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不安に負けるな!

 この時期になると、学生さんはとにかく不安になる。以前もブログで書いたのだが、薬剤師国家試験の予備校の講師という仕事を長く続けていると、この時期に「不安なんです」と相談にやってくる学生さんが多いことを痛感する次第。国家試験まであと1ヵ月ほど。試験対策の大きな山場を迎えたこの時期、国家試験受験生である方は、誰しも不安になるのは当然といえば当然の話。のんべんだらりとした日常を送っている人なぞ皆無に等しいはず。

 私も一人の人間であるから、不安になることも、これ然り。不安で「どうしよう?」と頭を抱えることは、よくある。で、その不安が去ると、また新しい不安を感じては、やはり「どうしよう?」と頭を抱えて…の繰り返し。そんなことをやっているうちに、ある日ハタと気がついた。『1つの不安が去ると、また次の不安がやってくる…イヤ、やってくるという言い方は不適切なのではないか?何故なら、新しい不安は、前の不安を抱えていた時にも存在していたのだから…。ということは、1つの不安が去って、次の不安が出てくるというよりも、1つの不安が去った時点で、わざわざ新しい不安を探し出しているようなものではないか?一つの不安が去り、せっかく安堵して楽しくやっていけるのに、わざわざ不安を探して出しては、それに頭を抱えて慄いて(おののいて)いる。これじゃあ、あえて不安に慄くことを選んでいるようなものではないか?』と。確かにそうである。誰しも不安なんぞ、探せばいくらでも出てくる。ということは、不安が出現するというよりは、あえて不安を探し出しては、それに慄いているだけではないのか?不安に慄く、楽しくない方を選んでいるだけではないか?前述の如く、誰しも不安なんぞ、探せばいくらでも出てくるはず。なのに、日々楽しく過ごしている人は沢山いる。ということは〝不安があるから楽しく生きられない人〟と〝不安があっても楽しく生きられる人〟の2種類がいるということになる。どうせ生きるなら、楽しく生きた方がいいのではないか?

 不安とは何だろう?私が自分自身の指針としている本に、こんなことが書いてある。

不安とは恐怖の本能に根ざしたマイナスの想像。その特徴は「現実でない」こと。

 そう、不安とは〝現実でないモノ〟なのだ。「こうなったらどうしよう」という不安の「こうなったら」は、まだ起っていないことなのだから。「不安なんぞ誰しもが持っているもの」と前述したが、どうやら「不安材料は誰しもが持っているもの」であり、不安とはそれを基に成長させたマイナスの想像のようである。不安とは「こうなったらどうしよう」と自分自身で作り出している、絵空事にしか過ぎないということだ。自分で不安材料を探し出してきては、それを不安へと成長させ、自分一人で慄いている。何ともこっけいな話ではないか?第一、こんなことをしていたら楽しくないのは当たり前である。どうせ生きるなら、楽しく生きた方がいいのは、前述のとおりである。

 不安とは、己が育てたマイナスの影である。それに対応できるのは、作りだした自分自身しかいないのではないか?と書けば、何やら大変なことのような気もするのだが…さして難しくはないのかもしれない。不安材料を探し出さなければいいし、それを不安へと成長させなければいいだけなのだ。早い話、自分で不安を作りださず、楽しくなる方を選べばいいのである。不安を作りだすということは「楽しくない方を選ぶ」ということなのだ。どうせ選ぶなら楽しい方を選ぼうではないか!そう考えると、不安への対応は難しくないのではないか?楽しくなる方を選べばいいだけなのだから。「こうなったら困る」ではなく「こうなったら楽しいだろうな」という方を支持すればいいのである。そして「こうなったら楽しいだろうな…そのためには…」と行動していけばいいのである。「こうなったらどうしよう…」などと不安を作りだせば、楽しくもないし、フットワークが重くなって行動することもできない。楽しむか、楽しまないかは自分が選ぶことである。楽しい方を選べば、例え不安材料はあったにせよ、それは不安へと成長しないのだ。イヤ、その不安材料を行動力のエネルギーへと変換することさえ可能なのだ。前述した〝不安があっても楽しく生きられる人〟とは「不安材料はあっても、それを不安へと成長させず、楽しく生きられる人」なのだろう。「負い方一つで重荷も軽い」は、イギリスの劇作家・小説家であったヘンリー・フィールディングの言葉であるが、まさにこの言葉通りである。不安にかられた時は…楽しくない方を選択していないだろうか?あえて自ら不安を成長させていないだろうか?そう考えて自分を見つめ直してみるといいのかもしれない。

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2013年1月30日 | コメントは受け付けていません。 |

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懐かしき大衆食堂の味。

 先日、所用のため地方に出かけたのだが、おりしも当日は雨の降る寒い日となった。所用を済ませた後、昼食でも取ろうということになったのだが、何せ風雨激しい寒い日。何か温かいものでも食べようということで、駅前の路地にあった中華料理屋で食べることに。店の中は、4人がけのテーブルが6つほどと、奥には4人がけのテーブルを3つならべた団体用の席が一つ。テーブルやイスは、決して洒落たものではなかったが、どこか懐かしさを感じさせるもの。店の中も凝った装飾などはなく、どちらかと言うと小ざっぱりした感じ。お昼時なのに天気のせいか、埋まっているテーブルは3つほどであった。何を食べようとメニューを見ると、ラーメンやタンメン、チャーハンに中華丼等の中華料理が載っているのだが…。よく見るとカレーライスやら、オムライスも載っていたりする。裏面を見るとソバやらうどんも載っているし、かつ丼やら玉子丼、天丼なんかも載っている。中華料理屋か?

 前述では〝中華料理屋〟としたが、どうやら中華料理屋さんというよりは〝大衆食堂〟だったようである。誤解の無いように言わせていただくが、私は何も差別しているわけではない。中華料理屋も大衆食堂も、お客さんに美味しい料理を提供してくれる〝食べ物屋さん〟であることには変わりはない。単に、扱っているメニューが違うだけである。まあ定義はないのだろうが、私的な観点から言わせていただくなら「和洋中等の区切りなく、色々な料理を提供してくれる飲食店」が大衆食堂のように思う。そう、大衆食堂には何でもあるのだ。自分が子供のころには、こういった大衆食堂と呼べるようなお店が多かったように思える。そういうお店に入ると「何を食べようかな?」と考える楽しさも一入である。何せ色々な食べ物があるのだから。和食も洋食も中華もあれば、スパゲティーもあるしカレーライスもある。人間「何を食べようかな?」と考えている時は至福の時である。その選択肢が多くなればなるほど、その至福度も増すのではないか?確かに私が子供のころは、大衆食堂に入った時「何を食べようかな?」と楽しみながら迷っていた思い出がある。ン十年たった先日も、やはり昔と同じように大衆食堂のメニューを眺めつつ、何を食べるか楽しみながら迷っていた。

 そして、どういう訳かそういった大衆食堂には、美味しいお店が多いような気がするのは、はたして気のせいだろうか(もちろん当たりハズレはあるだろうが…)?さらに、いたってどの料理も美味しいような気がするのも、気のせいだろうか?色々な料理があるうえに、どれもが美味しい…。ある意味最強の飲食店と言えるのではないだろうか?実は前述の大衆食堂で、私はチャーハンとあんかけ焼きそばを食べたのだが、どちらも美味しかったのである。特にチャーハンに関しては、ここ近年食べたチャーハンの中で一番おいしかったのではないだろうか?以前「チャーハンの適正価格はいくらか?」というタイトルのブログ(2010年5月26日)の中で「街の中華料理屋さんの小麦色したチャーハン」について書かせていただいたが、まさにそんなチャーハンだった。具材も多く、小麦色。そして、ご飯と具材がパラパラとほぐれる。これぞ美味しいチャーハンの定義ではないだろうか(もちろん、そうでなくても美味しいチャーハンはあるが)?最近は具材が少なく、色白の〝気取ったチャーハン〟が多いような気がする。〝ほぐれる感〟もなく、味もどこか今一つのものが多いような気もする。大衆食堂のチャーハンは気取ってはいないけど、「ホッとする美味しさ」があるように思うし、今回食べたチャーハンにもそれがあったのである。

 気取ってはいないが、ホッとする美味しさ。これも大衆食堂の魅力の一つではないか?「○○料理」と掲げた専門店の料理も、それはそれで美味しいのだが、大衆食堂の料理は庶民的な美味しさを持っているのだ。ましてや、色々な料理があるとくれば、やはり飲食店として申し分ないと言えるのではないだろうか? なのに悲しいかな、最近は大衆食堂というものを見かけなくなってきているのが事実である。それと逆行して「○○料理」と掲げた専門店が、多くなってきていることも事実だと思う。専門店も、それはそれでいいのだが、やはり私としては大衆食堂がもっとあっていいのではないかと思う。いや、もっと沢山の大衆食堂が出来ないかなとも思っているし、出来て欲しいのである。気取っていない、小ざっぱりした店内での「何を食べようかな?」という至福の悩みを、身近なモノにしたいのである。庶民的なホッとする味を、いつでも気軽に堪能したいのである。何とも贅沢な話かもしれないが、懐かしき大衆食堂にはその〝至福の悩み〟と〝庶民的なホッとする味〟が詰まっているのだ。そう考えると、大衆食堂とは何と贅沢な飲食店なのだろう!私の願いなんかよりも、大衆食堂というもの自体が、よっぽど贅沢なものなのではないだろうか?庶民的な贅沢さ。これもまた、大衆食堂の魅力の一つではないかと思うのである。

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2013年1月24日 | コメントは受け付けていません。 |

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いじめていい理由などない!

 昨年、文部科学省が実施した〝いじめ緊急調査〟によると、全国公私立の小中高校などのいじめの認知件数が、4月からの半年間で14万件を超えたそうです。もちろん、これは把握できた数であり、専門家は「認知されていないものはまだある」とのこと。14万件という数字を、皆さんはどう思いますか?「1件=1人」と単純計算は出来ないとは思いますが、14万人近い人がいじめを受けていると考えても、差し支えないのではないでしょうか?もちろん、認知されていないモノもありますから、実際はこれ以上の人数になるのでしょうが…。今もどこかで、14万人の人が、理不尽ないじめによって泣いている。もしかすると、命を断とうとしている人もいるかもしれません。年も明けたのに、新たなるいじめに関するニュースが報道されていたりもします。今もどこかで誰かが泣いている…。

 前述の文部科学省の調査では、対象が小中高校ということでしたが…。私は、薬剤師国家試験予備校の講師という仕事を長くやってきましたが、いじめという問題には何度も遭遇してきました。さすがに我が薬進塾は少人数生ですので、開塾以来、一度もいじめ事件は勃発していません。私は、いくつかの予備校に籍を置いていた経験がありますが、どの予備校でもいじめはありましたし、いじめによる相談も毎年のように受けていました。いじめの相談を受けた学生さんのほとんどが、女の学生さんでした。それも、まじめで大人しくて、どちらかというと成績もいい学生さんが多かったように思えます。そんな学生さんが、沈痛な面持ちで「先生、相談があるんですけど…」などと蚊の鳴くような声でやってくるのです。話を聴いてみると、いじめられているとのこと。無視される、嫌みを言われる、これ見よがしに気分を害することをされる、成績のことで難癖付けられる、etc…。涙ながらに訴える学生さんの姿は、誰一人として正視できるものではありませんでした。そして、そんな姿を見る度に「どうして、こんなに人を悲しませるんだろう?」と心の底から思わずにはいられませんでした。もちろん、いじめている方はそんなこと考えないのでしょうが…。いじめている方も学生さんですが、いじめられている、そして目の前で泣いている人も私の学生さんなのです。自分が知っている人間(ましてや教え子)が、こんなにも悲しい思いをしていると思うと、こちらの悲しさも一入なのです。

 いじめられている人は、年齢に関わらず社会に生きている一人の人間です。ですから、そのいじめられている人と関わりを持つ人は、沢山いるはずです。その関わりを持つ人達は、私が教え子がいじめられ心苦しい思いをしているのと同じように、自分の知人がいじめられ、悲しい思いをしていると知ったら、やはり心を痛めるのではないでしょうか?いじめられている人にも家族がいます。自分の家族が、いじめにあって悲しい思いをしていると知ったら、どう思うでしょう?なんとも、いたたまれない気持ち…イヤ、それこそ身を引き裂かれるような辛い思いをするのではないでしょうか?いじめている人間は、その辛い思いが分かっているのでしょうか?もちろん、分かっていないから、そのようなことをするのでしょうが…。だからこそ、いじめで事件が起きた時、いじめていた方は、いけしゃあしゃあと自分の正当性を主張するのです。「いじめてはいない。遊びだった」とか「あの人が○○だったから…」などと…。

 私が対応した、いじめ問題の時もそうでしたが、往々にしていじめる方は「だって、あの人が○○だから…(○○には色々な理由が入ります)」などという言い訳をします。じゃあ逆に聞いてみたいのですが、○○だったら、その人をいじめてもいいのでしょうか?○○ならば、その人はいじめられても仕方ないのでしょうか?そんなことあるはずがありません。どんな理由があろうとも、人をいじめるという行為は許される行為ではないのです。いじめている本人は、いじめていることに疾しさを感じているはずです。だから「私が悪いんじゃない。○○だからあの人はいじめられてもしょうがないんだ」と、言い逃れしているだけなのです。「いじめをしている私が悪いのではなく、あの人が○○だからいじめられてもしょうがないんだ」と、責任転嫁しているだけなのです。ある意味、人間として最も卑劣な責任転嫁とも言えるのではないでしょうか?

 いじめていい理由などありません。そんなモノは存在しないし、存在してはならないのです。人が人として生きていく以上、人が社会の中で生活をしていく以上、そんな理由などあってはならないし、存在さえしてはならないのです。もちろん、そんな卑劣な理由とも呼べない戯言を、「いじめられる方にも問題あるんだよな」などといって受け入れてはならないのです。いじめていい理由などない。誰もが、この事をしっかりと認識することが、今、必要とされるのではないかと思うのです。

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2013年1月17日 | コメントは受け付けていません。 |

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もう、恵方巻かい!

 世間様では1月も5日あたりを過ぎると、「正月も終わったかな」なんて思う頃。賑やかな期間を過ぎ、心なしか街も幾分ひっそりとしたご様子。今年なんかは5日を過ぎた7日が月曜日ということもあり、これを区切りに世間様は日常へと戻っていったのでは?よくよく考えると、賑やかな日々は結構続いていたようで。正月の賑やかさの前は、大晦日の賑やかさ。大晦日の賑やかさの前は、クリスマスの賑やかさ。いざこうしてみると、何とも凄まじい賑やかさ。〝日本の三大賑やかイベント〟といっても決して過言ではない〝クリスマス〟〝大晦日〟〝正月〟。この〝賑やかさトップ3イベント〟が立て続けに、それも10日以内にやってくるのだ!なるほど、街が…イヤ日本中が賑やかな訳だ。

 私は酒が好きだ。よく飲む。しかし、毎日飲むことはない。特別なことがない限り、週に連続して2日以上の休肝日を設けている。〝特別なこと〟と書かせていただいたが、それほど〝特別なこと〟かというと、そうでもない。「飲みに誘われた」「祝祭日で仕事が休み」「仕事が遅く終わった」そんなことろである。まあ、単なる〝酒飲みの酒を飲むためのいい訳〟といったところであろう。「だったら、休肝日など設けなければいいのでは?」と思った方も多いと思う。しかし、やはり休肝日は設けなければならないと、自分自身固くなに思っている。もちろん身体のことを考えてというのも理由の一つであるが、それだけではない。それとは別の理由、そしてこちらの方が大きな理由でもあるのだが…毎日飲むと、飲むことが当たり前のことになり、その面白み・楽しみが薄れてしまうような気がするのだ。いつものようにと惰性で飲んでしまう…。これが何とも勿体ないような気がするのである。私としては「よ~し、今日は休肝日じゃないから飲むぞぉ~」とか「今日は○○だから一杯やるか」といった飲み方の方が好きなのだ。飲んでいないからこそある、飲みの楽しみ。酒を飲むことが何か特別なこと。そういった飲み方が好きなのだ。毎日飲んでしまうと、これが無くなってしまうのではないかと思うのである。いつも飲んでいるから、今日も飲んでしまう。確かに、そのような飲み方をしたこともあった。やはり、その時は〝飲む〟ということが惰性になっていたような気がするし、酒が飲めるという喜び・楽しみも半減していたように思える。私的に言わせてもらうなら、やはり酒は時たま飲むから美味しいのだと思う。「酒が飲めるのは特別なこと」これも、酒を美味しくする立派な肴の一つだと思う。特別なことがあると飲む。酒を飲むと、特別なことがそれ以上に特別なことに感じてしまう。酒にはそんな魔力があるのだと思う。

 というわけで、私はクリスマスから大晦日を経て、日常へと戻る前の日である1月6日までの間、ズ~ッと酒を飲み続ける日が続いた。クリスマスは特別な日である。特別な日だから酒を飲む。酒が飲めるから、クリスマスは一層特別な日となる。大晦日、正月など言わずもがな。という訳で、クリスマスから大晦日、正月を含む10日間近くは、酒が飲める特別な日々として、その〝特別さ〟を堪能することができた日々となったのである。

 で、ご多分にもれず、私も週が明け7日にると、それを区切りに日常へと戻ることとなったのだが…。ふとスーパーで見たポスターに思わず「!」。そこに書いてあったのは「恵方巻の御予約承ります」。恵方巻!?この前食べなかったか?確か仕事に行った時、仲間に「恵方巻。いい値段するんですけど、なんか食べちゃうんですよね~。買いませんでした?」なんて話をした覚えが…。あれは昨年の話か…ということは、もうあれから一年たったのか!時が経つというのは、こうも速いのか?いや、驚愕するなら「速い」よりも「早い」の方だろう。正月が終わったと思ったら、もう恵方巻を宣伝している。さすがに早すぎないか、恵方巻の宣伝は?恵方巻は、節分…そう2月3日に食すもの…ゲッ!よく考えてみれば、あと一カ月もないではないか!そりゃイベントまで一カ月を切ったとなると、売りこむ方としてはがぜん宣伝にも力が入るだろう。いくつかのスーパーやコンビニに寄ってみたのだが、恵方巻の宣伝をしているのは一件や二件ではなかった…というか、ほとんどの店舗で恵方巻の宣伝をしていたのである。

 前述のように、昨年は恵方巻を買って食べた。恵方巻にも色々な種類があり、どれも美味しそうでつい2本も3本も買ってしまう有様。当然、出費としても手痛いものとなるのだが…。しかし〝恵方巻を食す〟という行為が、目出度いイベントであることは確かである。ましてや恵方巻の中身が、マグロやらサーモンやら海老カツやら、酒の肴として美味しそうなものならば、こんな特別なことはない。という訳で、昨年同様、今年もまた恵方巻を食しながら、酒を飲むことになるんだろうな…などと考えている。もちろん一本目を食す時は、いつものように酒を飲まずに、無言で食べきるつもりであるが(笑)。

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2013年1月9日 | コメントは受け付けていません。 |

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