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『100%』とはどういうことか?

 100%とは、どういうことだろうか?「自分の思い通りでなければならない」ことだろうか?『私は○○したい。だから、○○でなければならない。○○であることが100%』『私は○○の状況がいい。だから○○の状況でなければならない』つまり、何でもかんでも自分の思い通りであること。自分の思い通り・自分の願っていた通りになること、自分がすべて満足できる状態、納得できる状況。それが100%(の状態・状況)。

 果たして、そうであろうか?もし、そうであるならば、裏を返せば『自分の思い通りでなければ、100%満たされている、100%完璧な状態、つまり100%ではない』ということになる。もっと極端に言うならば、自分の思い通りにならない状況は100%とはいえない。何でもかんでも、自分の思った通りになって、初めて100%(満たされた状況)である…ということになる。そんな状況などあるのだろうか?

 私は100%とは『その場その時で、出来る限りのことをすること』と常々言っている。『出来る限り』これが、本当の意味での100%なのだと思う。誰だって、自分の思っていた通りになるのがいいに決まっているし、自分の都合よく事が運ぶほうがいいに決まっている。だが、世の中というのは、自分の思い通りではないことが多々生じたりするものだ。そうなると、当初自分の頭の中で描いていたこととは、違う状態になってしまう。その時にどうするか?『こんなの私が思っていた通りじゃない!100%じゃないから、納得いかない』と騒ぎたて、不平不満を漏らし続けるのか?前述の〝自分の思っていた通りになるのが100%論者〟はそうなるであろう。『○○しようと思っていたけれども、どうもそれは出来なさそうだ。だったら、○○を□□にして出来る限りのことをやってみよう』というのが、『正しき100%』なのではないか?その場その場で、出来る限りのことをする。これが『正しき100%』なのではないのか?今現在で出来ぬことを語る100%や、何が何でも自分の思い通りでなければイヤといった100%など『虚偽の100%』なのではないだろうか?

 『正しき100%』と『虚偽の100%』の違い。それは満足の気持ちがあるかどうかだと思う。『虚偽の100%』から生まれるものは、不平不満でしかない。それはそうであろう。自分の思い通りでなければ納得しない。そんな心的態度から生まれるものなど、不平不満以外の何物でもない。もちろん、不満であるから満足とは正反対の位置にある。『正しき100%』は満足の気持ちから生まれる。「○○したかったけど、□□しか出来なかった。でも、出来る限りのことは出来たからよかった」…出来る限りのことが出来た満足感。これこそが『正しい100%』ではないのか?満足できること、これこそが、正しい100%なのではないか?ちなみに、『虚偽の100%』からは不平不満は生まれるが…不平不満ばかりで納得せず行動もしないので、何の結果も生み出されることはない。満足した者は「〝出来る限りのことをした〟という行動に満足した」のであるから、それ相応の結果が得られることになる。

 京都の龍安寺というお寺のつくばい(茶室に入る前に手を清めるために用いる水鉢)には「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」と記されている(表記方法には、なかなか粋なものがあるのだが…)。表現の違いはあれど、皆一様にこの言葉の意味を「満足することを知っている者は幸せであり、満足することを知らない者は不幸である」といったニュアンスで表している。さらに細かくいわせていただくならば…『足るを知る』とは『身の程をわきまえて、むやみに不満を持たない』ことである。私的に解釈させてもらうならば、この『身の程をわきまえる』ことこそ『自分の思い通りでなければダメというのではなく、その場その時に合わせること』なのではないかと思うのである。『その場その時に合わせて、満足出来るよう、出来る限りのことをやりなさい』これが「吾唯足知」であり、『正しい100%』なのではないだろうか?

 よく『満足してしまったらダメ。満足してしまったら、もっと上へは登ることが出来ない』という人がいるが、そういう人は『満足』と『慢心』を間違えてしまっている人である。慢心は驕りたかぶり、自惚れることである。そこには『身の程をわきまえる』事など微塵もない。これこそ、そこから一歩も動けない、もちろん上へと登ることも出来ない状況である。満足は『身の程をわきまえて、むやみに不満を持たない』ことである。身の程をわきまえて不満を待たず、現状に満足するからこそ「ようし、次は…」と、より高い所を目指せるようになるのではないか?そうやって、一歩一歩上り詰めて、初めて自分が目指していた、本当の意味での〝100%の状況〟に到達することが出来るのではないのだろうか?私はそう思っている。

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2014年7月26日 | コメントは受け付けていません。 |

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応援したくなる人

応援したくなる人とはどういう人であろうか?私は高校野球には、全くといっていいほど興味がないのだが、世間ではかなり高校野球に入れあげている人が多いようで。かく言う私の仲間内にも、高校野球好きは多いご様子。口角泡を飛ばしながら、楽しげに高校野球について語る仲間に『高校野球の、どこかそんなにいいんだい?』と聞いたところ『皆、一生懸命にプレイしているじゃないですか。あの姿勢というか、熱いものがいいんですよ。私的には、プロ野球にはあまりそれがないような気がするんです。もちろん、プロ野球の選手にも熱いものはあると思うんですが…高校野球の選手たちの方が、何か一生懸命さを感じるんですよ。だから、見ていても応援したくなるんです。必死というか、とにかく一生懸命やっている…それがヒシヒシと感じられる。それが胸を打つんですよ』と、それこそ熱く語っていた。なるほど、そうであろう。その気持ちは痛いほど良く分かる。

当ブログの読者の方はご存知の方も多いと思うが、私は薬剤師国家試験(及びその他の国家試験対策)の予備校講師を云十年生業として生きてきている。今までに、どれほどの教え子達に教鞭を振るってきたであろうか。教鞭を振るったのが、薬剤師以外の資格試験受験生にまでも範囲が及ぶとなると、莫大な数になることは間違いない。まあ、とにもかくにも、色々な試験の受験生達を、たくさん教えてきたことは確かである。そんな、たくさんの学生さん達に接してきた私であるが、『この学生さんには受かってほしい』と思う…イヤ思わざるを得ない学生さんが何人もいたことは事実である。『予備校の講師なら、自分が面倒を見ている学生全員に対して「受かってくれ」と願うのが当然であろう!どの学生も同じように対応するのが予備校講師の仕事ではないか!』などと思われるのは、御尤もであるし、私もそう思っている。さらに、日々そうあるべきと行動していることも事実である。でなければ、予備校講師など務まったものではない。

しかし、その思いとは別に、前述の『この学生さんには受かってほしい』という思いが湧き上がることも事実である。公平・不公平といった類のものではない。公平・不公平といった類のものなど、いくらでも理性で押さえつけることが出来るからだ。しかし、湧き上がる思いというものは理性では押さえつけることは出来ない。その思いに振り回され、個々の学生さんへの対応を大きく変えているとなれば、確かに講師としては問題のある行動であろう。しかし、私はそういうことは一切しないし、したこともない。学生さんによる対応は個別では変わるものの(十人十色の学生さんを合格へと導かなければならないのだから、当然、ひとり一人に対する指導方針は変わってくることになる)、湧き上がる思いによって対応を変えたことなど一度もない。こちらもプロである以上、そんなことをやるはずもない。ただ、思いが湧き上がるのは、こちらの自由である。こちらも人間である。どのような感情が沸こうが、どのような思いが沸きあがろうが、それは自由であろうと言わせてもらいたい。それさえもダメだというのであれば、修道院等が行っている清く正しい予備校に入学することをお勧めするしかない。残念ながら、こちとら俗世界に身を置く一市井の人間である。湧き上がる思いまでは、押さえつけることが…イヤ、それくらいは湧き上がらせてもらいたいものである。何度もいうが、それで学生さんの対応を変えているわけではないのだから。

前述の高校野球の話と一緒である。努力している学生さんや獅子奮迅たる姿勢で勉強している学生さん、日々努力している学生さんを見て『この学生さんには合格してもらいたいな』と思うのは、人間なら当たり前のことではないだろうか?前述の高校野球の話ではないが、やはりそういう人間を見ると、人は応援したくなるものではないのだろうか?今年の薬進塾一年コースは26名。定員の65%の学生さんが、6月から本格的な講義を受けて、日々切磋琢磨している。今年の学生さん達はなかなか優秀で、今までの学生さん達にはなかった熱いものが感じられるし、それに伴った努力もしている。やはり、そのような学生さん達を見ると『合格してもらいたいな』と、思ってしまうのである。薬進塾も開講から5年目。それ相応の実績を上げてきたが、ますます切磋琢磨して精進していかなければならない時期である。そんな時期に、熱き思いを持つ学生さん達が、日々、薬進塾で切磋琢磨しているのである。朝早くから来て自習している学生さん。講義後に残って自習している学生さん。学習指導を熱心に受けて、その指導どおりに学習している学生さん。そんな学生さん達の姿を目にする度に『薬進塾も、頑張らなければ』と思うと同時に、『こういった日々精進している学生さん達には、何がなんでも合格してもらいたい』と思う次第なのである。

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2014年7月20日 | コメントは受け付けていません。 |

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満員電車でゲームをするのはいかがなもの?

 何気に当ブログでは、電車の中の出来事について書かせていただいているのですが…。今回もまた電車の中でのことについて苦言を一つ。ご存知のように我が薬進塾、最寄のJR駅といえば総武線浅草橋駅。総武線は、朝の通勤時間帯はかなりのラッシュで、かくいう私も、そんな満員電車で通勤している一人です。そんな中で最近どうも気になるのが〝満員電車の中で立ちながらゲームをしている人〟。ゲーム機からスマホまで、色々なハードでゲームをされている方が多いのですが…イヤいいんですよ、電車の中でゲームをしても。でもですね、満員電車の中で、それこそ人の存在スペースが少しでも必要な状況で、立ちながらゲームをするというのはいかがなものでしょう?空いている電車の中なら、立ちながらゲームをしようと構いませんよ。満員電車の中でも、そりゃあイスに座っていて自分の目の前、ひざの上辺りでやっている分にはまったく問題は無いと思います。でも、人一人のスペースがやっとという満員電車の中で、立ちながらゲームをやるというのはどんなもんでしょうかね?さらに気になるのがゲームをするスペースを必死になって確保していること。もちろん人のスペースなどお構い無しに。ゲームをやっている人を見ると、ゲームをやることだけに夢中になっていて、とにかくゲームをするスペースを無意識のうちに必死に確保しているんですよね。自分の目の前にはスマホやらゲーム機のスペースを確保、そのゲームを行うために張っている肘のスペースを確保…という具合に、ゲームをやるがためのスペースをかなり広範囲で確保しているのです。満員電車の中は、〝人が乗るためのスペース〟を最優先で確保しなければならないと思うのですが…。ゲームに必死のあまり、人が乗ってこようと、移動する気配も無いような…。確かに動きながらゲームをするということは、やっている本人にとっては落ち着かない状況ですからね。で、動かずにいるから、そこだけまた変な空間が生まれたりして…。もちろん、周りに合わせて動かないものだから、周りの人にとっては電車から降り難い、電車に乗り難い…という環境になっているのです。

 どうも「周りに人がいる」ということを忘れてしまっている…イヤ、自分のことしか見えていないのでしょうね。少し考えてほしいのです。あなた一人で生きているのではないのですよと…。「あなたの周りには人がいるのですよ。その人たちのことも考えてください!」と怒りに身を任せて、大声で叫んでみようとも思うのですが…よくよく考えてみると、何だか寂しい世界になってきたような…。自分は自分の世界、周りはお構いなしというのですから…。しかもそんな人が、やたら目に付くようになってきているのですから、寂しさも一入。自分の世界に浸るのは構わないのですが…やはり、もう少し周りの人のことも考えてほしいでんですよね。やはり、人間関係が希薄になってきているんでしょうか…。このブログを読んでいる人の多くが、薬剤師という医療従事者を目指している人だと思います。こんな時代だからこそ、医療従事者たる人間は、人一倍周りに気を使う、周りの人のことを考えて行動できる人間じゃなきゃいけないな…と思っています。電車の中でゲームをすることもOKなんですよ、私的には。ただもう少し周りを見てほしいな、周りのことを考えてほしいな…と思っているだけなんですけどね。

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2014年7月14日 | コメントは受け付けていません。 |

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ホームページ(HP)が攻撃されたらしい。

と、HPの件で色々お世話になっている方から連絡が来た。本来なら、金曜日~日曜日当たりにブログを更新しているのだが、今回はそこらへんの諸事情のため、更新が遅れることとなってしまった。今まで週一で掲載を続けてきたブログだけに何とも悔やまれる次第であるが、攻撃されているとなれば致し方ない。検知・防御機能の導入やら、アクセス制限やら、色々と手間ひまかかってしまったが、前述のお世話になっている方が、尽力を尽くしてくれたお陰で、何とか以前のようにブログが更新できることと相成った次第。まさに感謝の一言!ありがとうございました。そういうわけで、今回のブログは少々長めに書かせていただくことに!

で、件のHPの攻撃に関して。「一体、何故HPを攻撃したりするんだろう?」と不思議に思い、尋ねてみたところ「パスワードを不正に入手してHPを勝手に書き換えたり、色々悪さをしようという事ですよね」とのこと。私自身、そこら辺には少々疎いものがあるため調べたところ、パスワードを入手するために、『総当たり攻撃』と称する、暗号解読方法があるらしい。なんでもこの方法、パスワードのかかっているHPに対し、手当たり次第に適当な文字列を打ち込み、ログインを試みる攻撃だそうで。可能な組合せを全て試すやり方で、力任せ攻撃とも呼ばれているそうな。う~ん…疎い私でも、何やら手間ひまかかる方法だということだけは感じ取ることが出来る。何といっても、別名〝力任せ攻撃〟…「可能な組合せを全て試すやり方」なのだから…。

で、ここでさらに疑問に思うことがある。「パスワードを不正に入手して悪さをするため」にHPを攻撃している。つまり、悪いことをしようという訳である。どうも、ここら辺が今一つピンと来ない…。悪いことをするために、パスワードを手に入れようとする。そのために、手間ひまかかることをする。そんなに手間ひまかけてまでも、悪いことをしたいのだろうか?まあ普通、悪いことはしようとは思わない。しかし、人間どこで魔が差すかは分からない。つい悪事を行ってしまうこともあるだろう。しかしだ。そこで手間ひまかかることをしようと思うのだろうか?別に悪事を推奨しているわけではないが、そこまで手間ひまかけなくとも、もっと違う悪事はあるのではないか?むしろ、そこまで手間ひまかけるなら、まっとうなことにそれを利用した方が、よっぽど利益があると思うのだが…。

さらに不思議に思うのは、基本的に(悪事に対して基本的にというのもおかしいが)悪事というものは、ひっそりと分からないように行うものではないのか?おおっぴらに、堂々とやるというのは如何なものなのだろう?今回のHP総攻撃に対しても、ウチだけではなく色々なHPが攻撃にあっている…というか手当たり次第にやっているとのこと。私が思うに、空き巣が手持ちの鍵で、とりあえず一軒一軒のウチを回って、その度にドアの鍵穴に鍵を差し込んでいるイメージなのだ。手間ひまかかることもさることながら、すぐに見つかってしまうのではないか?実際、「HPが攻撃されていますよ」ということも、広く呼びかけられているとのこと。確かに犯人は特定出来ない。だからというのもあるかもしれないが、それにしては随分堂々とした悪事のやり方ではないか?ひっそりと、ばれないようにやる悪事というのも、古き時代のものになってしまったのか?

そういえば一週間ほど前から、私の携帯のメールに「950万円当たりました!」というメールが頻繁に来るようになった。もちろん、そんなメールに返信する訳がない。返信したが最後、とんでもない目にあうことは目に見えているからだ。と、誰もが知っているはずなのに、何故送ってくるのだろう?おまけに何回も何回も送ってくる。何回も送れば、そのうち送り返すとでも思っているのだろうか?こちらも〝力任せ攻撃〟だ。それでも無視していると「せっかくのチャンスを逃すのですか」「無視しないで下さい」「口座番号だけでもいいから教えてください」「あなたは選ばれた人なんですよ」と、見ているこっちが哀れんでしまうような文章になっていたりする。しまいには「760万円当たりました」と値段を下げてきたり「20,000ポイント当たりました」と現金には興味ないと思ったのか、ポイントに還元されて送られてくるようになった。これも手間ひまかかっているやり方だ。「そこまでしても返信してほしいのか」と、さらなる哀れみを誘うような状況なのである。

もちろん、これだって何らかの悪事をするために送ってきているのだろう。おそらく何万人という人に、常に送っていることと思う。これも、ずいぶん堂々とした、それでいて手間ひまかかる悪事である。昔の悪事はひっそりとやっていたみたいだが、やはりそれはどこかに疚しさ(やましさ)があったからだと思う。「疚しいことをしているんだ」という良心が、悪事を行う際の〝ひっそり感〟を生んでいたのではないか?それに比べ、HP攻撃も950万円メールも、ずいぶんと堂々としたものである。やっている人間は、疚しさなど微塵もないのだろう。捕まるおそれも少ないとなれば、疚しさが失われることも一入である。そういえば、昨今の世の中の事件。疚しさが微塵もないというか、悪いことをやっているという意識が感じられないというか、そういう事件が増えてきているように思えるのは私だけであろうか?私が感じるだけならばいいのだが…「疚しいことをしているんだ」という良心自体が、現代人には欠けてきているということであれば、何とも怖いことなのではないかと思う次第なのである。

 

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2014年7月8日 | コメントは受け付けていません。 |

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