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何でそんなに〝負けたくない〟の?

 〝勝気〟という輩がいる。勝気とは何なのか?調べてみると…

 

人に負けまいとする気の強い気性であること。また、そのさま。

デジタル大辞泉より

 

 人に負けまいとする…なるほど、勝気な人間というのは、何か事あるごとに挑戦的である。何か聞いてくるので答えると…『 勝った 』などと言ったりする。こちらは、ただただ『 ? 』。一体何で勝負したのだろう?

 勝気な人間に聞きたいのだが…何を根拠に勝ち負けを決めているのだろうか?一度、ある勝気な人間(女性)と話している時、『 何を目安に勝ち負けを決めるの?勝ち負けを決められないモノもあるんじゃない?例えば、映画みたいな芸術作品とか…どうやって勝ち負けを決めるの? 』と私が言うと…。その女性一言『 たくさん人が入った方が勝ちなんじゃないですか 』。この時はたまげた…。芸術作品であろうとも、勝気な人間にとっては、勝ち負けを判定することなど容易いものなのだろう。まあ、とんでも判定であることは間違いないが…。そう、この程度なのだ。所詮、自分目線基準での相対的な判定でしかないのである。こんな人間の手にかかってしまえば、どんな名画であろうと、どんな名曲であろうと、自然の美しさであろうと、勝ち負けをつけられてしまうことになる。想像を絶する凄さであることは間違いない。

 何故そんなに勝ち負けにこだわるのだろうか?ここで『 勝った人が羨ましいんだろ? 』とか『 負けたことが悔しいでしょ? 』という方は、タイトル〝そんなに悔しがらせたいのか?〟のブログをご一読願いたい。閑話休題。何故そんなに勝ち負けにこだわるのか?イヤ、勝ちたいのだろうか?私が見てきた限り、答は一つ。不安だから。不安であるから、何かと比較しては『 私の方が上。私より下の人がいる。だから私は大丈夫なんだ 』という所に駆け込みたいだけのようである。自己満足もあると思う。他と比較して『 自分って優れている 』と思い込みたいのだろう。まあ、自分目線基準による優越なのだから、間違いなく自分優位に働く判定ではあるのだが…。それでも、自分が優れていると思い込みたいのだろう。これも、『 自分は優れていないのではないだろうか? 』といった、不安から生じたものにすぎないのだが…。不安じゃない人、優れている人(他と比較しての〝優れている〟ではなく、正真正銘に優れている人)に限って、勝ち負けにはこだわらない。というか、そんなものなど心中、眼中にないといった所。実際、私の知っている優れた方、人として素晴らしい方は、絶対といっていいほど勝ち負け云々を口にしない。というか、そんなこと全くと言っていいほど気にしていないようである。ただただ、自分の行ったことに対し、自分自身の評価を下しているだけである。そしてそれを真摯に受け止め、残念がったり、喜んだりしている。そこには、人としての純真さが感じられるし、そういう顔つきをしているのも確かである。そう、全ての事において勝ち負けなど存在するはずがないのである。

 勝気な人間の言う所の『 勝ち 』とは『 何かと比べての勝ち 』であり『 負けが存在するからこその勝ち 』である。そこには、白黒の判定しか存在せず、グレーゾーンなど存在しない。何か事が起こった時、全てにおいて、勝ち負けの評価が下されるのかというとそうではない。どちらが勝ちの事もあれば、どちらも負けの事もある。イヤ、そのどちらも存在しない事さえある。全てのことが『 良い・悪い 』『 正義・悪 』『 勝ち・負け 』等の二極化した判断で賄えるはずなどないのだ。だからこそ、あえて勝ち負けを決める時には、基準を設けているのである。『 今回においては○○となった方を勝ちとしよう 』と…。それが無ければ勝ち負けの判断がつかないからである。そして、勝気な人間は、その判断基準を自分目線で勝手に決めている。そして、ことあるごとに『 自分が勝った 』という判定を生み出そうとしている。イヤ、正確に言うならば…〝自分が勝ったという判定が出来るような基準〟を勝手に設定しているだけである。自分が勝ちとなるために基準を設ける。そして、誰かと比較しては、自己満足の勝ちに酔いしれている。愚の骨頂も甚だしいように思うが、勝気な人間としては、そこまでしても勝ちを得たいのだろう。まさに『 人に負けまいとする気の強い気性であること 』は確かである。

 往々にして勝ち負けにこだわる人間は視野が狭い。物事全てを『 勝ち・負け 』でしか見られないのだから、視野が狭いのも当り前であろう。視野が狭く、他の事物が目に入らないから不安になるのだ。だからこそ、何かと比較しなければ、自分を保てないのである。『 ○○には勝っている。だから自分は大丈夫なんだ』と…。どうせ比較するなら、大きなものを相手に…とも思うのだが、それではあまりの格差がありすぎて比較にならない。イヤ、そんな自分が勝てないような相手とは比較しないのが、勝気の人間の特徴。自分が安心するために、『 自分が勝つような勝負 』をしているのだから、それも致し方ないことである。そこで、自分と同程度か少し劣るぐらいの輩と比較して『 勝った・負けた 』のセコイ勝負をしているのが現実である。まあ、勝気な人間なら、例え格差がありすぎる大物であっても、何らかの自分目線の判断基準を設けて『 だから、私の勝ち 』とやるのであろうが…。

 逆に言うならば『 勝ち負けにこだわっている時は、不安になっている時 』でもある。不安だからと、愚かなる自分目線の基準で疾しい勝ちを得るのではなく、しっかりと現実を見て不安を解消していくべきではないだろうか?そうすれば、前述の本当に優れた人達のような、人としての純真さや、そういった顔つきを手に入れることが出来ると思う。そちらの方が、自己満足だけの疾しい勝ちより、よっぽどいいものだと私は思っている。

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2015年11月30日 | コメントは受け付けていません。 |

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逃げ出すのは簡単。

 誰にでも逃げ出したくなる時はあります。嫌な事があった時。精神的なダメージを受けた時。悔しくて、悔しくてしょうがない時。思い通りに行かない時、行かなかった時。腹立たしい時。プライドが傷ついたとき。悲しみにくれる時…etc。そして、そんな自分を誰かが笑っている、見下していると思った時。なんで自分がこんな目に合うんだと思ってしまう時。そんな自分には、もう道が無いんじゃないかと思ってしまう時。そんな時、人は全てを投げ出して、逃げ出したくなります。そんな経験は誰にでもあるはずです。もちろん私にもあります。

 『 逃げ出す 』ことは芳しいことではありません。『 そんなこと位分かっている 』という人。では、何故『 逃げ出す 』ことは芳しくないことなのでしょう?これに答えられる人は少ないと思います。理由はいくつかありますが、中でも大きいのは…『 逃げ出す 』ということは、自分が決めた何かを捨てることになるからです。自分で何かを決め、何か事を始めた時。当然ながら、それを遂行するという責任が付きまとうことになります。他人に迷惑を云々…ではありません。あくまでも『 事を遂行することを選んだ自分 』に対しての責任です。その責任を放棄すると、信用を無くすことになります。そう、身への頼…自信というものを無くすことになります。逃げ出すことは、自信を無くすことでもあるのです。

 何故、逃げ出したくなるのでしょうか?前述のことから考えると、往々にして〝自分の思い通りに事が進まなくなったとき〟が逃げ出したくなる時ではないでしょうか?『 嫌な事 』というのは、自分の思ってもいなかったことが起こった時に生じます。精神的なダメージを受けるのも、悔しいと思うのも、腹立たしくなる時も同じです。思い通りではなかったために、プライドが傷つくこともあれば、悲しみにくれることもあります。そう、逃げ出したくなるのは『 自分の思っていた道のりを進もうとしたとき、何かが立ちはだかって、思い通り進めない 』ときに起るのです。道を進もうとした時、壁があって進めない。どんなに壁を壊そうとも、びくともしない。己が知る限りの方法を試してみても、己の全力を出してみても、びくともせず壊れない壁。己の力が通じないことに、ただただ絶望し…そして太刀打ちできない壁に向き合っていること、その向こうにある進みたい道に進めないこと…その苦痛から逃れるために、人はその壁の前から逃げ出そうとするのです。

 しかし…そこからなのです。もうダメだと思ったとき。そこからが本当の始まりなのです。逃げ出したくなる気持ちは分かります。でも、逃げ出したら何も手に入りません。これは、確実なことです。壁の前から逃げ出せば、その向こうにある道に進むことが出来ないのは当たり前の話です。では、どうすればいいのか?やはり、壁の向こう側にある道に進みたいのならば、壁を壊さなければなりません。己の全てを出しても壊れなかったことは分かっています。それでも、自分で壊さなければならないのです。今をときめく松岡修三さんの言葉に次のような言葉があります。

 

 100回叩くと壊れる壁があったとする。

 でも、みんな何回叩けば壊れるか分からないから、 90回まで来ていても途中であきらめてしまう。

 

 非常にいい言葉だと思います。叩いてみて下さい。次の一回で壊れるかもしれませんから…。逃げ出してしまえば、壁は壊れず残ったまま、向こうに行くことは出来ません。ただ、ただ叩いてみる。己のできる限りのことをやってみる。やってみてダメでも、やってみる。そうすれば、その壁が壊れる時がやってきます。あと1回、イヤ5回、10回かも…でも叩き続ける限り、その壁の崩壊が迫ってきていることは確かなのです。地べたに這いつくばって、ボロボロになって叩いたっていいじゃないですか?人から笑われようと、『 あれ位の壁… 』と嘲笑されようといいじゃないですか?目的は『 壁の向こうの道へと進む 』ことではないのですか?。それが、第一なのではないですか?初心を思い出して下さい。何故、その道を選択したのかと?そして、何故その道を進もうと思ったのかを?そうすれば『 壁の向こうの道へと進むこと 』だけが第一であって、他の事など目に入らなくなりますから。そして、分かるはずです。笑われようが、バカにされようが、ボロボロになろうが、プライドが傷つこうが、そんなことは関係ない。道を進むことだけが目的なのだと。

 壁に突き当たった時。行きたくない、行きたくないと思っても行くことが重要なのです。やりたくない、やりたくないと思っても、やってみることが大事なのです。それが『 壁を叩く 』という事だからです。だから、逃げ出さずに叩いてみて下さい。ボロボロになってでも叩き続ける姿の方が、スマートに逃げ出すよりも、カッコよく見えると思いますよ(まあ、見栄えではないですけれど…)。そして、叩き続けて壁が崩れた時…一瞬ハッとするはずです。『 壊れた… 』と…。そして、こう思うはずです。『 思っていたよりも、結構簡単に崩れたな… 』と…。さらに、崩れた壁を見て、こう思うはずです。『 手ごわいと思っていたけど…こんなものだったのか 』と…。そして、そういう思いが持てるようになること。それを〝成長〟と呼ぶのです。

 

 逃げ出したいのは戦っているから。(作者不詳)

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2015年11月25日 | コメントは受け付けていません。 |

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ラーメンの上の玉子は如何に?

 以前、〝目指せ!町のラーメン屋!〟というブログの中で、以下のようなことを書かせて頂いた。

  私は、本ブログを書くにあたっていくつかの決め事をしている。その中に『 ラーメンのことを書かないこと 』というのがある。それを書いてしまうと、単なる私の趣味だけの話になってしまう可能性が大であり、とてもじゃないがものすごい執筆量となってしまうことが目に見えているからだ)。~中略~ だから、ラーメンのことは書かないようにしている。

 その時も『 …と言っても、今、ラーメンのことを書いているじゃないですか 』という人に対して断わりを入れさせてもらったのだが…今回もラーメン自体のことは書くつもりはない。今回書かせて頂くのは〝ラーメンの上に乗っているモノ〟について書かせて頂きたいのである。

 最近のラーメン屋さんは、先に食券を購入するタイプのお店が多いのだが…やたら、券売機のボタンが多い。そんなにラーメンの種類が多いのかと思うのだが…確かにラーメンの種類も多いのだが、そのトッピングの多さには驚かされる。やれネギチャーシューやら、やれ味玉やら、やれ辛ネギやら…昔はこんなにトッピングがあっただろうか?いや、その前にトッピングなぞあっただろうか?今と同じように〝トッピングされたラーメン〟はあった。それとて五目ラーメンや天津麺といった、〝中華料理の1種〟としてのラーメンであり、トッピングされているという感はなかった。トッピング感があったのは、いいところワンタン麺とチャーシュー麵くらいのもの。さらに、それとて〝中華料理屋さん〟での話であって、〝ラーメン屋さん〟の話ではなかった(ちなみに私の出身である北海道では、昔はラーメン屋さんには醤油・塩・味噌のラーメンとチャーシューメンしかメニューがない店がほとんどであった)。今は、『 〝トッピングされていないラーメン〟+〝トッピング〟 』をされる人が何気に多いようである。ラーメン屋さんで注文待ちしていると、『 醤油ラーメンに味玉 』だとか『 味噌ラーメンにネギチャーシュー 』などと言った注文が、何気に耳に入ってくる。どちらかというと、トッピングなしでラーメンを注文する人の方が少ないようだ。そして、よく耳にするトッピングが〝味玉〟である。

 一言断わっておくが、私は大の玉子が好きである。子供の頃『 好きな食べ物は? 』と聞かれたら『 ゆで玉子 』と答えていた。今も、居酒屋に行くとだし巻き卵があれば必ず注文している(ただし、既製品のニセだし巻き卵を出す店が多くて辟易しているのだが…)。もちろん、味玉も大好きである。味玉を酒のつまみにすることもよくある。しかし…ラーメン好き、そして味玉好きな私ではあるが、ラーメンのトッピングに味玉を頼んだことは一度もない。まあ、ラーメンにトッピングをしたことも一度もないのだが…。

 私が子供の頃は、ラーメンの上に乗っている玉子は、全て普通のゆで玉子(これ以降、ゆで玉子と表記させて頂く)であった。もちろん、トッピングして乗せた玉子ではない。ラーメンの一部として、予め乗っかっている具材である。最近の〝ラーメンの上〟は、今一つ寂しい気がするのは私だけであろうか?以前のラーメンには、ゆで玉子はもちろん、シナチクやチャーシュー、ナルトなんかが所狭しと並んでいたような気がする。今のラーメンは、トッピングすることを考えてのことか、ずいぶんその上が寂しくなったような気がするのだが…そう、今は、その上にレギュラーメンバーとしてゆで玉子を乗せたラーメンに、お目にかかることはほとんどない…。

 人それぞれ好みがあるから、それについてとやかく言う気はない。しかし、あえて言わせていただくならば、私としては、ラーメンには普通のゆで玉子の方が合うような気がする。確かに味玉は美味しいし、好きである。しかし、味玉自身が美味しいのであって、ではラーメンと一緒に食するとどうかというと、どちらも自分の味を前面に出しすぎてしまい、今一つ味の調和が無いように思えるのである。ご存知のように、ゆで玉子は玉子本来の味はともかく、味はついていない。だから塩をかけて食べる。私は、その味付けがなされていないゆで玉子に、ラーメンのスープの味が加わると、何とも言えない美味しさを醸し出しているよう思えるのである。派手な味ではないが、ラーメンのスープとゆで玉子とのコラボレーションで成し得る、素朴な味。これも、ラーメンを堪能する一つの手ではないかとも思っている。だからこそ、ゆでたまごは、昔からラーメンの上のレギュラーを保てたのではないだろうか?

 前述のように、最近はゆで玉子がその上でレギュラー化されているラーメンに、お目にかかる機会はほとんどない。それでも『 当店のラーメンは、味玉ではなく普通のゆで玉子です 』といった内容を掲示しているラーメン屋さんを、時たま見かけることがある。そんなラーメン屋さんに入ったなら、一度、トッピングなしで、ゆで玉子とラーメンスープのコラボレーションを味わってみるのも悪くないと思う。前述のように、人それぞれ好みがある。だから、感じ方はこれまた人それぞれであると思うが…私としては知っておいて悪くない味だと思う。少なくとも、ラーメン好き、玉子好きのどちらかであるのなら…もちろん、両方好きならなおさらのこと…そう、思っている次第である。

 

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2015年11月17日 | コメントは受け付けていません。 |

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鯛は目出度い魚か? ― 所変われば、イジメも消える。あなたの存在価値も変わる ―

 鯛は、目出度い魚である。日本では…。〝日本では〟ということは、当然、『 日本ではない所では目出たくない場合もある 』ということになる。今は亡き父が、よく私に『 中国では、鯛は死体を食べる魚だといって嫌われている 』と話してくれた。調べてみると、確かに中国では、鯛は死人を食べる不吉な魚とされているとのこと。鯛は、あごが強く歯が丈夫なため、甲殻類もバリバリと噛み砕いて食べるそうで、そのため欧米では卑しい魚とされているそうだ。フランスでは〝どん欲な魚〟として下魚とされており、イギリスでも評価は同様とのこと。アメリカでは、貪欲な魚というイメージがあるためか、スポーツフィッシングの対象とされているが、食べることはあまりしないそうである。さらに、真鯛なんかは作物の肥料にしてしまうとのこと。やはり、鯛という魚の評判は、日本と諸外国では相当異なるようである。

 今回のブログで『 何故、イジメは起きるのか? 』『 何故、イジメはなくならないのか? 』等のイジメ問題について、言及するつもりはない。イジメを行った人間や、教育委員会、学校の職員の方々にも言及するつもりはない。このブログの中で私が言いたいことは『 イジメでの自殺 』についてである。

 イジメによる自殺の報道が止むことは無い。何年も、何十年も、絶え間なくこの報道は続いている。自殺するのは中学生や高校生、場合によっては小学生であったり、いわゆる〝子供〟である。何とも痛ましい限りである。一言、言わせて頂きたい。『 死なないで欲しい 』と…。もしかすると『 自殺をする人の気持ちが分かるのか云々 』といった意見が出てくるかもしれない。しかし、気持ちが分かる云々ではないと思う。死ねば誰かが悲しむ。人を悲しませるのはよくないことである。イジメによる自殺でお孫さんを無くされた方が、インタビュー等で話をされたりしているが…何ともやりきれない気持ちになる。誰に聞いても孫は可愛いという。私が知る限り、イジメで自殺をした子供達は、ことさら、おじいちゃん・おばあちゃんに対し優しい子であったようである。泣きながら『 いい子だった 』と語るお年寄りを見て、心痛まぬ人はいないだろう。そんな自分たち想いの孫が、自ら命を絶つのだ。おじいちゃん・おばあちゃんの悲しみがどれほどのものかは、想像を絶するものであろう。もし、本当におじいちゃんやおばあちゃん、もちろん父母のことが好きならば、その人達が悲しむようなことはするべきではないと思う。人を悲しませることをしてはいけない。ましてや、それが自分の好きな人ならば、ことさらである。自殺報道がある時『 自分の命を大切にして欲しい 』といった意見をよく聞く。確かに、その通りである。しかし、それ以外にも伝えなければならない大切なことは、山のようにある。その中の一つが『 人を悲しませること、特に自分を想ってくれる人を悲しませてはいけない 』ということである。自分の命も大切にしなければならないが、自分を想ってくれている人も、同じように大切にしなければならないのである。

 自殺する子供は『 もう先が無い 』と思っているのだろう。このまま何も変わらない。この状況がいつまでも続くのだと…。しかし、そんなことは無い。およそこの世界における状況など、決して不変のものではないのだ。そして…鯛のことを思い出して欲しい。諸外国では忌み嫌われている鯛も、日本ではめでたい魚である。外国の方々からは、どん欲な卑しい魚と嫌われていても、日本人にとっては縁起の良い、慶祝事には欠かせない大切な魚なのだ。人間もコレと同じである。環境や付き合う人間が変われば、評価など一変するものである。子供たちにとっては、己が関わる現実世界など狭いものであろう。(子供たちの)人間関係とて、同じである。そこで、どのような評価をなされようとも、どのような接し方をされようとも、それはあくまでも〝限られた一部の環境〟〝限られた一部の人間関係〟の中だけのモノでしかないのである。現在、どんな評価や接し方をされようとも、それは限定された環境、限定された人間関係の中だけでの評価や接し方であり、それ以外の環境や人間関係であれば、180°異なる評価や接し方を受けることになる場合の方が圧倒的に多いのである。なのに…自分を受け入れ認めてくれる広い世界や、広い人間関係を知りもせずに、その中のほんの一部の歪な環境や、ゆがんだ人間関係だけをすべてと捉え、命を絶ってしまうのは、何とももったいないことではないだろうか?『 ここでは自分は嫌われている 』『 あの人達から、自分は嫌われている 』そう思った時、鯛のことを思い出して欲しい。そして『 自分が好かれる環境がある 』『 自分を必要としてくれる人達がいる 』と考えて欲しい。いつかきっと、そういう環境に導かれ、いつかきっと、そういう人達と出会うことになるのだから。あなたを必要としている環境や、あなたを必要としている人達は、今もどこかであなたと出会う事を心待ちにしているはずである。それを期待しながら、生きていって欲しい。そう思っている所存である。

 

種はいきなり芽を出さない。

暗く冷たい土の中で、長く過ごすことにより、初めて芽を出すようになる。

そして、やがて花を咲かせ、実をつけるようになる。

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2015年11月9日 | コメントは受け付けていません。 |

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マイナス発言をする人とは付き合わない方がいい。

 世の中には、事あるごとにマイナス発言をする人間と言うのがいる。まあ、一人でぼやいているだけなら放って置けばいいのだが、こと人の言動に対してマイナス発言をする輩は厄介である。こちらがその輩相手に話をしている訳ではないのに、勝手にマイナス発言を発して来るからたちが悪い。

 以前、何人かの仲間と飲んでいた時。皆、最終電車間近の時間になり、慌てて店を飛び出すことになった。私は、次の日が仕事という事もあり、出来れば自宅に帰りたい状況であった。『 まあ、間に合わなかったら、どこかに泊ればいいか… 』位に考えていたのだが…皆で駅につき、やれ私は○線だ、やれ自分は△線だと話し合い、私も含め、どうやら全員最終には間に合いそうだねと盛り上がっていると…その中の女性の一人が、『 ○○(私の名)は間に合わないよね 』と笑顔でぼそりと言った。フリーズする一同。唖然とする私をよそに、怪訝な顔でその女性を見つめる他のメンツ。今、皆で『 間に合いそうだ、良かったね 』という内容で盛り上がっているのだ。その中でのこの一言…さらに言わせて頂くなら、私は出来る限り自宅に帰りたい状況にある。次の日に仕事があるからだ。そのことは全員知っているはずである。なのに、この一言…。しかも、何故、笑顔で…。こんなマイナスの一言を発して、何が楽しいのだろうか?

 以前、勤めていた所での話。その時、私はあるプロジェクトを進行していたのだが…。ある日、チョットしたトラブルが起こった。まあ、よくあるトラブルで、トラブルと言えるほどのものでもない、たわいもないものだった。ご存じのように、仕事をしていれば、何らかのトラブルは常につきものである。ましてや、新規プロジェクトの進行となれば、トラブルの無い方がおかしい。プロジェクトの大きさにもよるが、トラブルの十や二十は当たり前の話である。で、当然の如く、それ相応に処理していた(まあ『 処理した 』と言えるほどの行動でもなかった)のだが…ある女性が『 せっかく、うまくいっていたのに… 』『 また一からやり直しだよね 』などと言っている。ちなみに、この女性はそのプロジェクトには一切関わっていないことを付け加えておく。『 ? 』となる私。何度も言わせて頂くが、別に大騒ぎするトラブルでもなければ、もちろんその女性が言うような、 一からやり直さなければならないようなトラブルでもない。プロジェクトを進めていく上で、ある種、出現が予測出来るトラブルである。当然、想定内ということになる。なのに大騒ぎしている女性…。しかも…これまた顔が笑顔…。『 どうするの? 』『 あと一歩のところだったのに… 』などと、言っていることは〝切羽詰まっているが如くの内容〟なのだが、どういう訳か顔は笑顔。ちなみにその後、このプロジェクトは、何の支障もなく成し遂げられ成功したことは言うまでもない…。

 何故『 終電、間に合うよ 』と言えないのだろう?何故『 プロジェクトには支障ありませんよ 』と言えないのだろう?そう言ったところで、言った本人には何の支障もないはずである。これが、本当に終電ギリギリののるかそるかの状態ならまだ分からなくもない。プロジェクトの件にしても、そのトラブルで、プロジェクトが木っ端みじんに吹き飛んでしまいそうな状況なら分からなくもない。しかし、前述のように、どちらも、それほど危機的な状況ではないのだ。なのに、何故わざわざ、マイナスの結果が出ているかの如く、マイナス発言を投げかけてくるのだろうか?

 前述したのはほんの一例かもしれないが、さしたることでもないのに、わざわざマイナス発言をしてくる輩がいるのは確かである。『 上手くいかないよ 』 『 失敗すると思うよ 』 『 そんな簡単にいくはずがない 』 『 無理だと思うよ 』等、数え上げればきりがない。なぜ、そういった輩はマイナスの言葉を投げかけてくるのだろうか?仮に、こちらがその通りのマイナスの結果になった所で、その発言者には何の関わりもないはずであるが…ここが一つのポイントではないだろうか?恐らく、自分以外の人間が上手くいくことが面白くないのではないだろうか?もっと、ぶっちゃけて言えば、〝他人がうまくいくことををやっかむ人間〟なのではないだろうか?なるほど、そうすれば前述の〝マイナス発言時の笑顔〟も頷けなくは無い。他人が上手くいくのが面白くない、他人が困っているのが楽しい…ならば、前述の状況での笑顔も頷ける…。

 何故、『 大丈夫だよ 』『 上手くいくって 』と言えないのだろう?そっちの方が、言われた相手も喜ぶのではないだろうか?もちろん、ぬか喜びさせてはいけない状況というのもあるが、そういう状況でもない限り、相手が喜んでくれる発言の方がいいと思うし、第一、ぬか喜びさせてはいけない状況であっても、注意した方がいい旨の発言をすればいいだけの話であって、わざわざマイナスの発言をすることは無いと思う。相手が喜んでくれる言葉を発する方が、発言した方もされた方もよっぽどいい気持ちになると思うのだが…。まあ、他人が上手くいくのが面白くない、他人が困っているのが楽しい人間なのだから、『 他人が喜ぶ嬉しさ 』など分かるはずもないのだろうが…。

 ブログで何度も書かせてもらっているが、どうせ付き合うなら、楽しい人間と付き合った方がいい。マイナスの言葉を吐き、他人の成功を不愉快に思い、他人が困っていることを楽しむ輩なんぞ、ろくな人間ではない。そんな人間と付き合ったところで、それこそマイナス以外の何ものでもない。嫌な人間と無理に付き合うことは無い…これは何度もブログで書かせてもらっていることであるが…マイナスの言葉を発する人間とも、お付き合いは避けた方がいいと私は思っている。

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2015年11月1日 | コメントは受け付けていません。 |

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