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楽しめないのか?

 よくいるのが「これじゃあ、つまらないから、賭けるか」とすぐに賭けを始める輩。全くもって理解できない。例えばトランプなんかをやっていても「賭けないと面白くないよ」なんて、したり顔で言っている輩がいるが…全くもって理解できない。何故、面白くないのだろう?トランプでゲームをやるのだ。面白いではないか?だからこそ、トランプというカードゲームは今日まで続いているのではないか?どうして、そのゲームを楽しむことができないのだろう?

 ゲームで思い出したが、スポーツを見ていても「どっちが勝つか賭けないか」なんていってくる輩がいる。何をそんなに賭けたいのだろう?私はスポーツ観戦はあまり好きではないが、時折、テレビ中継等で試合を観ることもある。「おっ!面白い試合だな」なんて思うこともあったりする。その時は、純粋に「面白い」と思って観ているし、それ以外のことは考えてはいない(面白いものを観ているのだから、当然、それに没頭している)。で、前述の如く、その試合に関して賭けを提案する輩が出てきたりするのだ。こちらは、その試合が面白くて観ているので、そういう誘いはうるさくてかなわない。「賭けるかどうか」の話よりも、試合のほうに興味があるのだ。あまりにうるさいので「何で賭けるの?」と聞くと、やはり判で押したように「そっちのほうが面白いだろ?」。じゃあ、賭けが無いなら面白くないようなら、そんな試合観なければいいのではないか?テレビならチャンネルを変えるなり、画面を観ずに違うことをやっていればいいのではないか?よは、観なければいいのだ。つまらない試合を面白くするために賭ける。前述の、つまらないトランプを面白くするために賭ける。いすれも私にとっては、全くもって理解できない行動なのだ。つまらなければ観なければいいし、つまらないならトランプもしなければいい。ただ、それだけの話ではないか?純粋に楽しめないのか?

 私はスポーツ観戦があまり好きではないと書かせてもらったが、スポーツ観戦が好きという人間に限って「賭けるか?」とくる人間が多いような気がする。もちろん、全員がそうだとは言わないし、スポーツ観戦が好きだが、賭けの話など全くしない人間もいる。こうなると、どちらの人間が純粋に〝スポーツ観戦が好きな人間〟ということができるだろう?「賭けたほうが面白い」という人間と、ただスポーツ観戦に浸る人間。言うまでもなく、後者の人間の方が、純粋に〝スポーツ観戦が好きな人間〟といえるだろう。何のオプションもなしに、ただスポーツ観戦を楽しんでいるのだから。そう、楽しんでいる。トランプもそうだ。純粋にトランプを楽しめばいいだけの話ではないか?「賭けるから楽しい」ではなく「トランプをやっていること自体楽しい」となればいいのではないか?楽しいか、楽しくないか…それは、あくまでも本人の心持次第なのだ。もっとはっきり言ってしまえば、〝無条件で楽しめる人間〟か〝何かなければ楽しめない人間〟なのかだと思う。理想はどちらであろう?人によって意見はまちまちだとは思うが…私は〝無条件で楽しめる人間〟でありたいと思う。そちらのほうが、人生生きていて楽しいことがたくさんありそうな…イヤ、生きているというだけで、笑顔が出てしまうくらい楽しくなってしまうような、そんな気がするからだ。

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2014年5月31日 | コメントは受け付けていません。 |

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「○○してやった」という言い方は…

  以前、勤めていた職場でのこと。何やら同僚講師(男)の機嫌が今一つ悪そうな雰囲気。そういう輩がそばにいると、こちらとしても今一つ仕事に集中できない。で、どうしたのかと訳を尋ねてみたところ…まあ、何のことはない。自分の部下が思った通りに動いてくれなかったらしく、それが面白くないご様子。どこにでもよくある話だ。しかし、気になった言葉が一つあった。それは『だから、怒ってやった』という言葉。怒ってやった…?そういえば、彼は「○○してやった」という言葉をよく使っていた。「言ってやった」だの、「怒鳴ってやった」だの…。何故「○○してやった」なのだろう?「誰々を怒ってやった」ではなく「誰々を怒った」でいいではないか?「誰々に言ってやった」ではなく「誰々に言った」でいいのではないか?そこの所がどうにも理解できないのだ。

  以前、こんなことがあった。私とAさんで、ある仕事でチョットした企画を立てることになった。二人で案を出しながら、話を進めていったのだが、二人とも中々いい案を出し合ったせいか、思ったよりもいい企画が、それも思ったより早く出来そうだった。それを聞いていたのか件の講師、謙虚とは言えない雰囲気で、その企画に対してアレやコレや発言してきた。ここで、先に結果をお伝えしておくが、私とAさんが立案した企画の成果は上々で、評判もすこぶる良かった。もちろんどう考えても、常識あるしっかりとした企画であり、人間的にも社会的にも非難される余地などない企画であった事も伝えておこう。で、話は戻るが…いきなり横から口を出してきた件の講師。ああだこうだとその企画に、ご意見を述べている。私とAさんの会話を所々聞き耳立てていたのかどうかは分からないが、そのご意見を聞く限り、我々が立てている企画に関する内容をあまり把握していないご様子。それどころか、話しの所々に「?」「!」なんて思ってしまう内容が散りばめられている状況。おまけに、堂々巡りで同じことを話しているような…。早い話、全くトンチンカンな内容を話しているわけで、私もAさんも心の中で「コイツ…何も分かっていないな…」という想い(Aさんからは後日聞いたのだが、やはりそう思っていたとのこと)。聞き流しておけばいいのだが、何せこちらとしても早めに企画を仕上げたいところ。おまけに打合せも乗りに乗って、いい企画が生み出されそうな手応えがある最中(さなか)のこと。一刻も早く企画の打合せに取り組みたい。と思い「話しは大体分かったから…」と切りだすと、彼からは怒り心頭で「人の話はちゃんと聞くもんだ!」との発言が!私もAさんも、その言葉にビックリ!何せ、1番人の話(私とAさんとの企画の話)を聞いていない人間(私とAさんとの企画の話をキチンと聞いていたら、トンチンカンな意見は出てこないはず)からの発言なのだから。そんな私とAさんを顧みず、口から出た言葉は「せっかく、言ってやってるのに!」。これには、たまげた。言ってやっている…私とAさんは、言ってもらっていたのか…。

  「○○してもらった」ということは、「相手から施しを受けた」ということである。「施し」とは「恵み与えること」である。恵み与えられたか?私とAさんは、恵み与えられていたのか?とんでもない!恵まれてもいなければ、与えられてもいない。強いて言うなら、邪魔されただけだ。迷惑を与えられたと言えばそうだろうが、少なくとも迷惑など施しを受けるという言葉の対象になるものではない。これはいったいどういうことだ?

  「○○してもらった」には「賜った(たまわった)」という意味もある。「賜る」とは「目上の人から受け取ること」である。目上の人…なるほど。件の講師は「してやった」という言葉を使うことによって、暗黙のうちに自分が上であることを誇示したかったのではないか?その言葉を発することにより、相手よりも自分の方が優れているとアピールしたかったのではないか?だからこそ「怒った」ではなく「怒ってやった」という、恩着せがましいフレーズを用いたのではないか?そう、恩着せがましい…。如何にも「あなたのために何かしてやっているのですよ」と上から目線で、そして「人のために行動している(行動してやっているか?)私は、素晴らしい人間」と、自己満足しているのではないか?おそらく、そうであろう。本当に人のために行動しているのなら、その人から好意を持たれるはずであり、少なくとも「トンチンカンな意見だ」などと思われる事もないのだから。という意見を言ってやろうかとも思ったのだが…さすがの私も、そこまでは恩着せがましくはなれなかった。というよりは、そういう行動だけは取りたくないな…と思っている次第なのである。

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2014年5月22日 | コメントは受け付けていません。 |

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人との縁。

 以前、ある学生さん(女性)から、こんな相談を受けました。

 国家試験が終わったら、一緒にご飯でも食べに行こうと、以前友達と話してたんです。その連絡が来たんですけど…その人は国家試験に合格したけど、私はダメだった…。それもあって、私としては、あんまり行く気にならなくて…。向こうも気を使ってくれているようなんですけど…。どうしましょう?

 とのことでした。私は『行きたくないのなら、行かなければいいよ。無理して行くものじゃないし、そんなじゃあ、行っても楽しくもないでしょ?』と答えたのですが、彼女は今ひとつ浮かない顔。『行かないと、その人と疎遠になっちゃうんじゃないかと心配?』と聞いてみたところ、『はい』との返事が。『そんなことで疎遠になるような仲なら、それだけの縁でしかないということだよ。彼女も気を使ってくれているということは、あなたが何となく来る気がしないんだな、ということを悟っているからだと思うよ。それが、国家試験の結果が原因であることも、分かっているんだと思う。だから今回断ったところで、疎遠になることはないと思うよ。来年合格した時に、今年の分も合わせて倍楽しめばいいじゃない。そっちの方が楽しめるでしょ?何度もいうけど、そんなことで切れる縁なら、それまでの縁だということだよ。逆に、切れない縁だったら、どんなことがあろうとも、何年会わなくても切れることはないよ。あなたが、どんなに繋ぎとめておこうとしても切れる縁は切れるし、そうでない縁ならば少々のことでは切れないはずだよ』といったところ、今度はスッキリとした顔で『それで切れるような縁なら、それまでの縁ということですね。そうですよね。分かりました』と答えてくれ、私としても一安心でした。

 縁とは不思議なものです。前述のように、どんなに繋ぎとめておこうとしても切れる縁は切れるし、切れない縁というものは、どんなことがあっても切れるものではありません。しかし前述の彼女のように、人間というものは縁が切れてしまうということに対して、大きな不安を抱いてしまうものです。縁が切れてしまったら、どうしよう…と。不安で、不安でたまらない。だからこそ、縁が切れないようにと、少々無理をしてでも繋ぎとめておこうとする。しかし、そんな縁は見かけだけの縁なのです。「無理やり繋ぎとめておく」ということは、すでに切れてしまっている縁ということではないでしょうか?なぜならば、縁というものは無理やり繋ぎとめておくものではないのですから。私は縁というものは、タンポポの綿毛のようなものだと思っています。少し少しと、静かに離れていく。「無くなったのかなぁ」と思ったら、自分の服に付いていたりする。強い風にも関わらず、離れずに服にくっついている。いつの間にか離れていったものもあるし、自分の服にずっとくっついて、一緒に行動を共にしているものもある。そんなものだと思っています。気がついたら…どこで付いたやら、全く別のタンポポの綿毛がくっついていたりもする…なんてことは、よくあることなのです。

 以前もブログで書かせてもらったヘレン・ケラーの言葉に次のような言葉があります。

 幸せの扉が一つ閉じると、別の扉が開く。でも閉じた扉にいつまでも目を奪われ、自分のために開かれた扉に気づかないことが多い。

 縁もこういうものではないでしょうか?一つの縁が切れると、同時に別の縁が結ばれていたりするものです。私も何度もそういう経験をしてきました。気がつくと、前よりもずっと良い縁が結ばれていた、なんていうことはよくあることなのです。でも、切れた縁ばかりを見つめていては、その良い縁に気がつくこともないのです。縁を無理に繋ぎとめておこうとせず、タンポポの綿毛が飛んでいくように自由にさせてみてはいかがですか?そっちの方が自由に、楽しく生きていくことが出来ると思いますよ。そして…どこで付いたやら、もっと良い縁ががっちりとくっついていた…なんてことに気がつく日が、必ずやってきますから!

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2014年5月15日 | コメントは受け付けていません。 |

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8%は大きい!

 先日、ある仕事に行った時の事。昼食後にとある買い物をした。価格は500円。時期も時期だったので外税で、店員さんからの声は「540円になります」。言われた金額を払おうとした時、フト「540円って高くないか?消費税が8%になったから…500×8%で40円…税込540円であっているな…こんなに税金で取られるのか…」と考えてしまった。もちろん、税込の料金を払ったのだが、妙に納得がいかない。500円のモノを買ったら、540円…妙に高くないか?

 と思ったので、仕事仲間が待機している部屋に行き「消費税って8%になったけど、何気に高いよな?500円のモノ買ったら、540円って言われて驚いたよ」と話した所、仕事仲間が「エッ!?それ違うんじゃないですか。500円で40円取られるなんて…」とのこと。「でも、計算したら8%で、あっているよな?」と聞き返したところ「500円で8%だから…40で40円。ホントだ!」と少々驚き気味の返答が。やはり8%、思いのほか高額であるようだ。

 以前の5%の時は、どうだっただろう?500円のモノを買えば、消費税は25円。税込みで525円となる。気のせいか、あまり高いイメージはない。慣れという事もあるだろうし、8%との比較もあるのだろうが、「おとなしく税金」というイメージがする。「あくまでも、税金として一部払っている」というイメージだろうか…。小銭で賄えているような気もする。ところが500円のモノを買って、税込みで540円となると、そうはいかない。500円で40円…。500円のモノを買って、500円玉と50円玉を出し、戻ってくるのは10円…。こうなると「おとなしく税金」というイメージでは済まされない気がする。「自己顕示欲の激しい税金」といった方がいいのだろうか?「あくまでも、税金として一部払っている」では済まされない存在感だ。「消費したんだから、税金払えよな」くらいの、剛の者たる…イヤイヤ、高飛車なイメージがあるぞ。小銭で済まされているという感覚も起きない。これは、大ごとだ!

 私はラーメンが好きでよく食べるのだが…ラーメンは大体650円付近の値段のものが多い。650円の8%といえば、52円である。店にもよるが、トッピングが一つ乗せられる金額である。よく仲間と居酒屋に行ったりもするが、大体2人で7000円前後である。となると、8%は560円…。確実にもう一品注文できる金額だ。そう考えると、確かに8%は高いと思う。以前なら7000円で、消費税は350円。小銭のイメージがあるし、割り勘にしてしまえばそう気になる金額でもない。3%の上昇と聞けば、大したことが無いように思うが、いざ金額にしてみると大きいのだ。10000円のモノを買ったら800円。20000円のモノなら1600円である。価格を大きくしていっても、消費税8%がいかに大きなものかが伺える。やはり、消費税の8%は庶民にとっては大きな金額であることは間違いないようだ。

 将来的には、消費税は10%になるとのことだが…。10000円のモノを買ったら1000円。20000円のモノなら2000円…。どうやら先のことは考えない方がよさそうだ。少なくとも8%でそこそこのダメージを受けているこの状況で、とてもじゃないが10%の重みには耐えられそうもないから…。

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2014年5月9日 | コメントは受け付けていません。 |

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不平、不満は不幸を呼ぶ呪文。

不平 「納得できず不満であること。また、そのさま」

不満 「もの足りなく、満足しないこと。また、そのさまやそう思う気持ち」

デジタル大辞泉より

 昨今、不平不満が多い学生さんが増えたような気がする。こちらも学生さんを相手にする商売。それ相応に、意見には耳を傾けたいと思うし、そうしているつもりである。もちろん、対処が必要な場合は、それなりの対処もする。しかし、年々耳を傾けているうちに、私が講師になりたての頃とは、ずいぶんと〝耳を傾ける内容〟が変わってきていることに気がついた。よくよく考えてみれば、昔は学生さんはあまり不平不満などは口にしなかったように思う。確かに「○○がチョット気になるんですよねぇ…」とか「出来れば、□□にして欲しいんですよ」「△△は、やっぱりイヤですよね」なんていう具合の、まあどこにでも、そして誰にでもあるボヤキのようなモノはよく耳にしていた。こちらも「なるほど…」と頷くことも多く、しかしやはり組織や公平さ、その他様々な諸事情を考えた結果、「そうなんだけどね…」と頷きながらも、学生さんには現状で納得してもらうよう説明する…というか、お願いしていた場合が多かった(もちろん、中には早急に手を打たなければならない場合もあり、すぐに対処した場合もあったが)。それで、学生さんは分かってくれたのか、ほとんどの場合が「まあ、しょうがないですよね…」と苦笑いで納得してくれていた。そんな学生さんを「大人だな…」と思ったことも何度かあるが、よく考えてみれば齢25近くの人間。間違いなく、いっぱしの大人である。そんな学生さんに、合格者パーティーで「あの時は悪かったな」なんて、頭を下げると「イヤ、いいですよ。今から考えれば、別にたいしたことなかったし…先生、話を聞いてくれたし…」と笑顔で答えてくれていた。やはり大人である。そんな考え方が出来るからこそ、合格したのだろう。そう思っている。

 不平不満というよりも、どこにでも誰にでもあるボヤキのようなモノ…。それが昨今では、明確な不平不満となって、学生さんの口から飛び出すようになっている。自分の思い通りでない。それが気に入らない。受け入れらない。だからこそ、不平不満をいう。どうやら、気に入らない・思い通りでないことに我慢すること、そこから何かを見出すことが出来ないようだ。状況を変える力や状況に対応する力がない。その力が無ければ、当然解決へと向かう事は出来ない。だからこそ、ただ不平不満だけを募らせているのだろう。自分に状況を変える力や状況に対応する力がなくとも、不平不満を口にしていれば誰かが何とかしてくれる。そういった態度が見受けられる場合が、往々にしてある。口を開いて「ピーピー」鳴いていれば、親鳥が餌を加えて与えてくれる…そんな状況に見えなくもない。

 中には不平・不満を発することで、あきらかに他人に当たり散らしている輩もいる。それが何の解決につながるのだろう?自分の思い通りにならないことの不平不満を人にぶつけたところで、身の毒以外の何モノでもないと思うのだが…。身の毒。なるほど…私の知る限り、不平・不満の多い人間で幸せな人生を送っている人が少ないよう思えるのは、気のせいだろうか?口を開けば不平・不満ばかりの人間を何人か知っているが…こう言っては失礼かもしれないが、確かにあまり良い目にはあっていないような気がする。単に、不平不満ばかり言っているから「この人の周りは、さぞかし悪い事ばかりなんだろうな」とこちらが勝手に思ってしまい、幸せそうに思えないだけかもしれない。ということは、不平・不満を口にするということは、周りの人に自分自身で「私は幸せじゃない」と叫んでいるようなものではないか?そして前述のように、それを見聞きする人間は「不平不満ばかり言っているから、この人の周りは悪い事ばかりなんだろうな」と、さらにその人を〝不幸の人〟と位置付けてしまうことになるのではないか?自分も幸せを否定し、周りの人間もその人を不幸としてしまう。なるほど。これでは幸せであろうはずがない。やはり、不平不満は不幸を呼ぶ呪文というのは、本当のことのようである。

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2014年5月2日 | コメントは受け付けていません。 |

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