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不安は自ら作り出すもの。

 あなたの周りにいる人たちのせいで人生が台無しだというなら、その人たち全員を連れてきなさい。私がその人たちを何とかすれば、あなたは幸せになれるんですね。

 これは、全米で大人気の心理学者であるウエイン・W・ダイアー氏の言葉。「自分が幸福でないのは誰々のせいだというなら、その人たちを何とかすれば、あなたは幸せになれるんですよね」という、言いえて妙な発言。もちろん、この裏には「その人たちを何とかしたところで、あなたは幸せにはなれません」といった内容が隠されていることは、言うまでもありません。その人たちを何とかしたところで、また新たなる「人生を台無しにしてしまう人たち」が現れるのでしょうから…。イヤ「現れる」というよりは、「探し出してくる」といった方が正しいでしょうかね。何故なら…自分の人生が良くないのは、自分のせいではない。「では、誰のせいだ?」と言って、スケープゴートを探しているようなものですから。ウエイン・W・ダイアー氏が言いたいのは「自分の人生がつまらないのは、自分のせいではなく、誰かのせい。そう思っている限り、幸せにはなれませんよ」ということ。以前書いた『何かのせい・誰かのせいにしている限り、成功は寄ってきません』というタイトルのブログで、私は『上手くいかなかった責任や、芳しくない結果の責任を他に求めている以上、その人は幸せや成功といったものからは、ほど遠い状況にあると思います』ということを書かせてもらいましたが、ウエイン・W・ダイアー氏と同じような内容の発言でビックリ…というよりは、やはり同じ意見が出ているということは、この考え方は的を得ている考え方なのだと思います。何かのせい、誰かのせいで不幸なのではない。自分自身で、不幸を選択しているという考え方は…。

 同じようなことは〝不安〟についても言えると思います。不安に関しても、何度もブログに書かせてもらったのですが…やはり、不安も自分自身が選択している、自分自身で作り出しているものだと思います。『不安に負けるな』というタイトルのブログでも 『不安とは「こうなったらどうしよう」と自分自身で作り出している、絵空事にしか過ぎないということだ。自分で不安材料を探し出してきては、それを不安へと成長させ、自分一人で慄いている』 と書かせてもらいました。不安材料の探し出し…前述のスケープゴート探しと、似ているとは思いませんか?ウエイン・W・ダイアー氏の言葉を借りるなら「あなたの周りにいる何かのせいで不安だというなら、その何かを教えて下さい。それを何とかすれば、あなたは安心するんですね」ということになりますかね。う~ん、ピッタリ当てあはまりますね(笑)。やはり、不幸も不安も中身的には同じもののようです。よは、不幸も不安も自分自身の問題であって、周りの何のせいでもないということなのです。

 「不安です」という人に「何が不安なの?」と聞いてみて、一番多いのが「○○になったらどうしよう」という返答。もちろん○○の中には色々な言葉が入るのですが…。不安材料は多かれ少なかれ誰しもが持っているモノ…というよりは、探し出そうと思えば、誰しもが探し出すことができるモノ。まあ、材料のままだったら、さして翻弄もされないのでしょうが…それを、自ら大きく育ててしまうと、なかなか厄介なものとなってしまいます。材料は材料。それを、悪しき想像力で膨らませていき、ありもしない大それたことに育て上げてしまう。「○○になったらどうしよう」の○○こそが、その悪しき想像力に育て上げられた産物なのです。でも、よく考えてみてください。「○○になったらどうしよう」ということは、まだ「○○になっていない」ということなんですよ。つまり、今、目の前にある現実ではないということです。前述のブログでも 『そう、不安とは〝現実でないモノ〟なのだ。「こうなったらどうしよう」という不安の「こうなったら」は、まだ起っていないことなのだから。~中略~ 不安とは「こうなったらどうしよう」と自分自身で作り出している、絵空事にしか過ぎないということだ』 と書かせていただきました。起ってもいないことを、勝手に悪く想像して、それに怯える。これが不安の実態なのです。誰でもない、自分自身が作り出しているものなのです。不安の原因は自分自身にある。それを大きくするのも、小さくするのも、そして無くすることができるのも、自分次第なのです。

 「不安だから…」といって、突拍子ない行動を取ってしまうことは誰にでもあります。でも、考えてみてください。誰が囃し立てている訳でもなく、自分自身で作りだして騒いでいるだけなのです。冷静になって考えてみると…今、目の前にないことに、何を怯える必要があるのでしょうか?どうせだったら、今、目の前にある問題に取り組んだ方がよっぽど現実的、そして効率的だと思うのです。不安になった時は「不安は自分で作り出しているもの」ということを思い出して、今、目の前にある問題に取り組んだ方がいいと思いますよ。それが、不安に対抗する一番いい手立てだと思うのです。

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2013年9月25日 | コメントは受け付けていません。 |

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見た目とは違って…おいそれとは出来るわけじゃないんですよね。

 以前、こんな4コマ漫画を見たことがあります。

 

子供が床屋で髪を切ってもらっている。お父さんが、床屋さんの腕を褒めながら、散髪の様子をビデオカメラで撮っている。「いい腕をしている」「ココまで来ると神業だ」「素晴らしい!」と誉めながら、色々な角度からその様子を撮影している。しかし、何故か誉められている床屋さんは冷めた顔。更に誉めまくって撮影を続けるお父さんに一言。「ビデオに撮って、ソレを見ながら(散髪)して、散髪代浮かそうとしも無理ですよ。そんな簡単に出来るもんじゃないんだから」。

 

そのお父さん、散髪している所を撮影して、その通りやれば散髪出来るだろうとふんだのでしょう。で、散髪代を浮かそうと…。4コマ漫画としては傑作だと思います。

 見た目には簡単そうに見えても、実はオイソレとは出来ない事が世の中には沢山…いや「沢山ある」ではなく「全ての事がそうである」といっても過言ではないでしょう。テレビなんかで〝○○のプロ〟なんていう人がいとも簡単にやっているのを見て、「あれくらいできそうだけどな…」なんて思ったことがある人は多いはず。もちろん、思ってはみたものの、出来るはずがないことはご承知の通り。中には好奇心の旺盛な方がいらっしゃって、チョット試してみたりもするのですが…やはり出来ないのは言わずもがな。皆さん、お分かりのように「見た目には簡単に見えても、そう簡単には出来るものではない」ということです。

 ところが、どうもソレが分かっていない人種もいるようで。「(やっている人が簡単そうにやっているから)アレくらい簡単に出来るんだろう」と思ってしまう人は結構いるようです。あと何気に多いのが「同じような作業だから、コレができるんだからアレもすぐにできるだろう」なんて考えたりする人。分かりやすく言うなら「よくボールを蹴って遊んでいたから、サッカーも出来るだろう」なんていう感じ。確かにサッカーは、ボールを蹴ることがメインの競技です。だからといって「ボールを蹴って遊んでいた=サッカーができる」は見当違いも甚だしい話。ちょこっと何かに手をつけたことがあったにしても、では、それを極めたモノを習得したのかというと、それは全く別の話。物事一つ習得するのに、どれだけの時間と手間隙が費やされていることか…。そうやって、技術というものは身についていくものである、ということも皆さんご存じのことと思います。恐らく、すぐに「あれくらい出来るだろう」なんて言う人は「時間と手間隙を費やして技術を身に付けた」ことが無い人なのでしょう。「時間と手間隙を費やさずに技術を身に付けた人なんですか?」イヤイヤ「時間と手間隙を費やしたことが無いから、技術なんて身に付いていない人」なんですよ。ご本人は、身についた気になっているんでしょうが…。

 職人と呼ばれる方の技術は、それはそれは目を見張るものばかりです。一見、簡単にやっているように見えるのですが、素人がやってみると…前述のように、てんでダメというパターンはお約束。「時間と手間隙を費やして身に付けた技術」ですから、素人がオイソレとできるようなものでないことは、言うまでもありません。さらに職人さん達は、例え同じような内容の仕事を行っていても、しっかりと線引きして自らの技術を捉えていることも事実です。同じような作業だから、極めた自分も「それは簡単にできる」などと言ったことは口にしません。例えば木彫り職人が「木彫りが出来るから、石の彫刻も出来ますよ。同じ彫刻なんだから」なんてバカなことは言いませんよね?プロであるからこそ「同じ技術に見えるけど、全く異なること。そして、それは時間と手間隙費やして、初めて身に付くもの」と認識しているのでしょう。だからこそ、「アレも出来るからコレもできる」「少しやったことがあるから、できる」なんていう軽はずみなことは言わないのだと思います。

 そんな認識のカケラも無い〝分かっていない人〟。彼らにとっては、物事全てが簡単に捉えられるんでしょうね。「アレも出来るからコレもできる」」「似たようなことをやったことがあるから、できる」「あれくらい、私だってできる」なんて具合に。まあ、おめでたい人と言えば、おめでたい人なんでしょうが…。そのうちビデオカメラ片手に、散髪している様子なんか撮り始めるんじゃないでしょうかね(笑)。そうなったら、例えおめでたい人であっても、周りは笑うに笑えない状況になってしまうと思うんですが…。

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2013年9月21日 | コメントは受け付けていません。 |

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貧しいから盗む。

 私の母の実家は、あまり裕福ではなかったらしく、子供の頃は金銭的に大変な苦労をしたそうです。小中学生の頃は、給食費を払うのも大変だったそうで、よく滞納していたとのこと。昔はそんな家庭は珍しくもなく、母のような子供はクラスにも大勢いたそうです。当時は、教師も今ほどの指導は受けていなかったのでしょうか、そんな子供達にはおもむろに嫌みを言ったり、蔑んだ目で見ていたりしたそうです。さらに悲しいことに、裕福な家庭の子供たちには、あきらかに違う、好意的な態度で接していたそうです。

 母が中学校に通っていたある日のこと。給食費が盗まれるという事件が起こったそうです。教師は、帰りの会で皆にその件を告げたのですが…帰りの会が終わり、皆が帰宅の準備をしている時、裕福ではない家庭の子供たちが集まっている所にやってきてこう言ったそうです。

『 作法室に壺があるから。盗んだお金はその壺の中に入れておきなさい 』

母達はそれを聞いた時に「私たちが盗ったって言っているみたいだよね…」と話したそうです。確かに裕福ではないし、給食費も滞納していたりするけれど、人のモノ(ましてやお金)を盗むなんていうことはしない。祖母からも「どんなに苦しくても、人のモノに手を出してはいけない」と何度も何度も言われていたそうです。母の周りの級友達も、家族から同じように言われていたとのこと。それなのに…。母や級友たちは、何ともやりきれない気持ちになったそうです。その後、盗んだ人は見つかったそうですが…盗んだのは裕福な家庭の子供だったそうです。その子曰く「映画を見に行くお金が欲しかった」。その子は裕福な家庭の育ち。映画を見るくらいのお金は、お小遣いとしてもらっていたというのです。「そのお小遣いを使えばいいのに」と、母は不思議に思ったそうです。

 皆さんは、ロバート・カーンズという人を知っているでしょうか?映画にもなったので知っている人も多いと思いますが、車のワイパーを発明した人です。「さぞかし裕福な人生を送ったんだろうな」と思ってしまうのですが…。ワイパーを発明してからの彼の人生は、訴訟一色と言っても決して過言ではありませんでした。彼はワイパーの仕組みを完成し、それを自動車の大手メーカーに売り込みに行ったそうです。好評を得た彼のワイパーは、大手メーカーの車に採用されることになったのですが…大手メーカーはワイパーの設計を盗み、自社の発明とするよう手はずを整えたのです。早い話「ワイパーは我々がつくったものですよ」とした訳です。ロバート・カーンズは、大手メーカーを相手に訴訟を起こし、数々の圧力にも屈せず、長い訴訟の結果、ワイパーを自分の発明と認めさせたそうです。

 何故、大手メーカーが一個人の発明を盗むような真似をしたのでしょう?大手メーカーなら、彼に特許料・使用料を支払ったところで、何ら困ることはないはずです。ましてやワイパー付きの車は飛ぶように売れるはずですから、その儲けから比べれば、彼に払う特許料・使用料など微々たるもののはずです。前述の母の話でもそうです。お金を盗んだ子は、お小遣いもきちんともらっている裕福な家庭の子。なのに、何故お金を盗んだのでしょうか?両者とも、盗む必要は全くないと思うのですが…。

 世の中には「裕福だから盗まない」「大きい会社だから盗まない」といった考え方があるようです。これは間違いなく偏見です。前述の件からもお分かり頂けるかと思いますが、ブログを読まれている方の中にも、この考え方(裕福だから盗まない・大きい会社だから盗まない)の矛盾に気がつかれている方は多いのではないでしょうか?真偽はともかく、逆に「裕福だからこそ盗む・大きい会社だからこそ盗む」といった考え方の人も、世の中にはたくさんいるようですが…。

 私は「貧しいから盗む」と思っています。「えっ?『貧しい家庭だから、盗むというのは偏見だ』と書いたばかりじゃ…」と思った方もいることと思います。私が言っている〝貧しい〟は金銭的なことではありません。〝心の貧しさ〟を言っているのです。心が貧しいから盗む。心が貧しいから、人のモノを無断で自分のモノにする貪欲さを持つ。貪欲とは「むさぼって飽くことを知らないこと(デジタル大辞泉)」とあります。裕福であろうと、大きな会社であろうと飽くこと、すなわち「満足すること」を知らなければ、不平不満ばかりということになってしまいます。「満足すること」を知っていれば、不平不満もなく現状への感謝の気持ちが生まれるのではないでしょうか?そうすれば、お小遣いの中から映画のお金も出たでしょうし、ワイパーへの特許料・使用料も出たはずです。満足すること、そしてそれに対する感謝の気持ちが無ければ、どんなに裕福であろうとも、どんなに大きな会社であろうと、卑しい気持ちが生じて盗みを働くのではないでしょうか?心が貧しいから盗む。私はそう思っています。

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2013年9月11日 | コメントは受け付けていません。 |

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人の褌で相撲を取る。

人の褌(ふんどし)で相撲を取るとは、他人のものを利用したり、他人に便乗したりして、利益を得ること。他人のものを利用して、ちゃっかり自分の目的に役立てるずるさをあざけって言う。

故事ことわざ辞典より         

 私はよくこんな問いかけをします。「0から1を作るのと、1から5を作るの、どっちが大変だと思う?」皆さんはどちらだと思いますか?私的に言わせていただければ「0から1を作る方が圧倒的に大変」となります。もちろん「5から10作る」のも大変と言えば大変でしょう。一概に「どちらが?」と比べられないのは、ごもっともです。私が言いたいのは「0から1を作る」ということは「無から有を作る」ということ。まったくの何もない状態から、新しいものを生み出す。これは、オイソレとはできることではありません。当然ながら、大変な苦労を伴うことになります。「5から10を作る」場合は、はじめに5があって、それを元に10にしていけばいい訳ですから「新たなるモノを生み出す」という苦労は伴いません(もちろん、5を10にするにもそれなりの苦労はありますが)。世にある芸術作品のどれもが、人を魅了する美しさを持つのは「他の誰かが創った何か」をモチーフにしたのではなく、全て己の力で0から生み出した作品だからと私は思っています。と同時に、その芸術作品を世に送り出した方々のご尽力には、ただただ頭が下がる思いです。

 世の中には狡猾な人がいて「他の誰かが創ったモノ」を、あたかも自分が作り出したかのように振る舞う人がいます。自分で0からモノを生み出した訳ではないのに、人が作ったものを「私が作りました」と言わんばかりに堂々と振舞う。まさに、人の褌で相撲を取る行為。こういう狡猾な人、変にプライドだけは高いらしく「○○さんのモノを使用しました」などとは言わないみたいです(プライドが高いというよりは、謙虚さがないんでしょうね)。で、人のモノをそのまま使ったと思われるのが嫌なのか、チョット余計な細工を一つ二つ施して…言うに事欠いて「(○○さんのモノを)改良したんですけどね」なんて誇らしげに語る場合もあるようです。そんな手間暇かけるなら、初めから「私が作りました」みたいに振る舞わなければいいと思うのですが…。しかも言うに事欠いて「改良した」なんて大法螺を吹くのが、狡猾さの上塗り。

 改良というのは読んで字の如く「悪いところを改めて、前よりよくする」こと。つまり「悪い所があって、それを正した」ということなのです。私が知る限り、狡猾な人が一手間加える前、すなわち原本といいますか、初めのモノの方がずば抜けている場合の方が圧倒的に多いのです。そりゃあそうでしょう。前人未到で0から生み出されたものなのですから、珠玉のモノであることは間違いありません。そんな珠玉のモノに「自分が作りました」なんて印をつけるがために手を加えられたモノなど、とてもじゃないけど見られたものではありません。そのままで何の問題ないモノを、自分が作ったと主張せんがために〝改良〟と称して、余計な手を加えてダメなものにしてしまうなんて、愚の骨頂の一言に尽きます。結構、多いんですよね「私が改良して作ったんだ」という似非開発者が…。それで評価を得て、その人は満足なんでしょうかね?「自分の作品は自分の力で作り出す」っていう方が、よっぽど高きプライドだと思うんですが…。

 以前「語呂が無いのに語呂合わせ!?」というタイトルのブログで「私にも講師としての意地というかプライドがありますからね。誰かが作成した語呂合わせを、講義で伝えるなんていうことは、プライドが許しません(笑)。」と書かせていただきましたが…昨今、私が作った語呂合わせを、色々な所でよく耳にします。私が作った教材も色々な所で目にする機会が増えています。もちろん、私が作った語呂合わせを使用したり、私の教材を参考にすることに問題がある訳ではありません。問題なのは、それを使用している人が、あたかも自分が作ったものであるかのように振る舞っていること。さらには「改良した」として、前述のような状況になってしまっていること。これはどうしたものでしょうかね?「○○先生(私ですね)のモノを参考にさせてもらったんですが…」と公言すればいいだけの話だと思うのですが…。何故、自分が作ったモノにしたがるのでしょう?何故、改良と称して余計な一手間加えたりするのでしょう?そこの所がどうしても理解できないのです。

 そういうことをするということは、裏をかえせば「私には作り出す能力が無いのですよ」と宣言しているようなものだと思うのですが…。まあ、人の褌で相撲を取る人間には、そんなことは分かりもしないのでしょうが…。でも、0から創りだしたこちらとしては、少々悲しくなるのです。苦労して作った、自分自身の一部のようなものですから…。皆さんも、自分が苦労して創ったものが、自分の知らない所で他人が創ったように取り扱われていたり、余計な手を加えられて粗雑なものになっていたら、どう感じますか?きっと、悲しい思いをするのではないでしょうか?自分自身の一部が、否定されているようなものですから…。もっとも、人の褌で相撲を取るような人間は、そんなことも感じないでしょうし、そんなことを考えもしないとは思うのですが…。何とも悲しい話です。

 

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2013年9月5日 | コメントは受け付けていません。 |

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