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反動というものは恐ろしい。

 反動というものは恐ろしい。いろいろな反動というものがあるのだが…私の母は、私が子供の頃から短髪にさせていた。本人の意思など無視。『 子供なんだから髪は短くする 』という、一昔前の日本の偏った思想に陥っていたようだ。私の母に限らず、一昔前の日本人の大人というものは、子供の主張などというものは考えていない場合が多かった。『 男子は坊主頭 』などというものは、その最たるものであろう。まあ、体育会系の教師が、ここしか見せ場がないぞという気合でこれを唱えるものだから、それに圧倒される部分もあったのだろうが…。未だに『 男子は坊主頭 』ということをほざく輩がいるので『 何で? 』と聞くと…『 日本人だから男は坊主 』という奇奇怪怪甚だしい解答を、ドヤ顔で放ってくるから性質が悪い。何故、日本人の男は坊主なのか?さっぱり意味が分からない。日本人だからというのなら、中ぞりか月代(さかやき)に丁髷(ちょんまげ)ではないか?何を坊主頭だとか、生半可なことをほざいているのだろう。『 日本男児 』という言葉を使うからには、それくらいの心意気は持ってもらいたいものだ。

 で、私はイヤイヤながら、母の教えに従って短髪にしていた。ひどい時には『 まだ長い 』と言われて、もう一度床屋に行かされたこともある。その時は、涙ながらに(大げさな表現ではない。何日間も短髪を笑われることになるのだ。その悔しさたるや尋常ではない)床屋に赴き髪を切ったものだ。そして、こう思った。『 大きくなって、自分で髪を自由にできるようになったら、絶対に長髪にしてやろう! 』そう心に固く、固く誓った。それから数年後…私は大学時代は、1年に2回しか床屋に行かなかった。思う存分、長髪を満喫した。周りから何と言われようが、全く関係なかった。当たり前だ。こっちは、自由に長髪にするまで、何年の苦汁をなめてきたと思っているのか?この権利(髪形を自由にできる権利)を手に入れるまでに、どれほどつらい思いをしてきたと思っているのか?やっと手にした自由。それを満喫してどこが悪い?

 何度か、当ブログで書かせてもらったが、私は祭りの屋台の食べ物が大好きである。私が住んでいる地域では、大小の差こそあれ祭りは何回かあるのだが、その度に屋台のモノを買ってきては一杯やっている。メインの祭りがある時は、それら屋台のモノをつまみに昼から酒を飲んでいる。一年に一回の楽しみというか、贅沢である。祭りの屋台の食べ物が、たまらなく好きなのである。では、何故こんなに好きなのだろう?小さいころから、母にこう言われて育った。『 祭りの屋台の食べ物には、埃やらなんやら入っていて不衛生だから食べてはいけない。食べるとお腹を壊す 』と…。誰もがそうであるように、幼き私も祭りに赴き、あの屋台の食べ物がとてつもなく美味しそうに感じられた。見た目ももちろんのこと、その美味しそうな香りに何度も『 食べたい 』と思ったものだ。しかし…『 汚い。食べたらお腹を壊す 』という、とてつもない偏見と呪縛に一口も食べることはなかった。そして…その呪縛から逃れることができた時、私は思う存分、屋台のものを食べるようになった。大げさではない。隅から隅まで、屋台のモノを片っ端から全て食べるようになった。もちろん、お腹なんぞ壊したことなぞ一度もない。美味しさも格別。『 やっぱり、祭りの屋台で食うものは美味いよなぁ 』と、感極まる状態にまでなった。それが、何十年も続いているのだ。今年も祭りがある。あの味を堪能できることを、今か今かと待ち遠しく思っている。

 『 長髪 』にしても『 (祭りの)屋台の食べモノ 』にしても、以前は、私には禁じられていたものである。それが解禁となった場合、異様なほどにソレに執着する状況となった。当たり前と言えば、当たり前であろう。フルスロットルまで手綱が握られていた状態なのだ。手綱が外れれば、フルスロットルでの突進となるのは当然のことである。一種、反動である。手綱を握る必要のないことに、手綱を握り、抑制するからフルスロットルでの発進となるのだ。そう、手綱を握る必要のないことにだ…。

 最近、親が『 子供は優秀な人間になってもらいたい 』と、やたらと手綱を締めている状況を耳にするが…そんな状況を耳にするのがニュースであり、それも悲しい事件のニュースであることが圧倒的に多いのは何故だろうか?どうやら、親が手綱を締め、親が〝良いと思った将来〟に子供を誘導しようとした結果が、悲しい事件につながっている場合が圧倒的に多いようである。〝親がいいと思った将来 〟とは、どういう将来であろうか?簡単である。『 子供なんだから髪は短くする 』『 祭りの屋台の食べ物には、埃やらなんやら入っていて不衛生だから食べてはいけない。食べるとお腹を壊す 』といった将来である。単なる親のエゴ、偏見である。もっと、子供の主張を聞いてみてはいかがだろうか?実は、そちらの方が正しかった…ということは、よくある話である。子供には子供なりの考えがあって、その子供なりの人生があるのだ。親がいいと思ったものを押し付けたところで、それがその子供にとっていいものとは限らないのではないか?

 『 そんなことはない!私たちは子どもの将来を思って… 』と反発する人に一言。あなた方は、それほど豊かな人生経験があるのですか?社会で色々な仕事を経験し、上下様々な体験を乗り越え、種々雑多な世界を見てきた…そういう人生経験がおありなのですか?まさか、無難な人生をなんとなく送ってきて、今に至る…なんていうことはないでしょうね?まあ、どのような人生を送ってこようが、自分の子供の手綱をどう握ろうが、私には直接関係はありませんけれど…。ただし、手綱が外れた時の反動が、如何にすごいものであるかは覚悟しておいたほうがよろしいのではないでしょうか?もっとも私のように、その反動が『 長髪にする 』『 祭りの屋台の食べ物を食べる 』程度で収まっていれば、何の問題もないのですが…。

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2015年7月26日 | コメントは受け付けていません。 |

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習得するまでは、やり難いのが当たり前。

 先日、ある塾生さんが私の所に相談に来られました。勉強をしているけれども、それほど成果が出ているようには思えない。ここ(薬進塾)に来てからは、〝考える〟という勉強のやり方をしているが、今まで〝覚える〟だけの勉強をやっていたから、今一つ〝考える〟という勉強のやり方が、しっくりと身につかない…といった内容。まあ、この時期にはよくある相談内容です。強いて言うならば『 指導に従い、きちんと勉強している人間が、この時期になるとしてくる相談 』と言ったところでしょうか。相談に来た塾生さんも、こちらの指導通りしっかりと勉強して、着実に力をつけていっている塾生さん。まあ、今のところ何の問題もなく上々といったところです。わが薬進塾は少人数制。塾生さん一人ひとりを、常日頃からしっかりと見ています。私もスタッフも、一人ひとりの塾生さんの学習状況、学力状況はもちろんのこと、学習姿勢、生活態度等、全てに対し目配りをしています。ですから、前述の相談に来た塾生さんに関しても、今がいい状況なのか悪い状況なのかは、しっかりと把握しています。ですから、その塾生さんが『指導に従い、きちんと勉強している人間 』だということが分かるのです。

 では、何故、その塾生さんは不安になったのでしょう?それには、いくつか理由があります。まず一つは、勉強というものは『 勉強しました。すぐに成績が良くなります 』といったものではないということ。学力向上には、それ相応に時間がかかるということです。種を捲いても、すぐに実はなりません。大きな実をたくさんつけるためには、まずは畑を耕さなければなりません。そして種を巻いて、水をあげて…という手間暇をかけて、初めて実がなるのです。成っている実を見た時、初めてその成果に、つまり学力がついていることに気付くのです。今は、まだ畑を耕している時期。早く実をつけたい気持ちも分かりますが、ここでしっかりと耕しておかなければ、良い実は結ばないのです。前述の学生さんは、少々焦りすぎといったところでしょう。でも、それも常日頃から一生懸命勉強しているからの焦りです。勉強していない人には、焦りは生じないわけですから…。

 もう一つの『 ここ(薬進塾)に来てからは、〝考える〟という勉強のやり方をしているが、今まで〝覚える〟だけの勉強をやっていたから、今一つ〝考える〟という勉強のやり方が、しっくりと身につかない 』という不安も、もっともなことだと思います。何せ、今までとは全く違った勉強のやり方をしているのですから、しっくりいかなくて当然です。しかし…今までのやり方が間違っていたのだから、それは矯正しなければなりません。私は企業の研修等で呼ばれて学習指導するときも、講演会で学習に関して話をする時も、とにかく『 考えて解く 』ことを強調しています。それが試験の本質だからです。『 考える 』ためには、考えるための材料になる知識を『 理解 』しなければなりません。『 何故、そうなのか 』を理解した知識こそが、考えるための材料になるのです。理解もなく暗記したり、やみくもに覚えただけの〝似非知識〟は考えるための材料にはなりません。そんな似非知識をいくら持っていようとも、考える事には使えないということになります。私は、薬剤師国家試験対策以外の学生さん達にも講義を行っていますが、昨今の学生さんの悪い所…というか、本人たちは疑いもなく『 勉強とは覚える事 』と思っているフシがあります。確かに、勉強では覚えなければならないこともあります。しかし、覚えるだけが勉強ではありません。覚えるだけだから、分からない問題が出た時は、一か八かの丁半博打になってしまうのです。考えるだけの知識があれば、分からない問題が出た時も、知っている知識を駆使して、そこから答えを導き出すことができます。そして、それが〝正しい試験の解き方〟であり、そういう力をつける事こそが〝正しい試験対策〟なのです。

 前述のように、相談に来た塾生さんは〝覚えるだけの勉強〟をしてきたようです。本人も、それでは対応できないことに気が付いたようです(この時点で、この塾生さんの成長は著しいものだと思います)。だからこそ、今〝理解して考える勉強〟をしているのです。この方法になれるまでは、勉強をしていてもしっくりとはいかないと思ます。しかし、それは仕方のないこと。何においても、一つのものを習得するまでは、やり難いのが当たり前です。しかし、それを乗り越えなければ、物事を習得することはできません。なんとなくやり難いやり方…しかも成果も今一つ上がっていないような…そんな気になるのは、物事の習得には当たり前の話なのです。

 第101回薬剤師国家試験へ向けて、大勢の方が勉強していることと思います。以前『 同じことをしている限り、結果は同じです 』というブログでもか書かせていただきましたが、同じことをしている限り結果は同じです。違う結果を手に入れるためには、違う方法を試みなければなりません。確かに違う方法は習得するのに時間がかかります。それまでの間は、やり難いやり方でもあります。しかし、それを乗り越えなければ、今までとは違う方法を習得しなければ、何も変わらないのです。前述の塾生さん以外にも、日々新たなる勉強方法を習得しようと切磋琢磨している塾生さんたちがたくさんいます。やはり皆さん大変なようです。しかし、『 物事の習得には時間がかかる 』このことをしっかりと認識して、第101回薬剤師国家試験へ向けて精進していってほしいと思っている所存であります。

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2015年7月19日 | コメントは受け付けていません。 |

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嫌うという行為で、人を攻撃するのはやめなさい。

 嫌うということで、人を攻撃することができると思っている輩がいる。嫌うということが、人を攻撃するための武器だと思っている輩がいる。勘違いも甚だしい。まあ、仲間外れや、村八分などといった行動が、『 嫌ってやる = 相手への嫌がらせになる 』 『 嫌えば相手にダメージを与えることができる 』といった考えから生まれた最たるものであり、昔からあったことは確かである。しかし、『 よろしくない 』とされてきたそれらの行動が、現代でも深々と根を下ろし、百花繚乱の様相を呈しているような気がするのは、私の気のせいであろうか?

 書き出しから、ずいぶん辛口の展開となってしまったが…。私の講師人生の中で、この犠牲、つまり〝嫌うという行動で、嫌がらせをされた学生さん〟の数は、十や二十はくだらない。泣きながら相談に来た学生さんなど何人いたことか…(断わっておくが、相談に来ている学生さんには落ち度と言えるものはほとんどない)。『 陰口をたたかれる 』『 仲間はずれにされている 』 『 その人がいるグループの人達が、あからさまに関わりを避ける(無視をする、寄ると避ける) 』等々、涙ながらに話してくる。その度に、アドバイスをして励ますのだが…本人はかなり打撃を被っているらしく、アドバイスも励ましも〝焼け石に水〟と言ったところ。では、どうすればいいのだろうか?実は、この相談の解決方法はそう難しくない。何故ならばこの攻撃方法、つまり〝嫌うということで人を攻撃する方法〟には、致命的な弱点が存在するからである。

 先ほど『 本人(泣きながら私の所に相談に来た学生さん)はかなり打撃を被っているらしく 』と書かせていただいたが、最終的なアドバイスでは、こういうことを伝えている。『 それ(打撃を被ってしまう)じゃあ、逆に相手の思うつぼだよ 』と…。不思議そうな顔をしている学生さんに、さらに、こう聞く。『 あなたは、その人(嫌うという行動で、嫌がらせをしている人)が好きなの? 』と。全員が、まず間違いなく首を横に振る。まあ当たり前と言いえば、当たり前である。まっとうな人間であれば、そのような人間を好むことなどあるはずがない。そして、こう伝える『 じゃあ別にいいじゃない。その人やその仲間から仲間はずれにされたり、避けられたりして。そんなイヤな人、そばにいたり関わったりした方が嫌でしょ?相手から遠ざかってくれるんだからラッキーと思わなきゃ 』と…。キョトンとした顔をしている学生さん。徐々に顔に笑みが浮かび『 そうですよね 』となって、解決。その後、仲間はずれにされようと、関わりを避けられようと、それこそ〝蛙の面に水〟といった態度で振る舞うようになり、めでたく万事解決となる。

 〝嫌うということで人を攻撃する方法〟の致命的な弱点とは、何であろうか?先ほど『 それじゃあ、逆に相手の思うつぼだよ 』と書かせていただいたが…打撃を被ってしまうことが、相手にとって思うつぼなのである。打撃を被らなければ…相手は地団駄を踏むしかない。つまり『 観応しない。気にしない 』ことが、この方法に対する一番の良策なのである。そう『 別に嫌われても構わない 』こう相手に思われてしまうことが、この攻撃法の最大の弱点なのだ。『 嫌われても構わない 』と思ってしまえば、当然ダメージなど受けるはずもない。逆にダメージを受けてしまうことで、この攻撃方法は最大の効力を発揮してしまうことになる。嫌われたことでダメージを被れば、嫌った方は『 嫌うことで相手にダメージを与えることができた(相手にダメージを与えることができる方法なのだ) 』と、まさに予想通りの展開となってしまうからだ。これこそ相手、つまり嫌う方の思うつぼである。嫌われてもなんともない。嫌われるがままにしておく。避けるなら、避けられるままにしておく。これが、『 嫌うということで人を攻撃する方法 』の致命的な弱点であり、対処法でもある。第一、前述のように、そんな輩とは誰しも、そばにいたり関わったりしたくないのだから、一石二鳥ともいえるのではないだろうか?

 〝嫌うということで人を攻撃する方法〟が生まれる背景には『 嫌われてはいけない 』という考え方があるからであろう。当薬進塾のブログでも、何度となく書かせてもらったが、嫌われることは悪いことではない。別に嫌われてもいいのである。というか、どんなに真っ当なことをしていようとも、嫌われる人からは嫌われる。これは仕方のないことである。むしろ、嫌うことによって、それが攻撃になると考えている人間の方が、よっぽど真っ当ではない。嫌われようとも、自分らしく生きることが大切なのではないか?周りの顔色を伺いながら、嫌われないよう嫌われないようしていることが、果たして〝生きている〟と言えるだろうか?人それぞれ考え方は千差万別である。その考え方が気に入らない人間もいるだろうが、それが当たり前なのである。どうも世の中には『 皆とうまくやらねばならない 』という風潮があり、強いてはそれが『 嫌われてはいけない 』という誤った解釈になっているようであるが、『 皆とうまくやらねばならない = 嫌われてはいけない 』ではない。そういった誤った考え方こそが、諸悪の根源であることは確かである。そう『 嫌われてはいけない 』という考え方は、一見謙虚な考え方のようにも思えるが、ある種、諸悪を生み出す考え方でもあるのだ。『 嫌われてはいけない 』という考え方こそが、〝嫌うということが、人を攻撃するための武器だと思っている悪しき輩〟を生み出す根源となることを、しっかり認識する必要があるのではないか?そして、そういった悪しき輩に一言。『 そういうことをやっている限り、幸せとは無縁の人生を送ることになる 』これを、はっきりと言っておきたい所存である。

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2015年7月12日 | コメントは受け付けていません。 |

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薬剤師になることを選んだ人の責任。

 我が薬進塾は少人数制。学習指導はもとより、塾生さんとの面接等、全てマンツーマンで行っています。私は、今までいくつかの試験対策予備校に在籍していましたが、当時から学生さんの相談や面接は、全てマンツーマンで行ってきました。企業から研修の一環として依頼される学習指導も、基本的にマンツーマン。それを考えると…マンツーマンで指導してきた学生さんの数たるや相当なものになると思います。

 学内はもとより、研修や講演会で面接を行ったり、相談を受けていると、時折気になることを言う人がいます。どういうことを言うのかというと…要約すると、こういう感じになります。

 

私は本当は薬剤師なんかになりたくなかった。

  親が薬剤師になれというから、やむを得ず薬学に来た

 

といった内容。以前から、こういうことを言う人は、何人かいたのですが…昨今、この言葉を聞く機会が増えてきているような気がします。私としましては、こういう言葉を聞くと…怒りを通り越し、呆れるを通り越し…何ともやりきれない気持ちになってしまいます。

 この言葉を口にしている当人は、二十歳を超えた〝いい大人〟。4年制薬学時代なら最低でも22歳、6年制薬学時代なら最低でも24歳。どちらも世間的には〝いい大人〟であることは間違いありません。前述の言葉は、そんな人間が口にする言葉とは、とても思えないのです。親が『 薬剤師になれ 』といったところで、自分が嫌なら『 イヤ 』と言えばいいのだけの話ではないでしょうか?そう伝えると、全員と言っていいほど『 それはできませんよ 』と言うのです。何故、それができないのでしょうか?恐らく、親御さんから『 薬剤師になれ 』と言われたのは、大学受験前の高校生位の時だと思います。これからの進路をどうするか?将来どうするのか?そういった話し合いでの中で、親御さんから言われたのだと思いますが…未成年とはいえ高校生ともなれば、それ相応の意思表示はできる年齢。ましてや進学ともなれば、自分の一生を決める事。そこで、自分の意思表示をしないで、親御さんの言いなりになったとしたら…それは、言いなりになったその人に責任があるのではないでしょうか?親に反対された生き方を選択した人間など、無数にいます。実際、そうやって生きている人を何人も知っています。 親が薬剤師になれというから… 』という人は、何故そういう生き方、つまり〝親に反対されようとも、自分が選択した生き方〟をしなかったのでしょうか?

 中には『 ウチは祖父の代から薬局をやっていたんで、継がなきゃいけないんですよ 』という方もいます。自分が望む生き方とは違う人生を、親が望んでいる。そういう場合も確かにあるでしょう。しかし、それを受け入れたのは、その人生を選択したのは、その人自身ではないでしょうか?自分で選択しておきながら、後から『 本当はこんなこと… 』というのは、いかがなものでしょう?

 逆に聞きたいのですが…そういう人達には『 自分は将来、○○になる 』『 自分はこういう生き方をする 』という明確なビジョンというか、目標はあったのでしょうか?もし、あったとするならば、親御さんとの話し合いの中で、それを言えたはずです。『 言えなかったんですよ 』という人がいるかもしれません。そんな大事な場面で、自分の一生を決める明確なビジョン・目標を発言もせず、親御さんの提案した人生を選択した。この時点で、その後の人生の全責任は、それを選択した当人にあるのではないでしょうか?『 本当はこんなこと… 』と泣き言を言う資格はないと思います。

 その前に、そういう方にお聞きしたいのですが…先ほど『 「自分は将来、○○になる」「自分はこういう生き方をする」という明確なビジョンというか、目標はあったのでしょうか? 』と書かせてもらいましたが…果たして『 自分は将来、○○になる 』と意思表示するような生き方というか、ビジョンはあったのでしょうか?恐らく、全くと言っていいほど無かったのではないでしょうか?自分の生き方に対し、何のビジョンも目標ももなかった。だから、言われるがままに薬学に来た。それが、本音ではないのでしょうか?もし、そうならば…やはりそれは、自分の一生を決める事が出来なかった、当人の責任ということになると思います。自分の人生を自分なりに決めることもできず(将来の目標もビジョンもない訳ですから)に、他人に考えてもらいそれを選択した。その結果『 本当はこんなこと… 』という泣き言を言う羽目になった。その責任は、間違いなくそれを受け入れた当人自身にあるのではないでしょうか?仮に『 本当はこんなこと… 』と思ったならば、自分で違う道を選択すればいいだけの話です。『 他の道を進もう 』と…。もちろん『 本当は薬剤師にはなりたくなかったけれど、ここに来たのは自分の責任 』と、それを全うするのも、大事な選択肢の一つです。選択したからには、選択した責任がある訳ですから…。

 塾生さんの中には、薬剤師以外の仕事をしていたけれど、『 薬剤師になろう 』と仕事を辞めて来られる方も沢山います。中には、薬学以外の学部を出て、それ相応の仕事に就いたのですが、『 薬剤師になろう 』と仕事を辞め、薬学部に入り直した人もいます。自分の人生です。自分で決め、自分で行動するのが当たり前。そして、自分が決めようと、親御さんが決めようと、自らそれを選択したからには、選択した自分自身に責任があるということも当たり前の話です。選択した人に責任がある。決める時に決められず、人から与えられたモノを取りあえず選択しておいて、都合が悪くなると『 本当は… 』と泣き言を言う。そういう人を目の前にすると…前述のように、怒りを通り越し、呆れるを通り越し…何ともやりきれない気持ちになってしまう次第なのです。

 

『 本当はこれがしたいんだけどなぁ 』という甘えたガキのタワゴトは絶対になしだ。

by 杉村 太郎

※ 株式会社ジャパンビジネスラボの創業者、代表取締役社長。

 ハーバード大学国際問題研究所研究員。我究館会長。プレゼンス会長。

 

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2015年7月5日 | コメントは受け付けていません。 |

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