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おいしい所だけ取っても、おいしくない。

 『 人の技を盗む 』ということを、全くもって勘違いしている輩が多い。人の技を盗むということは、『 人の技を真似する 』事ではない。真似はマネでしかない。『 人の技を盗む 』とは、手本とする人の技を見て、学び、それを自分なりに、自分の手法として身につけることである。『 自分の手法として身につける 』のだから、当然、手本とする人の技とは違うモノになる。自分流として身につける。これが『 人の技を盗む 』という事である。自分流ではなく、単に手本とした人の技と同じであれば、〝盗む〟ではなく〝真似る〟である。そこには、何の意匠も見受けられない。もちろん、『 手本とする人の技を見て学ぶ 』過程においては、真似をするという行為も必要になってくるが、あくまでも過程での話。そこで止まってしまえば〝真似る〟でしかない。〝真似る〟で止まるのではなく、〝盗む〟に到達しなければならない。

 よくよく考えてみれば…〝盗む〟とはどういう事だろう?『 ひそかに他人のものを取って自分のものにする(デジタル大辞泉より) 』とある。そう『 自分のものにする 』ことが〝盗む〟である。『 自分のものにしていない 』のは、単なる真似でしかないということ。ちなみに、〝盗む〟には『 他人の技・芸や考えなどをひそかに、また無断でまねる(デジタル大辞泉より)』の意もあるが、『 人の技を盗む 』で言われている〝盗む〟が、この意でないことは言わずもがなである。盗んだものは、自分流として自分のものになっていなければならない。真似ているだけでは自分のものになっていない。単に借りてきているだけである。

 不思議に思うのだが…借りてきている他人様のものを、自分が披露して何が楽しいのだろうか?如何にも、自分のものとして振る舞っているが、どんなにそう振る舞っていても自分のものになっていない以上、所詮は他人のもの。他人のものが評価されて、何が楽しいのだろうか?そう言えば、以前ブログに書いたこともあるのだが…。私が以前勤めていた職場でのこと。私が何かウケることを言うと『 おいしいな。それ、もらおう 』という同僚がいた。一度や二度ではない。私が何か面白い事を言ったり、『 なるほど 』というようなうん蓄や雑学的な事を言っても、『 それ、もらおう 』と言う。たとえ、それが講義に関する内容であっても『 それ、もらおう 』と言う。おいおい、あなたが教えている科目は違うでしょ、と言ったところで聞く耳持たず。果たして、その同僚が自分の講義中に、全く関係のない私の科目の内容である〝おいしい〟とされている部分を話したかどうか?それは定かではないのだが…その前に…何が〝おいしい〟のだろう?

 そういえば、私が同僚や学生さんに話した内容を、そのまま〝自分の話の内容〟として話す同僚(前述とは別の同僚)もいた。それも、同僚や学生さんが『 いいこと言いますね 』と感激してくれたり、褒めてくれるような内容の話だ。ちなみに、私は伏線を張って話をするようにしている。そして、いいタイミングの所で感激してくれるような内容の話をするようにしている。まあ、話し方としては当たり前のことだと思うのだが…。ところが、その講師はそう言った内容を耳にするや、すぐに別の学生さんにその事を話す。正確に言うならば〝その部分のみ〟を話すのだ。話と言うモノは、伏線を張りながら話していって、一番良いタイミングで伝えたい事を話さなければならない。話し方にも演出は必要なのだ。『 感激した 』『 いい事を言う 』と評価された部分だけを話したところで、空々しいものになってしまうのは必然である。実際…その同僚が偉そうに〝私が話した内容の評価を受けた部分だけ〟を話しているのを何度も聞いたが…どこか安っぽい空々しいものとなっていたのは確かである。しかし…この同僚も何故、私が話した内容を、私が話したと知らない人間に自分の言葉として発するのだろうか?

 両者とも〝おいしい〟ものを自分のモノにしたかったのだろう。良い事を言う。面白い事を言う。それで、自分が評価されようとしたのであろう。人が話した事を、如何にも自分のネタとして、人前で話し評価をもらう。これこそ、泥棒が行う方の〝盗む〟ではないだろうか?そういえば…どちらの同僚とも『 人の技を盗むことは大切で云々 』と語っていたような気がする。勘違いも甚だしいのは、前述のとおりである。

 人が面白い事を言っているなら、自分も面白い事を考える。感動する事を話しているなら、自分もうん蓄を身につける。それが正しい姿勢ではないか?そのまま活用するとしても…前述のように自分なりの伏線を張りながら、自分なりの話をしていき、良きタイミングの所で『 ○○さんが話していたけど… 』とその内容を伝えればいいだけではないか?これこそが、本当の意味での〝盗む〟ではないか?自分なりの伏線、自分なりに組み立てた話。これはまさに、その人が考えた内容であり、その人流の話である。そして、良きタイミングで話した人の事も伝えることで、より一層の演出もなされ、話として盛り上がるのではないだろうか?美味しい所だけ持っていっても、それは他人のもの。自分の口から出る、自分の言葉だけが相手に伝わる。自分の口から出た他人の言葉なぞ伝わる訳が無い。前述のように、言葉を真似ているだけではそれは自分のものになっておらず、単に借りてきているだけのモノにしか過ぎないからである。おいしいと思われることであっても、それはその人なりの演出が成されて初めておいしいものになるのだ。おいしい所だけを持ってきても、決しておいしいものとはならない。技を身につけるということは、そんなに甘いことではないのだ。

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2016年1月24日 | コメントは受け付けていません。 |

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見知らぬ自分。

 先日、知人から『 この前、Aさん(あえて伏字にさせて頂くが、ある名字が入ると思って欲しい)と会ったんですよ 』と言われた。…どのAさんだろう…?という私の雰囲気を読み取ったのだろうか、知人は私が以前勤めていた職場の名前を出し、『 そこのAさんですよ 』と言ってくれたのだが…知らない。いや、忘れたのだろうか?イヤイヤ、どんなに忘れたとはいえ、同じ職場で働いていたとされる人物である。記憶の片鱗くらいは残っていてもいいはずだ…。しかし…やはり、分からない。そんな私をよそに、その知人曰く『 いやあ、色々先生の事を聞きましたよ 』とのこと。何とも不気味な話である。私の知らない人が、私の事を色々と語っているというのだから…。さらに、追い打ちをかけるように『 向こうは先生の事、知っているみたいですよ 』…。これはミステリー…イヤ、ホラーだ。私の知らない人が、私の事を色々と語り、さらに私の事を知っているという。私が、今をときめくアイドルなら、話が分からなくもない。そのアイドル自身が、見た事も会った事もないファンが、そのアイドルのありとあらゆることを知り尽くしている…なんて言う話はよく聞く。しかし、私は一介の講師にしか過ぎない。そんな熱烈なファンなどいるはずもない。

 何とも奇妙な話であるが…さらに追い打ちをかけるようなことが…。その知人が聞いたという私に関わる話の内容であるが…いくつかは私も覚えているような内容なのだが、大部分が私の知らない内容なのである。例えば、私がやったとされていることが、私には全く身に覚えなのないことだったりしている。と思えば、当時の私の同僚がやった内容が、私がやったことになっていたりする(ちなみに、私は全く関わっていない)。逆に、私のやった功績が、他の人間の功績になっていたりする。いくつか、私が関わったとされる内容の話もチラホラあったが、極端に歪曲されていたりする。歪曲どころか、過剰すぎる演出が施されているというか…まあ、これがTVの報道なら一大事となっているようなレベルの演出である。演出どころか、虚偽と紙一重といっても差し支えない状況。一体、これはどういう事であろうか?

 私はそのAさんという人を知らない。いくつかの職場に在籍していた私であるが…どの職場でもAさんという人は覚えていない。もしかすると、部署が違ったり、私が退職する少し前に入ってきた人とかで、私と接点がほとんどない人だろうか?イヤ、それもおかしい。少なくとも、そのAさんという人は、知人に私のことを『 色々知っている 』と言っているのだ。部署が違ったり、私と接点がほとんどない人がそんな事を言うだろうか?そのくせ、私には全く身に覚えなのないことを、私が関わったとして話をしており、情報が錯綜しており正確ではない。早い話、間違った話をしているのである。私の事を知っている…。しかし、私には身に覚えの無い行動をしたと話している…。Aさんが話している〝私〟…それは、本当に〝私〟なのだろうか?

 そう、そのAさんとやらが知人に話している人物は、私ではないのではないだろうか?私をどこかの誰かと勘違いしている…。そうすれば、全て辻褄が合う。私がAさんの事を知らないことも、私がしたとされる内容が私には身に覚えのないことも、全て納得できる。きっと、Aさんはどこかの誰かと私を混同してしまっているのではないか?そうすれば、私が関わったとされていることが、同僚が関わっていた内容だったりすることも頷ける。私が関わったとされる内容の歪曲も、過剰すぎる演出も分からなくはない。どこかで誰かの情報と、私の情報がMIXされてしまい、そうなったのだろう。

 しかし…知人曰く『 確かにAさんは先生だと言っていますよ 』とのこと…。と言われても、私には身に覚えのないことが、わんさか情報として伝えられている。これは、どういうことだろう?あえて言わせてもらうなら『 私には全く身に覚えのない事をした私がいる 』『 〝私が知らない私〟を知る人物がいる 』ということになる。本人が知らない〝本人〟…。完全にミステリーである。以前『 見知らぬ学生 』というタイトルのブログで、やはり私の知らない〝薬進塾生〟が出没しているという話を書かせてもらった。そのブログの中で、その塾生さんと名乗る人物は幽霊か?座敷わらしか?と、その正体を究明しようとした事がある。しかし、今回は私自身である。幽霊でないことは確かであるし、座敷わらしではない事は言わずもがなである。

 やはり、ここは〝私が知らない私〟がいるとした方が、一番しっくりいきそうである。見知らぬ自分。今もどこかで何かしているのだろうか?前述の『 見知らぬ学生 』というタイトルのブログでは、最後にこう書かせて頂いた

 

 いずれにせよ…どうやら世の中には、私の見知らぬ、在籍確認のされない…イヤ、在籍さえもしていなかった〝薬進塾の塾生〟が存在しているようである。もうすぐ、怪談話がもてはやされる時期ではあるが…いささか早すぎる、何とも不思議な話である。

 

同じように書かせて頂くのなら…

 

 いずれにせよ…どうやら世の中には、私の見知らぬ〝私〟が存在しているようである。怪談話には季節違いの時期ではあるが…何とも不思議な話である。

 

といったところだろうか?

 見知らぬ自分に一言。あまり派手なことはやらないで欲しい。少なくとも、本家の私がその被害を被ることになりそうなのだから…。イヤ、もう被っていると言っても過言ではないような気がするのは、はたして気のせいだろうか?

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2016年1月16日 | コメントは受け付けていません。 |

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「 あけおめ。ことよろ 」に言霊は宿るか?

 先日、居酒屋で一杯やっていた時の事。その居酒屋には、まだ数回しか行った事が無いのだが、何気に店員の年齢層は低いご様子。で、店に来る人も、店員の知人・友人が多いみたいで、やはり年齢層が低いお客が多い。そんな居酒屋のカウンターで一杯やっていたのだが…飲んでしばらくすると、一人のサラリーマン風の男性が来店し、私の横に座ることに。この男性も店員と同じくらいの年齢で、やはりお若いご様子。そんな、サラリーマンの所におしぼりを持ってきた、これまた若い店員の女性が開口一番こう言った。『 あけおめ。ことよろ 』。常連なのか友達なのか、お互い結構気軽に話していたのだが…。その女性店員、いかにも可愛らしげに『 あけおめ。ことよろ 』と言っていた。

 言葉には〝言霊〟が宿る。言霊とは『 日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力 』のこと。つまり、言葉には〝力〟が宿っているという事である。『 日本において… 』と書いてあるが、言葉には力があるということは、何気に古今東西で語られている。私は、ブログを書くに当たり、あまり宗教的な部分には触れないように気をつけているのだが…新約聖書の中には『 はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。言葉は神と共にあった 』という記載がある。『 神 』について語ってしまうと、これまた宗教色が強くなってしまう(&とてもじゃないが、膨大な量になってしまう)ので詳細は避けさせて頂くが、少なくとも言葉にはそれ相応の力があるということを、表していることは確かである。

 言葉の持つ神秘的な力の詳細は、ここでは省かせてもらうとして…言葉に力があるということは日常生活からも窺い知ることが出来る。言葉で人を傷つけることもできるし、言葉で人を助けることもできる。たった一言の言葉で命を失った人もいれば、たった一言の言葉で人生が変わってしまった人もいる。そう考えれば、確かに言葉は力を持っている。

 『 ポジティブな言葉を使うと運がよくなる 』というのも、まさに言葉の力であろう。スポーツ選手は『 自分は出来る 』という言葉を何度も囁くし、ここ一番の勝負どころで『 大丈夫。上手くいく 』と自分に語りかけることが有益な事であるのは心理学的にも証明されているし、実際数々の成功者たちが実践してきた事でもある。言霊という言葉の力を借りて、成功してきたと言えるだろう。逆に〝忌み言葉〟というのもある。使うと縁起が悪いとされる言葉や漢字、言い回しのことである。こう言った言葉を避けることにより、不吉を回避しようとする。これもまた、言葉の力を信じるが故の行動であろう。

 私も愛読している、夢枕獏氏の代表作である『 陰陽師 』。ご存じ、陰陽師・安倍晴明が主人公である。その作品の中で安倍晴明が、親友である源博雅に『 名前はこの世で一番短い呪(しゅ) 』と語る場面がある。そして『 山とか海とか樹とか草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするに、ものを縛ることよ。ものの根本的な在様を縛るというのは名だぞ。たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる。この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何でもないということだ。存在しないとも言える 』と語っている。これも〝名前〟という言葉の力について語っていると捉える事ができる。宇宙人にとっては、ただの一生物でしかないが、そこに〝人〟と名前をつけることによって、その生物は〝人〟としての性質を持つことになる。つまり、その生物は〝人〟という呪にかけられ、それに縛られ、その呪のとおり、すなわち〝人〟として行動することになる。〝名前という呪〟にかけられ、そのように振る舞うようになる。この〝名前という呪〟こそ、言霊、すなわち言葉の持つ力なのではないだろうか?

 『 そんなものは迷信 』と切り捨てる人もいるかもしれない。しかし…何故、人には名前というものがあるのだろう?何故、名前を付ける時に良い漢字を用いたり、意味のある名前をつけたりするのだろう?不吉な漢字や忌み嫌われる漢字を使って、名前をつける人はまずいない。何故だろうか?『 そんな漢字を使ったら、その子供は不幸になってしまう 』と答えるはずである。良い人間に育って欲しい、幸せになってもらいたい。そういう気持ちがあるからこそ、良い漢字を使い、意味のある名前をつけているのではないか?これこそ、言霊の力を潜在的に認めている証拠ではないだろうか?

 きちんと用いてこそ言葉である。そして言葉には言霊が宿る。『 明けまして、おめでとう 』『 今年もよろしく 』これが正しい言葉である。残念ながら『 あけおめ 』『 ことよろ 』は言葉ではなく、字の羅列である。その証拠に『 あけおめ 』『 ことよろ 』に意味はあるだろうか?『 明けまして、おめでとう 』『 今年もよろしく 』には意味がある。すなわち、言葉としての力である、言霊が宿っている。『 あけおめ 』『 ことよろ 』は言葉ではない以上、そこに言霊は宿っていない。言葉には言霊という魂が宿っており、それが言葉の持つ力となる。その力を借りようが、借りまいが、言葉を使う人の勝手であるとは思うのだが…その恩恵を受けた方がいいのではと思うのは私だけであろうか?そして、恩恵云々は抜きにしても…『 あけおめ 』『 ことよろ 』と言われるよりは『 明けまして、おめでとう 』『 今年もよろしく 』と言われた方が嬉しいのではないだろうか?私はそう思っている。

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2016年1月10日 | コメントは受け付けていません。 |

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明けましておめでとうございます。

謹賀新年

  皆様におかれましては、お健やかに新春をお迎えのことと存じます。
旧年中は一方ならぬ御高配にあずかり誠にありがとうございました。
今年も何卒ご指導、ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。
皆様に益々ご繁栄がありますよう心よりお祈り申し上げます。

  平成28年 元旦

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2016年1月1日 | コメントは受け付けていません。 |

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