回の講釈にて!See you next week!
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2016年6月26日 | コメントは受け付けていません。 |
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計算狂想曲 ~ 計算苦手を克服するには? ~
先日のトライアルテスト(基礎講座で週末に行う、その週のまとめテスト)は、なかなか塾生さん達には大変なものがあったご様子。というのも、その週の講義では科目こそ違え、講義した内容にはある共通点があったからです。当然、トライアルテストにも、その共通点が問題として各科目から出題されることとなったのですが…。その共通点とは…計算(問題)。
私は、大学はもちろんのこと、薬局さんやドラッグストアさん等の企業研修で、学習指導を依頼される事が多々あります。そんな中で、何気に学生さんから多く相談を受けるのが、計算について。『 計算が苦手なんですけれど… 』という相談はよく受け…というか、学習指導に行った時は間違いなく受ける相談ですね。今年度もある企業さんから、講義&学習指導を依頼されていますが、やはり計算問題に関する内容が含まれています。
もちろん、私の教え子達も計算が苦手という人は圧倒的に多いのです。私の教え子といっても、講師歴ン年の私の教え子たるや、その数は膨大のモノになります。その膨大な数の学生さん達に、計算が苦手だという人が圧倒的に多いという訳ですから、如何に計算が苦手な人が多いかがお分かり頂けるかと思います。ご多分にもれず、薬進塾の塾生さん達も『 計算が苦手で… 』という方は、多いですね。そんな現状の中で行われた先日の〝計算多め〟のトライアルテスト。塾生さん達の奮闘ぶりを目にし、急遽『 計算の学習指導 』を入れ、1時間近くにわたり学習指導で計算をフォローすることと相成りました。
その〝計算問題の学習指導〟の時にも、少しお話ししたのですが…計算問題が苦手という人には、実はいくつか共通点があります。その共通点の一つに『 指数・対数の計算が出来ない 』というのがあります。せっかく公式を覚え、問題を読みとり、数値を式に代入したものの…指数・対数の計算が出来なくて、そこでギブアップ…という人は少なくないようです。そこで、我が薬進塾の基礎講座では『 指数・対数 』という科目を設け、不詳、私めが教えている次第なのです。指数・対数の対策につきましては、単に指数や対数の四則計算を記載したプリントを配布しただけでは、事足りません。実際に、練習問題等で演算を何度も繰り返し、〝自分のモノ〟にして〝使いこなすことが出来る〟ようにならなければなりません。そう、計算では『 実際に自分一人で計算できる 』ことが重要なのです。
他にも、計算問題が苦手な人には、いくつかの特徴があるのですが…その前に。指数・対数の計算といったテクニック的な事もさることながら、計算問題を解く上で非常に大切な事があります。それは〝考える〟ということ。どうも、昨今の学生さん達の〝計算嫌い〟や〝計算苦手意識〟は、ここから生まれてきている様な気がするのです。というのも…計算が分からないという塾生さんに『 どれどれ… 』と解説をするのですが…計算問題の解説ですから、筋道立てて説明していくことになるのですが、何やら塾生さんの顔には驚きの表情が…。『 分からないの? 』と聞くと『 大丈夫です 』との返答。で、最後に『 だから、こうなるでしょ 』と〆ると…満面の笑みで『 分かりました 』との返答が…。すると、今度はこっちの顔に困惑の表情が浮かぶことに…『 どこが分からなかったのだろう? 』という思いが沸々と沸いてくることになるからです。『 分からない 』というからには、こちらが解説している最中『 えっ、何故ですか 』とか『 そこが分からないんですよ 』という声が上がるはず。しかし、一度もそういう声は上がっていない…。で、解説を終えると、確かに分かっているよう…。これは一体どういうことなのだろうか?
考えられるのは…『 計算苦手だから、分からない 』と、問題を考え解くことを放棄したということ。どうも、昨今の学生さんにはこのタイプが多いようなのです。自分で考えて解くよりも、人が考え解きだしたモノを身につけるというか、そこから得た答ややり方を覚えるというか、そういう〝結果ありきのやり方〟 をしている人が多いようなのです。確かに解法から、ある程度解き方を学んでいく方法が無くもないのですが、やはり一度は自分で考え、頭をひねることが重要になってくるのは言わずもがな。それがあって、初めて〝解法から、ある程度解き方を学んでいく方法〟は生きてくることになるのです。そう、『 まずは自分で考えてやってみる 』ということが、計算問題をマスターする上では欠かせないことなのです。計算が苦手という人は、初めから『 分んない 』として、何の手だても打たない場合が多く見受けられます。で、解答・解説を待っているだけ…。あとで、その解答・解説のやり方を見ながら代入して、『 正解になった 』と安心しているようですが、それでは計算問題は克服できません。
先ほど『 筋道立てて説明していくのですが、何やら塾生さんの顔には驚きの表情が 』と書かせて頂きましたが、何故、〝驚きの表情〟が現れるのでしょうか?恐らく、問題内容的にはその人の学力で分からないモノではなかったのでしょう。しかし、考えずにいたものだから、分からず答えが導き出せなかった。そこで、筋道立てての説明を聞いたところ『 なるほど 』という感覚が得られた。だからこそ、驚きの表情が浮かんだのだと思います。何のことはない。ただ〝考えていないだけ〟だったのです。『 考えて答を導き出せる学力があるのに、考えずにいたから答を導き出せなかった。そこで、人が考えたモノを見たところ納得した 』といったところでしょうか?
問題は考えなければ解けません。これは私が、そして薬進塾の講師陣が何度も声を大にして伝えている事です。『 分からなかったら、考えて解けばいい 』と…。特に計算問題に関しては、考えなければ問題は解けません。昔々の薬剤師国家試験とは違い、昨今の国家試験の計算問題は『 公式に数値をポンと代入すれば答が出る 』といった内容ではないからです。計算問題が苦手という人は、もう一度自分を振り返ってみてはいかがでしょうか?本当に計算問題が苦手なのか?それとも、単に考えることをしていなかったのか?それを自覚するだけでも、その人の計算克服法はかなり見えてくると思うのですが…。
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2016年6月20日 | コメントは受け付けていません。 |
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合格への執念
先日、101回薬剤師国家試験に合格した塾生さん(Kさん:女性)から合格体験記が届きました。合格体験記のTOPに掲載されている合格体験記なのですが…読んでビックリされた方も多いのではないでしょうか?そう、Kさんは101回国家試験で9回目の国試受験だったのです。Kさんの体験記の一節にこうあります。
4年制大学を卒業してから、ほぼ毎年受験していたので、今回は9回目の受験。
そう、9回目の受験に驚くのもさることながら、4年制時の薬学卒業生であることにも驚かされます。卒業してから、毎年国家試験を受験してはいたものの、なかなか合格へたどり着くことができず大変だったことも、Kさんの合格体験記からは伺えます。実際、私はKさんのことをよく知っていますが、薬進塾に来ることも、それはそれで大変だったようです。時には『 大丈夫なのかな? 』と思ったことも何回かありました。しかし、そんな苦労をも乗り越えて薬進塾にやってきたKさんには強さがありました。そう、『 何としても合格をつかみ取ろう 』という強さです。
Kさんが質問に来なかった日は、一度もなかったといっても過言ではありません。休み時間や講義終了後には、必ずと言っていいほど質問に来ていました。講義後は、毎日のように自習時間ギリギリまで自習し、日々行われる試験にも真剣に取り組んでいました。どんな講師からも何か掴み取ってやろうという姿勢は、受験生の鏡たる部分があったと思います。時には講師に『 先生、ここの所を先に講義でやってもらえませんか? 』とリクエストに来ることも…。我々講師も、講義体系から考えて講義の順番を決めているので、『 チョット、それはどうかな(苦笑) 』と思ったこともありましたが、逆にそれくらい講義に対して真摯に取り組んでいる姿勢の現れだと思いました。実際、その講師はリクエストに応えてくれましたが、『 Kさんの発言のおかげで、新しい講義の進め方が分かった 』と言っていました。〝塾生と講師で作る講義。それが薬進塾の講義である〟を文字通り表してくれている事例だと思います。
昨今の学生さんと接していて、気になることが一つあります。それは〝合格することへの意欲〟です。お恥ずかしながら、私が講師を始めたのは、薬剤師国家試験がまだ200題の頃。今の国家試験と比べれば〝内容的には狭く浅い試験〟だったと言えるでしょう(それはそれで大変だったのですが…)。それでも受験生たちは必死でした。何とかして合格してやろう、イヤ合格しなければならないんだという気迫に満ちていたよう思います。それが伝わってくるのか、講師も国家試験が近くなると…イヤ、年が明けるとピリピリとした緊張感を身にまといながら講義をしていたものです。それが…いつの頃からかはハッキリと分かりませんが、そういった意欲が薄くなってきたよう感じるのです。『 昔は… 』といういい方は、あまり好きではないのですが、今の学生さん達が、その意欲に薄れてきているのは確かだと思います。もちろん、全員だとは言いません。私もウチの塾生をはじめ、研修先や大学等で、次の国家試験を受験される学生さんと接する機会があります。確かに、国家試験合格に対し、以前の学生さんに負けないくらいの意欲を持っている方も沢山いらっしゃいます。しかし『 沢山いる 』ということは『 少数の方はそうではない 』ということになります。以前は、全員が〝合格への意欲〟を持っていたのですが…。
『 私は合格したい。合格する意欲は持っていますよ 』と口では言うのですが…。1日に2時間しか勉強しないとか、勉強することよりも他のことを優先するだとか、講義を受けても復習しないだとか、etc…。『 合格する意欲はありますよ 』と、どの口が言ったのかと、呆れてしまう状況にしばしば遭遇するのです。中には『 出来る限り勉強したくない・努力したくない 』『 ギリギリで受かればいいから、それ以上は勉強したくない 』『 楽に合格したい 』『 すぐに成績を上げるにはどうすればいいのか 』なんていうことを、平気で口にする学生さんもいらっしゃいます。呆れるを通り越して、こちらがどう対応していいのかも分からない状況に陥ってしまいます。
前述したようにKさんは薬進塾に来ることも、なかなか大変だったようです。もちろん、薬進塾に来てからも大変なようでした。学力的にということもありますが、日々の勉強はもちろんのこと、日々の生活も色々大変だったと聞いています。しかし、Kさんは笑顔でした。もちろん、深刻な表情をしていることもあったのでしょうが、私が覚えているKさんはいつも笑顔でした。そして、誰よりも〝貪欲〟であったように思えます。受講して何か掴み取ることに対して、成績を上げることに対して、学力を身につけることに対して、とにかく誰よりも貪欲だったと思います。もちろん、他の塾生さん達も貪欲でありましたが、私が一番に思い浮かぶのはKさんなのです。〝貪欲〟という言葉はイメージがあまりよくないかもしれませんが、私は普段からこの言葉を使います。『 受験生たるもの、知識を身につけること、学力を上げること、そして合格することに対して貪欲でなければならない 』と常日頃から口にしています。『 もっと、もっと 』『 まだまだ 』と学力を身につけていかなければならない。それこそが、受験生のあるべき姿だと思っています。そして、Kさんの姿こそが、その姿であったと私は思っています。
Kさんを、そこまで動かしたもの、それは〝合格することへの意欲〟…イヤ、意欲というよりは執念と言った方がいいでしょう。〝合格したいという執念〟これこそが、Kさんを突き動かし、合格へと導いた最大の要因だと思います。Kさんのように、試験対策の最中にも辛いことはあります。イレギュラーなことも起こります。しかし、その執念があれば、辛いことを跳ね返すことができます。その執念があれば、イレギュラーな事態にも対応することができます。その執念があったからこそ、辛い状況でも笑顔でいることができたのです。そして、合格を掴み取ることができたのです。しかし…悲しいかな前述のように、この〝合格への執念〟が薄れてきている学生さんが、増えてきているのが現状のようです。合格の要である〝合格への執念〟。これさえあれば合格できるのに、なぜかそれを放棄してしまっている…。何とも矛盾した、昨今の薬剤師国家試験対策事情ではありますが、ウチの塾生さん達には、先輩であるKさんをはじめ、並々ならぬ合格への執念をもって合格を掴み取った先輩塾生達を見習って、試験対策に励んでもらいたい、そして我々もそのように指導していきたい。そう思っている所存です。
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2016年6月12日 | コメントは受け付けていません。 |
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視力低下は厄介なのだが…。
先日、ある集まりがあり、皆で待ち合わせをしてからお店に向かう段取りとなっていた。で、約束の時間に待ち合わせ場所に向かったのだが…。その待ち合わせ場所、かなり大きな駅の改札口ということもあり、さらに週末ということも相まってか、かなりの人の数。私と同じように、待ち合わせをしているらしき人も、かなりの数いるようであった。そこで、メンバーを見つけようと思ったのだが…。見えない…。イヤ、人がいることはわかるのだが、顔が見えない…。そう、顔がぼやけてしまい、認識するに至らない状況となっているのである。『 こんなに視力悪かったっけ? 』と思ったもののどうしようもない。ウロウロしながらも近距離まで移動して、ちらっと顔を見る、という動作を繰り返し行っていたのだが…。実は、待ち合わせしているメンバーのほとんどが女性であった。だから、女性のそばまで歩いていき、ちらっと顔を見るという動作を繰り返し行うことになるのだが…怪しいことこの上ない。いい年をした男が、女性の傍まで歩み寄り、ちらっと顔を見る。と思ったら、また違う女性のもとに行き…こんな行動をとっていたら不審がられるどころか、『 チョットよろしいですか 』と、〝おまわりさん〟という待ち合わせをしていない方からのお誘いで、お店ではなく警察署に連れられて行くことになるだろう。仕方なくチラ見はやめて、とにかくウロウロと待ち合わせ場所を歩き回ることに。自分で見つけられない以上、誰かに見つけてもらおうという作戦である。この作戦が功を成し、見事、待ち合わせのメンバーが私を見つけてくれ、事なきを得たのであった。
高校生までは視力がよかった。1.5~2.0を常にキープしていた。車の免許を取った時も、さして視力に関して何かあったという思い出もないので、それくらいの視力だったのだろう。ところが…気が付くと、自分でもビックリするくらいに視力が下がっていく時期があった。その時期とは…そう、仕事でパソコンを使うようになった時期である。パソコンを使いだしてから、視力は目に見えて下がっていった。視力が下がるのに『 目に見えて 』という言い方もおかしいのだが…閑話休題。まあ、我々講師のお仕事は講義をすることであり、講義をするためには、当然、教材を作らなければならない。そのためにはパソコン使用は不可欠である。特に私のプリントには図が多いのだが、この図を作るときが一番目に負担がかかっているようである。図形を揃えたり、ここだと思った位置に図形を移動させたりするのだが、この時、瞬きをせずに、それこそ目を皿のように見開いた状態で、図形を動かす。やっている本人でさえ『 目に負担かかっているだろうなぁ 』と、感じてしまうことが多々ある。実際、目には相当な負担がかかっていると思う。そんなことを日々繰り返し行っているのだ。視力が下がるのも、当然と言えば当然のことである。
視力が悪いと、前述のように人探しの時に困ってしまうことになるが、それ以外にも日常生活に支障をきたすことは山のようにある。お店に入ったとき、メニューが見えないなんて言うのはよくある話。テレビを見ていて『 何か他やっていないかな… 』とリモコンの〝番組表〟のボタンを押して、画面に番組表を出すのだが…見えない。テレビと自分の距離なぞ、せいぜい1m50cm位である。それが見えないのだから厄介である。わざわざテレビの前まで足を進め、画面に食い入るようにして番組表を見つめることになる。
さらに…視力が悪いと、何かをボーッと見つめてしまうことが多々ある。別に深い意味はないのだが、はっきりと見えないからだろうか、その対象物を無意識のうちに見つめてしまうのである。ボーッとしている時は、頭がボーッとしているのだから、はっきりしたモノを見て、ハッキリとした認識が必要ではない(大体ハッキリしたものを見て、ハッキリとした認識がある以上、それはボーッとしていることにはならない)。で、これを時たま人の顔でやってしまうことがあるから性質が悪い。以前、ボーッとしていた時の事。たまたまそこにいた塾生さんを、やはり意味もなくボーッと見ていたことがあった。その塾生さんは女性だったのだが、訝しげに『 何ですか? 』と言われたことがあった。ボーッとしていただけで、別に意味はなかったのだが…。ボーッとしている時に、たまたま視界に入ってしまった等説明して事なきを得たが…やはり人様の顔をボーッと見るのは、失礼な行為であることは間違いない。
そんな訳で、まさに百害あって一利なしの〝視力低下〟であるが…『 眼鏡、またはコンタクトレンズを使えばいいのに 』と思われた方も多いと思う。確かに、その通りなのだが、元来、横着者の方で、そういった小道具を日常生活で使い続けるということができない性質である。無くしたり、壊したり、恐らくしまいには使わなくなってしまうだろうということが、十分予想されるのだ。そういった〝日常生活に欠かすことができない小道具〟を、常日頃から携帯し、ケアしながら使っていく位なら、多少見えなくてもいいか…というのが私の本音なのである。
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2016年6月5日 | コメントは受け付けていません。 |
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