事実を否定する人。
何が厄介かというと、こういう輩が一番厄介である。事実を否定する人。以前書かせてもらった〝『嘘つくな!』という言葉〟というとうブログも、こういった輩の話であったが…。
こちらが何か話をしたときに、『 そんなことある訳がない 』と徐に否定する人間がいるのだが…『 そんなことある訳がない 』と言われても困ってしまう。だって、そうなのだから。別に嘘をついているわけではない。大体、こういう状況で話している内容は、往々にしてウソなどついたところで何のメリットもない話である場合がほとんどである。もっと、突っ込んで言わせてもらうならば、別に『 ああ、そう 』と聞き流した所で、さして問題のない内容だったりすることも事実である。なのに、何故否定してくるのだろうか?
『 そんなことある訳がない 』というからには『 そんなことがあったら困る 』ということなのだろうか?前述のように、その話の内容たるや、ウソを言ったところで何のメリットもない内容だったり、聞き流してしまえば済むような内容である。別に、相手側が困る内容ではないはずだと思うのだが…。考えるに…『 そんなことある訳がない 』というのは、その人の判断である。ということは、『 (私の判断では)そんなことある訳がない 』とか『 (私が知らないから)そんなことある訳がない 』と言っているのではないだろうか?裏を返せば、『 私が知らないことがあっては困る(私は何でも知っている) 』『 私の判断が間違っては困る(私の判断は間違っていない) 』としたいのではないだろうか?何とも独断的というか、ワンマンというか…しかし、これなら事実を否定することが分からなくもない。事実を否定した人にとっては『 私は何でも知っている 』『 私の判断は間違っていない 』 という沽券に関わる問題なのだから。まあ、私にとってはどうでもいい問題でしかないのだが…。
恐らく、こういう人間は自分に対する事実も否定しているのではないだろうか?何といっても独断的であり、ワンマンなのだから…。そういう人間に、何か芳しくない結果が起こった時。果たしてその原因が自分にあったところで、それを受け入れることができるだろうか?その原因が自分にあろうとも『 あれは○○が悪い 』だとか『 あの時は□□だったから 』などという具合に、自分に都合のいいように事実を歪曲するのではないか?これも、立派に〝真の事実(日本語としておかしいが)〟を否定していることに他ならないと思う。
『 事実を否定する 』ということは裏を返せば『 事実を見ていない 』ということになる。これが、延いては『 事実を見ることができない 』といった状況へと流れつき、最後には『 自分に都合のいい歪曲された事実を作り出す 』という事態を引き起こすことになる。自分が知らないこと、自分の考えが及ばないこと、自分にとって都合の悪いこと…そういう事実さえも頭から否定してしまう。病膏肓に入れば、『 きっと○○のはずだ。そうに違いない。あの人が嘘を言っているんだ 』という、なんとも厄介な状況へ辿り着くことになってしまう。
確かに、ある程度は『 自分のいいように事実を捉える 』ことも必要である。例えば、何かちょっとしたモノを失くしたとき…。『 残念だけど仕方がない。縁がなかったんだろう 』とポジティブに考えることも重要である。『 私から何か悪いものを持って行ってくれたんだろう 』と、少々スピリチュアル的に考えることも悪くないと思う(誰に迷惑をかけているわけではないのだから)。しかし『 失くなるはずがない。おかしい 』と考えるとなると…。まあ、誰しも一瞬はそう考えることもあるだろうし、ある程度の時間そういった考えに縛られることはやむを得ないだろう。しかし、これが『 失くなるはずがない。おかしい、おかしい 』と、ずっと考えているとなると話は別である。そして、しまいには『 失くなるはずがない。誰かが盗んだのではないか? 』となり…しまいには『 〇〇さんが盗んだ 』となるようでは、いささか厄介な話である。まあ世の中には、何か事があった場合、無条件反射のように『 △△さんがやった 』と他人に言いふらす輩がいて困ってしまうことが往々にしてあるのだが…これなどは『 事実否定 』の重症化のいい例と言えよう。私もそういう輩のターゲットになったことがあって辟易したことがあったのだが…そういう輩に限って『 私はやっていませんよ。それとも私がやったという何か(証拠)があるんですか 』と、面と向かって問い詰めると…目も合わせず『 あなたがやったんじゃないですか 』を繰り返すばかり。話にもならないどころか、しまいには『 じゃあ誰がやったんですか? 』などという支離滅裂な発言をしだしたりする。そんなこと分かれば、とっくに問題は解決している…。というか、そこまでして『 自分が作り出した虚偽の真実 』を絶対としたいのだろうか?
〝自分にとって都合のいい虚偽の真実で創られた世界〟の住人は本人だけである。そんな所に住んでいる限り〝真の真実〟に触れることはないだろう。何とも恐ろしいことではあるのだが…これを防ぐことは、とても簡単なことである。『 世の中には自分の知らないことがあるもんだ 』『 世の中には自分の判断とは違う場合もあるんだな 』として『 へ~っ、そうなんだ 』と答えればいいだけの話である。複雑な問題の解決法はいたって簡単。世の中、往々にしてそんなものである。
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2015年8月30日 | コメントは受け付けていません。 |
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1日1日の積み重ねが大きい。
皆さん、国家試験対策始めていますか?学生さんが夏休みの時期になると、企業さんの研修に呼ばれたり、就職セミナー等での講演に呼ばれたりすることが良くあります。そこで現役6年制の方に、前述のような質問をすると…「えっ!まだやらなくても…」なんて答えが返ってきたりします。「やらなくてって…何で?」と聞き返すと「国家試験まで、まだまだじゃないですか」という答が返ってきたりします。「こりゃあマズイかも…」と思いつつ「今まで(在学時)は1日何時間くらい勉強していたの?」と更に聞いてみると「勉強なんかしてませんでしたよ。試験の前くらいにやるくらいですかね」という答が返ってきて「こりゃあ大変だ」とついつい苦笑いになってしまいます。「大変って何が大変なんですか?試験前に始めればいいだけじゃないですか」という人。本当に、そう簡単に試験前に勉強を始めることが出来ると思いますか?
これを読んでいる人のほとんどが自転車に乗ることが出来ると思います。ではチョットお尋ねしますが、生まれて初めて自転車に乗った時、今のようにスイスイと自転車を操って乗り回すことが出来ましたか?「生まれて初めて、すぐに自転車の乗ることが出来る人なんているわけ無いじゃないですか」そう、その通り!何度も何度も乗っているうちに、スイスイと乗れるようになったんですよね。じゃあ、今、仮にあなたが自転車に乗り慣れていない自転車初心者であるとしましょう。
ある目的地に行く場合、例えば歩いていくより自転車に乗っていくほうが早く、楽に目的地に着く事ができますよね。でも、自転車に乗り慣れていない自転車初心者だったらどうでしょう?決められた時間に、目的地に到着するように自転車をこぎ始めている人を横目で見ながら「そろそろ自分も目的地に向かい始めようかな」なんて考え始める。で、人が自転車に乗っている姿を見ながら「まあこんな感じだろう」と乗ってはみたものの・・・自転車に乗っていることもただならず、フラフラと頼りない。カーブだって曲がりきれずに突っ込んでしまうこともあるでしょう。あちこち突っ込んだり、道から外れたり、転んだりしながら満身創痍・・・でもさっぱり進まない、そんな結果になってしまうのでは…。何故、スイスイいける人とそうじゃない人がいるのでしょう?「そりゃあ〝自転車に乗ることが出来る人〟はスイスイいけるに決まっているじゃないですか。〝自転車に乗り慣れていない自転車初心者〟が、そんな人と同じようにスイスイいけるわけありませんよ」そう、その通りです。
さて質問。皆さんは勉強をすることができますか?毎日、決められた時間、自分にあったやり方で勉強を進めていくことが出来ますか?「勉強なんかしてませんでしたよ」と答えている人は…自転車で言い換えるなら「自転車なんか乗っていませんでしたよ」っていうことになります。つまり「自転車の乗り方=勉強のやり方」を分かっていない状況にあるということになります。「勉強のやり方を知らずに勉強する」ということは、「自転車の乗り方を知らずに自転車に乗る」と同じことなんですよ。
何故、私が早くからの勉強を薦めるかという答がここにあります。ハッキリ言いましょう。自分の勉強のやり方がわからない人が、「ハイ勉強始めます」と始めたところで、おいそれと勉強なんか出来るはずがないんです。やり方がわかっていないんですから。じゃあ「ハイ勉強始めます」と始めてスイスイと勉強が進むためにはどうすればいいのか?そう「自分の勉強のやり方」で勉強を進めていくことです。では、自分の勉強方法はどうやって習得するのか?自転車と一緒です。「何度も何度も自転車に乗っているうちに、スイスイと乗れるようになった」のと同じように、「何度も何度も勉強しているうちに、スイスイと勉強できるようになる」のです。時間がかかるんですよ。残念ながら、オイソレとは自分の勉強のやり方なんて見つかるはずもないし、習得できるはずもないのです。時間がかかるものなのです。
6月から始まった一年コースも早3ヶ月。『 3ヶ月かけて自転車の乗り方を習得してきた 』といったところでしょうか。職員や講師ともよく話すのですが、この3ヶ月で学力がついた塾生さんも大勢います。自分を管理して勉強する能力を身に着けた塾生さんもいれば、少し少し確実に成績が上がっていっている塾生さんもいます。そう、3か月の成果が確実に出始めているのです。わずか3ヶ月、されど3ヶ月。1日1日の積み重ねが、やはり大きいのは確かです。もうすぐ9月。半年コースの塾生さん達も講義に参戦することになります。8月最終日には、基礎講座最後の学習指導があります。そこでは、『 1日1日の積み重ねが大きい 』ということを、再度強く伝えようと考えている所存です。
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2015年8月23日 | コメントは受け付けていません。 |
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予備校に行くのに、何故、人間関係で悩まされなければならないのか?
わが薬進塾に在籍している塾生さんには、『 以前は他の予備校に通っていた 』という方が、何気に多くいます。まあ、人それぞれ色々ありますから『 昨年とは違う予備校で… 』となるのもご尤もなこと。こちらとしても『 ウチに入塾した以上は、ウチの塾生 』と捉えていますので、過去、つまり〝ウチの塾生じゃない時〟のことについては、とやかく聞いたりしないのも当たり前のこと。で、入塾後はこれまた当薬進塾では当たり前の、個人面接を行うこととなるのですが…塾生さんと面接をしていると、これまた何気に耳にするのが『 以前通っていた予備校では、人間関係が… 』という話。まあ早い話『 いじめられていました・嫌がらせをされていました 』と言った内容。そして、その悩みを相談する人は、『 いじめられていました・嫌がらせをされていました 』ことが原因で、予備校に行かなくなってしまったというパターンが圧倒的に多いのです。薬剤師になるために予備校に来て勉強している。なのに、何人かの人間たちのしがらみによって予備校に行き難くなり、しまいには行かなくなってしまう。おかしいとは思いませんか?
よく『 そんなイジメに負けるのが悪い 』『 そんなことに負けない強さを持たなければ 』と、全く見当違いな意見を、大見得切ってあたかも正答であるが如く発言する困った輩がいるのですが…。予備校には何をしに来ているのでしょう?前述のように、薬剤師国家試験に合格するために勉強しに来ているのではないでしょうか?『 いじめに負けない不屈の闘志を養成しに来ている 』わけでもなければ『 何をされてもへこたれない強さを養成しに来ている 』わけでもないのです。『 薬剤師国家試験に合格するために勉強しに来ている 』のです。さらに困ったことに、前述のような勘違い発言をするのは、予備校サイドの人間だったりする場合が圧倒的に多いのです。実際、私は今まで何人もその様な人間を見てきましたから…。では、何故そんな勘違い発言をするのでしょう?簡単です。手間暇かかるからです。特に学生さんの人数が多いと、このような発言は顕著に登場することになります。何故なら、一人ひとりの学生さんの言うことに耳を傾け、対処するということは、学生さんの数が多くなればなるほど、できなくなってきますから…。ましてや、前述のような『 同じ予備校内の学生さんに嫌がらせを受けている 』パターンとなると…いじめを被っている学生さんから話しを聞いて、いじめていると名の上がった学生さん達から話しを聞いて、それらの話を統合して判断をして、それ相応の措置を取らなければならない。これだけでも、そうとう手間暇かける仕事です(まあ、それが予備校サイドの人間の仕事なんですけどね)。前述のように『 (いじめにあう)あんたが悪い 』とジャッジを下すのが、ある意味一番簡単な対処法なのです。予備校サイドの人間からすれば、これで万事解決ですから。えっ?何も解決していないですって?もちろん何も解決はしていませんよ。でも、予備校サイドの人間からすれば、面倒な仕事を相談してくる人間を封じることができたんですから、見事、万事解決となるのでしょう。そうやって、『 あの学生に問題がある 』 『 あの学生が悪い 』で問題を一蹴してしまう講師を、今まで何人見てきたことか…。もちろん、必死でフォローに回って解決に導こうとする講師もいましたが、なかなか大変であることは確かなのです(実際、私も大変でしたから…)。場合によっては、違う講師からとやかく言われたり、逆に嫌がらせをされたりする場合もありますから…。それでも、万事解決した時、学生さんからの『 ありがとうございました。頑張ります 』の笑顔をみた時は、そんな苦労も一蹴されます。ましてや、その学生さんが合格してくれた暁には、うれしさも一入なのです。
実は、こんな状況を見かねたからこそ、薬進塾という少人数制の予備校を立ち上げたことも事実なのです。少人数制で一人ひとりをしっかりとサポートしていけば、こういう問題も起きないだろうと思ったからです。立ち上げ当初から、そのシステムに施行錯誤してきましたが…有能なるスタッフのおかげもあり、やっと昨年度からそのシステムが、しっかりと動き始めるようになりました。
私は塾生さんに、よくこういいます。『 勉強をしに来ているのだから、勉強に支障を生じるようなことがあれば遠慮無く言ってほしい 』と。合格するために勉強しにきているのだから、それに支障のある事態が生じたのなら、すぐに解決しなければならないからです。至極当然と言えば、当然の話。人間関係で悩まされ、試験対策ができなくなるなど、予備校生としては〝もっての他〟の状況なのです。
実は…何気に塾生さん以外の方から『 人間関係で… 』といった、相談を受ける機会が多いことも事実です。本来、塾生さん以外には指導はできないのですが…『 そういう対応も、つれないものがあるかな… 』と、相談には乗るのですが…。外部の人間がいかに相談に乗ったところで、その指導には限界を感じているのが現状です。
人の層が厚くなればなるほど、上からは底の人間は見えなくなってきます。『 私たちはしっかりと学生さんを見て、指導を… 』と声高らかにしたところで、前述のような相談が赤の他人の私のところに持ち掛けられている以上、見えていない学生さんがいるのが現状ではないでしょうか。もし、本当に見えているのなら…何故、縁もゆかりもない予備校の私の所に相談が来るのでしょうか?
『 予備校に行くのに、何故、人間関係で悩まされなければならないのか? 』これを深刻な問題としてとらえない限り、被害者は増えるばかりだと思うのですが…『 そんなイジメに負けるのが悪い 』の声にかき消され、その深刻さが黙殺されているこの現状に、憂いて止まない日々なのです。
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2015年8月16日 | コメントは受け付けていません。 |
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たこ焼きは、柔らいのがいいのか?カリカリなのがいいのか?
以前から何度か書かせ頂いているが、私は祭りの屋台の食べ物が大好きである。祭りの屋台の食べ物は、〝祭りの屋台でしか堪能できない美味しさ〟を振りまいている。だから、祭りの屋台で食べる以外に、その味を堪能する方法はないといっても過言ではない。『 屋台でしか食べられない味 』ということが、祭りの屋台での最高の調味料なのだ。『 反動というものは恐ろしい 』のブログでも書かせていただいたが、私は子供の頃は屋台の食べ物を禁止されていた。だからこそ、余計に屋台の食べ物がおいしく目に映るようになった。中でもたこ焼きは、一番目を引いた。子供ながらに屋台で焼かれているたこ焼きを見て『 美味しそうだなぁ 』と何度思ったことか。ご存知のように屋台のたこ焼きは、鉄板の前、すなわち客の目の前に具材が並べられている。タコはもちろんのこと、天かすや紅ショウガなどが美味しそうに並べられている。それらを鉄板で熱々になった生地の上に振りかけるように入れていく様は、〝料理を作る〟という行為自体が、味の演出をしっかりと支えているモノ…と感じさせる行為であろう。
私が中学生の頃、一つの転機が訪れることになる。その頃の私は、前述の〝屋台料理禁止令〟の反動のおかげで、たこ焼きが大好物になっていたのだが…あるスーパーの中に、ちょっとしたフードコート(というほど大げさなものではなく、単なるファーストフードショップが数軒並んだ程度の代物)に、たこ焼きを売る店ができたのである。これで、祭りの日じゃなくてもたこ焼きが食べられる!この時分になると、私の〝屋台料理禁止令〟もほどけてきていた(まあ中学生にもなれば、自由にモノを食べることなど当たり前のことであろう)。で、そのフードコートのたこ焼きを食べてみたのだが…何かが違う。何が違うのだろう?確かにたこ焼きなのだが、あの屋台で食べるたこ焼きとは何かが違う…。その後も、何度かそのたこ焼きを食べてはみたのだが『 何かが違う 』の〝何か〟が分からぬまま、あまり食すこともなくなってしまった。
その後も、祭りとなれば相変わらずたこ焼きを堪能する生活を送っていたのだが…ここで、また転機が訪れることになる。今度は件のスーパーの出入り口に、たこ焼き屋さん(字数の都合のため、申し訳ありませんが、以降〝さん〟は省略させていただきます)ができたのだ。そのたこ焼き屋は、もともと屋台のたこ焼き屋。スーパー入口の空いているスペースに、屋台を持ってきたという感じの造り(もちろん屋根等はないが)。もちろん、大喜びの私はすぐにそのたこ焼きを買って食すことになったのだが…コレコレ、この味!『 これこそが、たこ焼き! 』と、その味を堪能したのは言うまでもない。祭りの日にしか食べられないたこ焼きが、これからは毎日食べられる!との喜び通り、毎日のようにたこ焼きを買う日々。時には2パック買って、その味を堪能することもしばしば。しまいには、たこ焼き屋のおじさんに顔を覚えられ、声をかけられるどころか、値引きしてもらうことも一度や二度ではなかった。
フードコートのたこ焼きと、屋台のたこ焼きでは何が違ったのだろう?味ではない。そう〝硬さ〟である。フードコートの方のたこ焼きは、大げさな表現で言うならば〝団子〟のような感じであった。屋台のたこ焼きは、柔らかいのである。口の中で、熟した生地がとろけるというか、心地よく広がっていくのである。もしかすると、味的には両者にさほどの違いはないのかもしれない。しかし、口の中に入った時のとろけ具合に関しては、雲泥の差があるよう思える。やはり、口の中でとろけるたこ焼きを堪能したいものである。
『 では、最近よくある〝表面はカリカリ、中はトロッ〟というたこ焼きなんかいいんじゃないですか? 』という人もいるかもしれないが…私としては、そのたこ焼きはNGなのである。どちらかというと〝表面はカリカリ、中はトロッ〟というたこ焼きは、あまり好きではない。〝中はトロッ〟は大歓迎である。しかし、〝表面はカリカリ〟がいただけない。〝表面はカリカリ〟というたこ焼き。作っているところをみていると、『 たこ焼きを焼いている 』ではなく『 たこ焼きを(油で)揚げている 』という感じである。個人的な嗜好なので、良い悪いを言うつもりはないが、私的には『 たこ焼きは焼くもの 』と思っている。確かに〝中はトロッ〟が大好きであるが、〝表面もトロッ〟としてほしいのである。まあ表面だけにトロッとはいかなくとも、〝ふわっと柔らかい〟であってほしいと思っている。そう、前述のフードコートとたこ焼き屋の違いもここにある。表面がしっかりとしているフードコートのたこ焼きと、表面がふわっと柔らかい屋台のたこ焼き。食感も大切な味の一部である。たこ焼きに関して、私の嗜好は〝表面がふわっ、中はトロッ〟なのである。
昨今、たこ焼きを食べたいとは思うが、なかなか食べる機会が少ない。以前のような〝祭りの日にならないと食べられない料理〟に戻ってしまった感がある。『 たこ焼き屋は多いじゃないですか? 』と思われる方も多いと思う。しかし、最近のたこ焼き屋は、ほとんどと言っていいほど〝表面はカリカリ、中はトロッ〟というたこ焼きなのだ。〝表面がふわっ、中はトロッ〟のたこ焼きは、やはり屋台のたこ焼き屋でしか堪能できない状況にある。前述のように、個人的な嗜好のことなのでうるさく言うつもりはないが、やはり〝表面がふわっ、中はトロッ〟のたこ焼きを堪能したい…そう思っている昨今である。
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2015年8月10日 | コメントは受け付けていません。 |
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疑心、暗鬼を生ずる。
ある男が鉞(まさかり)を失くしてしまった。めぼしい所を探してみても、見つからない。そういえば…隣人の息子の様子がどうにもおかしい。ついには『 隣の息子が盗んだのではないか? 』と怪しむようになる。そう思って、接していると…どうも、隣の家の息子のやることなすことが、全てあやしいように感じる。ところが…ある日、近くの谷底で失くした鉞を発見した。そういえば…自分が置き忘れたことに気づいた男。それからは、隣人の息子が何をやっても、その言動を怪しく思うことは無くなったとのこと。〝暗鬼〟とは『 暗闇の中に鬼を見る 』の意。
古代中国の思想書『列子』より
先日、企業研修の一環として講義を行ってきました。講義中、何ともおとなしい研修者の方々。『 分かり難いのかなぁ… 』などと、チョット不安に思っていたのですが、講義後に聞いた『 分かりやすかったです! 』の声に、ホッとする有様で…。まあ、これなんかも疑心暗鬼の一つなんでしょうね。おとなしいものだから、ついつい『 分かっていないのかなぁ 』と思ってしまう。そうすると一挙一動が目につき、その全てを『 分かっていないからだ 』と勝手に解釈してしまうようになる。まさに疑心暗鬼…。
講義後、何名かの方が学習指導をして欲しいということで、色々と学習に関する相談に対応することに。皆さん、卒業試験を控えているとのことで、真剣な顔つきで色々と質問してくれました。その熱意に応えるべく、私も獅子奮迅とばかりに指導したのですが…特に強調したのが『 とにかく、すぐにでも卒試対策を始めなさい 』ということ。6年生の方は、そろそろ本腰を入れて卒試対策に取り組まなければなりません。私は以前から『 卒業試験対策は夏休み前から始めなさい 』ということを言っていたのですが、その『 以前 』よりも今は卒業試験が速くなっているのが現状。となると…今すぐにでも卒試対策は始めなければなりません。
何につけ人間という生き物は、心に隙があればある程、疑心暗鬼に陥りやすいもの。卒試対策においても、間に合わないと焦って来ると…当然ながら〝焦り〟も心の隙になります。つまり、焦ってくると疑心暗鬼に陥りやすくなるということ。一旦疑心暗鬼になると、冒頭の話ではありませんが、自分では抜け出すことはなかなか難しい状況となってしまいます。全てにおいて『 これでいいのか? 』『 それは大丈夫なのか? 』と勘繰ってしまう有様。そうなると、せっかくそこまで積み上げてきたものをすべて捨てて、あれやこれやと手を出してしまうこととなります。実は、これが試験対策における最悪の状況なのです。不安から逃れるために、計画性も無く、取りあえずあれやこれやと手を出してしまう。こうなると、もはや試験対策とは呼べない状況へとなってしまうのです。
私が、予備校講師を始めて今まで見てきた学生さん(もちろん、既卒生)にも、疑心暗鬼の故、この〝試験対策とは呼べない状況〟に陥ってしまった方は、何人もいました。『 講師陣が目を見張っているのに? 』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…さすがに薬進塾は40名の少人数制。目の行き届く範囲で、しっかりと学生さんを指導していますので、疑心暗鬼に囚われ〝試験対策とは呼べない状況〟に陥ってしまう方は、まずいません。それでも〝陥ってしまいそうになる人〟は、毎年のように出てきます。何といっても相手は〝疑う心が生み出した暗闇の中の鬼〟。豆をまいたら退散してくれる鬼ならば、いくらでも豆をまくのですが、本人が闇の中にあえて作り出した鬼ですから、退散させるのも一苦労。それでも指導に指導を重ね、何とかその鬼を退散させるというか、その存在を消し去るようにと持っていくのですが…。
でも、よくよく考えれば、その鬼は誰が作り出したわけではなく、自分自身が作り出したものなのです。だったら、自分自身でその厄介な鬼を作り出さなければいいのではないでしょうか?では、どうしたらその鬼を作り出さないようにできるのでしょう?そう、前述のように『 心に隙を作らなければいい 』の一言に尽きます。心に隙があればある程、疑心暗鬼に陥りやすい…つまり、鬼を作り出すことになってしまいます。試験対策において、心に隙を作らないためには…そう、これも前述のように早め早めに試験対策に取り組むことが重要となってきます。そう言えば…私が予備校講師を始めて〝試験対策とは呼べない状況〟に陥ってしまった方は、確かに勉強を始める時期が格段に遅かったような気が…イヤ格段に遅かったですね。『 ヤバい 』と気が付いて、慌てたことにより、心に隙が生じて鬼を生み出してしまった…。そんなところでしょう。薬剤師国家試験にせよ、卒業試験にせよ、とにかく試験対策は早めに始めなければなりません。そこの所をしっかりと認識してほしいと思います。『 まだ大丈夫でしょ 』という、あなた。早くも、鬼が生じる地盤を作り出しているということを、しっかりと認識してくださいね。
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2015年8月2日 | コメントは受け付けていません。 |
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