流言は知者に止まる。
先日、「このブログを楽しく読ませてもらっています」という方とお会いしました。自分の書いたブログに対し「楽しく読ませてもらっています」という意見が聞けるというのは、それはそれは嬉しいこと。週一でブログを書き続けるということは、何気に大変なことなのですが、こういう意見を聞くと「書いていてよかったなぁ」と心から思えるのです。
で、その方曰く「特に人間関係に関して書かれているブログは、読んでいて色々と励まされるものがあります」とのこと。どうやら、その方も色々と人間関係に苦労されているご様子。持って生まれたものなのか、昔から言われても言い返せない性格とのことで、さらにチョット大人し目の性格が災いしてか、よく嫌味を言われたり、ありもしない噂のターゲットになってしまうことが多いそうです。私的に見ても、大人しくてまじめそうな人(ちなみに女性です)だったのですが…。世の中には、まじめな人を見るだけで、条件反射的に「いい子ぶって!」と敵意むき出しにする可哀相な心の持ち主がいるもので、そういう方々にとってはうってつけの標的になるんでしょうね。〝大人しくてまじめそうな人〟というだけで、嫌がらせの標的にされるなど言語道断な話。第一「大人しくて、まじめ」なんて、人間的に非の打ち所がないと思うのですが…そういう人を標的にする人間のほうが、よっぽど人として屈曲していると思うのです。まあ悲しいかな、大人しくてまじめそうな人間がイヤな目を見てしまう世の中なのでしょうか?昨今「自分の思い通りじゃなきゃイヤ。自分にとって気に入らない人間もイヤ」という人間が溢れかえっていますから。
で、その方(Aさんとしましょう)が話してくれたのが、前々回のブログ「インチキ薬剤師」で書いた『学生さんからの相談で、何気に多いのが「あることないこと言いふらされて困っている」という相談』そして『世の中には自分の気に入らない人物や自分の気に入らない事に対し、その人物やその事があたかも悪であるかのように、非常識極まりないことであるかのように脚色して、言いふらす人間がいることは確かなのです』といった内容に関してでした。Aさんも、日ごろからあることないこと言いふらされて困っているとのこと。どうもAさんのことを気に入らない人がいるらしく、日ごろから色々と嫌がらせをしてくるそうです。その人が根も葉もない噂(まあデマですね)の発信源とのこと。何故それが分かったのかというと、Aさんにそのことを教えてくれた人がいたことと、Aさん自身がその人がデマを話しているところを偶然聞いてしまったことからだそうです。で、そんなデマに悩んでいたところ、件の私のブログを見たとのことで、ブログを読んでみて感慨深いものがあったとのことでした。さらに、その人(噂を発信する人)は、自分で発信しているのに、あたかも自分も誰かから聞いたように周りの人にデマを伝えるのだそうです。分かりやすく言うと、自分で考えたデマを「私はこう聞いたんだけど…」というように、あたかもどこかの誰かが言っているように、いかにもそのデマが蔓延しているように周りの人に言うそうです。さらに、Aさんにも面と向かって「あなたが○○って聞いたんだけど…」といってくるそうです。Aさん曰く「いかにも第三者が私のことを悪く言っている、私の噂が知らないところで色々と広まっている。どう困るでしょ?みたいな感じで言ってくるんですよね。そういう人間を見ていると、何とも不愉快というか、人間の浅ましさが見えてしまって、気分が悪くなるのがイヤなんです」とのこと。これを聞いたときには、どうしてAさん、なかなか人間的にも強い人間ではないのかと思いました。自分がイヤなことをされているのに、それよりもそういうことを行う人間性の醜さがイヤという、自分を横に置いた客観的な目で、その事態を捕えているのですから。それをAさんに伝えたところ「そんなことはありませんよ。自分を横に置いて客観的にと言われても、やっぱり気になるし、一人になったら落ち込むし…強くなんかありません」とのことでした。だからこそ、ブログを見て勇気付けられたとのこと。ちなみに、以前書いたブログの「言いたい人には、言わせておけ!」「人の噂は…無視してしまえ!」にも、大変勇気づけられたとのことでした。
本ブログのタイトル〝流言は知者に止まる〟は「根拠のない噂は、愚かな者の間では広まるが、知恵のある者はつまらぬ噂を他人に話さないから、そこで止まってしまうということ(ことわざデータバンクより)」です。以前のブログでも、何回か書かせてもらったのですが、噂やデマというのは放っておくのが一番いいのです。ヘタに捕えてしまって「どうしよう」と慌てふためいてしまうのが一番よくありません。「でも、そんな噂やデマが広まってしまったら…」と考えてしまった時点で、もうその噂やデマの罠にはまっている証拠です。噂やデマは来るべきところでキチンと止まります。世の中は愚かな人ばかりではありません。判断力のある知者のところに来ると自然と止まるようになっているのです。それが証拠に、前述のAさんの場合も、Aさんに発信源の人を教えてくれた人がいたではありませんか?噂やデマを流布する人も、実はそれに翻弄されている人達なのです。良識ある人間は、真正面から噂やデマに対処していき、それに翻弄されることはありません。仮にその噂やデマが広がったとしても、それは愚かな者の間でのこと。そんな愚かな者にどう思われようと、さして気にする必要もないではありませんか?それよりも、自分自身も噂やデマに翻弄されることのない知者となって、そういう仲間をいっぱい作った方がいいと思いませんか?類は類を呼ぶのですから…。
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2013年8月28日 | コメントは受け付けていません。 |
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部外者がうるさいのは当然…イヤ、部外者だからうるさいんです!
学生さんからの相談に良くあるのが次のような内容。
「○○さんが『そんな勉強じゃ云々…』『あなたのやり方は云々…』とか、色々言ってくるんです。私は私なりにやっているんですけど、私のやり方に関してうるさくて困っているんですよ」
よくあるんですよね、こういう相談。ちなみに〝○○さん〟は友達であったり、親族であったりマチマチなんですが、共通しているのは、「薬剤師国家試験とは無関係の人間である場合が多い」ということ。中には既に合格された方の場合もあるようですが…どちらにしても現在の薬剤師国家試験対策という観点から見た場合〝部外者〟といえるでしょう。もちろん部外者であっても、良きアドバイスをしてくれる場合は沢山あります。でも、それを受け取る本人が困るようでは〝良きアドバイス〟とは言えなさそうです。もっとも言っている本人は、そんな困っている人のことなど露知らず〝(自称)良きアドバイスしている私〟に酔いしれている場合がほとんどのようですが…。
実は「何も(状況を)知らないのに、とやかく言ってくる」という言い方はチョット違うのです。正確に言うならば「何も(状況を)知らないからこそ、とやかく言ってくる」と言ったほうが適切なのです。状況を知らないからこそ、とやかく言ってくる…。その状況にいない人間にとって〝その状況〟は、自分にはまったく関係のない絵空事の世界。自分の聞いた範囲だけ、知っている範囲だけで考えていけばいいわけですから、好き勝手なことが言えるのです。全てを把握しているわけではないし(というか、何も把握してないことの方が圧倒的に多いんですけどね)、所詮、他人事でもあるわけですから、偉そうな事もいえるし、もっともらしい説教(説教なんて言えない単なる自己満足スピーチなんですが)も出来るという訳です。まあ、机上の理論というヤツでしょうか。私は他人のことにはあまり関与しませんし、口出しもしない人間なのでよく分かりませんが…察するところ言っている方は気持ちいいんでしょうね。自分には全く影響の及ばない範囲で、知ったかぶりして偉そうに薀蓄たれて、ふんぞり返って、そんな自分を自画自賛しているんですから。「すごい、この人!」なんていう賞賛でも頂けると思ってるんじゃないですか、ご本人は…。
一方絵空事じゃなく、実際にその状況にいる人間、つまり部外者ではない当人は、その状況の全ての事に対応していかなければなりません。〝机上の理論〟とは違い、全てが〝今、自分が直面している現実〟な訳ですから…。今対応していることや、対応しなければならないことが、それこそヤマのようにあるわけです。もちろん〝自分ごと〟ですから、軽はずみなことも出来ません。そんな現実の中、国家試験対策を行っているわけですから、やっている本人だって必死なはずですし、出来る限りの事をやっているはずです(中には必死さが微塵も見られない、困った方もおりますが)。そんな必死な人に対して、自己満足だけの軽はずみな〝知ったかぶりスピーチ〟をするというのは、どういうものかな…と思ってしまうのです。偉そうに机上の理論振り回す前に、何故「がんばれよ」の一言を言ってあげられないのかなとも思います。必死にやっている人に、偉そうに知ったかぶりスピーチをする前に「その人をどうすれば応援してあげることが出来るか」って考える方が、よっぽどその人は喜んでくれると思いますし、人間的にも温かみのある行動だと思えるのです。
部外者の余計な発言で一番怖いのは「その余計な発言により、試験対策のペースを乱されてしまうこと」なのです。せっかく地道にやってきて、勉強の地盤が固まってきたのに、部外者の余計な一言に翻弄されて、誤った国家試験対策に走ってしまう場合が何気に多いのです。基礎からしっかりやってきたのに、何もわかっていない部外者の無責任な発言に慌ててしまい、目先ばかりの勉強に走ってしまう。我々指導する立場からすると、これほど厄介な、そして腹立たしいことはありません。翻弄されないで下さい。目先にとらわれず、国家試験を見据えてしっかりと勉強していくのが一番なのですから。部外者の机上の空論、余計な一言に打ち勝つには「気にしないこと」が一番です。「何か言ってるよ」程度にとどめておいて、気にしないのが一番なのです!そんな「机上の空論」を受け止めて、翻弄されて一番の被害をこうむるのは、気にしてしまった人自身なのですから。部外者の自己満足的説教や、偉そうな机上の空論は笑い飛ばしておく。これが一番の対処法です。
(演劇の批評家は)自分が書けなくとも悲劇をののしることができる。自分でテーブルが作れなくても悪いテーブルを作ったといって大工を叱ることが出来るであろう。テーブルを作るのが自分の仕事ではないのだから。
byサミュエル・ジョンソン(イギリスの文学者)
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2013年8月21日 | コメントは受け付けていません。 |
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インチキ薬剤師。
批評家は自らの「好き嫌い」を「是非曲直」のオブラートに包んで差し出すところのインチキ薬剤師である。中身は要するに彼の「好き嫌い」に過ぎない。
林達夫氏の言った言葉。林達夫氏は、日本の思想家、評論家として活躍された方で、岩波文庫の「ファーブル昆虫記」の翻訳者としても有名な方です。常に人間の精神に深く根ざした批評を書かれたそうで、政治・思想・文化の動向には鋭い批判をしたということです。私的には、この言葉を見た時は一瞬ドキッとしたのですが…。インチキ薬剤師…。まあ、その後読んでみると、決して薬剤師の事を悪く言っている訳ではないことが分かったのですが…やはり薬剤師という言葉に〝インチキ〟などという言葉が付くと、ちょっとビックリしてしまいます。前述のように、林達夫氏は「鋭い批判をした」ということですから、表現もダイレクトに心に響くものとなったのでしょう。
文中にある〝是非曲直〟とは「物事の善悪・正不正」のこと。つまり「批評家は単に自分の好き嫌いに過ぎないことを、物事の善悪にこじつけたり、正しい・正しくないといったレッテルを貼って、もっともらしく判断しているに過ぎない」と言っている訳です。もっと簡単に言うなら「単なる個人的見解・感情を、理由(屁理屈?)をつけて、もっともらしい正論にしている」ということ。自らも評論家である林氏は、いい加減な評論家が適当なことばかり物々しくモノ申していることに対し、皮肉としてこの言葉を放ったのでしょう。なるほど世の中には、評論家や批評家と呼ばれる人たちが数多く存在していますが、私から見ても「チョット眉唾モノ」と思えるような評論をしている方がいることも確かです。
評論家や批評家までとはいかなくとも、何気に前述のような、すなわち「個人的見解・私的感情を、理由(屁理屈?)をつけてもっともらしく正論にしている」人は、身の回りにも多いような…。予備校講師なんていう仕事をン十年続けていると、そういう学生さんに出会うことは言わずもがな、中には一緒に働いている人間にさえ、そういう人がいたりします。人は十人十色。色々な考えや見解があるのは当たり前ですし、それ自体は何も悪いことではありません。しかし、それを「是非曲直」のオブラートに包んで差し出してしまう、つまり個人的見解・私的感情を、屁理屈つけて正論として流布することは、大いに問題ある、そして恐ろしい行為だと思うのです。個人的見解・私的感情を、それが常識的に正しいことである、それが一般的な考え方であるとして、自分の都合のいいように(すなわち個人的見解・私的感情通りに)事を運ぼうとする。規模の大小こそあれ、やっていることは独裁者やテロリストと、ほとんどと変わらないのではないでしょうか?自分の見解・私的感情は、正しいことであるから、それを流布して支持させるようにする。何とも、恐ろしい考え・行動のように思えるのです。
「流布する」と書きましたが…。流布とは「世に広まること。広く世間に行き渡ること(大辞泉より)」とあります。自分の見解や感情を正しいものとして、世に広める…。学生さんからの相談で、何気に多いのが「あることないこと言いふらされて困っている」という相談。やはり、世の中には自分の気に入らない人物や自分の気に入らない事に対し、その人物やその事があたかも悪であるかのように、非常識極まりないことであるかのように脚色して、言いふらす人間がいることは確かなのです。さらに厄介なのは、それを聞いた時、何も知らないのに「そうなんだ」と感化されてしまう人間が何気に多いこと。私は基本的に、人づてに聞いたことは信用しません。「そういう意見もある」というデータの一つにするくらいです。実際に会って話をしてみたり、自分で事を行って確かめて判断するようにしています。悪意があろうが無かろうが、人は個人的見解・感情で判断している場合が多いからです。「その人はそうかもしれないけど、自分は違うかもしれない」というスタンスで判断するようにしています。ましてや、悪意を持って個人的見解・感情を〝正〟として流布する人もいる訳ですから、自分自身で判断するということはもの凄く大事なことだと思うのです。昨今、あまりにもそういった悪意ある、そして誰かを陥れようとした噂を、そのまま信じて行動してしまう学生さんが多いことには、正直驚かされています。
薬剤師、または薬剤師になるべき人間が、個人的見解・私的感情を、屁理屈つけて正論として流布する。これこそ、まさに林達夫氏の言うインチキ薬剤師ではないでしょうか?自分の気に入らない事を、周りに悪く言いふらす。個人的に気に入らない人間に関して悪意ある脚色をして、それを正しいこととして知らない人に流布する。何気に日常ではよくあることかもしれませんが、厳しい言い方をすれば林達夫氏の言っているインチキ薬剤師がやっていることと同じということになります。本当にインチキな薬剤師も困ったものですが、林達夫氏が言っているようなインチキ薬剤師も、これまた困ったものです。薬剤師、または薬剤師になるべき人間は、そういったインチキ薬剤師にならないこと、そういったインチキ薬剤師に振り回されないことも、大事なことなのだと思うのです。
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2013年8月14日 | コメントは受け付けていません。 |
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チョコバナナの可能性は如何なるものか?
先日、私が住んでいる街で毎年恒例の夏祭りがあった。私は祭りが好きである。何と言っても、あの開放感がたまらない。「今日は特別な日。チョットはしゃぎ過ぎちゃっても、無礼講」的な開放感が大好きなのだ。さらに夏祭りとくれば、夏という季節が持つ開放感も加わり、その〝開放さ〟も一入である。そして、何よりも祭りにつきものである屋台が大好きなのだ。例え、普段手に入る食べ物であろうと、祭りの屋台で買って食べるモノは、その美味しさも一入である。私的に言わせてもらえば、たこ焼きなんかは、屋台のたこ焼きの方が圧倒的に美味しく感じる。お好み焼きも然りである。ただでさえ目出度いのに、普段食べられない美味しいものが手に入る日。酒飲みの私にとっては、まさに最高の日である。そこで、毎年私はこの祭りの日には、屋台のモノをつまみに昼からビールを呷る(あおる)という酒池肉林の1日を過ごすことにしている。「屋台の食べ物をつまみに、昼からビールを呷ること」が、私にとっては酒池肉林…私の幸せというのは、何と簡単なことなんだろう!話は横道にそれたが…最近の祭りでは、和牛を串に刺して焼いたものや、色々な海鮮物を串に刺して焼いたものなんかも売っていたりする。酒のつまみに適していること、この上ない代物だ。そういった理由で、最近の私の〝年に一度の酒池肉林の日〟はさらに充実したものとなっているのである。
和牛串焼きなどという、新参メニューを目にする機会も多くなった祭りであるが、もちろん昔からよく見かける屋台もいくつか健在している。前述したたこ焼きなんかは、昔から祭りの屋台で定番であるし、イカ焼きや焼き鳥なんていうのも昔からよく見かける。そんな良く見かける祭りの屋台に、チョコバナナを売っている屋台がある。私が初めて祭りでチョコバナナの屋台を見たのは中学生くらいの時だったと思う。もしかすると、それ以前にも存在したのかもしれないが、何と言っても私の故郷は北海道の片田舎。チョコバナナというものが、人生に初登場するのが、もしかすると遅かったのかもしれない。何はともあれ、とりあえず私が初めてチョコバナナを見たのは中学生の時である。その時の正直な感想は「バナナにチョコを塗っただけかい…」。そう、さして目新しい感覚もなければ、あえて興味を引く食べ物でもなかった。ましてや、当時のチョコバナナは半分。バナナ1本ではなく、半分にしたバナナにチョコをコーティングしただけという代物だったから、興味がわかないのも一入。ましてや、バナナに普通のチョコをコーティングしただけのものであるから、見栄え的にもどこか今一つの感があった。そんなこんなで、さらに初めて目にしたこともあってか「新しく考えたんだろうけど…長続きしないなコレは…」と思ったものである。ところが…長続きしないと思っていたチョコバナナ、その後も祭りでよく見かけることになる。初めのうちこそ「アレ、まだやっているんだ」位にしか思っていなかったのだが、祭りの度に目にするようになってくると、話は変わって来る。話も変わって来るが、チョコバナナの方も変わってきたらしく、いつの間にかバナナを丸ごと1本使用するようになっていた!それどころではない。何やらバナナにコーティングされたチョコの上に、カラフルなカラーチョコスプレー(色とりどりのチョコレートを顆粒状にしたもの)が散りばめられ、何とも華やかなものとなっているではないか!さらには、チョコにホワイトチョコレートを使用したものや、チョコの上にナッツなんかが散りばめられたものもあったりする。それどころではない!中にはイチゴが乗っかっているものや、カラーチョコスプレーやらラムネやらで、地チョコ(?)が見えない位にデコレーションされているものもある!一瞬「コレ食べ物か?」と思えるほどの、色とりどりの華やかさなのである。ん~、何とも華々しい進化を遂げたではないか、チョコバナナ!量だけではなく、見た目も煌びやかに進化したのだ。たかだが数十年で、これくらい華やかな変貌を遂げた食べ物も珍しいのではないだろうか?
それほどの変貌を遂げたチョコバナナであるが、ルーツというか、現在に至るまでの流れはどのようなものなのであろうかと調べてみたのだが…思いのほか、チョコバナナに関しての文献や資料が無いのには、正直驚かされた。それでも、かろうじて分かったのは…フォンデュに類似のデザートである、チョコレートフォンデュの一種だったようである。鍋に加熱して溶かしたチョコレートを入れ、串かフォークに刺した果物等をチョコレートにからめて食べるデザート。この時の果物にバナナを使ったのが、チョコバナナのということになるようだ(チョコレートフォンデュの場合は、チョコが融けた状態ではあるが…)。何気に、しっかりとした出所というか、歴史もそれ相応にある食べ物であった事にも正直驚かされた。
今まで延々とチョコバナナについて書かせていただいたのだが…実は、私はチョコバナナを食べたことがないのである。一度は食べてみたいと思っているのだが、食べる機会が無いのだ。祭りの日は前述のように、屋台のモノをつまみに昼からビールを呷っている日。そのため「甘いものは、ちょっと…」という状況になっている。空前絶後の変貌を遂げてきたチョコバナナであろうとも、さすがに酒のつまみとなるのは難しいだろう。こうなれば、祭りがあった時は、ビールを呷る前にチョコバナナを堪能するしか手はない。もしかすると、祭りの日を心待ちにする、美味しい屋台の食べ物がまた一つ増える可能性があるのだから…。
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2013年8月7日 | コメントは受け付けていません。 |
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盗ったトイレットペーパーでお尻を拭いて気持ちいいのか?
ケチと節約は違う。ケチとは「金銭や品物を惜しがって出さないこと。また、そのような人(日本語俗語辞書より)」。節約とは「むだ遣いをやめて切りつめること(大辞泉より)」。見解が偏らないように、2つの辞書から引用させてもらったが、どの辞書においても大差ない内容である。つまり、ケチは「金銭や品物を惜しがって出さないこと」であり、節約は「むだ遣いをやめて切りつめること」。要約するならば「出すべき時・出すべき場合には出す」のが節約であり、「出すべき時・出すべき場合にも出さない」のがケチということになる。
以前、私が勤めていた職場で、備品がやたら無くなるという事件がありました。その備品はトイレットペーパーやら電池といった消耗品なのですが、当然のことながら消耗品ですから、消耗されて減ることはごく自然のこと。しかし、減り方がどう見ても自然でない。チョットした状況証拠がそろい、どうやらある職員が持って帰っていることが判明しました。その職員、自称「節約家」とのことでしたが…。前述のように、節約とはむだ遣いをやめて切りつめること。その職員がやっていることは「出すべき時・出すべき場合に(お金を)出さない」という、いわゆる〝ケチ〟という行為に当たると思います。トイレットペーパーは生活必需品。それにお金を払うということは「出すべき時・出すべき場合には(お金を)出す」という行為だと思います。しかし、お金を出さない。備品を持ってきて自分のためだけに使用する…。当時は「セコいというか、しょうがないなぁ…」位にしか、思っていませんでしたが…これは横領、もしくは窃盗にあたる行為。犯罪として、立派に成り立つ行為なのです。早い話「会社の備品を盗んでいる」ことに当たる訳ですから。
インターネットなんかで見ても、何気に「トイレットペーパーが盗まれて困っている」といった悩み相談は多いようです。やはり被害が多いのは飲食店のようですね。色々な方が出入りしていますから。どうも、お客さんが持っていくというパターンが多いらしいのですが…。「客はお金を払っているんだから、別に持っていってもいいんじゃないの?」という人がいたら、その考えは改めた方がいいようです。この場合も、立派に窃盗という行為に当てはまるそうですから。お客さんが払ったお金は、あくまでも商品購入のお金。トイレットペーパーは、お店の物品。何の承諾も無しに持っていったら、れっきとした窃盗ということになります。ちなみに大学のトイレからトイレットペーパーを持っていく行為も、これに該当しますので、心当たりのある方はそういうことは止めた方がいいです。いや、止めるべきです!
「トイレットペーパー1個くらい…」と思った方がいるかもしれません。しかし、その考え方も止めた方がいいでしょう。値段や個数ではありませんから。逆に言わせていただくなら「トイレットペーパー1個くらい、自分で買ったらどう?」と言いたいですね。トイレットペーパー1個なんか、たかだか30円するかしないかくらいなんですから。その30円がもったいないからといって、窃盗するなんて馬鹿げた話だと思いませんか?もちろん、30円得するために窃盗という犯罪を犯すという行為が馬鹿げた行為だ、ということもあります。しかし、私が言いたいのは、果たして得をしているのかということなのです。どんなに30円得したと喜んだところで、本人の中には「盗んだ」ということが明確に刻まれます。「自分は30円のお金を出すのが嫌で、モノを盗んだ」ということが、自覚するにせよしないにせよ、自分の中には明確に刻まれるのです。それは、果たして自分にとってどういう行為になるでしょうか?泥棒から「30円のお金を出すのが嫌で、モノを盗んだ」と聞いたらどう思うでしょう?誰もが「しょうがないなぁ…それくらい自分で払えよ。そんな、ちんけなことで犯罪を犯すのかよ」と思うのではないでしょうか?トイレットペーパーを盗む度、その人は意識するしないに関わらず、自分自身に対してそういう見解を持つことになるんですよ。気がつかないけれど自分を蔑んでいる…そういう状況に陥ってしまうのです。「わずかなお金を出し惜しみして、泥棒している人間」と、自分を評価してしまう…これが、本人にとってどれだけマイナスのことか!だって、皆さんはそんな人間を信用しますか?信用できませんよね?そう自分自身が信用できなくなってしまうのです。これが、本人にとってどれだけマイナスのことか、お分かりいただけますよね?
ある方がホームページで、ケチについて「目先の損得を重視するあまり、長期的な損得を考えることができなくなり、結果として大切なことを次々と失っていく」と書かれていましたが、全くその通りだと思います。わずかなお金の損得だけを見て得をした気になっているが、大切なものが次々と失われていく。自分という人間の大切なこと…自信(自分に対する信用)、誇り、信頼、人間関係、信用、安心感…そういったモノが失われていくのです…。
私が、この話を母にしたところ、次のような言葉が返ってきました。「盗ったトイレットペーパーで、お尻を拭いて気持ちいいのかね?」なるほど、その通りですね。大事なことが失われる云々といった見解もさることながら、母の言葉の方が至極常識的な、そして納得できる考え方のような気がします(笑)。
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2013年8月1日 | コメントは受け付けていません。 |
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