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人を笑わば穴二つ。

 以前勤めていた職場でのこと。その職場は、とある都市にも支店を構えていたため、私もその都市へと出張する機会がよくあった。泊まりになることが多かったため、自分で宿を見つけては宿泊していた。そんなある日のこと…その都市の支店に勤める人間から、電話がかかってきた。仮にその電話の主をAさん(女性)としよう。Aさん曰く「○日にウチに出張に来ますよね?ホテルはまだ取っていませんよね?」とのこと。それ以前にも、その支店へは何度も出張に行っているが、そんな電話は初めてのこと。何とも変な電話だと思いながらも、ホテルはまだ取っていないと伝えると…「こちらでホテル取ったので、取らないで下さい」と言われた。こんなことも初めて…しかも、勝手にホテルを取っておいての事後報告。何とも訝しい話であるが、無碍に断ると後がややこしくなることも簡単に想像できる。さらに「大学の先生が取ってくれた部屋なんで絶対に泊まってくださいね。泊まらなかったり、キャンセルしたりすると先生に迷惑がかかるので」と、これまた胡散臭さ100倍の話の内容。しかも話しているAさん、どこか楽しんでいるような口ぶり。何か企んでいるのはバレバレである。前述のように面倒くさいことになるのも厄介だし、まあホテルに泊まるだけだからいいかとOKすると…これまた、今までにも増してうれしそうな声でAさん「絶対ですよ。絶対泊まってくださいね」といって電話を切った。

 単刀直入にいうと、泊まったところで何もなかった。まあチョット部屋のデザインが派手かな…位で泊まる分には何の障害もなかったのである。で、ホテルをチェックアウトして、そのまま件の支店へ。すると私を待ち構えていたかの如く詰め寄るAさん。開口一番「どうでした?」とこれまた嬉しそうな顔でニコニコと聞いてくる。「別に、何もなかったよ」と言うなり…顔を曇らせるAさん。「何もなかったんですか?」と聞いてくるので「ん、何も…」と答えると、さらに不機嫌そうになりながら「えっ、本当に何もなかったんですか?」というので「部屋がチョット派手だったかな」と答えると…より一層不機嫌そうな顔で、そそくさと自分の席についてしまった。ここまでバレバレで人をハメる人も珍しいと言うか、よっぽど愚鈍だと思うのだが…。まあ結論から言うと、そのホテルのその部屋は、かなりの確率で幽霊が出るとかで話題になっていた部屋だったらしい。何も知らない私をその部屋に泊めて、困らせてやろう。そして、それを笑いものにしようという魂胆だったらしい(人づてに聞いた話ではあるが)。以前『「和室なんですけど…幽霊が出るんですよ…」そんな所に泊れと言われても…』というブログで書かせてもらったのだが、私は幽霊と言われるもの(だと思う)をちらっと視たり、心霊体験と辛うじて言える程度の軽い体験をしたことは何度かある。そんな私であるが、その部屋には何のイヤな感じもしなかったし、何も見なければ、不思議な体験一つしなかった。自分で言うのもなんだが、こう見えても信心深いほうである(笑)。そのせいもあるのか、そんな曰くある部屋に泊まっても何もなかったのである。

 一方、Aさん。チョットした事件があり、その後仕事において彼女が負担を抱えなければならない状況が出始めた。さらに、そんな状況なのに、よくない評判がチラホラ聞こえてくるようにもなった。傍目から見ても、仕事でも人間関係でも、かなりキツイ状況であることは手に取るように分かった。私はその後、その職場を退職することになったのだが、聞いた話によると、私が退職した後、Aさんは周りからの風当たりがかなり強い状況になったとの事。原因は定かではないが、彼女なりに非常に居心地の悪い環境になってしまったのである。結局、Aさんはその職場を離れてしまったそうである。

 Aさんが、何故私をその部屋に泊めようとしたかは今となっては定かではない(別に私はAさんに何かした訳ではない)。しかし前述にあるように、私が知らないのをいいことに、そういう企みを企て、笑いものにしようとしたことは確かである。ホテル宿泊の電話をかけてきた時や、ホテルから直行で職場に来た時の嬉しそうな声、何もなかったと伝える私に対しての機嫌の悪さからもそれは十分伺える。人を苦しい環境において、それを笑いものにするとは如何なものなのだろうか?彼女一人だけの企てではないことも後日判明したのだが、皮切りは彼女だそうである。そして、その件の部屋に宿泊した私には何もなかったが、それを企てた彼女のその後は前述の通りである。『人を呪わば穴二つ』というが、『人を笑わば穴二つ』ということも十分にありえると思う。画策して、人をはめて笑いものにしよう、陰で笑ってやろうなどという行為は、当然、それを画策した人間の身に災いが降りかかる結果となるのだ。もっとも…彼女は、『件の部屋の宿泊者に良くないことが起きる』ことを利用して私をはめようとした。そして、そのせいかどうかは定かではないが、はめられようとした私ではなく、はめてやろうとした彼女自身がつらい立場になってしまった。とすると…やはり、この場合は『人を呪わば穴二つ』といった言葉の方が適切なのかもしれない。

 

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2014年9月29日 | コメントは受け付けていません。 |

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そろそろ見直しましょうか、第99回国家試験!

 前回の国家試験を受けた方。第99回の薬剤師国家試験問題、どうしてます?「あんなもの2度と見たくない!」と、どこかにしまい込んじゃっている人も多いのではないでしょうか?まさか「捨てた!」なんて人は…。時たまいるんですよね、捨てちゃう人。捨てるのは…う~ん、もったいない!そりゃあ「縁起の悪いモノ」と思ってしまう気持ちも分からなくはないのですが…。でも、その国家試験には、あなたが汗水流して得てきた知識を縦横無尽に駆使して対戦した、偉大なる業績が刻み込まれているのですよ。それを「合格しなかったから、いらない!」とか「縁起でもない!」という扱い方をするのは、やはり「もったいない」の一言に尽きます。ましてや捨ててしまうなんて…もちろん、捨てていない人がほとんどだとは思いますが…。でも、捨ててはいなくとも「別に見るつもりはない」とか「第99回の問題集(ここで言っている〝第99回の問題集〟とは、市販されている過去問題集のことです)は買ったから、別に見なくても…」と言う人も同じです。見直していないよ言う事も、もったいないことなのです。

 「さっきから第99回の国家試験を見直さなければ、もったいないって言ってますけど、何がもったいないのですか?」と思っている方も多いと思います。一体、何がもったいないんでしょうか?それは、先ほども書かせてもらったように、第99回の国家試験問題には『あなたが国家試験を受験した偉大なる業績が刻み込まれている』からなのです。残念ながら市販の〝第99回薬剤師国家試験問題集〟には、あなたの業績は刻み込まれていません。〝第99回薬剤師国家試験問題〟には、「この問題、選択肢aを○にしている」とか「この問題、答2か3かで迷っているな」「計算途中で止めちゃっている」「後はほとんど見直してない、時間なかったんだよな」という『試験と対戦したあなたの攻防』が、刻み込まれているのです。第100回国家試験を受験するあなたにとって、「自分がどう解いたのか?」「自分はどう考えたのか」といった『試験に対する攻防』が記されている第99回国家試験問題は、非常に重要なアイテムの一つなのです。国家試験対策を行う上で、こんなすばらしい道標となるべき教材なんて、世界中のどこを探しても他にはありませんよ。あなたが勉強して、あなたが得た知識で、あなた一人がそれを用いて奮闘して解答を導き出した経緯と、そしてそのあなたが判断した答が刻み込まれているのです。たとえ、その答が間違っていたのであっても、その時のあなたは「正しい」と判断したのです。そんな、業績が刻まれた国家試験問題をないがしろにすることは、何ともったいないことか!この刻み込まれた業績を一つ一つ洗い直していくことこそが、第99回の国家試験を受験した人がやらなければいけない、第100回国家試験対策の大切な一つなのです。

 私は学生に「せっかく間違えたんだから…」と良く言います。薬剤師国家試験だけではなく、全ての受験生にとって〝間違えたこと〟は財産なのです!〝間違えたこと〟から〝正しいこと〟が生まれるのです。〝分からなかったこと〟から〝分かること〟が生まれるのです。だから、今は〝間違えたこと〟〝分からなかったこと〟を大切にしてください。〝間違えたこと〟〝分からなかったこと〟を徹底的に洗い直してください。あなたが真剣勝負で〝間違えたこと〟〝分からなかったこと〟は、あなたの国家試験合格への橋渡しとなる、あなただけの大切な大切なアイテムなのです。それはあなたのウィークポイントであり、それを〝正しいこと〟と〝分かること〟にするだけで、合格への道はひらけるのですから。

 かつてアメリカに、ゴルフ界を震撼させ〝球聖〟とさえ呼ばれた一人の青年がいました。彼の名前はボビー・ジョーンズ。プロ以上の実力を持っていた彼は、生涯アマチュアを貫いたそうですが、その彼がなしえた業績が、今でこそ良く耳にする〝グランドスラム〟。1990年、当時の世界4大タイトルである全米アマチュア選手権、全英アマチュア選手権、全米オープンゴルフ、全英オープンゴルフに若干28歳で優勝したのです。これが世界初めてのグランドスラムです※1。そのボビージョーンズはこんな言葉を残しています。

 

  人間は自分が敗れた時こそ色々な教訓を得るものだ。私は勝った試合からはかつて何物をも学び

 えたことはなかった。

 

 そろそろ、第99回薬剤師国家試験で〝間違えたこと〟〝分からなかったこと〟から、次の国家試験対策に関するいろいろな教訓を得てみてはどうですか?そりゃあかに確かに辛いことだったり、イヤなことかもしれません。でも、もう済んだことですから。だったら、その〝済んでしまったこと〟を〝これからに役立つこと〟にしてみてはどうでしょうか?

 

  自らの負けを潔く認めることが、次の勝利へとつながっていくのである。

                                  by谷川浩司(プロ棋士)

 

※1:現在のゴルフのグランドスラムは、マスターズ・トーナメント、全米オープン、全英オープ

   ン、全米プロゴルフ選手権 をすべて制覇すること。ちなみにボビー・ジョーンズ自らが「グ

   ランドスラム」と命名。

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2014年9月19日 | コメントは受け付けていません。 |

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安全な悪

 最近、悲しい事件が立て続けに起こっている。ニュース等で知っている方も多いと思うが、視覚障害者が被害にあう事件が2件起きている。一件は、さいたま市の視覚障害の男性が連れていた盲導犬が、7月下旬に腰付近を刺された事件。そしてもう一つは、先日起こった盲学校に通学途中の視覚障害の女子生徒が、足を蹴られて怪我をする事件。被害者の方々の心情いかばかりか、心よりご同情申し上げます。

 哀れである。もちろん、被害者の方に対しての言葉ではない。加害者の方である。このような犯罪をおこす人間が哀れでしょうがない。今回の事件の犯人(犯罪をおこしているのだから犯人という言葉を使っても問題は無いはずである)が、今回のことをどれほどのことと感じているのかは定かでない。おそらく、自分がした行動を大した事とは思っていないのだろう。もし思っているのであれば、あまりの事の重大さに名乗り出ずにはいられないはずである。少なくとも、常識ある人間であるのならば…。あるいは、あまりの事の重大さに気付き、名乗れずにダンマリを決め込んでいるのやも知れない。それはそれで、哀れさに火を注ぐだけである。ダンマリを決め込もうが、自分がした行動を大した事とは思っていなかろうが、どちらにしても同じである。『加害者は哀れな人間』であるということ。これは間違いのないことである。

 被害者の方は、いずれも視覚障害の方である。私は加害者に問いたい。『障害のない人に対しても同じ行動をとったのか?』と…。障害のない人が共にしている犬を刺したり、障害のない人をいきなり後から蹴ったりするのだろうか?と…。ハッキリ言わせてもらいたい。相手が視覚障害者だからこそ、このような行動に出たのではないか?視覚障害者相手だから、自分は見られない。犬を刺したところで、犬が「この人が犯人です」と指摘するわけではない。自分だと知られて悪を行った場合、当然ながら、自分がその代償を被らなければならない可能性が生じる。当たり前である。悪は罰せられるべきであり、罰せられる対象とならなければならないのだ。それが、人間社会で生きていく上でのルールである。しかし、今回の犯人達はその責任から逃れようとしている。イヤ、実際逃れているのだ。逃れることが出来るような相手と知って逃れているのではないか?自分だと知られない。だから何をやっても自分は安全だ。そう思っているのではないか?安全な悪。悪の行動であろうとも、自分と知られなければ行っても構わない。なぜなら、その罪から逃れられることが出来るから。そう思っているのではないか?

 この事件を考えた時、インターネットでの発言と非常に似ていると思った。人は自分の言動には責任を持たなければならない。その言動により何か事が起こった場合…それは人を傷つけることであったり、人に不利益を被ることであったり、はたまた社会的信用を失墜させるようなことであったりした場合。発言者は、その責任を取らなければならない。責任の取り方はまちまちである。謝罪しなければならない場合もあれば、損害を補償しなければならない場合もある。場合によっては、法的な罰を受けなければならない。しかし、それが社会で生きていく上でのルールなのだ。人は決して一人で生きているわけではない。それ相応の責任を持って、人と関わりながら生きているのだ。しかしだ。ネットによる発言はほとんどと言っていいほど、発言者が誰か分からない。なんら責任を被ることなく発言することが出来る。そして、なんら責任を被ることなく人を傷つけることができ、人に不利益をもたらすことができ、はたまた社会的信用を失墜させるようなことが出来たりする。自分は誰か分かることはない。だからこそ、ネット上で自分が気に入らないことは否定し、気に入らない人間は攻撃する。前述の『安全な悪』と何が違うのだろうか?

 安全な悪。人としてこれほど卑劣で、そして哀れな行動はないのではないか?私としては、どうしても『哀れ』であることの方が先行してしまう。だってそうではないか?人として、これほどの下劣なる行為はないと思うのだが、それを平然とやってのける人間は哀れでしかないのではないか?人としての良心というものが微塵も感じられぬ行動なのだから。当然ながら、人としての優しさや温もり、相手を思いやる気持ち…そういった人間の根幹にあるモノも、とうに失せてしまっているに違いない。だから哀れだと思うのだ。もっとも犯人達にとっては、そんなモノは不必要なものなのかもしれない。彼らにあるのは、単なる『自分さえよければ』といった自分大事な心だけなのだろうから。おそらくはニュース等を見て「良かった、顔がばれてなくて。黙っていれば安全だろう」位に思いながら、安全な悪を堪能していることだろう。ネットで平気で人を非難している人間達と同じように…。安全な悪。どうも、今の日本には、蔓延りすぎている悪の一つであるよう思える。しかしだ…これだけはハッキリ言っておきたい。天網恢恢疎にして漏らさず(天網は目があらいようだが、悪人を漏らさず捕らえる。天道は厳正で悪事をはたらいた者には必ずその報いがある:大辞林より)。いつか必ず裁きを受ける日が来る。この世に安全な悪などないのだ。私はそう思っている。

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2014年9月11日 | コメントは受け付けていません。 |

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