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八方美人は八方ふさがり。

 以前「嫌われてもいいんですよ!」というタイトルでブログを書かせてもらったことがあります。そこで、こんなことを書かせていただきました。

 残念なことに人間同士の付き合いの中では、人から嫌われてしまうということもあるのです。それが人と人とのコミュニケーションというものなのです。それで嫌われてしまっても、それは仕方のないことではありませんか?いや、もっとズバッと言いましょう!別に嫌われたから何だというんですか?嫌われたら嫌われたで別にいいじゃありませんか?別に一生その人のそばで一緒に生きていくわけでもないんですから。嫌われないよう嫌われないようにしている人を見ると、見ているこっちが居たたまれなくなります。自分を抑えて、無理して無理して…。そんなことをしているうちに、倒れてしまう人にもしばしばお目にかかります。嫌われてもいいんですよ!嫌われないよう嫌われないようとしている人より、自分の意見や考え方を通して、嫌われている人の方がよっぽど素晴らしい人だと思います。

 そして、私の知人に「俺はこう思うから、こう言ってるし、こうしているんだ。嫌われようが関係ないよ。良いんじゃないの嫌わせておけば」という生き方の人がいるということも、紹介させていただきました。

 もちろん、こんな人ばかりとは限りません。中には人間関係を損得勘定で考え「でも嫌われるのは損だ…上手いことやって周りを皆味方に付けちゃった方が、何ごとも自分の都合よく事が運べるのでは…」とばかりに、周りを味方に付けてしまおうと画策する人もいますが…どんなに周りを味方に付けようと画策しても、結局は良好な人間関係を結べていない場合がほとんどのようです。そりゃあそうでしょう。人間そんなにバカじゃありませんから、うまいこと事を運ぶために味方にしようと画策したところで、しっかりとした信頼関係なんか作れませんよ。それどころか、逆に不信に思われてしまう場合がほとんどのようです。信頼ある人間関係というものは、味方にしようとか、損得勘定で考えて自分を優位に持ってこようとか、そんな不純物がない付き合いで生まれるものですから…。

 私が知る限り、自分の都合よく事を運ぶために、周りを味方に付けようと画策して、上手くいった人はいません。「自分の都合よく事を運ぼう」といったところで、世の中そう上手くはいきません。「都合よく事を運ぶのに支障ある人・物事」というものが、必ず出てくるものなのです。その〝支障ある人・物事〟に対して、その人がどういう行動に出るかは、皆さんのご想像にお任せしますが…まあ、あまり常識的な行動でない場合がほとんどなのです。結局〝その行動〟が露見してしまって…というパターンが大部分のようです。

 例え露見しなくとも…やはり人はバカじゃありませんから、そんな「周りを味方に付けて…」なんていう姑息な方法なんか、すぐにバレてしまいますよ。「なんか行動がおかしいというか、不審なような…」って。まあこれも、見方を変えれば「(自分の都合よく事を運ぶために)嫌われないように、皆から好かれようとする行為」であって、やはり「嫌われないようにしている」ことには、変わりありません。「純粋に嫌われたくない」か「自分の利益を得るために嫌われたくない」かだけの差です。「誰からも嫌われないように行動する」ということは、不可能なことなのです。逆を言うなら「誰からも嫌われないような行動」というのは「おかしな・不審な行動」ということなのですよ。だからバレてしまうのです。

 私は人間関係で色々と画策する人は、あまり好きではありません。画策が成功して、世間的に良い人と言われている人もいるみたいですが…何気に裏に回れば人の足を引っ張っていたり、あること無いこと言って人をはめようとしていたり、人の弱みに付け込んでいたりする人が多いからです。結構、見えないところで強かに…いや姑息にやっている人が多いのです。まあ画策とはそういうものですが…。人間関係なんて、むしろ画策なんかしないほうが、よっぽど良好なものが築けると思うのです。

 以前、爆笑問題の太田さんが「〝八方美人〟は〝八方ふさがり〟」と言っていましたが、いい事を言うなと思いました。まさに、その通りです。あっちを取り繕いいい顔をして、こっちを取り繕っては味方にして…なんてやっていたら、雁字搦めになって身動きがとれなくなってしまい、ボロを出すに決まっていますから(または本人が参ってしまうかですね)。実際、本人は「上手く振舞っている」つもりでも、「あの人は…」という本人にとって好ましくない意見を聞くことが圧倒的に多いのです。もちろん、ご本人が裏で上手く立ち回っている以上、そういった意見も決して本人の耳に入らない、更に裏の方から聞かされることも至極当たり前のことなんですが…。「自分の利益を得るために嫌われないようにしよう」と思って行動したのでしょうが、それが理由で嫌われることになってしまうというのも、おかしな話です。やはり人間関係、嫌われる云々、味方にして云々などと画策せずに、素直に接するのが一番いいと思います。たとえそれで嫌われてしまおうとも、自分から人が離れてしまおうとも、それをひとつの結果として受け止めていくことのほうが、健全な人間関係が築かれると思うのです。

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2013年6月27日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

変えられるものは、変える勇気を。変えられぬものは、受け入れる謙虚さを。

 前回のブログで『 「誰かが掃除するんだから、別に自分でゴミ箱に捨てる必要もない」というのは、自分勝手な考え方である 』と書かせてもらいました。『 最近ファーストフード店でゴミが落ちていることが気になる 』との例も挙げさせてもらったのですが…どうも大学でも、学内に食べたり飲んだりしたゴミが、そのまま放置されているらしく、それが昨今問題になっているとのこと。大学の先生方曰く「昔はそんなことはなかった」とのことですが…。やはり、「誰かが掃除するんだから、別に自分で何か事を起こさなくてもいいだろ」という考え方が浸透しているのでしょうか?

 汚せば誰かが掃除しなければなりません。ゴミも然るべき所に捨てなければ、誰かが拾わなければなりません。悲しいかな、そういうことを考えない、自分勝手な人が増えてきているのかも…。〝自分勝手〟と書かせていただきましたが、そもそも自分勝手とは、どういう意味でしょう?大辞林によると他人のことはかまわず、自分の都合だけを考える態度。すべて自分に都合のよいように考え、振る舞うさまとあります。なるほど…「自分の都合だけを考える」。自分の都合でしか考えない。だから、掃除する人のことなど考えない…。

 しかし、ここでチョット視点を変えてみてください。「自分の都合だけを考える」とありますが、はたしてこの世の中、自分の都合だけで物事が進むでしょうか?そんなことあるはずがありません。では「自分の都合で物事が進まない環境(すなわち今生きている世の中)」は、そういう人にとっては、どういう環境になるでしょう?おそらく、ストレスのある環境になってしまうのではないでしょうか?例えば、ファーストフード店でゴミを落としても拾わない人。もちろん、職場ではそういうことはしないと思います。自分で落としたゴミは、自分で拾ってゴミ箱に捨てる。当然のことなのですが、この人にとっては「面倒臭い・余計な労力だ」という行為になってしまうのではないでしょうか?「誰かがやってくれるのが当たり前」と、自分の都合だけを考えることが習慣になってしまっているのですから…。ゴミをゴミ箱に捨てるという何の変哲もない行為…それがストレスある行為になってしまっている。日常生活の中で、自分の都合よく進まないことは、全てストレスになってしまう…。そう、自分勝手な人間は、日常の世界を自業自得でストレスある世界へと変えてしまっているのです。

 なるほど、私も自分勝手な人を沢山見てきましたが…そういう人は、確かにどこか余裕が無いというか、カリカリしているというか…不機嫌そうな表情をしている場合が多かったりするのです。笑顔が少ないというか…笑ってもどこか引きついているというか、硬さが残っているというか…腹の底から笑っている表情ではないのです。もちろん、いつもそんな状況ですから何をやるにも、今一つ芳しくない結果になっているような…。そりゃあ、そうでしょうね。「日常生活で生きていくこと」=「ストレスを作り出していくこと」となっているんですから。何か自分の思い通りにならないことを見つけ出しては、カリカリしながら不機嫌になっている。そんなふうに思えるのです。なんか見ていて余裕がないんですよね。まあ、自分の思い通りにならないことが、いつも鼻についているのですから、余裕なんか生まれるわけもないんですが…。

 もちろん、そんな人間に寄りつこうとする人間はあまりいません。余裕が無くカリカリしていたり、他人のことはお構いなしに自分の都合だけを考える人間に寄りつこうとする人間など、あまり…イヤ、ほとんどと言っていいくらい、いませんから。そんな人と接している周りの人達を見ると「上辺で接しているなぁ…」ということが手に取るように分かるのです。で、気がつけば、一人ぼっちの状態になっているんですよね…えっ?当人はそういうことに気がつかないのかって?気がつく訳ないじゃありませんか!自分勝手な人間は「すべて自分に都合のよいように考える」人間なんですよ。周りの人間の、そんな態度や気持ちでさえ、自分に都合のよいように考えているはずです。確かに自分勝手な人間、私が知る限りでは人の気持ちを考えない人が多いみたいです。そりゃあ、掃除する人のことを考えないのですから、人の気持ちなんか考える訳がありません。それを言うことによって、人がいかに傷つくか。それを行うことによって、人がいかに嫌な思いをするのか。そういうことが分からない…ある意味、哀れというか、さみしい人だと思うのです。

 ブログのタイトルは、西洋にある諺です。この一言に尽きるのではないでしょうか?自分勝手という性質は、本人の心持次第で変えることができます。ならば、変えた方がいいのではないでしょうか?世の中、全て自分の都合いいようにと変えることは出来ません。ならば、それを受け入れる謙虚さが必要なのではないでしょうか?少なくとも、そっちの方が、自分勝手な人間が安住の場を得ることができる、最善の方法だと思うのですが…。

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2013年6月19日 | コメントは受け付けていません。 |

カテゴリー:ブログ 薬進する日々!!

ゴミはどこに捨てるもの?

 先日、所用のため外出したのですが、約束の時間まで少々時間があったので、某ファーストフード店で時間をつぶすことに。2人がけのボックス席に座って、本を読みながらアイスコーヒーを飲んでいました。しばらくすると、20代くらいのYシャツネクタイの男性が、私の左横の席に坐ることに。で、その男性スマホを片手にポテトを食べ始めたのですが…目線はほとんどスマホ。右手でポテトをつかんでは口へと運びながら、なにやらスマホを操作しているご様子。まあ、日常よく見返る光景であり、さして問題になるような行動ではないはずなのですが…何かが気になる。前述のように、私は本を読んでいた訳で、彼の行為は私の視界の一角に入る程度。なのに何かが気になる…。視界の一角に彼を捕らえながら、何が気になるのかと探っていると…その彼、ポテトを食べた後、右手をテーブルの上から横に移動して、右手の人差し指と親指をスリスリしている。早い話、ポテトを食べたときに指についた塩を床に落としているのです。それも、「ポテトつまむ」→「ポテト食べる」→「指についた塩を床に落とす」…の行為を延々とやっているご様子なのです。

 私が気になったのは「なぜ、指についた塩をあえて床の上に落とすのか?」ということなのです。私もポテトを食べることはあります。当然、指先に塩はつきます。しかし、指先についた塩は店内においてある(そして注文時にも渡してくれる)紙ナプキンで拭いています。指先についた塩を、彼のようにスリスリして落とすこともありますが、それを行うのはトレー上の紙ナプキンの上で、床の上ではありません。そして最終的に、その紙ナプキンはゴミ箱へと捨てます。床に払い落とすことなどしたことはありませんし、考えたこともないのです。

 床は物を捨てるための場所ではありません。こういうと「塩くらいいいじゃないですか」と反論してくる人がいるかもしれません。では、どれくらいだったら、床の上に捨てていいのかということになります。だからこそ「床は物を捨てるための場所ではない」という考え方が大事になってくるのだと思うのです。たとえば、お蕎麦屋さんにいって、七味唐辛子を使おうとしたとき、誤ってテーブルにドバッとこぼしてしまった時、どうするでしょうか?そのまま、テーブルの上から床へと、手で払い落としますか?それをした時、店の人はその行為を快く思うでしょうか?ラーメン屋で、スープをテーブルにこぼしてしまった時、手でそのスープをテーブルから床の上へと落とすでしょうか?彼のやっていることはそれと同じ行為だと思うのです。まあ指先についた塩を2、3回程度床の上に払い落とすことは、あっても許される範囲だと思います。しかし、彼の行為を見る限り「床の上で塩を払い落とすことは何ら問題のない行為」と受け取れるのです。悪意云々ではなく、至極当然の行為として行っている、当たり前の行為になっている。そこが問題だと思うのです。

 ゴミにはしかるべき捨て場所がある。そこに捨てればいいだけの話である。前述の床の上で塩を払っていた彼も、単にトレー上で払ったり、紙ナプキンで拭けばいいだけの話ではないのか?何の苦労もないことだと思うし、手間ヒマだって、そうかかるものではないはずである。なのに、何故あえて床の上に払い落とすのだろうか?おそらく、手間ヒマの問題ではないのだろう。「誰かが掃除するんだから、別に自分でゴミ箱に捨てる必要もない」という考え方なのだろうか?もしくは「塩くらいいいだろう」という考えなのかもしれない。いずれにしても、自分勝手な考え方であることは間違いないと思う。

 ゴミは大きかれ、小さかれ、しかるべき場所、すなわちゴミ箱に捨てるものではないか?それがこの社会で生きていくうえでのルール、すなわち常識だと思う。前述のように、彼の中には「どうせ店の人が掃除するだろう」という意識があったのかもしれない。だからといって、床を汚してもいいのかといえば、そんなことあるはずがない。誰かが掃除しようがしまいが、大きかろうが小さかろうが、ゴミはゴミ箱に捨てるものなのだ。当たり前のことではないのだろうか?昨今、ファーストフード店に入って「床の上に食べ物がやたら落ちている」ことが気になったりする。そういえば、公園やコンビニの周りで、食べたり飲んだりしたゴミがそのまま放置されて問題になっているということが、マスコミで取り上げられたりもする。どうも「ゴミはゴミ箱に捨てるもの」という、当たり前の意識が失われつつあるような気がするのだ。もっとも、そういった人達は「たかがゴミ一つで、なに大げさに考えているの?」くらいの意識なのかもしれない。「ゴミはゴミ箱に捨てるもの」という当たり前の意識さえも、そういう人達にとっては、自分たちが捨てるゴミの存在くらいの小さきものになってしまっているのではないか?何とも悲しい…イヤ、空恐ろしい話ではあるのだが…。

 大きな過ちは、小さな過ちから始まる。油断するな。 by 伊達政宗

 

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2013年6月12日 | コメントは受け付けていません。 |

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レジ前騒動 ~人を身なりで判断しては…~

 以前、羽田空港に行った時のこと…。搭乗口前の待合所のイスへと座ったものの、機内案内までにはまだまだ時間がある状況(私は早めに行動しないと落ち着かないタイプ:笑)。「本でも買おうかな…」と、待合所横の売店に向かい、適当な雑誌を選びレジへと向かうと…「?」。う~ん、どうなってるんだコレは?いや、どこに並べばいいんだ?

 普通、買い物をする場合は、レジカウンターの正面に一人立ち、その人の後に並ぶのではないか?一番先頭の人(すなわち、現在レジで支払いの手続きをしている人)がレジカウンター前、次の人たちは、その人の後ろに並ぶというのが常のはず。ところが…現在、レジで支払いの手続きをしている人の後ろには…人がいない。じゃあその人の後ろに並べばいいのかというと…。レジカウンターの真横…正確にはレジを打っている人の真横に、良いスーツに身を固めたご年配の男性が、何やら土産の菓子箱と思われるものを7、8個は両腕に抱えて立っている。なんかレジを打っている人も、真横(ちょうどレジカウンター内に入る入り口の所)に立たれて、何やら落ち着かない様子。そりゃあそうだ。どう考えてもそのご年配の男性が立っている場所は、通常、お客さんが立ち止まるには相応しくない場所なのだから。そして、その男性の後ろにお二方のご婦人が並ばれているのだが・・・「順番的に、この人の後に並ぶのか?でも、ここに並んでいいものなのか?」と何やら困惑気味の表情…。で、その3人で「並んでいるのか?立っているだけなのか?」という微妙な配置(まあ、商品を手にしていたので、並んでいるつもりなのだろうが)がキープされている状態。恐らくご年配の男性、荷物が多くてレジカウンター正面まで持ってくるのが一苦労…というか面倒くさい。で「レジカウンターでなくとも、レジ側(そば)だからいいだろう」という具合で、そこに立っていたのではないだろうか?もちろん「並ぶと時間がかかるので、隙あらば商品を出して先にやってもらおう」という邪な考えがあったことも重々考えられるのだが…。

 私としては、どうしたものかと悩みつつも「あれは並んでいるのか?というよりも並んでいると言えるのか?やはり、ここは順当に並ぶべきだろう」と考え、現在レジで支払いの手続きをしている人の後へと並ぶことに。それを見た〝土産抱えたスーツのご年配〟の後に並んでいたご婦人お二方。「やっぱり、そっちに並ぶのが順当」と言わんばかりに、私の後へと並ぶことに。そんなお二方を背中に感じつつ「なんか、先に並んでいたのに、後につかせちゃって悪いかな…」と悩んでいると…前の人がレジを終えて、次は私の番。…のはずだったのだが、前の人が去るや否や、土産を抱えたスーツのご年配、いきなりレジ横からレジ前にダッシュ!で、ドンと土産物をおいたと思うと、懐から財布を取り出し始めた!「!」となる私と私の後に並んでいるご婦人お二方…イヤ、それ以上に困惑しているのはレジのお姉さん!「えっ!?どっち?どうすればいいの?」と訴えかけんばかりの表情。そんなことをよそに、財布を取り出して札まで準備しているスーツのご年配。私もどうしていいものか分からず、本をレジに出すことさえ忘れる状況。で、スーツのご年配の方のほうが「レジをお願いします」という意思表示をしているとみなされたのか、彼の土産から先にレジ打ちとなった次第。

 私的にはレジの順番が云々よりも、私の後に並んでいるご婦人達に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。本来(?)なら、ご婦人たちはスーツのご年配の方の次だったはずです。でも、私が順当に並んだので、やはり順当にと私の後についたのでしょう。レジの順番が ①スーツのご年配→ご婦人お二方→私 から ②スーツのご年配→私→ご婦人お二方 になってしまった訳で、なんだか私が横入りをしたような、いやな気持ちになってしまいました。まあ①の並び方は、順当な並び方ではないんですけどね…。もとはといえば、スーツのご年配の並び方が原因。ちなみに清算後も「請求書をお願いします」だとか(そんな良い格好しているなら、土産代位自分で出しなさい!って言いたい!)、「袋もう少しもらえますか」とか、土産の入ったでかい紙袋と肩からかけたカバンが邪魔で身動き取れなかったりとかで、さらに周りのフラストレーションを高めまくっていました。

 良いスーツに身を包み、髪形もびしっと整えた、何やら良い会社の良い地位のご年配…っていう感じだったんですが…。何でそういう立派な方が、そういう並び方やらそういう行為をしちゃうんでしょうか?やはり、ある程度の地位で、周りが合わせてくれる環境にあるんでしょうか…。世間一般では、それなりに良識がある立場の人間に見えたのですが…。「人を身なりで判断してはいけない」と言いますし、まったくその通りだとも思います。身なりのいい格好ができ、ある程度の年齢も重ね、恐らくそれなりの地位もある人なんでしょうから、社会の中で生きていく上での最低限の決まりである〝並ぶ〟という行為に関しては、率先して守ってもらいたいものです。まあ「人を身なりで判断してはいけない」という言葉には「いい服装だからって、優れた人間とは限らない」「見た目が立派でも、良識がある人とは限らない」という意味も含まれてはいますけど…。

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2013年6月6日 | コメントは受け付けていません。 |

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