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アンパンマンが忙しい世の中。

 先日、漫画家のやなせたかしさんがお亡くなりになられました。やなせさんといえば、日本人では知らない人がいない、まさに誰もが知っているヒーロー、アンパンマンの生みの親。心からお悔やみ申し上げます

 アンパンマンは異質のヒーローである。どこの世界に自分の顔を食べさせるヒーローがいるだろうか?アンパンマンがお腹をすかせて苦しむ人、困っている人等に、自分の顔を差し出すのを見て、誰もが度肝を抜かれただろう。自分の顔を食べさせるのだ。すごいヒーローだ。よくぞこの様なヒーローを思いついたものだと思うのだが…その誕生には悲しいものがある。やなせさんは従軍経験があり、そこでかなりのひもじさを体験したとのこと。やなせさんが「行軍したり、泥だらけになってはい回ったりするのは、一晩寝ればなんとかなる。ところが、飢えはどうしても我慢できない」と言っていることからも、いかに空腹を味わったのかが伺える。だが、その想像を絶するひもじさが異色のヒーローを生み出すこととなる。「逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること」「本当の正義は人を殺すことじゃない。ミサイルを撃ち込むことでもない。そこにひもじい人がいれば、それを助けることだ」ここに、ひもじい人を救うために自らの顔を差し出すヒーロー、アンパンマンの根幹があると思う。そして「世界中にはひもじい子ども、飢えた人がたくさんいる。もし、正義の味方なのだったら、まずひもじい人を助けるほうが先じゃないか。それが、ヒーローとして正しいのではないかと思ったわけです」そう、アンパンマンの誕生である。

 人を助けるとはどういうことだろう?どうも昨今、大義名分だけの人助けや、何やら大味な「○○のため」といった行動を多く見かけるような気がする。パッと聞くと、なにやらすごいことをしているように聞こえたり、「○○のため」に尽力しているような感じがするのだが…じゃあ具体的に、それで誰がどう、どれくらい助かるのか?ということがさっぱり見えてこない。以前、私の同僚に「学生さんのために…」とよく口にする輩がいた。では、その同僚が学生さんのために具体的に何をしているのかというと…それがさっぱり分からなかったし、見えてこなかった。いや、それどころか、どう見ても「学生さんのためによくないこと」ばかりしていたような気がする。 

 「人を助ける」「人のために」とはどういうことなのだろう?それをアンパンマンは教えてくれているようなきがする。やなせさんはこういっている。「いま食べられない人を空腹から助けることこそ本当の正義だ」と。そこには雄大な展望も、壮大なる人類愛をほのめかすキレイごとなど何もない。「空腹な人に食べさせる。これが正義」この言葉こそ、まっとうな人助けや正義というものを表しているのではないだろうか?そう、人助けや正義には大義名分などいらないのだ。時に大義名分は人を助けない理由にもなる。形にはまった枠を作り、その枠に当てはまらないから、助けない。大義名分を振りかざせば振りかざすほど、その大義名分からそれる人間は見捨てられる。人間が何度も、そして今もって堂々と行っている姑息な保身。そんなもの、人助けでも正義でもなんでもない。しかし悲しいかな、そのような「人を助ける」「人のために」が横行しているのが、今の日本の現状なのである。

 往々にして、「人を助ける」「人のために」と、あたかも多くの人のためにと振る舞った場合、その陰で少数の人間が泣いているのも事実である。多くを助けているように振舞えば振舞うほど、陰で泣く人の数は増えていく。その少数を救わなくてもいい大義名分…こちらも、いくらでも吐くことができるのだ。その大義名分を錦の御旗にかざして、もっともらしくその陰で泣く少数を切り捨てていく。不思議なものである。多くの人を救うために、少数の人を救わない。それでいて、いかにも人助けをしているように振舞っている。〝シンドラーのリスト〟という映画の台詞に「一人の人間を救うものは世界を救う」という言葉があった。まさに、この通りだと思うのだが…。

 アンパンマン以外のヒーローは、正義を口にするが、飢えや空腹に苦しむ人間へ手をさしのべることはしなかった。そして、正義の名の下に怪獣と戦ったり、悪の組織と戦ったりで大忙しである。だからアンパンマンは、お腹をすかせて苦しむ人困っている人、悲しんで泣いている人に、あんパンでできた自分の顔を差し出し、多くの人を助けている。アンパンマンが出来ること。自分の顔を食べさせてあげること。そう、自分がしてあげられることして、人を助けてあげることこそが、大義名分などいらない本当の正義なのだ。身近な、そして純粋なヒーローであるアンパンマン。「とにかく元気でくじけないで。きっとアンパンマンが助けに行くからね」と日夜、激しく飛び回っているのだ。特に昨今の「似非正義」や「人を切り捨てる人助け」が横行している日本では、困っている人、悲しんで泣いている人など、それこそ星の数ほどいるであろう。そんな、日本を激しく飛び回っているであろうアンパンマン。彼が誕生してから40年近くなるが…将来、こんなに忙しくなろうとは夢にも思っていなかったのではないだろうか?

 

 

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2013年10月31日 | コメントは受け付けていません。 |

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勉強だけしていれば、成績はずっと延びていくのか?

 最近、学習指導を依頼されて色々な所へと赴くことが多い。20年以上も学習指導を行ってきたが、最近はあちらこちらからお声がかかるようになり、嬉しい限りである。学習指導を始めたばかりの頃は、職場(当然薬剤師国家試験の予備校であるが)の中でも「何それ?」という感じで捕えられていた。今では普通に大学や企業からも学習指導を依頼されるが、当時は「何ですか、それは?」と訝しく思われたものである。同僚講師の中には「そんなものは必要が無い」「人気取りに適当なことをやっているんだろ」と揶揄する人も何人かいた。それでも、一人ひとりに学習指導を行い、徐々に成績が延びていったとき、学生さんから「学習指導のおかげです」の声があったから、ここまで続けられたのだと思う。さらに、そんな学生さん達が合格した時の喜びは、この上ないものである。合格のお礼を聞く度に、「本当に学習指導をやってきてよかった」と心から感じるのである。

 20年近くも学習指導を行ってきたので、その指導も細分化され、現在では一口に学習指導と言っても、色々な指導が存在する。学習指導というのは「どうやって勉強していくか」という〝勉強のやり方〟を指導する訳であるから、その時々の状況によって、様々な勉強のやり方が存在することになるし、当然、それに準じる形で多種多様な指導パターンが存在する事になるからだ。もちろん、指導の本筋たるものは変わらない。ただ状況によって「本筋をどうやっていくのか?」という「やり方」が変わるのである。勉強のやり方など、一義的なものではないのだ。前述のように多種多様の勉強のやり方があり、状況によって、その中から一番適している勉強のやり方を見出し、指導していかなければならないし、時には全く新しい指導を考えなければならない。これが本来の学習指導だと思う。

 そんな私の学習指導であるが、時折、指導をしていると「?」という顔をする人がいる。「どうしたの?」と聞いてみると…「そんなことが、成績向上に関係あるのですか?」といった声が返ってくる。指導を受けている人達は、100%純粋に勉強のことだけを話すと思っているらしく、一見、勉強に関係ないように思われることが、指導として出てくることが不思議に思えるらしいのだ。気持ちは分からなくもない。しかし、一見、勉強とは直接関係ないように思われることが、実は学力向上、成績UPに大きく関わってくるということが往々にしてあるのだ。

 そこでが出てくるのが、本ブログのタイトルである「勉強だけしていれば、成績はずっと延びていくのか?」という言葉。確かにちゃんと勉強していれば成績は上がる。だが往々にして、勉強とは直接関わりのないと思えるようなことが、成績向上に大きく関わっていたりすることも事実なのだ。実は、これを知っているかどうかで、試験勉強は大きく変わってくる。物事というのは「それだけをやっていれば、それの腕前はうなぎ上りに良くなっていく」というものではない。一見、それとは直接関係ないような事でも、その上達の大きな要因となることなどゴマンとあるのだ。実際、「そんなことで?」と思われる指導で、私が何人もの学生の成績を上げたきたのは事実である。

 以前、私が武術関係のことを習っているとブログで書かせてもらったことがある。武道を習ったことがある人はご存じのことと思うが、道場にの壁には門下生の名札がかけられている。道場に行ったら、まず自分の名札をひっくり返さなければならない。そして帰る時には、その札を来た時と同じ状態にかけ替えなけらばならない。以前、私の武術の師匠がこう話してくれた。「ただひっくり返すだけじゃダメなんだよ。ひっくり返す時に『しっかり稽古しよう』と思うことが重要。帰る時も『しっかり稽古したよな』と振り返りながら、ひっくり返すことが大事。それだけで上達が全然違ってくるんだよ」と。この話など、いい例だろう。名札をひっくり返すことなど、一見武術には関係ないことのように思われる。しかし、それをしっかりとやることで武術の習得の度合いに差が出るというのだ。言われてみれば、確かに上手い人間は皆、札をひっくり返す時も決していい加減にはやっていなかった。逆にいい加減にやっていた人間は、今一つ上手くならなかったことも覚えている。

 名札のひっくり返し方一つにおいても、武術の習得に差が出るのだから、勉強に関してだって、当然、無関係と思えることが、学力向上につながることが往々にしてあるのだ。例えば…道場では、名札をひっくり返すということは、日常の何気ない決まりである。その日常の何気ない決まりをしっかりと行うことで、習得に差が出る。勉強についても同じことが言えると思う。「一見、勉強とは直接関係ないように思われること」は沢山ある。そんな中でも一番身近にあり、そしてすぐに容易に行うことができるのは「日常の何気ない決まりをきちんとやること」だと思う。日常の何気ない決まりをきちんとやること。実は、これも学力向上の大きな要因の一つなのである。「そんなことで…」と一笑に付すのは自由だが…私的には、やってみて決して損はないと思っている次第である。

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2013年10月24日 | コメントは受け付けていません。 |

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ビックリ・バーベキュー!

 一見すると「どこかのステーキハウスか?」と勘違いしてしまいそうなタイトルなのだが…。先日、友人から「BBQ(バーベキュー)をやるから来ませんか?」といった趣旨のメールを頂き、参加することに。当日は、少々送れて友人達と合流することになったのだが、場所は大き目の公園の一角でBBQも出来るといった、よくある手ごろなBBQ会場といった感じであった。

 私が着いた時には、友人の友人達(ほとんどの人が初対面)は、テーブルやらイス(といっても、公園に良くある丸太を組み合わせ、固定されているモノ)に食材を置きながら、色々と調理の準備をしている。ふと目に付いたのが、テーブルの上に置かれたエビフライ。「なんでエビフライがあるのだろう?」と一瞬思ったのだが「食材を買いに行ったついでに、買ってきたんだろう。肉が焼けるまでの間、これを食べるんだろうな」くらいに思っていた。で、遅れていった私としては、BBQの火の係でも担当しようかと辺りを見回したのだが…BBQコンロが見当たらない。「?」と思いつつもさらに辺りを見回すと…鉄製の小さなBBQコンロが申し訳程度に置いてある。BBQ会場でやるBBQということだから、私的にはレンガなんかで積み上げられたタタミ二畳はあろうかというBBQコンロの上に、でかい網をセッティングして豪快に肉の塊なんかを焼いていくのかと思っていた。それが…か弱き鉄製の足4本でかろうじて支えられている、タタミ1/4にも満たないBBQコンロが一つ…。ん?BBQ参加人数は10人ほど。このBBQコンロで間に合うのか?と、友人を見ると…。

 その友人、丸太テーブルの上で何か作業をしている。何をやっているのかと見に行くと…なんと、テーブルの上にはカセットコンロが!さらに、その上には鍋が置いてあり、中には油が注がれている。「!」と思う私をよそに、友人は衣がまぶしてあるエビフライを次から次へと、油の中に落としていくではないか!そう、友人は生のエビフライ(衣つき)を買ってきて、それをカセットコンロで揚げているのだ!私が最初に見たエビフライは、友人がここで揚げたものだったのだ!BBQと称して、カセットコンロを持ってきて、エビフライを揚げる…こんなBBQは、私の人生で初めて…イヤ、私が知るBBQの中でも初めてである。呆気にとられつつも、何気に他の食材の方に目をやると…冷凍のフライドポテトが入っている。まさか、これも揚げるつもりなのか?そして、その傍らには餃子が…。「BBQの食材として、餃子を網焼きにするのか。何とも美味しそうだ」と思った私の期待もむなしく、エビフライを全て揚げ終わった友人、鍋をフライパンに変えるや否や、カセットコンロでその餃子を焼き始めた!チョット待て!BBQをやるはずだったのではないか?確かに、件のBBQコンロの網の上には、味付け肉の薄切りが申し訳程度に乗っている。BBQの網の上では、あまりにもひ弱な存在の肉である。これこそ、カセットコンロの上で炒めるべきだろう。イヤイヤ、BBQに来ているのに、カセットコンロで味付け肉を炒めて食べるなんぞ邪道だ。それが、カセットコンロで餃子?もっとBBQらしきものはないのか?と思っていたら…。

 餃子を作り終えた友人が発したのは「じゃあハンバーグいこうか」の一声。おおっハンバーグ!これなら網焼きでいけるじゃないか!よしハンバーグを網焼きにしてBBQ感を出そう!間違ってもカセットコンロなんぞ使わせないぞ…と意気込んでいる私をよそに、まな板を取り出して、何か作業している友人。よく見ると…玉ねぎをみじん切りにしている…。そして、その玉ねぎのみじん切りをカセットコンロを使って炒めたかと思うと、ひき肉を取り出し、そして…次に友人が取り出したのは牛乳!そう、友人はBBQ会場で一からハンバーグを作り始めたのである!ハンバーグの中の空気を抜くために、楽しそうにペッタンペッタン手でこねたハンバーグをまな板に叩き付けている友人。私は意外性をモットーとする人間である。誰もが予想だにしないことを考え、実行することが大好き…イヤ、生きがいと思っている人間である。生半可のことでは驚かないし、脱帽もしない。しかし、これには正直驚かされた!BBQをやると称して、現地で一からハンバーグを作る人間がいたとは!賢明なる方は気づいたことと思うが、「BBQだから網焼きハンバーグにするのか」という私の期待も空しく、その友人は楽しそうにカセットコンロで、そのハンバーグを焼き始めたのである。

 その日のBBQは、時間の関係上、ハンバーグを食べ終わったところで終了となったのだが…BBQだったのだろうか?どこをどうとっても、BBQらしき料理も、BBQらしき状況にも陥っていないよう思える。そこそこ酒も飲めたし、食べることも出来た。しかし、納得いかない部分が多いBBQであることも間違いない。果たしてBBQと呼べるのかどうかも定かではない。まあ、意外性をよしとする私であるから、こんなBBQもあってよかろうとしたほうが賢明なのかもしれない。とにもかくにも、ビックリすることばかりのBBQであったことは間違いない。

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2013年10月16日 | コメントは受け付けていません。 |

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カッパは今の日本を憂えているのか?

 先日、カッパを釣りに行ってきた。場所は遠野にあるカッパ淵。「釣りに行ってきた」とは言ったものの、チョットした手違いから、カッパを釣ることが出来なかったことが何とも腹立たしい。何でもカッパを釣るには〝カッパ捕獲許可証〟なるものが必要なのだそうだ。そんな事とはつゆ知らず、カッパがいるというカッパ淵まで勇んで出かけていった次第。いざカッパを釣ろうとしたところ、カッパ捕獲許可証が必要との掲示を発見。「では許可証を…」と思ったのだが、どうやら許可証は釣り場から結構離れた所で発行されているらしく、残念ではあるがカッパを釣ることをあきらめることとなった。カッパ釣りをしている人を横目に、何とも残念な気持ちで、しばらく水面を眺めていた。

 その昔、カッパ淵にはカッパが多く住んでいて、人々を驚かし、いたずらをしたと言われている(遠野市観光協会HPより)。「その昔」と書かせてもらったが、今はどうなのだろうか?少なくとも最近は人々を驚かしたり、いたずらはしていないようである。もし、カッパがそんなことをしたのなら、よほどの事件・事故が無い限り、間違いなく1ヵ月位はマスコミの話題になるだろう。チョットした芸能人がやらかした事件や、政治家の失言なんかは足元にも及ばないほどのセンセーショナルな出来事であることは間違いない。「その昔~中略~カッパが多く住んでいて」とあるのだから、おそらく近年、その数は減ってきているのであろう。なるほど、日本の伝承にはよくカッパが登場している。江戸時代の書記なんかには、目撃談が結構記されているし、日本各地にも沢山の伝承が残っている。人とも仲良くやっていたとの話も沢山あるから、昔は結構身近な存在だったはずである。それを、見かけなくなってきているということは…やはり、近年、その数は減ってきているのではないか?

 と、ここまで読んできて「何をバカなことを書いているんだ?カッパなんかいるはずないだろう」と思われている方も多いと思う。人がどう思うかは自由である。しかし、私はカッパが存在しないとは思わない。では、存在すると思っているのかというと…理論的に考えさせていただくならば、目撃談があるということは、一概に存在を否定できるものではないと思っている。だから私の中では、あくまでもカッパの存在に関しては「いるんじゃないかな。見た人いるみたいだし…」となっているのだ。残念ながら、私はカッパを見たことはない。だからといって「カッパはいない」としたくない。私は「自分は見たことがない=存在しない」という、強気な人間ではないからだ。「自分が知らないだけで、存在するかもしれない」と思うタイプの人間である。森羅万象の理は、人間がおいそれと理解し、簡単に釈明出来るものではないはずである。悠久にして劫なる森羅万象の理の流れなど、我々人間などの足元にも及ばない奥深きものであるはずだ。人間の存在など、森羅万象の中では本当にちっぽけなものでしかないのだ。だからこそ「自分は見たことが無いから、そんなもの存在しない」という考え方には陥りたくないのである。

 カッパは水の神様が姿を変えた精霊であるとか、水神様の使いであるとか言われている。昨今の日本では、水神様が憂えてしまうような、汚れた湖沼や河川が多くなっているのはご存じのことと思う。そんな汚れた水の中ではカッパも住めないだろうし、そこから現れようともしないはずだ。確かに綺麗な湖沼や川もある。だが、それは護岸工事もバッチリ施された、無機的なキレイさだ。そこには自然が持つ暖かさなど微塵もないし、森羅万象が宿命的に併せ持つ生命の息吹もほとんど感じられはしない。とてもじゃないが、水の精霊であろうカッパ達には〝やりきれない・堪らないキレイさ〟であるはずだ。彼らには葦が生い茂り、様々な生命の息吹があるであろう〝生きた水場〟こそが、美しくキレイな水場なのだから。だからこそ、最近ではその数が減ったり、人間の目に留まる機会も激減したのではないか?

 もしかすると、カッパは現代日本人に辟易しているのかもしれない。余裕もなく、今さえ、自分さえとあくせく動き回る日本人に対して…。自然の温もりも、生命の息吹も、そして自分達が大自然の一部であることも忘れてしまった日本人に対して…。昔は、ノンビリお互い仲良くやっていたが、とてもじゃないけど、そんな日本人とは関わりたくもない。そう思って、己からその身を人前に晒すことをしなくなったのではないのか?だからこそ、その目撃例も減っているのであろう。おそらく、どこぞの人知れぬ山奥の泉の中で、ノンビリやっているのかもしれない。残念なことに、今の日本にはそんな場所もそう多くはなかろうから、そこには日本中のカッパが集まって来ているのではないか。「ここも、ずいぶんと混みあってきたものだ。何やら世知辛いことになってきたもんだが…人間の方は大丈夫なのかなぁ…昔はノンビリやっていたのに…」なんて、カッパ界の中でも私のような変わり者のカッパが、ボンヤリ考えているのではないか…なんて思う、今日この頃である。

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2013年10月9日 | コメントは受け付けていません。 |

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質より量

 最近の世の中は〝質より量〟という傾向にあるみたいですね。「内容なんてさほどかまわない、量があればいい」という感じで。確かに景気も悪い世の中ですから「この際〝質〟には贅沢言わないで、量の多いものをとろう」という気持ちはよく分かります。

 〝モノに対しての質より量〟は賛成しなくもないのですが…でもモノじゃない、例えば仕事や勉強などといった「何かを達成するための作業」に関して言えば、質より量はチョット困ったことになってしまいます。何故なら、「何かを達成するための作業」での〝質より量〟は、「とにかくこなせばいい。どんなに良質な作業をしても、そこは評価されない。量さえこなしていれば(内容はどうであれ)いい評価が得られる」ということになってしまいますから。内容での正当な評価が得られず、こなした量だけで評価される…。これはチョット悲しいこと…というか、怖いことだと思います。

 チョット話は変わりますが、国家試験対策の勉強にも同じことが言えます。学習指導等で、色々な方からお話しを聞くのですが…闇雲にとにかく過去問題だけをバンバン解いている。とにかく問題数をこなしている。○○本を1周はしなければ、イヤイヤ3周はしなければと、とにかく参考書をやたらめったらこなしていく。そういう勉強をやっているという人が何気に多いのにも驚かされます。まさに〝質より量〟の勉強方法ですね。まあ、こういったやり方がないわけではありませんが…効率的には眉唾物の勉強方法であることは、一言申し上げておきたいと思います。勉強においては、確かに〝量〟も大事なことです。しかし、それ以上にやはり大切なのは〝質〟なのです。そこのところは、受験生の皆さん、しっかりと把握しておいてください。

 昨今、何故〝質より量〟がもてはやされるのでしょうか?もちろん前述のように「景気の悪い世の中だから」という理由もあるでしょう。でもそれだけでしょうか?〝質〟と〝量〟の違いって何でしょう?もっと詳しく言うなら〝質での評価〟と〝量での評価〟、それぞれの評価は何が違うんでしょうか?私が思うに「〝量〟は見た目だけで評価できるが、〝質〟は評価する人間の判断力が要求される」点が違うのではないでしょうか?辞書によりますと〝判断力〟とは「正当な判断を下しうる能力。知性・感情・意志などが具体的な状況に正しく対応する力」とあります。要約すると、判断力とは「具体的な状況に正しく対応する力」ということになります。逆に言うならば、「具体的な状況に正しく対応する力」が乏しければ、正当な判断を下せないということになります。〝質〟を評価するためには、判断する人に「具体的な状況に正しく対応する力」が必要だということです。一概には言えませんが〝質〟で評価するより〝量〟で評価する方がよっぽど楽で手っ取り早いですからね。見た目だけで評価できるわけですから。確かに〝質より量〟で判断しなければならない場合もありますし、その評価方法が悪い評価方法であるとは、一概にはいえない場合も多々あります。しかし、具体的な状況に正しく対応する力が乏しければ、質で評価しなければいけない時も、安易に〝質より量の評価〟をしてしまう危険性があるのです。何故ならば、具体的な状況に正しく対応するよりも、見た目の判断の方が楽に評価が下せるのですから…。「考えて評価を下すのも面倒くさいし、そのためにアレコレ調べるのも手間隙かかる…見た目で量が多ければ取りあえずよしとするか」…これが、昨今〝質より量〟がもてはやされる理由だと思うのです。

 「質より量」は結局のところ「内容よりも見た目」評価ということなのでしょう。では、質より量を優先する人から、いい評価を得る場合には、どうしたらいいでしょう?見た目重視の〝量〟で評価する人なんですから「沢山やっているようなアピール・(内容はともかく)沢山こなしていることの重要性を説く」ことが、重要になってくるんじゃないでしょうかね?「見た目で量が多ければ取りあえずよし」なのだから、とにかく量でアピールする。何とも浅はかな行為とは思えますけれど…。でも、何気にそういう人が多いことも事実。何とも悲しい話ではありますが…。

 誰もが小さいころに一度は聞いたことのある話。まあ、バリエーションは沢山あるのですが…。ある教室に、いつも花が飾られている。皆、誰が飾っているのか気にもしていないし、飾ってあるのが当たり前だと思っている。そんなある日、クラスの中でも目立たない子が病気になって長く学校を休むことになる。その子が休んだ日から、花は飾られなくなってしまう。そこでクラスの皆は、その目立たなかった子が毎日花を取り替えて、新しい花を飾っていてくれたことに気がつくことになる。まあ「美徳というものは人に分からず行うもの・目立たないことかもしれないが、それをしっかり行ってくれる人のおかげで快い日常を送ることが出来る」といった教訓話の一つです。自分の普段の行動を省みて、恥ずべき思いをしてしまいそうないい話なのですが…。質より量の〝見た目判断の世の中〟では、こんな話も起こりえないんでしょうね…。例え起こったところで、誰も花を飾る行為に正当な評価なんかしてくれないんじゃないでしょうか?量のアピールが大切なご時世。そんな目立たない行為は評価が得難いはずです。もっとも、やっているほうは評価など気にせずにやっていることなんですが…。評価を気にせず行う者。目立つ事だけで評価を行う者。その両者のギャップの大きさが、何とも怖い世の中だと思うのです…。

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2013年10月3日 | コメントは受け付けていません。 |

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