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熱々が美味しい!

 先日、薬進塾のある講師と酒を飲みつつ語らった。その講師とは、かれこれ十年近い付き合いになるだろうか…。ちょっとしたきっかけで、講義を依頼し、講師として共に教鞭をふるうことになったのだが、まさかこんなにも長い付き合いになろうとは、その時には夢にも思わなかった。お互い酒が好きということで、どちらからともなく誘うようになり、杯を酌み交わすことも年に数回。事あるごとに飲んでいるという仲ではないにせよ、私にとっては貴重な酒飲み仲間。もちろん、酒飲み仲間としても、とても大切な存在ではあるのだが、やはり講師としての存在は、今や私にとっては欠くことができない存在。講師としての手腕は、それは素晴らしいもので、時折、私も教室から聞こえてくる講義に耳を傾けたりもするのだが…丁寧でいて、分かり易く、それでいて、慌てることもスピードUPすることもなく、しっかりと着実に教えていく講義スタイルは『流石(さすが)!』の一言に尽きる。もちろん、学生さんからの評判もすこぶる良く、苦手な人が多い科目ながら、学生一同『分かり易い』と絶賛の声。私としても、学ぶべきことが多い講師の一人であることは間違いない。

 その講師と、前述のようにいつもの店で一杯やることとなったのだが…その店、実は私の行きつけの店である。行きつけと言っても『行きつけていた』のは数十年前の話で、昨今は一年に数回利用する程度。それでも、その界隈で飲む時には、必ずと言っていいほど、その店を利用している。で、先日、その講師と一杯やっている時のこと。話が弾み、杯も増えていき、気が付くと食べ物の方がちょっと足りないな…という状態となっていた。追加オーダーということでメニューを見るも、いつも頼む品はすでに食べつくした状況。じゃあ、どうしようかとメニューを見て選んだのが『焼き鳥』。酒好きな方はご承知のことと思うが、焼き鳥というのは店によって、かなり当たりはずれの大きい品である。行きつけの店をいくつか持つ私ではあるが、焼き鳥を注文する店は限られている。中には、店としてはいい店で料理もおいしいが、焼き鳥は頼まないという店もある。実際、それほど焼き鳥という料理は、当たり外れが大きいのである。で、件の店で一杯やっている講師と焼き鳥を注文することになったのだが…注文した後にフト考えた。『ここの焼き鳥は美味しかっただろうか…』と。前述のように行き付けの店ではあったが、焼き鳥を注文したことは…そういえば数十年前に、何度か頼んだことがあったような…。味はどうだったのか…。考えるも、何もと言っていいほど頭に浮かばない。少々の不安を抱えながらも話に花が咲き、その不安も忘れかけたころ、ついに焼き鳥が我々の目の前にその姿を現すことになったのだが…。見た目は、非常に美味しそう。で、食べてみたのだが…熱々で美味しい!肉は大きくて、柔らかでジューシー!味も抜群である。その熱さにホクホクしながらも、美味しさを堪能させてもらった。ちなみに断わっておくが、〝焼き鳥屋〟ではなく〝居酒屋〟である。居酒屋にして、この焼き鳥のクオリティー!美味しい酒のつまみを堪能しながらも、酒の話にさらに花が咲いたのは言うまでもない。

 以前、『目指せ!町のラーメン屋!』というブログの中でも書かせていただいたのだが、私は、かなりなラーメン好きである。そんなラーメン好きな私が、昨今苦労しているのは、美味しいラーメン屋さんを探すこと。これが、なかなかいい店が見つからない。それでも昨年は『美味しい!』と、思わず唸ってしまう店が4店ほど見つかり、ご満悦の次第である。で、そのご満悦の店でご満悦のラーメンを食べながらフト思った。『ここのラーメンは美味いよなぁ…チョット熱いけど…んっ?熱い…』。そう…そう言えば私が食べて『今一つだなぁ』と思ったラーメンは、どれも〝熱く〟はなかったような…。〝熱い〟というよりは…よく言えば〝温かい(あたたかい)〟悪く言えば〝温い(ぬるい)〟…。そして、美味しいと思ったラーメン屋さんは、どれもが〝熱い〟ラーメンだった。『たまたま美味しいラーメン屋さんが、熱かっただけでは?』という方がいらっしゃるかもしれない。しかし…私は〝熱々で不味いラーメン〟を食べたことがない。『熱々だと、その熱さが先行して、味が分からなくなるから、美味しいと感じるのでは?』という方もいらっしゃるかもしれないが、熱々で美味しいラーメンは、温度が下がっても、不味くはならず、美味しいままなのだ。もちろん熱々の方が美味しいのは当たり前であるが…。んっ?熱々の方が美味しいのは当たり前…。

 最近、熱々の料理が少ないと思うのは気のせいだろうか?どうも、〝熱い料理〟ではなく〝温かい料理〟が多いような気がする。焼き鳥もそうだ。私が常連としている焼き鳥屋さんは、すべて熱々の焼き鳥を出してくれる店ばかりだ。最近、お気に入りの定食屋さんも、いつも行っているとんかつ屋さんも、すべて熱々の料理を提供してくれる店ばかりである。

 有名であるが、プロの料理人の言葉に『冷たいものはより冷たく、熱いものはより熱く』という言葉がある。これは、料理するうえでとても重要なことで、料理の一番の基本だそうである。『絶対に守らなくてはならないこと』とさえ言われている。冷たい料理は冷たい状態で、熱い料理は熱いまま出せるように努力する。それが、料理の真心だそうである。料理の真心が『熱いものを、より熱く出す』こと…。熱々のものを出しているということは、料理の真心があるということ。なるほど、美味しいお店であるのも頷けるはずである。真心ありで料理を作っているのだから。

 真心込めて作れば、『熱いものはより熱く』なるということである。わが薬進塾も、このようにいきたいと思っている。前述の講師も含め、わが薬進塾は誰もが熱いベテラン講師揃い。その熱い講義を、より熱く、そして熱きベテラン講師陣とともに、より熱い講座を展開していきたいと思っている、薬進塾第101回薬剤師国家試験対策なのである。

 

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2015年4月24日 | コメントは受け付けていません。 |

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試験対策 ~ 行動なき自信を自惚れという:後編 ~

 前回は…卒業試験や国家試験で『まあ合格するだろう』などと、呑気に考えている学生さんが増えてきている、ということに関して書かせていただいた。

 そして…国家試験が200題の頃の学生さんの方が、国家試験に対して誰もが必死であったように思えた。『何としても合格しよう』 『絶対に受からなければ…』そういう学生さんばかりだったような気がした。合格のために、だれもが必死であったことは間違いなかったように思う。そして時は流れ、国家試験は200題から240題となり、今や345題。今の国家試験は相当に大変な試験であるといえるのに、それに対応する学生さんの士気が下がっているというのは、どういうことだろう…とも書かせていただいた。今回は、その後編である。

 『卒業はさせてくれるだろう』 『国家試験には受かるだろう』といった余裕というか、自信はどこから来ているのだろう?本来、自信とはそれ相応の行動があってこそ芽生えるものである。しかし、『卒業はさせてくれるだろう』 『国家試験には受かるだろう』といった考え方の人は、然るべき行動をしていない場合が圧倒的に多い。

 行動なき自信を『思い上がり』もしくは『自惚れ』という。そう、本人にその気がなくとも、然るべき行動をとっていないのに、『どうせ、卒業はさせてくれるだろう』 『国家試験には受かるだろう』と思っていることは、自惚れであり、思い上がりなのである。そして『思い上がり』や『自惚れ』は、必ずと言っていいほど『油断』を生み出すことになる。少々厳しい言い方ではあるかもしれないが、ここの所をしっかりと理解しておいてもらいたいと思う。

 あるいは『卒業はさせてくれるだろう』 『国家試験には受かるだろう』といった態度で振る舞っている人の中に、『私は然るべき行動をしています。試験対策をしっかりと行っています』と反論する方がいるかもしれない。辛口ついでにもう一言だけ言わせていただくならば…本当に然るべき行動をしている、試験対策をしっかりと行っている人間であるなら、間違っても『どうせ、卒業はさせてくれるだろう』 『国家試験には受かるだろう』という思いは浮かばないはずである。そういった思いが生じるということ自体、本当に然るべき行動をしていない、しっかりと対策に取り組んでいない証拠なのである。

 卒業試験や国家試験の対策に、真に行動し取り組んでいるのなら、まず初めにその質・量に翻弄されるはずである。『 これをクリアしなければならないのか… 』と…。前述のように345題の国家試験は強者である。200題の国家試験とは違い、おいそれとは立ち向かえないものである。真の手練れほど、真に恐れるべきものを恐れる。そして、一つ一つ、難攻不落と思える壁を崩していくのである。それが、強大な壁に向かい合った時の、真の攻略法なのだ。少し少し、時間をかけてクリアしていく…少し少しだからこそ、目には見える変化はない。確かなる手ごたえもなく、それでも少しずつ壁を崩していくしかない。その行為に没頭していれば『卒業はさせてくれるだろう』 『国家試験には受かるだろう』などという思い・考えは、決して頭をよぎらないはずである。

 第101回薬剤師国家試験に対し、すでに日本中が動き始めている。もちろん、その中には卒業試験対策への動きも含まれていることは言うまでもない。日本中が動き始めている以上、当事者となる方、すなわち卒業試験を控えている人、次の国家試験を受験する人は、当然ながら然るべき行動をし、しっかりと対策に取り組まなければならない。確かに険しい道のりであるかもしれない。しかし、進めない、到達できない道のりではない。だからこそ、少しでも早く一歩一歩進んで行動していくことが大切である。

 『百里を行く者は九十を半ばとす』という言葉がある。九分どおりまで来てやっと半分と心得、最後まで気をゆるめるな、という戒めの言葉である(デジタル大辞泉より)。しっかりと一歩一歩進んで、九十の所まで来たのなら…もしかすると『卒業できるだろう』 『国家試験に合格できるだろう』という思いが湧いてくるやもしれない。もし九十の所まで来て、そういう思いが湧いてきたのなら…それこそが、真の意味での自信と言えるかもしれない。『自信とはそれ相応の行動があってこそ芽生えるものである』この言葉をしっかりと認識して、1日も早く然るべき行動に取り組んでほしい。そして、九十の所に来た時…そこはまだ半ばでしかないことも、しっかりと心に刻んでおいてもらいたい。そう思っている次第である。

 

努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。

ヘンリー・フォード(米国のフォード・モーター創業者)

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2015年4月17日 | コメントは受け付けていません。 |

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試験対策 ~ 行動なき自信を自惚れという:前編 ~

 ここ数年、『内定者研修で学習指導をお願いしたい』と、様々な企業さんから内定者研修の依頼を受けている。薬進塾のような小さな予備校の学習指導を、企業さんが取り入れてくれるということでさえ、ありがたいことなのだが『捨てる神あれば拾う神あるがごとし』という感じで、毎年途切れることなく企業研修に呼ばれている。何ともうれしいというか、前述のようにありがたいことである。

 先日、ある薬局の方とお話ししている時に、『卒業延期になる内定者が多い』という話題を出された。以前は、10名内定者を取ったのなら、卒業延期になる人は1人いるかいないか。国家試験で不合格になる方が、1~2人。で、総勢7~8名くらいは新人としてその年に入社することになる。ところが最近は、10名内定者を取っても、卒業延期になる人が3~5名ほどとなってしまう場合が多い。そこに来て、国家試験で不合格になる人が、3~4人ほど。なんやかんやで、新人としてその年に入社する人間が2、3人しかいないという状況になってしまう。新人採用の立場としては、非常に困ったことである、という内容の話であった。

 確かに、最近、企業の方から『卒業試験に対して、厳しく指導をしてもらえないか』といった内容の指導を頼まれる機会が多い。単刀直入に言えば『卒業試験は甘いものではありませんよ。しっかり勉強してください』と内定者に伝えてもらいたいというもの。私としては、自分が学生の頃を思い浮かべてみても、卒業試験は決して楽なものではなかったし、この世界で長く学生さんと接してその指導に当たってきたが、どの学生さんも卒業試験に対しては必死だったように思える。だから、前述のような『卒業試験は甘いものでは云々…』といった内容の話を、内定者に伝えてもらいたいと依頼された時には、正直、今一つピンとこないものがあった。しかし…依頼を受けて、一人ひとりの学生さんとマンツーマン(基本的に内定者研修の場合でも、マンツーマンの場合が多い)で指導をしていると、なるほど企業の方が、前述のような内容を依頼をしてくることも、分かるような気がした。何気に多くの内定者(つまり現役6年生の在学生)の方が、卒業試験に関して、それほど深く考えていないようなのである(もちろん全員ではないが)。もっと、ぶっちゃけて言ってしまえば『卒業はさせてくれるだろう』という人が何気に多いのだ。

 実はこれは卒業試験だけに限ったことではない。どうも国家試験でさえ『まあ合格するだろう』などと、能天気に考えている場合が多いようだ。なるほど、これに関しては分からなくもない。こちらも、薬剤師国家試験対策を生業としている人間。昨今の学生さんの変動は、手に取るようにわかる。そして、私も『国家試験は受かるだろう』と能天気に考えている学生さんが増えてきていることには、頭を抱えているのである。『昔は…』などというと、何やら年寄りの懐古調的主義のようで、イヤなのだが…しかし、実際がそうなのだから仕方がない。昔の学生さんは、国家試験に対して誰もが必死であったように思える。イヤ、間違いなく必死であった。『何としても合格しよう』『絶対に受からなければ…』そういう学生さんばかりだったような気がする。合格のために、全てを犠牲にしていたようにも感じる。『受かるため』には、趣味も娯楽も、平穏な日常生活でさえ捨てていたように思える。もちろん、そこまでとはいかなくとも、だれもが必死であったことは間違いない。間違っても、『国家試験は受かるだろう』という言葉を、そう易々と口から吐くような人間はいなかったよう思える。成績の良し悪しに関わらず、誰もがである。

 私が薬剤師国家試験の講師として第一歩を踏み出すこととなった時、国家試験は200題であった。そして国家試験は240題となり、今や345題である。一概に題数だけでは比べられはしないものの、200題のころと比べれば、今の国家試験は相当に大変な試験であるといえるだろう。なのに、それに対応する人間の士気が下がっているというのは、どういうことだろう?もちろん、345題となった現在においても、国家試験に対して必死な人はいるし、『何としても合格しよう』『絶対に受からなければ…』と、全てを犠牲にして試験対策に励んでいる人がいることは確かである。しかし、その真逆の呑気な人が多いことも事実である。これは一体、どういうことなのだろうか?

~ 来週の後編に続く ~

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2015年4月10日 | コメントは受け付けていません。 |

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そんなに悔しがらせたいのか?

 人が何か言うと、『 悔しいから、そういうこと言ってるんだろ 』的な発言をする輩がよくいる。たとえば…前の職場にいた時にこんなことがあった。土産物の洋菓子(7、8個)を皆で食べようということになったのだが…個数的には十分間に合うので、誰が何を食べるかは、あみだくじで決めようということになった。まあ、私としては別に何を食べても構わなかった(基本的に私は甘党ではないから、どれを食べてもあまり差はない)ので、その時の流れで、あみだくじにも参加した。で、私にもとある洋菓子が当たり、それを食べることとなったのだが…何人かがニヤニヤしながら、私を見ている。その時は何故かは分からなかったのだが…まあ、私の食べることになった洋菓子が一番人気がなかったとのこと。前述のように私は甘党ではないので、どれを食べるかには固執していなかったし、第一、食べられないものが当たったわけでもなく、美味しいものが食べられる訳だから、別にそれはそれでよしと思っていた。ところが、ニヤニヤしていた何人かが『 残念ですよね、それ当たっちゃって 』などと言ってくる。私は前述のような思いだったので『 まあ、美味しいもの食べられるからいいんじゃない 』と話したところ…出てきたのが『 悔しいから、そういうこと言ってるんですよね 』という件の言葉。

 まったくもって分からない…。私は私の思いを話しただけなのに、何故『 悔しいから、そういうことを言っている 』になるのだろう?前述の通り、美味しいものが食べられるのだ。何故、悔しいと思わなければならないのだろうか?不思議である。実のところ、私はあまり悔しいという感情がわかない。というと、おそらく件の輩は『 悔しいから、そう言っているんだろ? 』と、また例の言葉を吐くのだろう。堂々巡りである。その言葉を用いる人間は、そんなに相手に悔しいと思ってもらいたいのだろうか?イヤ、そうなのであろう。相手に悔しいと思ってもらいたいのだ。何故だろう?おそらく『 自分は、相手にとっては悔しい存在 』という優越感に浸りたいのではないだろうか?『 相手にとって悔しがられる存在 = 相手より優れている存在・相手より優位な存在 』と、自己陶酔したいだけなのではないだろうか?そう考えれば、前述のニヤニヤ顔の理由も理解できる。自分よりも格下のものを見るような、人として卑しい顔…確かにそういう顔をしていた。件の言葉を用いる人間は、人から悔しがってもらいたい人間、そうされることで自分が人より優れていると思いこみたい人間なのだろう。

 先ほど、少し書かせて頂いたのだが…実は、私はあまり悔しいという感情がわかない。他人に対して悔しいという感情を抱いたことが無いのである。例えば、何かで他人が自分よりもいい成績をあげても、その人に対して悔しいと思ったことはない。勝負の世界においては、勝ちがあれば負けもあるのだ。結果として、そうだったんだなと思うだけで、別に相手に対して悔しいという感情はわかない。順位というモノには、当然上下がある。自分がどこの位置にいようが、それは自分自身だけの問題だと思っている。だから、相手と比較して云々という事もなければ、それによって悔しいという感情が沸き上がる事もないのだ。

 逆に聞きたいのだが、何故、そこまでして悔しいと思わなければならないのだろう?『 悔しさをバネに… 』などという言葉をよく聞くのだが…じゃあ、悔しさをバネにしなければ、事が起こせないのだろうか?自分でやろうと決めて、決めた事をやればいいだけの話ではないのだろうか?悔しかろうが、悔しくなかろうが、自分で選択し、そして自ら選択した事を、自らの力でやり遂げればいいだけの話ではないか?それのどこに『 悔しさ 』が必要なのだろうか?悔しくなければ事を起こせないという事自体、おかしい話ではないだろうか?『 悔しいからやる 』ではなく『 自分で選んだからやる 』ではないだろうか?『 悔しいから、一生懸命やる 』ではなく『 自分で選んだから、責任もって一生懸命やる 』ではないだろうか?『 悔しさをバネに… 』などという、もっともらしい言葉を、したり顔で言っている輩に言いたい。『 じゃあ、あなたは悔しくなければやらないんですか? 』と…。悔しかろうが、悔しくなかろうが、自分が決めたことは全力尽くしてやる。これが大切な…イヤ、当たり前のことなのではないだろうか?

 ちなみに、『 私はあまり悔しいという感情がわかない。人に対して悔しいという感情を抱いたことが無いのである 』と書かせて頂いたが…私にも、悔しいと感じることはある。それは自分自身に対してである。自分で『 こうしよう 』と決めたのに、そこに到達できなかった時は、悔しいという感情が沸き上がる。私の中での『 悔しさ 』とは、人と比べた時の相対的なものではなく、自らが決めたことへの絶対的評価で沸き上がるものなのだ。平均も関係なければ、他人も関係ない。自分自身で決めた事を到達できるかどうか。それだけが、私の『 悔しいか・悔しくないか 』の判断基準なのだ。100点満点の試験で90点取って一番になろうとも悔しい事もあれば、10点取って最下位であっても満足する事もある。『 悔しいか・悔しくないか 』が生じる要因は、あくまでも自分自身に対してのことであり、自分基準での判断なのだ。本来、人間の行動・結果というものは、こういうものなのではないだろうか?その判断に、『 悔しいから 』という要因が入って来る余地など微塵もないと思うのだが…。まあ、『 相手にとって悔しがられる存在 = 相手より優れている存在・相手より優位な存在 』と、自己陶酔したいだけなのだから、余地があろうがなかろう、そんなことは関係ないのかもしれない。まあ、こんなことを書いたところで、件の輩からは『 悔しいから、そう言っているんだろ? 』と一蹴されてしまうのがオチなのだろうが…。

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2015年4月3日 | コメントは受け付けていません。 |

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