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こういう人間がいるから、今の日本は・・・

 先日、いつものように、朝、電車の乗ったんですが…。私はいつも、一番端にある座席の前かドアの横の所(座席の端とドアの間にあるスペース)に陣取る場合が多いのです。で、その日も座席の一番端の席前に陣取り、網棚にカバンを乗せようとしたところ…。網棚にはスケートボードが、デンと乗っかっていました(もちろん横にして)。絶句…。普通、網棚にスケートボード乗せますかね?私も、その横のサラリーマンの方も、そのおかげでカバンは手にもたなければならない始末。横のサラリーマンもチョット迷惑気味。で、乗せている張本人はというと…。私も良く陣取るドアの横の所(座席の端とドアの間にあるスペース)に、座席端の仕切り(というか、端に座っている人の横にある壁というか、立っている人と接触しないような間仕切りというか)に思いっきり背をもたらせて仰け反りながら、スマートフォンでゲームに没頭、もちろんスマートフォンとカレの耳がイヤホンでシッカリとつながった状態で。その場所に立つなら、スケートボードは自分の足元に立てかけておけるのでは?短髪でメガネをかけたその顔は、ヒゲもそこそこ整えて生やし、どう見ても成人であることは確か。まあ、白に細い横じまのポロシャツ、ジーンズにスニーカーですから、恐らくは勤め人ではなく学生(大学4年生くらいですかね)だとは思われるのですが…。それにしても、歳の割にはちょっと常識が無さ過ぎるような…。

 私は仕方なくカバンを手に持っていたのですが、ご存知のように電車というのはゆれる代物で。で、電車が揺れて、私のカバンがカレの足にちょっとぶつかってしまったのです。するとカレは、私がここ十年で聞いた中で、いちばん大きくそして力強い舌打ちをこれ見よがしにしてきました。

 座席端の仕切りに思いっきり背をもたらせてのけぞるので、カレの背中は何度も座席端に座っている人の頭にぶつかっていました。でもカレは、そのたびに「何だこいつ」と言わんばかりに、座っている人をにらみつけてもいました。座席端に座って寝ているオジサンは、彼の頭が当たるたびに目を覚ましているご様子。どう見ても、被害をこうむっているのは寝ているオジサン。でも、にらみつけているのは件の彼。

 そうこうしているうちに、車内もさらに込み合ってきたのですが、もちろんカレは現状維持のままゲームに没頭。カレの前(すなわちドアの前)に立つことになったご婦人は、カレののけぞり姿勢(&投げ出した足)のため、十分に立つためのスペースが確保できず、困惑気味。更には、ゲームをやりやすいように・見やすいように手を伸ばしているので、そのスマートフォンにぶつかるまいと何とも辛そうな姿勢のご婦人…。

 周りにかけるだけの迷惑をかけて、ようやくスケートボードとともに降りてくれたのですが・・・。そんなカレのスケートボードには何故か〝節酒〟という文字が印刷されておりました。私的にはカレに必要なのは〝節酒〟ではなく〝節義〟だと思うのですが…。

 ※ 節義とは 節操+道義(人の行うべき正しい道) であり、人としての正しい道を踏み行うこと。

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2014年8月31日 | コメントは受け付けていません。 |

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そろそろ部外者がうるさくなる季節ですが…

 「部外者のくせにうるさいなぁ」と思った事がある人は多いはず。実は、部外者がうるさいのは当然…イヤ、部外者だからうるさいのです。(部外者は)「何も(状況を)知らないからこそ、とやかく言ってくる」のです。その現状にいない人間にとっては〝その状況〟は絵空事ですからね。自分の聞いた範囲だけ、知っている範囲だけで考えていけばいいから、好き勝手なことが言えるのです。全てを把握しているわけではないし、所詮、他人事でもあるわけですから、偉そうな事もいえるし、もっともらしい説教(説教なんて言えない単なる自己満足スピーチなんですが)も出来るという訳です。まあ、机上の空論というヤツです。そろそろ国家試験も差し迫ってきたこの時期(国家試験の日が発表になったのですから、もう〝差し迫ってきた〟という言葉を使ってもよろしいでしょう)。出てくるんですよね『国試部外者(無責任)発言』が!こちらはこちらでやっているのに『国家試験勉強はさぁ…』とか『私なんか○○やって、△△も…』みたく、聞いてもいないのに語ってくる…。早速被害にあわれた方もいるんじゃないですか?『こちらはこちらでやっているんだから、部外者であるアンタは余計なこと言わないで』と言いたいのですが…まあ、そういう輩は言ったところで、お構いなしに語ってくるんですけどね…。

 毎年、多かれ少なかれ学生さんに被害は出るのですが…以前、私が面倒を見ていた学生さんにも被害が出たことがあります。その時の部外者は、薬剤師国家試験には全くと言っていいほど関係のない、ピュアな(?)部外者。その学生さんは、その発言により講義を受けることさえままならぬ状況に陥ってしまいました。本人がかなり落ち着いてから「実は…」と、その内容を話してくれたんですが…「何でそんなことを(この学生さんに)言うんだろうな」という思いでした。言う方は好き勝手言えますよ、部外者ですから。でも、本人にとっては深刻なことなのですよ「国家試験に関すること」は。実際にその状況にいる人間は、その状況の全ての事に対応していかなければなりません。〝机上の理論〟とは違い、全てが〝今、自分が直面している現実〟な訳ですからね。今対応していることや、対応しなければならないことが、それこそヤマのようにあるわけです。もちろん〝他人事〟ではなく〝自分事〟ですから、軽はずみなことも出来ません。そんな現実の中、国家試験対策を行っているわけですから、やっている本人だって必死なはずですし、出来る限りの事をやっているはずです。

 一番怖いのは「部外者の余計な発言によりペースを乱されてしまうこと」です。せっかく地道にやってきて、これから本格的な国家試験対策をという時期に、部外者の余計な一言で「講義を休んで勉強しなきゃ」とか「出題数の少ない問題なんか捨ててしまおう」なんていう誤った国家試験対策に走ってしまったり、無意味な不安に苛まれたりしてしまう場合があるのです。我々指導する立場からすると、これほど厄介な、そして腹立たしいことはありません。これからは、しっかりとした学力を身につけていく勉強方法が重要にってきます。一攫千金を狙ったり、「とりあえず100個こなして1個くらい残るかな」なんて勉強方法は芳しくないのです。慌てず、焦らずしっかりと学力を固めていくこと。これがこれからの時期に必要な勉強方法なのです。「Haste makes waste」という英語の諺があります。「慌てると浪費する。急ぎすぎると、かえって失ってしまう」という意味ですが、まさにこの時期の試験対策にピッタリの言葉だと思います。

 翻弄されないで下さい。部外者の机上の空論に打ち勝つのは「気にしないこと」が一番です。まあ「何か言ってるよ」程度にとどめておいて、気にしないのが一番です。そんな「机上の空論」を受け止めて、翻弄されて一番の被害をこうむるのはあなた自身なのですから。笑い飛ばしておくのが一番です。「翻弄されている暇があるなら、1個でも覚えて頂戴!」というのが我々講師のチョット厳しい本音ですかね。

 

 (批評家は)自分が書けなくとも悲劇をののしることはできる。自分でテーブルが作れなくても悪いテーブルを作ったといって大工を叱ることが出来るであろう。テーブルを作るのが自分の仕事ではないのだから。

by  サミュエル・ジョンソン(イギリスの文学者)

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2014年8月25日 | コメントは受け付けていません。 |

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虚偽の安心感

 比較して得られる安心感は、虚偽の安心感である。そもそも安心感とは、比較することによって得られるものではない。しかし昨今では、安心感を得るために比較するということを、平気で行うようになってきている…というよりは、安心感は比較しなければ得られない、または比較して得られるものという風潮になってきているような気がする。『 あの人たちは△△だけど、自分は○○だ。だから大丈夫 』『 自分は○○でやっているから△△の人たちとは違って安心 』こういった〝自己満足の安心感〟を得るためだけの、愚かな比較があちらこちらで見受けられるような気がする。比較するのはご自由だが、自分が安心感を得るために、比較する相手を貶めるというのは如何なものであろうか?私的には、人間としてはかなり程度の低い行為と見受けられるのだが…。

 安心とはどういうことであろうか?簡単に言うなら『 不安がないこと 』であろう。『 比較して得られる安心感は、虚偽の安心感である 』『 自己満足の安心感 』等と先ほど書かせていただいた。なぜ、比較して得られる安心感は『 虚偽の安心感 』『 自己満足の安心感 』なのであろう?簡単である。比較したところで、そしてどんなに相手を貶め自分が優位に立ったように思い込んだところで、不安は決して無くならないからである。本当に安心したのであれば、不安はなくなっているはずである。しかし〝比較して安心を得ようとしている輩〟を見る限り、どんなに比較を行ったところで、決して不安がなくなったようには見えない。職業柄、私は〝比較して安心を得ようとしている輩〟を何人も見てきた。その誰もが、決して安心とはいえぬ境地、すなわち不安がない境地に至っていないのである。むしろ、そういう輩は100%といっていいほど、安心とは両極と言っていいほどの位置にいる。そして、そこから動けない。その証拠に〝比較して安心を得ようとしている輩〟は、次から次へと何かと、誰かと比較しては自己満足の安心を得ようとする。本当に安心が得られているのならば、一回でその行為は済むはずである。しかし何度も何度も、何かと比較しては、そして誰かと比較しては自己満足の安心を得ようとする。

 何故、何度もそのような行為を行うのか?簡単である。前述のように、それは本当の意味での安心ではないからだ。比較して得られるのは、虚偽の安心感。虚偽の安心感であるから、本当の意味での安心は手に入らない、つまり不安は残ったまま。不安があるから、また何かと、誰かと比較して安心感(もちろん虚偽の)を得ようとする。負のスパイラルの骨頂である。そんなことをして得られるのは、これまた前述のようにほんの一時の虚偽の安心感だけである。むしろ失うものの方が大きい。それはそうである。そんな下らぬ比較を行い、自己満足に浸る暇があるなら、とっとと不安の元凶を取り除く行為に徹した方がいいに決まっているからだ。安心するための比較は、根本的な解決を見失わせる作用がある。もっとズバリいうならば〝不安の元凶となっているモノ(得てしてそれは本人が見たくないモノであったり、認めたくないモノ、知りたくないモノであったりする場合がほとんどであるが)〟から、目をそらせてしまう作用があるのだ。比較することにより安心感を得ようとする者は、2つの虚偽の安心感に陶酔することが出来る。1つは『 (自己満足による虚偽の)安心感 』そしてもう一つは『  (不安の元凶となっているモノを見なくて良い)安心感 』である。この二つの虚偽の安心感は、麻薬以上の陶酔感を得ることが出来るが、やはり麻薬以上の堕落をもたらすことになる。そして、あきらかに人間を蝕んでいく。

 どうせ比較するならば、自分自身と比較してみてはいかがだろうか?去年の自分や、何かを始める前の自分と。『 去年は出来なかったけど、今年はできるようになった 』とか『 この前までは○○だったけど、いまは△△だ 』というように。過去の自分との比較により、今の自分の成長を見届けることは人間にとっては重要なことである。それがあるからこそ、過去を反省し、未来への指針や希望が見えてくるのだ。しかし、これさえも『 前に比べればマシ 』と、安易な安心感を得るための使い方をしてしまったら、意味はない。『 今も大変だけど、何とかやっていけるし、あのころに比べればマシ 』というような正しい使い方が大事である。

 『 比較するという行為 』は、薬と同じようなものではないか?適切に使えば、多大なる効力を発揮する。間違って使えば身を滅ぼしかねない。何事もそうであるが、使い方が肝心なのである。もっとも、『 安心を得るために何かと、誰かと比較する行為 』といった、決して薬にはなりえない毒もあるので注意は必要ではあるが。

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2014年8月17日 | コメントは受け付けていません。 |

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『嘘つくな!』という言葉。

昔から気になる言葉がある。人が話していると『嘘つくな』という言葉を放つ輩がいる。別に嘘などついていない。ちなみに今回の話は、こちらが何かとんでもないミスを犯していたり、人様に迷惑をかけてしまっているような状況ではないのに、この言葉を放つ輩の話であるので、ご了承されたい。こちらがミスを犯していたり、人様に迷惑をかけた状況では、どんなにこちらが本当のことを誠心誠意込めて話したところで、この言葉を投げかけられても致し方ない。非はこちらにあるからだ。今書いているのはそういう状況ではなく、『嘘つくな』という言葉を放つ輩の話である。普通の何気ない会話や、ちょっとした仕事のやり取りの中での会話の中での出来事の話である。

こちらが嘘を言ったところで、何の問題もなく、何に支障をきたすわけでもない状況の中で、件の言葉が放たれる(もちろん、こちらは微塵も嘘など言っていないのだが)。別に聞き流したところでさして問題は無いだろうし、それほどムキになる内容でもない。なのに何故、件の輩は『嘘つくな』と、思い切り否定してくるのだろうか?どんなに考えてみても、それほど〝嘘か誠かが非常に重要〟という内容の会話ではないのだ。例えば…

 

・ 「それ仕事に使うんだろ?」と言われたので「イヤ、使わないですよ」と答え

 たところ『 嘘つくな! 』。

・ 「どうせ行くんですよね?」と言われたので「イヤ、行かないよ」と答えた

 ところ『 嘘ですよ! 』。

・ 「それどうしたんですか?」と言われたので「○○で買ったんだよ」と答えた

 ところ『 嘘つかないで下さい! 』。

・ 「買ってきて食べてるんだろ?」と言われたので「自炊してますよ」と答えた

 ところ『 嘘ついても、すぐ分かるんだよ! 』。

 

う~ん…たかだか4件ほど思い出してはみたものの…どうも理解できない。何故、件の言葉を発した輩は、答えた内容を『嘘』としたいのだろうか?というか、内容をご覧になってお分かりいただけるように、別にどうでもいい内容ばかりではないだろうか?前述のように、往々にしてこの言葉が発せられるときの内容は、聞き流してもさして問題ないような、どうでもいい内容であることが多いのだ。なのに、何故ムキになって否定するのだろうか?私なら「ああ、そう」の一言で終わってしまう。「それを仕事に使った」ところで、「行った」ところで、「○○で買った」ところで、「自炊していた」ところで何の困ることもない。例えそれが全部嘘であったところで、何の支障もない。何の変哲もない、日常会話の一シーンでしかないのだ。聞き流せばいいだけの話ではないのか?

しかし、聞き流せない輩がいる。それが、ムキになって『嘘つくな!』という言葉を発する輩。何故、そのような行動をとるのだろうか?実は、何となくではあるが、その理由が推測できるような気がする。往々にしてそういう輩は「自分の思い通りになってほしい」「自分は何でもお見通しだ」もしくは「自分の考えは正しくて間違っていない」という考えの輩が多…イヤほとんどなのだ。前述の事例で言うのならば  『(使うんだろ?→使わないですよ)俺はお前が使うことを知っているんだ、お見通しだ』  というわけである。他にも  『(行くんですよね?→行かない)行けばいいのに or 行くんでしょ、お見通しよ』  となるし  『(それどうしたんですか?→○○で買った)そんなはずはない、あそこで売っているわけはない、私の考えは正しくて間違っていない』  というわけである。そう、すべて「私はお見通し」「私の考えは間違っていない」「私の考えている通りになる」といった、上から目線の傲慢な態度以外の何ものでもないのだ。つまり、上から目線で人を見下し、ある種優越感に浸っている行為なのだ。もちろん行動としては、卑しい行動といわざるを得ない。その証拠に、件の言葉を発している時のその輩の顔ときたら…まあ書くのは忍びないのであえて詳記は避けさせていただくが、あまり対面したくないような顔となっている。「こういう顔つきにはなりたくないな…普段から気をつけよう」と思ってしまうので、ある意味、反面教師としてはありがたい存在なのかもしれないが…。もっとも前述のように、私は相手が嘘をつこうがどうであろうが、支障をきたすような内容ではない限り聞き流しているので、『嘘つくな!』という言葉を発することもないだろうから、そういった顔になることもないのだろうが…。『嘘つくな!』という言葉を発する輩に、「別に嘘なんかついていないですよ。それに、そういう顔つき、あまり良くないですよ」と言おうかなと考えたこともあるのだが…これまた『嘘つくな!』と一括されてしまうのが目に見えているので、やはり聞き流すのが一番と思っている。

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2014年8月9日 | コメントは受け付けていません。 |

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楽しんでやることが大事!

 職業柄 『国家試験対策で重要なことは何ですか?』とよく聞かれる。学習指導で、色々な所で講演をさせてもらっている事もあるのか、本当によく尋ねられる。ほとんどの場合『色々ありますよ』と答えるが、時にはその『色々』から抜粋させてもらって、単発的に話す内容もある。その一つが『楽しんでやる事じゃないですかね』といった答。『なるほど…』と答える人もいる中で、『楽しんでやることなんかできないですよ』と答える人も多々いる(そう答える人のほとんどが、次の国家試験を受験する人、つまり現在国家試験対策を行っている方々であるが…)。そう答える人に『どうして楽しんでやることが出来ないの?』と尋ねてみると…これまた、ほとんどの人が『やらなければならないことや、覚えなきゃならないことが山のようにある。合否への不安もある。そんな状況で楽しめる訳ないじゃないですか』との反論を。う~ん…果たして、そんな理由で楽しんでやることが出来ないのだろうか?

 『楽しむ』とはどういう事であろうか?デジタル大辞泉によると『満ち足りていることを実感して愉快な気持ちになる』『好きなことをして満足を感じる』とある。『気持ちになる』『感じる』であって『気持ちにさせられる』『感じさせられる』ではない。つまり、『楽しむ』とは受動的なものではなく、能動的なものということになる。もっと手っ取り早く言ってしまうならば、『楽しむ』とは『人から与えられるものではなく、自ら楽しくなること』ということになる。『自ら楽しくなる』ことなのだから、状況がどうであれ、環境がどうであれ自分で『楽しくなる』ことを選べばいいだけの話ではないのか?すなわち、自分が楽しくなってしまえばいいのである。

 ほとんどの人が、自ら望んで薬剤師国家試験を受けることと思う。誰かに強制されている人などほとんどいないだろう。自らが選択し、薬剤師になる道を選んだのだ。しかし、前述のほとんどの人の反論を見ると…『やらなければならない』『覚えなきゃならない』と、『○○しなければならない』といった『やらされている感』を強く感じてしまうのだ。なるほど『やらされている』のならば、楽しむことは難しいだろう。本人の意思ではないことを無理に強いられているのだから。楽しくないのも当然…んっ?チョット待てよ?『本人の意思ではないことを無理に強いられている』のか?イヤ、そうではないはずである。何故ならば、自ら望んで薬剤師国家試験を受けることを選択しているのだ。受験しない事も可能である薬剤師国家試験(薬剤師国家試験は強制ではないので、当然、受験しないことも可能である)に対し、あえて『受験する』方を選択したのは、自分自身のはずである。誰にやらされている訳でもなく、自分自身でその道を選んだはずである。

 そう捕えると、チョット違う考え方が出来るのではないか?『やらされている』のではなく『自分でやることを選んでやっている』のだ。国家試験合格のために…。薬剤師になるために…。そう思えば、自ずと『国家試験受験を選んで、自らやっている』『国家試験受験を選んで、自ら覚えている』といった考えに至るのではないだろうか?自ら選んでやっている…決して『やらされている』わけでもないし『無理強いされている』訳でもないのだ。そう分かれば『好きなことをして満足を感じる』ことも出来る、すなわち『楽しむ』ことも出来るのではないか?『薬剤師になりたくて、国家試験に合格したくて、日々勉強している』ことは自分が望んだことであり『好きなことをしている』ことにはならないか?そんな、自ら選んだ国家試験対策に努めることが出来ることも『満ち足りていること』ではないのか?何故ならば、薬剤師になりたくても、国家試験対策を行おうにも、それさえも叶わぬ人がたくさんいるのだから…。そういったことが出来る自らの環境に、感謝したことはあるだろうか?『楽しむ』ためには、感謝の気持ちが必要不可欠であることも知っておかねばならないことである。

『楽しむ』とは『先のことに期待をかけ、そうなることを心待ちにする』事でもある(デジタル大辞泉)より。ここは一つ、薬剤師国家試験に合格して、晴れて薬剤師になることに期待をかけ、そうなることを心待ちにしてみてはいかがだろうか?『合否への不安もあって、楽しめる訳ない』と思うよりも、こっちのほうが断然楽しいし、精神的にもいいと思うのだ。どうせ思うなら、楽しいことを思ったほうが良くないだろうか?楽しく物事を進めていくことが、成果を上げるために必要なことであるのは、心理学的にも認められていることである。やるからには楽しくやる。そっちのほうが楽しいし、成果も上がる。まさに一石二鳥ではないだろうか?

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2014年8月4日 | コメントは受け付けていません。 |

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