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それは言葉とは言わない。

 先日、電車に乗っていた時の事。吊皮に掴まっている私のそばに、若い女性が二人立っていた。イヤフォンをつけながら賑やかに話している彼女たちは、服装も賑やかで楽しそうに話をしていた。そのうち、私が下車する駅へと着いたので降りようかなと思っていると…。賑やかな彼女たちもその駅で降りるらしく、カバンを肩にかけ直していたのだが、女性の一人が手を伸ばしたところ、その手が吊皮に掴まっている初老の男性の顔に当たってしまったのである。すると、その女性『 おっとぉ、ゴメンナサァ~イ 』と一言。何とか言葉のニュアンスを伝えるために、カタカナを使ったり『 ~ 』を使ったりしてみたが、それでもこのニュアンスはなかなか伝わらないだろう。少なくとも、彼女はもっと軽い、悪く言えばふざけた口調でこの言葉を発したのである。もちろん、彼女の両耳にはしっかりとイヤフォンがはまっている。さらに驚くべきことは、彼女は手をぶつけた男性の方を振りかえる事もなく、この言葉を発したのである。これには、さすがの私もたまげた。どうやら『 たまげた 』のは私だけではないようで、手をぶつけられた初老の男性も唖然とした顔をしていた。イヤまともな人間なら、たまげて当然である。何せその女性は、ヘッドフォンをしたまま、手をぶつけた人の方を見るわけでもなく、この言葉を発して何事もなかったように、電車を降りたのだから。

 そう、発した…。これが一番いい表現であろう。『 言った言葉 』ではなく『 発した言葉 』。イヤ、言葉でもないだろう。デジタル大辞泉には、言葉とは『 人が声に出して言ったり文字に書いて表したりする、意味のある表現。音声や文字によって人の感情・思想を伝える表現法 』とある。件の女性が言った『 おっとぉ、ゴメンナサァ~イ 』は『 意味のある表現 』だろうか?『 感情・思想を伝える表現法 』だろうか?いずれでもないと思う。気持ちもこもっていなければ、もちろん相手に申し訳ないという反省もない。ぶつかったという行為から、反射的に音が発せられただけである。そう、反射としてただ単に口から発せられた音…言葉ではない。

 以前、ある仕事で後輩が先輩から怒られている場面に出くわした。苦言を呈する先輩に対し、その後輩は『 すんましぇん 』と一言。私が『 エッ 』と思った瞬間、先輩の口からは『 だから、すんましぇんって言うなって言ってんだろ!俺の事ナメてんのか!』と、さらなる怒号が飛び出すこととなった。当たり前である。悪い事をしたから怒られているのである。それに対して反省の意を示す、お詫びするために謝るのである。『 すいません 』と…。それを『 すんましぇん 』というのは、どういうことなのだろう?『 すいません 』と言わなければならないところを『 すんましぇん』という。やはり、これは反省していないと捕えられても、いたしかたのない行為ではないだろうか? 悪いことしてしまったという反省、そしてそれにより迷惑をかけた人への謝罪の言葉。それが『 すいません 』という言葉である。当然、由緒正しきこの言葉を使うべきではないだろうか?どう考えても、ふざけたとしか思えないアレンジをした言葉を使うべきではないと思う。これは前述の『 おっとぉ、ゴメンナサァ~イ 』を発した女性にも言えることである。

 最近『 あざっす 』という言葉(これも前述のように言葉とは認められないと思うのだが、便宜上『 言葉 』という表現で使わせてもらうことにする。以下の文章でも同じように使わせてもらう)をよく耳にする。『ありがとうございます 』という意味の言葉であろう。まあ、ふざけても良い環境で、あくまでも本心からのお礼の言葉として使わないならば、許されなくもないだろう。しかし、これが日常生活に浸透しているとなれば話は別である。

 今まで書かせて頂いたことを『 最近は言葉が乱れている』『 きちんとした言葉がしゃべれない人が多い 』と解釈する人がいるかもしれない。確かにそれもなくはないが、私としては違う解釈をしている。言葉がおかしいのではない。心がおかしいのではないか?人に申し訳ないという気持ち、人に対して有り難うという気持ち、それがないのではないか?もし、とてつもなく大きな事件をしでかしてしまった場合。果たして『 すんましぇん 』という言葉を発するだろうか?すんでのところで命を助けてもらった時、果たして『 あざっす 』という言葉を発するだろうか?自責の念が強ければ強いほど、謝罪の想いが大きければ大きいほど、感謝の気持ちが重ければ重いほど、こういった言葉は使わないはずである。では何故、件の言葉を使うのだろうか?人に迷惑をかけた事、人に助けてもらった事に対する感情が低いのではないか?お詫びの気持ち、感謝の気持ちのハードルが高くなってしまっているのではないか?謙虚な気持ちの減少。これに尽きると思うのである。よっぽどのことが無い限り、悪い事をしたとは思わない。とてつもない事をしてもらわない限り、ありがたいと思う気持ちが沸き上がらない。だからこそ、正しい言葉を用いない…イヤ、用いようとも思わないし、そういう気持にもならない。これが、前述のような事件が起きる源泉なのではないだろうか?

 昨今は『 何でこんなことを… 』と思ってしまう異常な事件が多いよう思えるのだが…その犯人を見る限り、本人はいたって素知らぬ顔をしていることが多いような気がする。やはり、お詫びの気持ちのハードルが高くなっている、謙虚な気持ちが減少している…その証しなのではないだろうか?何とも悲しい、それでいて空恐ろしい時代になったものだ…とつくづく感じる次第なのである。

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2015年1月29日 | コメントは受け付けていません。 |

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やってはいけない事を何故やるのか?

 家から駅まで自転車を利用することが多い。駐輪には駅地下の駐輪場を利用しているが、そこにはいたる所に『 駐輪場内では自転車を降りて下さい 』といった趣旨の貼り紙がしてある。まあ早い話、駐輪場内では自転車の乗るなということである。にもかかわらず、平気で自転車に乗っている人がいる…イヤ、乗っている人が多い。乗るなと書いてあるからには、乗ってはいけない理由があるということだ。駐輪場内は駐輪スペースを除けば、人がすれ違えるくらいの通路スペースしかない。そこを自転車に乗られると、危険極まりない状況となる。ましてや、地上から降りてくる階段の横に通路があるので、通路から降りてくる人が非常に見えにくい状況となっている。実際、地上から降りてきて自転車とぶつかりそうになった人を何人も見ているし、私自身も、危ない目にあったことが何回かある。恐らく、過去にはぶつかったことがある人もいるのではないだろうか?

 バックカントリースキー・スノーボードが問題になっている。バックカントリースキー・スノーボード自身が悪いという訳ではない。バックカントリースキー・スノーボードとは自然の山に登り、ゲレンデなど管理された場所ではなく、自然の雪山を滑走するスタイルのスキー・スノーボードである。私も詳しくは知らないのだが、愛好家もいたりツアーも組まれていることからして、スポーツとしてそれ相応の地位を確立しているようである。スポーツには、ルールというモノがある。そして、ルールの中には当然『 やってはいけない事 』が設けられている。このバックカントリーに関わるスポーツにしても、それは言えると思う。人の手が入っていない自然の雪山を、スキー・スノーボードで走行するのだ。危険が伴うのは当たり前の話である。だからこそ、バックカントリースキー・スノーボードを紹介している所では『 冬山登山に関する十分な知識と装備、そして経験が不可欠である 』と注意喚起している。危険場所では『 管理区域外では滑らないように(場所の制限) 』と警告しているし、走行できる場所でも『 登山届を提出するように 』とルールを設定していたりもする。これも『 管理区域外では滑ってはいけない 』『 登山届を提出しなければ行ってはいけない 』と、やってはいけない事を提示しているわけである。冬山登山に関する十分な知識と装備、そして経験が無い人は、その条件をクリアできるようになるまで、やってはいけないということも暗示している。しかし、それをやってしまったがために、昨今、色々な事故が起きてしまっているのはご承知の通りである。

 以前いた職場では、社員旅行でよく海外に行っていた。海外旅行では当然のように、ガイドから『 ○○はしないで下さい 』『 △△には行かないように 』という注意を受けることになる。ある時、自由行動になったのだが…それをしようとする同僚がいた(それも一人ではない)。私が『 それは危ないんじゃないのか? 』と問うと、何を言っているんだと言わんばかりに『 大丈夫ですよ 』という答えが返ってきた。何が大丈夫なのだろう?その道のプロの人が『 やらないように 』と言っているのだ。それを、ド素人に等しい人間が、何故、大丈夫だといえるのだろう?もしかしたら、自分はそんな大きな事故に巻き込まれる訳はない、事件・事故などそう簡単に起きることはないだろうと高を括っているのだろうか?日本人は平和ボケしているとよく言われる。至極同感する次第である。何故、事故が起きないといえるのだろう?どうして、自分は被害者にならないと断言できるのだろう?普通の生活を送っていてでさえ、事故にあったり、被害者になる危険性はあるのだ。なのに『 やってはいけない 』ということを、あえてやるならば…その可能性がどれほど高くなるべきものなのか、何故考えることが出来ないのだろう?

 何度か書かせて頂いたが、私には武道の師匠がいる。その武道の教えの中で、師匠から『 絶対にやってはいけない 』と言われていることがいくつかある。それをやることによって、他人や自分が怪我を負ったり、場合によっては命にかかわる状況になるやもしれないからだ。時折、何かの拍子でやってはいけないと言われていることに、近いことをやってしまうことがある。それが師匠の目に留まろうものなら、すぐさま怒号が飛び、烈火の如きお叱りを頂くことになる。当然といえば当然である。前述のように、それをやることにより、第三者や自分が危険な目に合うのだ。そう、今まで書いてきたように、『 やってはいけない事 』には『 やってはいけない 』理由があるのだ。それも、それ相応の場を踏んだ人達が見出した『 やってはいけない理由 』なのだ。何も知らない人間が、おいそれと立ち入ることが出来る領域ではないのだ。

 往々にして、『 やってはいけない事 』をやった場合、それは犯罪となる場合が多い。それはそうであろう。それをやってしまった場合、誰か(それが自分であることもある)が被害を被ることになるのだ。それを考えさえすれば、やってはいけない事をやる人間も減るような気がするのだが…。もっとも…最近、人の迷惑顧みず、目立ちたいがために平気で犯罪を行ったかのように振る舞い、犯罪者であることをあたかも注目される材料のように扱った人間がいたが…どうやら、やってはいけない事をやる人間は、減りそうもないどころか、ますます増えていきそうな気がするのは、私だけだろうか?

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2015年1月20日 | コメントは受け付けていません。 |

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学力が伸びる人【 後編 】

 前回の続きである。学力の伸びる人とは、どのような人だろうか?

 素直な学生さんは成績が伸びる。これは、私の長年の講師歴からいえる間違いのない事実である。本年度も『 入塾してきたときよりも、学力が伸びたなぁ…』という学生さんが何人かいる。職員のMさんに『 Mさんから見て、学力が伸びたなぁと感じる学生さんって誰です? 』と聞いてみると…私が『 学力が伸びたなぁ… 』と感じる学生さんと同じ名前を口にする。で、この学力が伸びたとされる学生さん、いずれも『 素直な学生さん 』なのである。これも私とMさん、同じ意見である。つまり『 あの学生さんは素直である 』と二人とも認める学生さんが、『 学力が伸びたなぁ… 』と感じる学生さんなのである。

 当然といえば、当然である。前回のブログでも書かせていただいたように、我々教える側の人間は、学生さんの学力を伸ばすために、色々な指導をしている。そのために『 こうしなさい 』『 こうするように 』と指導しているのである。その指導を『 分かりました 』と聞いて、行動するからこそ、指導された内容が身につくのである。『 指導された内容が身につく 』…それがここで言うところの『 学力が伸びること 』であることは言うまでもない。

 では、素直な学生さんとは、どのような学生さんであろうか?言われたことをキチンとやる学生さんであることは言うまでもない。講義の中で伝えられたことはもちろん、私が学習指導で伝えた内容もしっかりと実践している。『 こういうのを作るといいよ 』と言うと、ちゃんと作る。『 これはやらない方がいい 』と言うと、それはやらない。素直に言う事を聞いてくれるから、指導し易いことこの上ない。こちらの指導に対して『 ハイ、分かりました 』と行動してくれる。なんやかんや理屈をつけてはやらなかったり、不平不満を述べながらチンタラやっているようなこともない。それでは『 素直にやっている 』ことにはならない。素直な学生さんでも、時には小言の一つ二つを言うことが無くもない。しかし、あくまでも小言止まりであり、それが不平不満へと発展しているところなどは、終ぞ知らない。そして、小言を言った後は、しっかりと行動している。もちろん、小言抜きで…。

 『 素直である 』ということは『 臨機応変である 』ということも出来る。その場、その場の状況に、柔軟に対応出来るのだ。これを『 素直な対応 』という。例え自分の思っていた通りでなくとも、それに合わせて行動することが出来る。素直じゃない人間は、自分の思っていたことと違う状況に遭遇すると、途端に不平不満を口にし始める。そして、自分の思っていた通りではなかったことを理由に、行動することを止めてしまう。行動することを止めてしまうのだから、身につくものも身につかなくなってしまうのは当然の話である。自分にとって100%いい状況、100%いい環境などまずありえない。こと試験対策においてはそうである。いや、試験そのものでさえも、自分の思っていた通りにならない場合の方が、圧倒的に多いのだ。そんな状況に対しては、素直に従う事こそがその状況を突破する最善の策である。変えられない状況には、素直に従う事が活路を見出す一番の方法なのだ。ちなみに、『 環境に従うこと 』これを適応といい、『 状況に従うこと 』これを対応という。いずれも、素直な人間でなければ成しえないことである。実際、素直な学生さんはイレギュラーに強い。私はよく言う。『 イレギュラーに如何に対処できるかが、その人間の強さだ 』と。素直な学生さんは、イレギュラーな状況も素直に受け入れる傾向が強い。もちろん、イレギュラーに対しての不平不満も言わず、すぐにそれに取り組む姿勢を取る。いかなる状況に対しても素直に対応出来るのだ。これほど強いことはない。勉強を続けていけば、イレギュラーな事など山のように起きる。試験対策が長期になればなるほど、イレギュラーな事の回数は増えていくことになる。素直な学生さんは、その度に柔軟な姿勢で対応していけるのだ。これを強さと言わずして、何が強さであろうか?

 素直な学生さんは、すぐに相談にくる。これも、試験対策において有意義に働いていることは間違いない。分からないことを、分からないこととして素直に受け入れ、そして指導して欲しいとやってくる。まさに、素直な姿勢である。そして、その指導も素直に聞きいれる。前述のように素直な学生さんは指導し易いので、指導もスムーズである。スムーズであるからこそ、よく伝わる。まさに好循環である。

 学力が伸びる人は素直な人である。少なくとも、何かを学ぼうとしている人間にとって素直な態度は必須のことである。やれと言われたことをやる人、斜めに構えていない人、嘘をつかない人、嫌いな人に不快な行動をとらない人、こういう素直な人が一番学力が伸びることは間違いない。もっとも、我々講師陣も素直な学生さんが一番教えやすい学生さんである。教える方が教えやすいと感じているのだ。教える内容が伝えやすいのも、至極当然のことといえば当然のことではないだろうか?当塾の講師が時折、『 あの学生さん、成績いいでしょ?  』と聞いて来る事がある。その通りだと伝えると『 やっぱりね 』という答えが返ってくる。『 どうしてですか? 』と聞いてみると『 素直だもの 』といった答えが返ってくる。それも一人や二人の講師がそういっているのではない。当塾のベテラン講師陣も、やはり同じ意見なのだ。

 学力が伸びる人は素直な人。どうやら、これは間違いない事実のようである。

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2015年1月14日 | コメントは受け付けていません。 |

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学力が伸びる人【 前編 】

 以前、『 学力の伸びない人 』という内容で、2週に渡り前編・後編という形でブログを書かせてもらった。当ホームページの閲覧数は日々確認しており、当然ながらブログの閲覧数も常にチェックしている。で、前述の2つのブログ。殊の外、閲覧数が多い。時には、閲覧数上位常連のページを差し置いて、2位に輝くこともあったりする。やはり、学力が伸びる・伸びないということに関しては、受験生たるや気にせずにはいられないことなのだろう。

 先日は『 学力の伸びない人 』で書かせてもらったが…では『 学力の伸びる人 』とは、いかなる人であろうか?『 学力の伸びない人 』がいるように『 学力の伸びる人 』がいることも確かである。『 学力の伸びない人・後編 』の最後に書かせてもらったが『 単に(ブログ中で書かせてもらった)①~⑤に当てはまらないように行動すればいい 』というのも、確かに学力の伸びる人の行動特徴である。しかし、もっと短直に『 学力の伸びる人 』が、どういう人かを書くことは出来る。では、学力の伸びる人とは、どのような人なのだろう?『 素直な人 』である。素直であることこそが、学力が伸びる最大の秘訣といっても決して過言ではないだろう。

 薬剤師国家試験の内容は言わずもがな、何であろうともモノを学ぶ上で必要なことは素直な事である。何を学ぶにせよ、素直な人というのは上達が早いのは確かである。もちろん、時間のかかる人もいなくはないが、時間こそかかれ、確実に実力がつくことは間違いない。つまり、素直な人というのは〝モノを習得し易い人〟なのである。

 では〝モノを学ぶ上での素直な人〟というのは、一体どういう人であろうか?『 やれと言われたことをやる人 』これが、モノを学ぶ上での素直な人である。教える内容が何であれ、教える人間は教わる人間にモノを伝え、それを身に着けさせなければならない(それが教えるということである)。教えているモノが身につくために『 こうしなさい 』『 こうするように 』と指導しているのである。その指導を『 分かりました 』と聞いて、行動するからこそ、指導された内容が身につくのである。当然、その指導通りに行動しなければ、指導内容など身につくはずもない。指導されたことをやらなくても、『 (指導内容が)身についた気になる 』ことはあるだろう。しかし、それは本人が『 身についた気になっている 』だけの自己満足であり、実際に身についているわけではなく、さらには今後も身につくことなどあろうはずもないことは確かである。斜めに構えている学生さんをよく見かけるが、『 身についた気になっている 』タイプの典型的な例といっていいだろう。講師の言う事を軽んじて、素直に受け止めない。そういうタイプの人間に限って、そこそこ点数がとれているから、余計に性質が悪い。『 あんな先生の言った事など聞かなくても、自分は… 』などという具合に、勝手に始めてしまう。当然、学力など上がるはずもなく、数点足りなくて残念な結果に…というお決まりのパターンを選択することになってしまう。そういう学生さんを、今まで何人見てきたことか…。

 嘘をつく人というのも、素直な人ではない。講師に平気で嘘をつく学生さんもよくいるが、往々にして成績が芳しくないのが事実である。『 嘘をついて欠席する 』『 何故遅刻したのか嘘を言う  』『 勉強をしなかった理由を嘘でごまかす 』という学生さんも何人も見てきたが・・・もちろん学力など上がるはずもなかったのは確かである。裏表がある人というのも、素直な人ではない。人(それは講師であったり、学生さんであったり、会社の人であったりまちまちではあるが…)の前では調子のいい事をいったり、それ相応の態度をとっているが…裏ではその人のことを悪く言ったり、小馬鹿にしていたりする学生さんも多々いる。そして、これも学力の伸びが良くないタイプの人間であることは、間違いないようである。

 嫌いな人に嫌がらせをしたり、無視をしたり、相手が不快になる行動をとる学生さんもいるが、これも素直な人ではない。『 嫌いなことを、嫌いと表現しているのだから、素直じゃないですか 』という人がいるかもしれないが、とんでもない勘違いである。そういう人を『 ひねくれた人 』という。ひねくれた人が、素直な人じゃないことは言わずもがな。嫌いな人、気に入らない人に対して、何らかの攻撃(それは嫌がらせをしたりだとか、無視をしたりだとか)をするということは『 自分の気に入らない事を否定する 』ということである。もっと、はっきり言うならば『 自分の思い通りでないことは受け入れない 』ということである。素直というのは、例え指導が自分の思い通りではなくとも、身につけるためにそれを受け入れるということである。そして、そういうモノを学ぶ姿勢を『 素直な姿勢 』というのである。自分の気に入らない事や気に入らない人を否定するような人間は、素直な姿勢など取れるはずもない。よって、そういう人間は素直な人とは呼べない人ということになる。悲しいかな、こういうタイプの学生さんもいることは確かである。もちろん、私が知る限り、あまりいい目には合っていないようであるが…。

 …と、今まで書かせて頂いたが、私の悪い癖か文章が思いのほか長くなってしまったようである。本当ならば、本ブログ中に、素直な人が学力が伸びる人であることを書ききりたかったのだが…。『 学力の伸びない人 』の場合と同じように、本編も前半・後半の二部構成にさせて頂きたい所存である。次回、ブログを乞うご期待あれ(笑)!

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2015年1月7日 | コメントは受け付けていません。 |

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