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ポイ捨て。

  ポイと捨てる 』を略した名詞形で、タバコの吸殻や空き缶、ガムなどを無造作に道路や道路脇、公園など公共の場に捨てることを指す(日本俗語辞書より)。

 

 最近、ポイ捨てされたゴミが目立つ。煙草の吸殻はもちろんのこと、小さなゴミもよく見かける。東京都では、ポイ捨てに関するキャンペーンや条例を施行している区もあるが、そのようなキャンペーンや条例があるということは、裏を返せば『 そういったキャンペーンや条例を必要とする状況にあった 』ということである。早い話、自治体はポイ捨てが多くて困っている、という事である。

 以前、講師とは別の仕事の上司と話していた時、こんなことを話してくれた。その上司と新人(まあ、私の後輩に当たることになる)が、駅のホームを一緒に歩いていた時のこと。その新人は、パックの牛乳をストローで飲みながら歩いていた(この時点でかなり問題あるのだが)そうなのだが…飲み終わったのか、その牛乳パックをホームの壁側(ホームの線路とは逆の部分)にポイと捨てたそうである。もちろん、そこはゴミを捨てる場所ではないし、ゴミ箱に捨てた訳でもない。単なるホームの端に、その飲み終わった牛乳パックを捨てたのである。ビックリした上司。目を丸くしながらも『 オイッ!そこに捨てるのかよ!? 』と言ったところ、その新人一言。『 ああ、誰かが片付けてくれますよ 』。

 これが、ポイ捨てをする人間の心情であろう。誰かが片付けてくれる…。もっと詳しく言うならば『 誰かが片付けてくれるから、自分は片付けなくてもいい 』であろう。自分が出したゴミは、自分が片付ける。これは人として当たり前の行為である。動物は、自分がゴミ(食べ残しや糞尿の類)を出しても片付けない。中には、ある程度は片付ける動物がいない訳でもないが、基本的には片付けない。つまり、出したゴミを片付けるという行為は〝人間だけが行える行為〟ということになる。〝人間だけが行える行為〟をしないということは…人間性を疑われても致し方ないということである。その上司も、『 誰かが片付けるとか…そういう問題じゃないよな… 』と苦い顔をしながら私に話していたが、全くもって同感である。誰かが片付けるから、ポイ捨てをしていいなど、言語道断の話である。

 以前、とある大学の先生が『 昨今は校内が汚くて困っている 』と話してくれた。どう汚いのかと聞いてみると…廊下や階段、ロビーなどに、空き缶やペットボトル、食べ物の包装紙等がそのまま置き去りになっているとのこと。以前はそんなことは無かったのに…と、やはり苦い顔をして私に話してくれた。しばらくして、その先生を尋ねた時、その件について触れてみたところ…最近はキレイになったと話してくれたのだが、どうも今一つ浮かない顔をしている。『 ? 』と思いつつも『 良かったですね 』と言うと…学則等で厳しくポイ捨てを禁じたとのこと。さらに、学生課等からも厳しいお達しが下されたらしく、ポイ捨て禁じの掲示も各所にされているご様子。先生も話をされながら苦笑いをしていたのだが…何とも不思議というか、おかしな、そして情けない話である。そこまで徹底しなければ、無くならないものなのだろうか、ポイ捨てというモノは?

 どうも昨今のポイ捨てをしている人間を見ると、条件反射のようにポイ捨てをしているよう見受けられる。最近は、ポイ捨て禁止の啓蒙活動も、その効果が成せなくなってきているとのことであるが、それもそうであろう。『 誰かが片付けてくれる 』と考えるなら、まだポイ捨てに関してワンクッションある。ところが、そのワンクッションもなく、ポイ捨てしているのである。歩く時に『 右足を出して、次は左足を… 』などと考えないように、ポイ捨てという行為自体が自然となされているのだ。啓もう活動など効力を発揮しないのも当たり前だろう。

 誰かが片付けてくれる…だから捨ててもいい。この考え方が言語道断であることは確かである。ゴミは出した人が片付ける…それが、当然の行為だからである。第一…その行為、つまりゴミを片付ける、ゴミ箱に捨てるという行為自体、そんなに難しいことだろうか?単に、ゴミ箱まで持って行って捨てればいいだけの話ではないだろうか?小さな子供でも出来る行為である。何が難しいのだろうか?ゴミ箱がそばになければ…ゴミ箱がある所までは、自分が持っていればいい。それが〝ゴミを出した人間〟の責任というものである。その責任を全うできないのなら、ゴミなど出さなければいい。そう、ポイ捨てする人間は〝ゴミを出す権利が無い人間〟だと思う。

 よく『 片付ける人の気持ちになれ 』という言葉を聞くが…その言葉が心に響く人間は〝片付ける立場になったことがある人間〟だけである。何の考えもなく、平気でポイ捨てをするような人間は、残念ながらその立場になったことは無いだろう。イヤ、無いからこそポイ捨てをするのである。打てども響かぬから、条例や法で半ば強制的に、 響かせねばならぬことになる。前述のように、出したゴミを責任もって片付けるのは人間だけが行える行為である。それを、条例や法をもって強制させなければならないとは…何とも悲しい話である。

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2015年10月26日 | コメントは受け付けていません。 |

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 「 嫌われないように 」 は捨てなさい。

 私は本が好きで、最低でも週に2、3回は必ず書店に行っているが、最近、本のタイトルでよく見かける言葉がある。どうやら、何冊もの本でこの言葉が使用されているようだ。その言葉は『 良い人をやめる 』といった言葉。チョット調べてみても、タイトルにこの言葉を使用している書籍は10冊ほどあるようだ。調べて出てくるのは、新刊か発刊されてそう日が経っていないものだろうから、発刊からある程度時間が経過した書籍も考えると、『 良い人をやめる 』という言葉のタイトルにつけた書籍は、結構な数になると思われる。そういった書籍の何冊かを、軽く立ち読みしたのだが…何気に書いてあるのが『 嫌われないようにするのは止めなさい 』『 嫌われないために我慢するのは… 』『 嫌われてもいいと思うように… 』『 嫌われたくない症候群を… 』といった内容が結構書かれている。

 どうも、日本には昔から『 人に嫌われてはいけない 』という悪しき考え方が巣くっているようである。『 村社会の中で生きていくためには、嫌われてはいけない 』という腐敗した考え方が、今もって日本人の心のどこかにこびりついているようである。『 皆と上手くやらなければいけない。例え自分自身を押し殺しても大衆の中で嫌われずにやっていかなければならない 』この日本人の根底に根付いている悪しき因習は、現在においては断ち切らなければならないものである。

 昔は致し方ない部分もある。昔は自分の居住している地域から出ることもできず、外部からも何の情報も入らず、人の入れ替わりもなく、一生同じ顔ぶれの人間達と共に生きていかなければならなかった。自分どころか、自分の子供・孫にいたるまでも、その地域で同じ顔ぶれの人間達とともに生きていかねばならない。そんな状況の中、自分を主張することなどできるはずもない。自分自身を押し殺すことも必要であるし、嫌われれば気まずいどころか、それ以上の負荷を負うことにもなる。集団の中で生きる以上、〝個〟を殺すことが必要とされていた時代があったのだ。

 しかし、今やそうではない。自分の居住している地域から、毎日のように違う地域に出ていくのは当たり前。出ない人間の方が珍しい。外部からの情報など、こちらが何もしなくても勝手に飛び込んでくる。一日何人の人間に接するかなど数えるのも一苦労。職場だとて、人の入れ替わりなど日常茶飯事である。なのに、何故『 人に嫌われてはいけない 』という悪しき因習だけが、深く根づいているのであろうか?

 答はそんなに難しくない。集団を仕切る人間が、自分のいい用に事を運ぼうとした時、その集団に属する人間達が個を主張することが支障となるからである。早い話『 私の思い通りに事を運びたいのだから、黙っていなさい 』といったところである。何のことはない、単なる〝独裁者〟。また困ったことに、そういう人間に媚びて、やはり自分のいい様に事を運ぼうとする〝コバンザメ〟がいるからまた厄介である。そして、その独裁者は集団の中で声高らかに、自分がやりたい事を口にする。コバンザメもそれに賛同する。そして…異を唱える人間に圧力をかける。『 皆がいいと言っているのに、なぜ反対するのか? 』と…。さらには『 チームワークを乱すのか? 』などと〝誤った使い方のチームワーク〟という言葉を出してくる。現代では、チームワークと言う言葉は間違って使われる場合が圧倒的に多く、個を封じ込めるための悪しき言葉となっているよう思える。私が知る限り〝チームワーク〟という言葉を出してくる輩にはろくな人間がいない。ブラック企業と言われている企業でも、この言葉がよく使われているとのことである。この言葉を多用する人間は信用できない場合が多いようである。閑話休題。かくして、個を主張する人間は、独裁者チームによる〝チームワークを乱す悪しき人間〟の烙印を押され、そして暗黙の了解のうちに、そういった人間は嫌ってもいい事とされる。そう、個を主張する人間は『 嫌っても良い人間 』であり『 嫌ってもいい人間=いじめたり嫌がらせをしてもいい人間 』という腐敗しきった人間のシステムが動き出すことになる。このシステムこそ、日本に根付いている古き悪しき因習なのである。

 私は、何度もブログで書かせてもらっているが…嫌われてもいいのである。というか、普通に生きていれば人から嫌われることもある。例え、こちらに100%非が無いように生きていたとしても、嫌われることはある。当たり前である。人には好き嫌いがあるのだから。なのに、一昔前の悪しき因習である『 嫌われてはいけない 』に縛られていると…自分のいい用に事を運ぼうとしている輩の餌食にされてしまうことになる。そういう輩は〝嫌う〟ということが武器になると思っている輩である。『 嫌ってもいい人間=いじめたり嫌がらせをしてもいい人間 』と思っているのだから。どのような結果になろうとも、餌食にされた人間はつらい目に合うことになる…。そういう輩と関わりにならないためにも、『 嫌われてはいけない 』『 良い人でいなければならない 』という考えは即刻捨てた方がいい。もちろん、あえて嫌われることをする必要はない。大切なことは『 個を持つこと 』そして『 個を主張する 』ことである。それをしっかりと持っていれば、前述のような厄介な輩も近づいてくることは無いであろう。それに…これも何回もブログで書かせてもらっているが…そんな厄介な輩からは嫌われて、そばに寄って来られない方が、色々といいのではないだろうか?少なくとも、私としてはそちらの方が気が休まることは確かである。

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2015年10月20日 | コメントは受け付けていません。 |

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考えることが大事。

 学習指導の時、私が口やかましく言っていることが『 分からなければ考えればいい 』ということ。昨今は、考えることをしない、考えることを嫌う学生さんが多いようで。残念ながら、試験というものは考えて解くもの。考えることをしなければクリアすることは難しいし、考えることが嫌いなようでは試験対策には向いていないとしか言いようがない。当たり前の話であるが、試験や試験対策というものは、〝考える〟ことなくして、成り立つものではないからだ。私は、薬剤師国家試験も含め5つの試験対策に関わったことがあるが、どの試験も例外なくそうである。ちなみに、うち3つの試験対策で学習指導を行ってきたが、いずれにおいても『 考えることが大事 』ということを説き、そこから『 では、考えて解くためにはどうすればいいのか?何が必要なのか? 』という学習指導を行っていくことになる。

 『 考えることが大事 』と言うと『 分かっていますよ 』という学生さんが多い。しかし、『 本当に分かっているのだろうか? 』と思ってしまうことが、ほとんどである。『 (考えることが大事ということは)分かっていますよ 』とは言っているものの、どうも今一つその内容を理解していないよう思える。前述のように、私は『 試験でも、試験対策でも、考えることが大事 』と言っている。『 試験は考えて解くものだ 』は分かっている学生さんもいるのだが『 試験対策も考えてやっていくことが重要だ 』ということに関しては、ほとんどの学生さんが分かっていないようなのだ。

 〝試験対策において考えなければならない事〟は、それこそ山のようにあるのだが…大切なのが『 自分が思っていた通りではない状況になった時 』のことである。世の中、何でも自分の思っていた通りには進まない。イヤ、自分の思っていた通りに進まないことの方が圧倒的に多いのである。そこで、どうするか?そう、そこで『 では、どうしたらいいだろうか?と考えてくれ 』と言っているのである。それが、〝試験対策において考えなければならない事〟の大事な一つなのである。これができない学生さんが圧倒的に多い。『 分からないときは考えればいいんでしょ 』とは言っているものの、自分の思っていた通りの状況にならなかった場合、考えることをしない学生さんが圧倒的に多いのである。

 例えば…講義を受けていて分からないことがあったとする。講義を聴いていて、スイスイと何でも理解できて、水がしみ込むように全てが頭の中に入っていく…理想ではあるかもしれないが、なかなかそうはいかない。学力状況や考え方、捉え方等は十人十色である。同じ知識を同じように与えたからと言って、一人ひとりの受け止め方は違ってくる。だからこそ『 ? 』となってしまうことも、当たり前の話である。問題はここから。『 ? 』となった時、どうするか?それを『 考えろ 』と言っているのである。『 分からない。じゃあ、先生に聞きに行こう 』これも、考えた故に生まれた行動である。ちゃんと、考えて行動している。他にも『 分からない。じゃあ、本で調べてみよう 』これも、そうである。しかし…『 ? 』となっても何もしない学生さんがいる。『 じゃあ、どうしよう 』これがない、つまり『 考えていない 』のである。他にも『 あの講義分かんないよね 』と不平・不満を言っているだけの学生さんもいるが…これも行動が伴わない以上、その状況を打破しようとしてない以上、『 考えていない 』としか言えない。ここで一つ言わせてもらいたいのだが…不平・不満が多い人間に限って考えようとしない。およそ何事においても、不平・不満は考えをストップさせるための特効薬である。もっとも最近は、自分の思い通りにならないと、なんやかんやと〝駄々をこねる〟学生さんが多く、閉口してしまうことの方が多い。駄々をこねれば、思い通りの結果が得られると思っているのだろうか?それとも、〝駄々をこねれば何とかなる世界〟で生きてきたのだろうか?まあ、どちらにせよ〝考える〟ということとは、無縁の方でいらっしゃることは間違いない…。

 閑話休題。自分の思い通りでなければ、それを放棄してしまう学生さんが多いのも事実であるが…これも考えていない証拠である。『 放棄すればどうなるのか? 』『 逃げた結果、何が待ち受けているのか? 』そう考えれば、決して放棄したり、逃げたしたりはしないはずである。やはり『 考えていない 』としか言いようがない。自分の思い通りでない状況を放置していることも、全く同じことと言えよう。

 考える人は、考えることが癖になっている。だからこそ、無意識のうちに考えて行動するようになる。『 どうすればいいのだろうか? 』と…。考えて行動したから、さらに〝考える〟という行為に磨きがかかることになる。人間、何事も同じ行為を繰り返していれば、より洗練されてその行為は身についていくものである。〝考える〟という行為にしても、そうやって磨かれ洗練され、より一層の『 考えて行動する 』ことを生み出していくことになる。まさに好循環である。では〝考える〟という行為を放棄した場合は?より一層〝考える〟という行為を放棄することに陥り…悪循環となる。

 およそ何においても、考えて行動しなければならない。問題を解くとき然り、試験対策に臨むときも然りである。受験生である以上、『 考えるというのは、問題を解く時だけものではない 』ということを、しっかりと認識しておく必要がある。講義一つ受けるにしても、分からないことが生じた場合にしても、そして何か想定外のことが生じた場合においても、考えて行動しなければならない。そうすれば、それが好循環となり、さらなる『 考えた結果の行動 』を生み出すことに繋がっていくからである。〝考える〟ことを放棄した場合は…それは、ご想像にお任せする次第である。

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2015年10月12日 | コメントは受け付けていません。 |

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学べない人。

 以前いた職場での話。その職場の社員旅行は、年に一度の海外旅行。皆、仕事が一段落できる時期に行く社員旅行が、楽しみの一つであった。で、例年通り仕事が一段落し、皆が楽しみにしている社員旅行の日が近づいてきたある日のこと。何人かの若い社員が、ヤレあそこへ行くだとか、ヤレ何を買うだとか、海外への思いをはべらかせて話をしていると(ちなみに、私はこのときある仕事の資料を作成している最中で、パソコン相手に四苦八苦していた)…一人の男性職員が大声でこう言った。

『 毎回、毎回、海外とかいって遊ぶんじゃなくて、

                 沖縄とかに行って勉強しろよな! 』

 シーンとなるその場。いかにも不機嫌そうにその言葉を放った社員(男性)であったが…なるほど、その社員が社員旅行に参加したのは過去に一度か二度ほど。体制へのレジスタンスのつもりか、社員旅行に対して『 参加なんかしねえよ 』的態度でいた。まあ、そんな態度のそんな人間に、あえて社員旅行のことで話をする人間もいなかったのだが…。この言動以外にも、ある仕事を受け持つ社員に対し『 何を対抗意識を燃やしているのか… 』とあきれる言動もチラホラあったりしたのだが…。閑話休題。シーンとする中、言ってやったぞと言わんばかりに不機嫌な態度で、何やら作業をしているその職員を見ながら、心底こう思った。『 バカかこいつは? 』。

 私はほとんどと言っていいほど〝バカ〟という言葉は使わない。いい言葉ではないし、例えそういう状況や人物であっても、その言葉を差し向けるのは上品とは言えない。第一、『 例えそういう状況や人物 』といっても〝そういう状況〟はまだしも、〝そういう人物〟にお目にかかることなぞ、よほどのことがない限り無いに等しい。特に人に対して面と向かって『 バカ 』と言える状況など、そうざらにあるものではないし、さらにはその対象となりえる人物(『 バカ 』と面と向かって言える人物)など、これまたそうざらにいるものではない。しかし、この時ばかりは心底思った。『 バカかこいつは? 』と…。

 担当直入に言わせて頂くならば…件の社員の言動からは、海外に行ったら勉強は出来ないといったニュアンスが伝わってくるのだが…何故、沖縄に行ったら勉強ができて、海外に行ったら勉強できないのだろう?ここで、一つ気をつけてもらいたいのだが、私は決して沖縄を誹謗中傷している訳ではないし、『 沖縄では勉強できない 』と言っている訳でもない(むしろ、私の中では沖縄は非常にいい所というイメージがあり、ぜひ行ってみたいと思っている)。彼の言動に対して『 おかしい 』と言っているだけである。そこの所を、誤解が無いようご理解いただきたい。話を戻らせて頂くが…。確かに、沖縄に行って勉強できることもある。しかし、海外に行っても勉強できることはあるのではないか?というか勉強なぞ、どこででもできるものではないか?そもそも、勉強とは何だろう?『 学問や技芸などを学ぶこと(デジタル大辞泉) 』とある。そう、学ぶことである。

 私は学習指導で口酸っぱく言っている。『 何からでも学ぶことはできる 』と。『 いつでも学べるし、どこでも学べるし、何からでも学べる 』と…。そして、それが勉強であると。学ぶという事に『 これは学べないな 』といった無駄は無いのだ。第一『 学ぶ 』と言う行為は、能動的なものである。つまり、あくまでも本人の遺志により発動されるものであって、『○○からは学べない』とか『□□だから学べない』ということは、あり得ないということになる。それは、単に当人が〝学ぶ〟ことを放棄しているだけであって、他の何者の責任でもなく、当事者の行動の問題でしかないのである。何からでも学べるし、どんな場合であっても学べる。それを放棄して『 学べない 』とするか、そこから何かを学ぼうとするかは、あくまでも本人次第なのである。

 件の男性のように、学ぶことに理由をつける人間は、『 何からでも学べる 』の『 何 』を、自ら限定してしまっていることになる。もったいないことである。せっかく、何からでも学べるのに『 コレとこれからは学べるけど、アレとそれからは学べない 』と、あえて〝学ぶこと〟を切り捨ててしまっているのだから。優れている人間こそ何からでも学ぶ。イヤ、『 如何に何からでも学べるか 』が優れた人間かどうかの判断材料になると言っても、決して過言ではないだろう。

 私は普段から塾生たちには口酸っぱく『 いつでも学べるし、どこでも学べるし、何からでも学べる 』と言っている。そして、こと受験生たるや、そうでなければならないとも言っている。学ぶことに条件をつけている限り、永遠に学ぶ機会を得ることは出来ないだろう。『 ああでなければ… 』『 こうでなければ… 』と言っている限り、学ぶ機会はどんどん失われていくということだ。『 海外へ行くのは遊びで、沖縄に行くのは勉強 』と言っている限り、海外へ行って学ぶこと・得られることは何もないだろう。そして…得てしてそういう人間は、例え沖縄に行ったところで、沖縄からは何も学ぶことはできないだろう…そう私は思っている。

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2015年10月5日 | コメントは受け付けていません。 |

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