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九十九神

陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号す。

 室町時代の『付喪神記』の冒頭部より。

 

 九十九神(つくもがみ)については諸説紛々あるが…早い話、器物も年を重ねると色々な不思議な力を持つようになり、精霊・神の類となる。これが九十九神ということである。「冷泉家流伊勢物語注」によると、器物は100年経ったら付喪神(こちらも〝つくもがみ〟と読む)となり色々と変化することが出来るが、100年に1年足りない九十九年でも変化し始めるようになるらしく、これが九十九神とのこと。いずれにしても、長い年月を経た器物は〝神〟の文字がつくように、色々な不思議な力を持つということである。怪異好きな私としては、是非一度お目にかかりたいと思っている所存である。

 先日観たテレビで、古きものを再生する職人達の話をやっていた。長く使われ老朽化したものを修理して、新品と同じように再生する。再生とは『再び生きる』ことであり、再生させるとは『生き返らせる』ことである。すなわち、『再び生を吹き込む』ことであり、『新たなる魂や生命を吹き込む』ことである。新たなる魂を込められ再生した器物は、その魂のエネルギーを謳歌するかのごとく、またその役割を果たしていくことになる。先日観たテレビの中では、修理を依頼した人が思い出の品を職人に渡す所から始まっていた。職人は古くなった部分を削り、切り取りしながら、新たなる材料を継ぎ足し、張替して、一つずつ少しずつ手間をかけながら再生していっていた。そして完成したモノを依頼主へと届けたのだが…新たに生まれ変わった依頼品を見て、依頼主は喜びの表情を浮かべながら、同時に涙も浮かべていた。そして、それを見ていた職人の目にも、やはり涙が浮かんでいた。これだけの人の歓喜の感情が込められるのだ。そして、その後も何人もの人達から愛情を注がれながら使われていくことになる。そりゃあ、ただのモノといえども、神にでもなって当たり前であろう。

 現代は『使い捨て』『新しいモノが出たら飛び付く』『治して使うことを知らない』といったことが普通に罷り通っている時代である。そんな世の中では、モノに愛情が注がれることもなければ、モノに対する愛情も薄いものになってしまうのは至極当然のことであろう。ましてや、二次元世界のバーチャルな実体無き『モノとも呼べないモノ』ばかり相手にしていれば、『モノとは何か?どう扱うべきか?』さえ分からなくなってしまうのも当然のことであろう。二次元世界のバーチャルなモノは、スィッチをoffにすれば、すぐにこの世から消え失せてしまう。必要とあらば、またスィッチをonにすればいい。存在しているのか、していないかも定かではないが、少なくとも『大切にしよう』という気持ちが芽生える事のないモノであることは確かである。どうやら、九十九神にはなりえないモノのようだ。

 二次元世界のバーチャルなモノでなくとも、現代は何でもすぐに手に入る時代である。昔は、おいそれとはモノが手に入らなかった。だからこそ、大切に使い、修理して使い、長く使ったのだ。現代は、何でもすぐに手に入る時代である。そして「修理する位なら、新しく買った方が…」という言葉が、まかり通っている時代である。そんな世の中では、長きに渡って使われるモノなど少なくなって当然であろう。ということは…九十九神に出会う機会…イヤ、九十九神が生まれる機会も、少なくなって来ているということになろうか…。

 前述の職人は再生させることが楽しいといっていた。一ヶ所、また一ヶ所と手直しされて甦っていくモノを見て、本当に楽しげな表情を浮かべていた。再生され出来上がった依頼品も、どこか喜びあふれているように見えたのは私の気のせいであろうか?イヤ、再生されたモノとて、嬉しいはずであろう。職人の魂と再生を依頼した人間の愛情がこんこんと注がれているのだから。そのモノを作った人の魂も込められ、使っている人の愛情も込められ、さらに修繕した人から魂を込められ、再びそれを使う人からの愛情も注がれ…ここまて魂と愛情を込められるのだ。前述させてもらった通り、そりゃあモノといえども、神にもなろう。これほどのものが注ぎ込まれているのだ。逆に…オートメーション化された行程で大量生産され、使い捨てされる現代では確かにモノも神には成りにくかろう。

 何とも寂しい話である。九十九神にあったことのない私としては、ぜひとも九十九神に一目お会いしたいと思っているのだが…。会いたいと思っていても、現代では誕生する機会がめっぽう減ってしまっているのだから始末に悪い。九十九神とはいえ、立派な神様である。そんな神様に会い難い世の中とは…イヤ、会えないどころか、九十九神という神様でさえ、誕生しにくい世の中なのだ。何とも、恐れ多い世の中になったものである。

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2014年10月28日 | コメントは受け付けていません。 |

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国家試験対策は大変である。

 …と自覚することから、国家試験対策は始まります。だからと言って、怖じ気づく必要はありませんし、不安に苛まれ頭を抱え込むこともありません。ただ『 大変なことである 』ということは自覚しておいて下さい。『 大変なことなんて聞いたら不安になるだろ? 』とおっしゃる方がいるかもしれません。でも、それでいいのです。不安になるから『 じゃあ、どうしようか? 』と、事は進むのです。大変だからこそ、不安になるからこそ『 どうしよう? 』と歯車は動き出すことになるのです。『 早めに対策を始めないと間に合わないな 』『 どうやって勉強していこう? 』といった〝国家試験対策の歯車〟が回り始めるのです。そして、ここから真の意味での国家試験対策が動き出すことになるのです。

 逆を言うならば『 国家試験対策は大変である 』と自覚しなければ、国家試験対策は始まりません。『 別に大変だなんて思っていませんけど、試験対策はやっていますよ 』という方がいらっしゃるならば…その考えは、早めに改める事をお勧めします。大変であることを自覚せずに行っている試験対策など、ただ受け身的にこなしているだけの流れ作業にしかすぎません。そんな対策で乗り切れるほど、国家試験は甘くはないのです。大変であることを自覚せずに行っている試験対策は、それを自覚して行っている試験対策とは、比べ物にならないくらい効率の悪いモノになってしまいます。大変であると自覚せずに試験対策を行っている人は、ここらで鉢巻きを締め直した方がいいと思いますよ。もっとも、キチンと勉強している人ならば、大変であることを実感されていることとは思いますが…。

 実は、昨今気になっている事があるのですが…それは『 国家試験対策は大変である 』と自覚していない人が多くなってきているという事。イヤ、それどころか『 国家試験対策は簡単なものである 』と思っている人が、やたら増えてきているような気がするのです。私一人が思っているだけなら気のせいで済ませることも出来るのですが、大学の先生方は言うに及ばず、私が内定者研修を依頼されている薬局や企業の方からも、同じような内容の話を聞く機会が増えているのです。どうやら、国家試験対策に長く関わってきた人達は、皆そう思っているみたいなのです。

 以前、ある人(国家試験受験生)からこんな言葉を聞きました。『 最低限、これだけやっておけば受かるというのが知りたいんですよ 』。さすがの私も閉口してしまいました。そんなものがあるならば、我々講師は苦労しません。何故、長い時間をかけて、広い範囲を講義していくのか?そう考えて頂ければ、自ずと『 そんなものあるはずがない 』と分かるはずです。もしかすると、講師なのか山師なのか分からないような輩が、そんなものがあるといった内容、若しくはありそうなそぶりを見せたのかもしれません。しかし、そんなものを信じたところで、痛い目を見るのは信じた本人であることは間違いありません。

 『 最低限、これだけやっておけば受かるというのが知りたいんですよ 』という言葉が発せられるということは、如何に『 国家試験対策が大変である 』かを自覚していないか、『 国家試験対策は簡単なものである 』とあしらっているか、そういった事が如実に表れている証拠だと思います。『 とにかく暗記すればいい 』『 語呂合わせだけで対応しよう 』なんていうのも、国家試験対策を軽く考えている証拠だと思います。私は学生さんに言います。『 試験勉強というものは「コレだけやりました。だからコレだけ(成績が)上がります」といった簡単なんモノではない 』と。確かに、真っ当な勉強をしていれば、成績は上がります。しかし、『 やればやっただけ比例関係ですんなり上がる 』というモノでもないのです(もちろん個人差はありますが…)。だからこそ、それ相応のしっかりとした対策というものが必要になって来るのです。『 最低限、これだけやっておけば受かるというのが知りたい 』などというスタンスでいる限り、対策を立て・実践するということからは無縁であることを、しっかりと認識する必要があると思います。

 ベテラン揃いの薬進塾の講師とて、薬剤師国家試験に対して『 (学生さんは)皆、大変だよなぁ…早く受かっておいて良かったよ 』と口をそろえて言っています。それくらい、薬剤師国家試験に合格する、そしてそれに向けて対策を立てて勉強していくということは大変なことなのです。しかし、『 大変である 』ということと『合格できない』ということはイコールではありません。大変であろうとも、しっかりと対策を立てて、身のある勉強をしていけば、必ず合格へと導かれることになります。薬進塾の講師陣の言葉にある通り、国家試験は少しでも早く合格しておくに越したことはありません。そのためにも、『 国家試験対策は大変である 』という言葉を胸に秘めて、しっかりとした対策を立てて、実践していくことが必要になってくるのです。

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2014年10月20日 | コメントは受け付けていません。 |

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言うは易し。

 ブログを書き続けるのもなかなか大変である。元来、筆不精な性質ではないので、文章を書くことに対しての苦痛はあまりない。ブログで何度も書かせて頂いているが、どうも書き始めてしまうと文章が長くなってしまう性癖がある。だから、どちらかと言うと『書くことの苦痛』よりも『短くすることの苦痛』の方が、私にとっては多大なる問題となる。以前、国家試験の学習指導に関する執筆を依頼された事がある。まず初めの1号分の原稿をと、意気揚々と執筆に取り組んだのだが…書きあげた原稿を提出するや否や「長すぎますよ(笑)。これだと、4号分位です(笑)」言われる次第。我ながら『やはり長かったかな』と反省したまでは良かったのだが、大変だったのが、その後の『如何に原稿を減らすか』の作業。一応、こちらとしても書く以上は、起承転結を考えながら文章を構築している。『ここを減らせばいいや』と簡単に削れるものではないのだ。ジェンガ(直方体のパーツを組んで作ったタワーから崩さないように注意しながら一片を抜き取り、最上段に積みあげる動作を交代で行うゲーム)のように、ここを削ったからこちらは云々、あそこが削られたのだからこっちを云々…という具合に構成を整えていかなければならない。出来上がった文章を削っていくというのも、中々大変な作業なのである。

 以前勤めていた職場で、やはりHPのブログの執筆を担当していた事がある。HPを新たに作るという事で、ではブログも載せようという話しになり、お鉢が回ってきた次第。で、本ブログと同じように週一で更新する形でブログを執筆していたのだが…。掲載して間もない(一年も経っていない)という事を考えれば、閲覧数はまずまずと言ったところ…と思っていたのだが、上の人間曰く『こんなんじゃ全然ダメ。一日の閲覧数が200とか300じゃなければ意味が無い』とのこと。200とか300…。今でこそ、当薬進塾のブログも沢山の人に読んでもらえるようになり、1日の閲覧数がそういった数字になる事もままある。しかしだ。この閲覧数だって、昨日今日で成った数字でないことは、お分かり頂けると思う。何年もかけて、毎週、毎週更新して書き続けた成果が今になって出てきたのは確かだ。前回のブログで書かせて頂いた『育てる』ということも、ここにつながって来る。パッとやってパッと成果が出る、それも多大なる成果が出る事なぞ、まずあり得ないのだ。確かに巷で耳にするブログは、閲覧数が1日ン万とかン十万とかといったブログかもしれない。しかし、それが耳に入るから、それがノーマルだと思われてしまってはたまらない。『そういったブログもある』というだけの話でしかないのだ。そういったブログとて、1日やそこらでその閲覧数に至った訳ではない。確かに、ノーマル基準と比較した場合には、ある程度速いスピードでその閲覧数に達したかもしれない。しかし、それとてある程度のブログの継続があったからこそ、その閲覧数に達する事が出来たのではないだろうか?

 そんなこんなで、どうも私のブログにご不満だった上の方は、しまいには『自分がブログを書く』といい出し、私はお払い箱となってしまった。まあ、書くことが出来なくなるというのはチョット寂しかったのだが、仕事が一つなくなった事と、ブログに関してアレやコレや言われることから解放された事を思うと、結構気楽になった事も確かであった。で、鳴り物入りで始まったそのブログは、どうなったであろうか?賢明なる読者の方ならお気づきかもしれないが・・・はたして5回も掲載されたであろうか?数は定かではないが10回も掲載されていない事は確かである。もちろん、週に一回の更新などあったのかどうかも定かではなく、気がつけば・・・『そういえば、なんか内容が変わっているなぁ・・・』なんていう程度の掲載状況。何気に調べてみたのだが、閲覧数なぞ、ご本人が口にしておられた200、300なぞ、夢のまた夢といった数字。結局、お約束通り、このブログは自然消滅となってしまった。

 『200とか300じゃなければ意味が無い』と口にすることは簡単なことである。しかし、その数字がどれだけの数字なのか、分かっていたのだろうか?数字だけではない。『ブログを書く』と口にすることは簡単なことである。しかし『書き続ける』『毎週ブログを掲載していく』ということが、どれほど大変なことなのか分かっていたのだろうか?やってみなければ分からないだろうが、やっている私から言わせて頂くなら大変なことである(それでも、ブログの更新が遅れてしまう事があり、閲覧しに来て頂いている方には、申し訳ない次第である)。『やってみなければ分からないのだから、前述のような事を口にするのもいたしかたない』という人もいるかもしれない。しかし、『やってみなければ分からない』のだからこそ、安易な事を口にするのは慎むべきではないだろうか?それが社会人としての行動だと私は思う。巷で耳にした事や、小耳に挟んだだけの情報、人が何気に行っている行動(今回は『ブログを書く』という行動)を、自分というフィルターを通し、自分の立ち位置から客観的に判断することが大事なのではないか?正しいのだろうか、簡単なことなのだろうか…『言うは易し』であるが『行うは難し』ではないか?と…。そういうモノの捕らえ方をしなければ、巷の情報に振り回され、自分の考えは間違ってはいない、という人間が出来あがってしまうよう思える。もっとも、昨今はそんな人間が増えてきているような気もしなくはない。まあ、私の気のせいであって欲しいとは思うのだが…。

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2014年10月13日 | コメントは受け付けていません。 |

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育てる。

 育てる事がヘタな人が多いと思う。『育てることがヘタな環境が多い』『育てることがヘタな組織が多い』といってもいいだろう。以前、私が携わった仕事での話。チームを組んで、とある仕事を始めることとなった。始めたばかりの仕事であるから、当然、最初の見入りなぞは限られたものでしかない。私としてはある程度の期間を見据えて仕事に携わっていたから、最初の見入りとしてはまずまずといったところ…と思っていた。しかし、どうも上の方は納得がいかないご様子。前述のように、始めたばかりという観点から見れば出足は好調。もちろん、大きなミスなどもない。何が納得いかないのだろうと思っていると…上の方、開口一番『○社は△△も稼いでいる。もっと○社のみたく稼がないとダメだ』とのこと。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。○社は業界でも最古の実績ある会社。昨日今日始めた我々とは違い、知名度もあれば実績もある。当然、スタッフの数など比にもならず、日本各地に支社があれば、業務内容にだって雲泥の差がある。しかし、当たり前である。前述のように、我々は昨日今日始めたばかりなのだから。そんな、新参者と老舗を比較されてとやかく言われても、何と返答していいのかさえ見当も付かない。イヤその前に…そんな新参者と老舗を比較すること自体おかしいのではないか?『そうやって発破をかけて云々』と、お考えになる方もいらっしゃるかもしれないが、発破のかけどころが間違っている…イヤ、発破のかけどころを勘違いしているとしか言えないだろう。と思ったので『我々はまだ始めたばかりですよ。あそこと比べてもしょうがないんじゃないですか?』と伝えたところ『そんな悠長なことは言っていられない。○社のみたく稼がないとダメだ』との一点張り。時間がかかるのが気に入らなかったのかどうかは定かではないが、そこそこの成果を上げてはいたものの、しばらくしないうちにそのチームは解散となった。

 パッとやってパッと成果が出る。確かに、そんなことがない訳ではない。何につけても例外というものはあるのだ。しかし、その例外をノーマルだと思ってしまうと少々たちが悪い。手痛いしっぺ返しを食らうのは必然であろう。何故なら『物事を育てるのには時間がかかる』…これが、この世界におけるノーマルだからだ。

 どうも昨今、『時間がかかることは悪』とする傾向が見受けられる。『すぐに成果を求める』『すぐに成果が得られなければイヤ』という考え方が跋扈しているように思える。前述の話もそうではないか?始めたばかりなのだから、それ相応の成果が出るには、当然時間がかかる。しかし、時間がかかるのはよろしくない。この悪しき考え方が、何気に現代社会に普及してしまっているような気がするのだ。

 私は『インスタントで手に入るものは、所詮、インスタントで手に入るだけの価値しかない』とよくいう。すぐに、手に入るものなぞ、たかだかその成果は知れたものでしかないのだ。それ相応の成果を手に入れるには、それ相応の手間ひまがかかる。仕事にしても、勉強にしても、人にしても、それ相応の手間ひまをかけてこそ、初めて『優れた成果』へと変貌を遂げることになるのだ。そして、これを『育てる』という。昨今流行の『手間ひまかけずに、すぐに大きな成果をたくさん手に入れる』これは『博打』という。『育てる』と『博打』が違うことなぞ、小学生でもわかるはずだ。しかし現代社会では、いい大人でさえ、そこのところがわかっていない輩がたくさんいるのだ。だからこそ前述のように、『現代社会では育てるのがヘタな人、ヘタな環境が多い』と思ってしまうのである。イヤ、そもそも『育てるとは何か、どういうことなのか』を分かっていない人間が多すぎるのだ。

 育てることには時間がかかる。しかし、『時間がかかることは悪』とする傾向が昨今にはある。これでは、育てるということが出来ない環境や人が多いのも当たり前であるし、当然ながら育てるとはどういうことなのかを理解できない人間が多くなるのも当たり前である。『育てる』とは『時間をかける』ということでもある。時間なぞかけたくない、今すぐに成果を手に入れたい。そんな人間が多ければ、仕事も人も育てられないのは当たり前であるし、育てることを理解できない人間が多くなるのも当然である。

 私の武道の師匠は、それはそれは有名な方で、名前だけではなく当然ながらその腕も天下無双と言えるほどの人物である。そんな師匠であるから、もちろんのように弟子が何百人もいるのだが…師匠曰く『10年程度で一人前の師範となれるように弟子達に指導を行っている』。師範になるのに10年の歳月を見越して稽古をつけているのである。これぞ育てるということの真骨頂ではないか?

 学力を育てるということにも同じことが言える。昨今の学生さんたちは、やはり手間ひまかけることを嫌う傾向にある。世の傾向がそうであるのだから、致し方ないところもあるかもしれない。しかし、周りに流されずに、自分自身をしっかりと持って、大事なことを見据えなければならないのではないか?『育てるということは、手間ひまかかること』なのだと。『自分の学力を育てる』ということにも同じことが言える。『育てる』ためには『手間ひまかけなければならない』ということ。そして、当然『時間がかかる』ということ。すぐに成果を得たい気持ちも分からなくはない。しかし『インスタントで手に入るものは、所詮、インスタントで手に入るだけの価値しかない』のである。皆さんは、国家試験合格を目指しているはずである。その手段として『育てる』を使うのか?それとも『博打』を使うのか?それは、その人次第である。

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2014年10月6日 | コメントは受け付けていません。 |

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