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うまい棒 百花繚乱!

  うまい棒といえば誰もが知っている日本の駄菓子。〝株式会社やおきん〟さんが日本で販売している棒状のスナック菓子であり、キングオブ駄菓子といっても過言ではないほどの人気駄菓子である。イヤ、駄菓子という言葉さえもふさわしくないのかもしれない。今や、スナック菓子としては大手製菓会社の商品と肩を並べるほどの知名度を持っている菓子なのだから…。おそらく、今の日本ではうまい棒を知らない人のほうが少ないのではないか?総理大臣の名前は知らずとも、うまい棒は知っている…という人がどれほどいるのだろう?うまい棒の知名度は、総理大臣の知名度さえも上回るのだ。もちろん、うまい棒を知らない人もいるだろう。しかし、恐らくそれは単に自分が駄菓子を好む年齢に、うまい棒が存在しなかったという理由からではないか?ならば、知らずともやむをえないことだ。何らうまい棒の知名度と人気度に疑問を投げかけるものではない。今や、国民的駄菓子…イヤ、失礼、国民的製菓といっても過言ではないほどの人気度を秘めている菓子…それがうまい棒なのではないか?

  私がうまい棒を知ったのは、確か中学生の頃だったと思う。友達と駄菓子屋に行ったときに、初めてうまい棒を見た時に「ふ~ん、こんなお菓子が出来たんだ」と思った覚えがある。諸説紛々あるが、私の地元では、実はうまい棒より先に〝うまか棒〟というお菓子が発売されていた。CMで見た覚えがあるのだから、もしかすると全国区で〝うまか棒〟の方が先立ったのかもしれない。その真偽のほどは定かではないが、少なくとも私の地元では〝うまい棒〟より先に〝うまか棒〟の存在があったのだ。ちなみに、「〝うまか棒〟とうお菓子」と前述したが、正確にはうまか棒は「株式会社明治(旧・明治乳業)さんが販売しているアイスキャンディー」であり、一般に言うところの〝アイス〟である。もちろん、私もうまか棒を食べたことはある。だからこそ、うまい棒を見たときに「なるほど、似たような名前の菓子できたのか…」と思ったものだ。

  私が始めに知ったうまい棒は〝ソース味〟。これが、歴史に名だたるうまい棒の第一弾味になろうとは、そのときは知る由も無かったのだが…。子供ながらに新商品を買って食べた感想は「まあ、こんなもんだろうな」。当時は、駄菓子屋で売られている菓子といえば、いまひとつメジャーじゃないものが多かった時代。そんな時代背景の中、登場したうまい棒は、やはりその時代の駄菓子が背負うべき宿命を背負っていたのかもしれない。しかし…第二段として販売された〝サラミ味〟。これが、我々の間で大ブレークを巻き起こした。確かに考えてみれば、当時のスナック菓子の味付けといえば、前述の〝ソース味〟や〝チーズ味〟〝カレー味〟〝塩味〟位なモノだった様な気がする。少なくとも、現在ほどスナック菓子の味付けの種類は、多くなかったことは間違いないのだ。そんな中で発売された〝サラミ味〟。そう、今までに味わったことの無い〝ニューウェーブな菓子味〟なのだ。私も強烈なセンセーショナルを感じたのを覚えている。かくいう私の友人たちも「うまい棒のサラミ味は美味い」と、サラミ味を買いあさっていたのを覚えている。中学生が買いあさるといっても、所詮1本10円のうまい棒。1人10本も買えば大満足である。かくして私の地元では、一時期、街中の〝うまい棒・サラミ味〟が店頭から姿を消すという事態に陥った。まあ、販売しているのが街に一軒しかない駄菓子屋であり、そこの予想仕入れ数以上の〝うまい棒・サラミ味〟の需要が起こったというだけの話なだけであるが…。

  何故、今回のブログでうまい棒の話なのかというと…。実は今、ウチの学生さんたちの間で〝うまい棒〟が流行っているのである。流行っているというよりは、皆、事あるごとにうまい棒を食べているといった状況。別に、薬進塾のそばに駄菓子屋さんが出来たとか、近くの店でうまい棒フェアをやっているというわけではない。実は、ある学生さんが問屋さんに行ったところ、うまい棒が1袋に30本入って240円という価格で売っていたとのこと。で、買うことになったそうなのだが、いかんせん1袋に入っているのは同じ味。価格が安いということもあり「じゃあ、色々な味を…」と何袋か買うことになったそうなのだが…5袋買ったとしても 30×5=150 で150本。さすがに、うまい棒150本を一人で食べるというわけにはいかず、皆に持ってきてあげた…という経緯。そんな理由で、我が薬進塾では、うまい棒をやたら目にするようになったのだ。もちろん、もらった学生さんたちは大喜び。皆、笑顔でうまい棒を食べることに。そういう私も「1本どうですか?」の問いかけに「じゃあ」と喜びながら、うまい棒をいただくことに。何気に、皆笑顔で食べているところを見ると、やはりうまい棒は人気の菓子なんだな…とつくづく思う次第で。そういう私も、1本頂いた〝うまい棒・サラミ味〟をン十年ぶりで食べながら「懐かしい味だな…やはりうまい」などと、すっかり中学生の頃を堪能した次第で。

  まあ確かに食べ過ぎるのも、いかがなものかとは思う。しかし、息抜きにチョット食べるくらいなら、別に問題は無いであろう。それに、皆どこか「味を堪能している」というより「懐かしさを堪能している」感の方が強いのだ(もちろん、味も堪能しているのであろうが)。国家試験勉強の合間に堪能できる、昔懐かしい味…。ウチの塾で、うまい棒が流行っている一番の理由はそこにあるのではないかと思う。つまり「懐かしさの堪能・皆での懐かしさの共有」。うまい棒流行の理由は、そこにあるのではないか?と思う今日この頃なのである。

 

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2012年11月29日 | コメントは受け付けていません。 |

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先生は偉いのか?

* 学問や技術・芸能を教える人。特に、学校の教師。

       また、自分が教えを受けている人。師匠。

* 教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を

       敬っていう語。

* 自分より先に生まれた人。年長者。

                                                                                   大辞泉より

  まあ上記の条件に当てはまる人間を、一般に先生と呼んでいるということになります。私も先生と呼ばれる人間ですが、上記条件でいうならば「学問を教える人」に分類される先生ということになるのでしょう。しかし、改めて見ますと…職種というか、人の種類というか、何気に先生と呼ばれる人のなんと多いことか!まあ、私が先生と呼んでいる人にも、多種多彩な人がいますからね。大学の先生はもちろんのこと、習い事の師匠のことも先生と呼んでいるし、薬進塾で教鞭をふるっている講師陣のことも先生と呼んでいます。薬進塾担当の会計士さんや社会保険労務士の方も先生と呼んでいます。私のことを色々とご指導して下さる方のことも先生と呼んでいるし、病院に行ってももちろん先生はいらっしゃいます。先生である私の周りにも沢山先生がいるのです。そう考えると「何気に自分の置かれている状況は、先生尽くしの状況になっているのでは?」と思わず考えてしまうことに。中には先生と呼びたいのですが「いいよ。名前で呼んでよ」なんていう、謙虚な方もいらっしゃいます。そういう方も含めるとなると、本当に自分の周りには沢山の先生がいるなぁ…なんて改めて思ってしまうのです。

 ウチの講師陣はもちろんのこと、私が懇意にさせていただいている先生方にはいないのですが…どうも世の中には、「自分は偉い」という雰囲気を醸し出しているというか…まあ、ハッキリ言わせていただくならば、〝偉そうにしている先生〟が結構いるような気がするのです。実際、そういう先生には何度か…イヤ結構お目にかかっていますね(笑)。もちろん、本当に素晴らしい、思わず尊敬してしまうような先生も、沢山沢山いらっしゃるのですが…「何故もこんなに偉そうなんだろう?」と不思議に思ってしまう先生が、いらっしゃることも確かなのです。別にこちらが何か失礼なことをしたわけではありません。それどころか、初対面なのにそういう接し方をされることも少なくはないのです。う~ん、不思議だ。ただ、どうも社会の中には「無条件で先生は偉い」という風潮があるようで。だからこそ、偉そうに振舞っているのでしょうか…?でも、そうなんでしょうか?先生とは、無条件で偉い存在なのでしょうか?

 私も長いこと講師という仕事、つまり先生をやっていますが…確かに〝偉そうな講師〟といえる人物にも何度かお目にかかったことがあります。そんな講師が、講師室で学生を怒っている状況に出くわすと…「なにも、そこまで言わなくてもいいだろ」と、聴いているこっちまでが、いたたまれない状況に。そんな気持ちは私だけではないようで、講師室全体にピキッと張りつめた空気が。そういう状況になると、人というのはなるべく音を出そうとしないもので。結果、余計講師室は静まり返ることになり、余計にその講師の聴くに堪えない怒声が響くことに…。まあ、そんな環境で仕事をするのが耐えられなくなったからこそ、薬進塾設立に至った訳なのですが…。もちろん、我が薬進塾はそういった講師はご遠慮願っていますので、気さくな先生方ばかり。空気が張り詰めるなんていう状況とは、無縁の講師室&教室となっていますのでご安心をば。

 前述にありますように、先生という言葉は「敬っていう語」です。私は、自分が先生と呼ぶ人間に対して、敬いの心は常に忘れないようにしています。本当にお世話になっているし、接していると人間的にも本当に素晴らしい人だと思うことがよくあるのです。では、その方達が偉いのかといえば…それ相応の地位にはありますし、世間に通用する立派な肩書だって持っています。偉いのかと言われれば、そりゃあ偉い人達です。しかし、私は自分が先生と呼ぶ人間に対して、あまり〝偉い〟という感覚は持っていないのです。「先生を偉いと思っていないのか!けしからん奴だ!」などと早合点してもらっては困ります。「偉いという感覚は持っていない」からといって卑下しているわけではありません。前述にあるように、私は自分が先生と呼ぶ人間に対しては、間違いなく尊敬の念を抱いていますから。ただ、私の偏見かもしれないのですが、それを〝偉い〟という言葉に置き換えてしまうと、とっても安っぽくなってしまうような気がするのです。ですから、自分が先生と呼ぶ人間に対して〝偉い〟という言葉は、あえて使いたくないのです。〝偉い〟の一言では表せないほどの、奥深き〝敬い〟があるからなのです。

 そして「自分が先生と呼ぶ人間に対して、あまり〝偉い〟という感覚は持っていない」大きな理由の一つに…私が先生と呼び、敬いの気持ちを忘れない先生たちは「偉そうじゃない、偉そうにしていない」のです。これが、一番大きいんですよね。私が先生と呼ぶ人達に対し、偉いという感覚を持たない理由は。全然、偉そうじゃない。むしろ非常にざっくばらんに接してくれます。私は恵まれているのか、そういう先生ばかり周りにいてくれるのです。一緒にお酒を飲んだりすると「飲んでるか?」なんて、笑いながらお酒をついでくれたりします。酒の席でのバカ話に、みんなと笑いながら一緒に楽しくやったりします。そういう先生と、偉そうな態度を取ったり、学生さんに対し高飛車な態度で接している人達が、同じ〝先生〟という言葉でくくられることに、非常に疑問を感じるのです。私が先生と呼ぶ人間は、偉いのに偉そうじゃありませんから。…なるほど、これですかね。〝偉い〟と〝偉そう〟。

 先生とは、敬って言われる言葉。敬われなければ、どんなに先生という言葉を用いられようとも、先生には値しないということになります。偉い人は自然と敬われます。偉そうな人は敬われることはありません。敬われなければ先生とは呼べない人ということになります。だからこそ、偉そうに振舞うのではないでしょうか?「偉くないからこそ、偉そうに振る舞う」この一言に尽きるのではないでしょうか?とにもかくにも、昨今の世の中を見ていると、とてもじゃないが先生と呼べない〝先生〟が増えてきているような気がするのは、私だけでしょうか?。〝偉そうな人間〟ではなく〝偉いと敬われる人間〟…そういう人が、自分が先生と呼べる存在として周りにいてくれるとういうことは、私は幸せ者なんだなとつくづく感じる今日この頃なのです。

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2012年11月21日 | コメントは受け付けていません。 |

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出来ない所だけを勉強することは…。

 先日、我が薬進塾で模擬試験を行いました。皆さん奮闘しつつも、試験終了後(試験中も?)は、かなりお疲れのようでした。学生さん達に試験に対して色々と聞いてみますと…「○○がイマイチでした」とか「□□が難しすぎます」とか、その評価も色々。まあ、これからが国家試験対策も何かとヒートアップする時期。その自己評価を上手く利用して、国家試験対策に〝活〟を入れてもらいたいものです(笑)。

 ここでチョット気をつけてもらいたいことを一言。模擬試験の学習指導等で呼ばれた時も、私がよく話すことなんですが…。模擬試験等で成績の芳しくない所があると、往々にして学生さんはその所だけを勉強しようとする傾向があります。実は、今回ウチの学生さんにもそういう人が目立ったのですが…。「えっ?出来なかった所を勉強することはいけないんですか?」と思った人もいるでしょう。出来なかった所を勉強すること自体は、何の問題もありません。ただ〝出来なかった所だけ〟を勉強することが、芳しくないことなのです。その理由はいくつかあるのですが…。

 私が内外問わず学習指導で必ず言うことに「まんべんなく、ムラなく勉強しなければならない」ということがあります。往々にして学生さんは、自分が出来ていない所だけを勉強しようとする傾向があります(もちろん、自分が出来ない所は勉強しないという学生さんもいますが…)。「○○は出来ているからいいや」などと判断してしまう場合が多いのです。しかし、本当に「○○は出来ている」のでしょうか?私は長く講師という仕事をしていますが…ハッキリ言いましょう!学生さんがいう「○○が得意」なんていうのは、たかが知れています。我々講師から言わせれば「得意だって言っているけれど、まだまだなんだけどなぁ…」という場合が圧倒的に多いのです。本人は、いたって出来る気になっているけれど、まだまだ大したことはないという状況がほとんどなのです。しかし、これは裏を返せば〝まだまだ成績が延びる可能性がある〟ということです。なのに、本人は「出来るからいいや」と勉強しなかったら、どうなるでしょう?せっかく延びる可能性のある所を、みすみす捨ててしまっていることになります。これは、何とももったいない話ではないでしょうか?

 お恥ずかしながら、私が受験した時の国家試験は200題でした。当時、薬剤師国家試験は4月2日、3日。今よりも1ヵ月ほど遅かったのです。現役生だった私は、7月から国家試験勉強を始めていたのですが、年が明けてからは予備校に通うことを決めていました。私が通ったコースは2月14日から始まるコース。ある先生からの紹介で入学したのですが、私としては「苦手な所だけを補強したいな」という考えでした。その頃は、単科目講座を行っている予備校はほとんどなく、私が通うことになった講座も全科目を勉強する講座だったのです。そこで紹介してくれた先生や予備校の先生に「苦手な所だけを…」という話をしたところ…「苦手な所だけ勉強してもダメなんだよ」と言われたのです。その時は、その意味が分からなかったのですが…。当時、今でいうところの〝法規・倫理・制度〟という科目は〝薬事関係法規〟という名称で、出題数は15題でした。7月からの試験勉強のせいか、薬事関係法規は模擬試験等で常に10~11点位取っていました。自分の中では「6割後半から7割くらい取っているんだからいいだろう」と思っていましたし、「薬事関係法規は得意な所」とも思っていました。まあ7割くらい取っているわけですからね。で、私が通う講座にも、当然薬事関係法規の講義があり、他の講義と同じように一生懸命受講していたのですが…。通い始めてから、薬事関係法規の成績が延び始めたのです。以前は10~11点位だった薬事関係法規が、常に14~15点位取れるようになっていたのです。これには驚きました。誰しも6~7割ほど取れていれば「まあ、こんなものかな」「良好だな」なんて、ある意味見切りをつけるのではないでしょうか?それが、3~4点UP。9割以上、時には満点を取る位に成績が向上するなんて!幸いにも、私は1回で国家試験を合格しましたが、もし薬事関係法規の3点、4点UPがなかったら…と考えると、いまだにゾッとする思いです。

 「得意だからもういい」とか「これ以上は伸びないだろう」と思っていても、実はまだまだ延びる。それを〝延びないモノ〟としてしまうことは、もったいないことではないでしょうか?我が薬進塾では「出来ないところを出来るように。出来るところは、もっと出来るように」と指導しています。その背景には「こんなもんだと思っていても、まだまだ延びる」ということが往々にして起こり得るからなのです。

 さらに〝出来なかった所だけ〟を勉強することが、芳しくない理由としてあるのが…ココが出来なかったから、ここを勉強すれば成績が上がる。試験というモノは、そんな単純なものではないのです。前回の試験で8割くらい取れていた所でも、次の試験で8割取れるかというと、そんな保証はどこにもありません。前回8割取っていても、次の試験では4割しか取れないかもしれません。何度も言いますが、試験対策は「取れない所だけを補充すれば成績がUPする」などという単純なものではないのです。さらに、「出来なかった所だけ勉強する」ということは「出来た所はあまり勉強しない」ということになりますが、そうするといずれはその所も〝出来ない所〟になってしまう可能性があります。勉強というモノは、続けていて初めて成果が出せるモノ。やらなくなれば、当然成績は下がってしまうことになります。やはり出来なかった所も、そして出来た所もしっかりと勉強していかなければならないのです。確かに、苦手な所を補強していく勉強もこれからは必要になってきます。その時は「他の所も勉強しながら、+αで余分に時間をかけて苦手な所を勉強する」という勉強方法を取らなければなりません。「それって結構大変なんじゃないですか?」という人。そう、大変なのですよ。だからこそ、私は「まんべんなく、ムラなく勉強をして、ムラのない成績を取るようにして下さい」といっているのです。ムラのある成績は、なかなか負担のかかる勉強をしなければならなくなってしまうからなのです。

 どうでしょう?〝出来なかった所だけ〟を勉強することが、いかに芳しくないことかお分かりいただけましたでしょうか?私が、内外問わず学習指導で話すエッセンスがだいぶ織り込まれていたのですが…今回のブログが、読んでいただいた方の国家試験対策に役立っていただければこんな嬉しいことはありません。もっとも、勉強している人には役立つかもしれませんが、まだ勉強していない人には…そういった方には、一刻も早く試験対策を始めることをお勧めします(笑)。

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2012年11月14日 | コメントは受け付けていません。 |

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何かのせい・誰かのせいにしている限り、成功は寄ってきません。

 講師という仕事を長くしていると、本当に多くの悩みや相談を学生さんから受けます。もちろん悩み事や相談事に対応するのも講師の立派な仕事。学生さん達にマンツーマンで対応していきます。色々な悩み事や相談事を持ちかけられ「そりゃあ大変だ!」とばかりに、色々とアドバイスをしたり、状況に対処する措置を取ったりするのですが…。学生さんからの悩み事・相談事を聞いていると、時折「?」と思ってしまうような言動がいくつかあるのです。特に気になるのが、誰かのせい・何かのせいにするような発言。「あの人のせいで…」「あの先生のせいで…」「この前の国家試験が○○だったから…」「座席があそこの席だから…」、etc…。もちろん、中には本当に理不尽な〝何かのせい・誰かのせい〟だったりする場合もあります。しかし、往々にして「それはどうなのかな?」と思ってしまうような〝誰かのせい・何かのせい〟にするような発言も少なくないのです。

 チョット質問です。あなたが置かれている現状が良きものであれ、悪きものであれ、それは誰のせいでそうなったと思いますか?そう、あなたのせいです。あなたが選んだことによって、現状が成り立っているからです。もし、そう答えることが出来るなら、現状がどうであれ、あなたの日々は満ち足りたものとなると思います。イヤ、もう満ち足りた日々を送っているかもしれません。もし、あなたの現状が芳しく無いものであり、さらに「○○のせいで、こうなったんだ!」などと考えているならば…。その考えは、即刻捨てた方が良いと思います。その「○○のせいで…」という考え方は、確実にあなたを蝕むものとなるはずですから。事が起きたときに、その原因を〝誰かのせい〟や〝何かのせい〟にしている限り、その人は満ち足りた日々とは、程遠い日々を送ることになると思います。現状がどうあれ、それを選んだのは自分自身であり、自分自身に責任があるんだという考え方が、幸せな日々を過ごす第一歩となると思います。

 人は誰にも選択権があります。何か事を持ちかけられたとき、人はその選択権を使って自分で、自分の方向性や未来を選択します。今、仮にあなたが○○さんから「コレ良いよ」と何かを勧められたとします。これに対する答・反応の選択権はあなた自身にあるはずです。その選択権を行使して「私もやってみよう」とか「私はいいや」とか、あなた自身がその答・反応を選び取っているのではありませんか?あくまでも答・反応は、その人自身が選び取ったことなのです。なのに、選び取った結果が、自分の望ましい結果ではなかったとき「○○さんのせいで…」と考えるのは、いかがなものでしょう?

 仮に、結果がその人にとって良き結果であったなら、どのように考えるでしょう?恐らくは「私ってさすがだな!」なんて思うのではないでしょうか?好ましい結果であれば自分の力、芳しくない結果であれば○○さんのせい…。いささか、ご都合主義のようにも思えます。「良き状態であれ、悪き状態であれ自分が選んだことによって、現状が成り立っている」と考える人は、現状が良き状態であれば「人の助けがあったから」と考え、芳しくない状態であったなら「自分自身が選んだ結果だから」と考えます。もちろん、現状が良き状態であっても「自分自身が選んだ結果」なんですが、そういう人は感謝の気持ちというものを知っています。だから「自分自身が選んだ結果」よりも「人の助けがあったから」という考えが先に来るのでしょう。

 いずれにしても、上手くいかなかった責任や、芳しくない結果の責任を他に求めている以上、その人は幸せや成功といったものからは、ほど遠い状況にあると思います。前述のように、選択権を行使したのはその人なのですから。選択肢の中には「その答・反応を選ばない」という選択肢もあったはずです。しかし、「その答・反応を選んだ」以上、選んだ本人に責任があることは、明らかなことなのです。誰のせい、何のせいでもないのです。選択した本人に、その責任があるのです。その結果が良きものであれ、悪きものであれ…。

 どうも現代社会には〝何かのせい・誰かのせい〟にする人が多いような気がします。しかし、私が知る限り、そういった人たちは、成功や幸せといった喜ばしき事象からは、縁遠い日々を送っている方が多いような気がします。やはり〝何かのせい・誰かのせい〟にするのではなく、「自分自身が選んだことなんだから」と腹を据えて日々を過ごした方が、精神的にも健康だと思いますよ。少なくとも、そういった心構えの人達は、これまた私の知る限りにおいて、皆、笑顔が多い日々を送っているような気がするのです。

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2012年11月8日 | コメントは受け付けていません。 |

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美味しさのコラボレーション。

 すっかり寒くなってしまった今日この頃。やはり温かい食べものが恋しくなります。で、鍋やらおでんやらを食べようかな…となるのですが、やはり人間考えることは同じなようで。スーパの鍋のコーナーやコンビニのおでんのコーナーは、先日とは打って変わっての盛況ぶり。鍋ももちろんいいのですが、ちょっと帰りが遅くなった時などは、コンビニのおでんが便利ですね。まあ具材(おでん種ですね。このブログでは今後〝種〟と書かせて頂きます)も豊富ですからね。いつもその時の気分で、そして外せない種を考えながら、あれやこれやチョイスするのですが…。先日、おでんを買いにコンビニに行き、いつもの如くあれやこれやとチョイスしていたところ…何やら見慣れぬ種が一つ。思わず店員に「コレ何ですか?」と聞いたところ「餃子巻です」とのこと。

 餃子巻…まあ餃子を魚のすり身で巻いて揚げた物なんですが…。おでんの種としてあるのは,知っていたのですが、コンビニのおでんで見るのは初めてでした(もしかすると、ずっと前からレギュラーメニューだったのかもしれませんが、普段そのコンビニをあまり利用しないので、知らなかったのかもしれません)。確かに、おでんの種には、何気に〝魚のすり身で巻いて揚げた物〟が多いようで。ウインナーを巻いた〝ウインナー巻〟やゴボウを巻いた〝ゴボウ巻〟。イカゲソを巻いた〝げそ巻〟やシュウマイを巻いた〝シュウマイ巻〟、エビを巻いた〝エビ巻〟なんていうのもあるそうです。まあ、これほど〝○○巻〟というモノがあるということは、〝魚のすり身で巻いて揚げた物〟が美味しいということなのでしょう。確かに前述の巻物(?)はおでんの種としては美味しいものですし、私も何気によくチョイスするレギュラーメニューでもあります。そんな美味しい巻物種。それにしても、思わず唸ってしまうのが、その組み合わせ。まさか、魚のすり身の中に餃子を入れてしまうとは!まあ、ゴボウ巻きや、げそ巻は考えつかなくもないような気がするのですが…。ゴボウという食材、イカゲソという食材が、すり身と組み合わせて一つの食品になっている、そう考えればいいのですから。しかし〝餃子〟という一品料理を、すり身で包んで揚げるとなると、その発想はなかなか思いつかないのではないでしょうか?餃子をおでんの中に入れるというなら、まだ思いつかなくもないでしょう。しかし、「餃子を魚のすり身で巻いて揚げて、おでんの種にしよう」などとは、おいそれと考えつくものではないと思います。おそらく…いや間違いなく、この〝餃子巻〟を考えついた人間は、並はずれた視点と恐ろしいほどの頭の柔軟性を持った〝発想の手練れともいえる人間〟だと言えるでしょう!ましてや、その種が美味しいものとなれば、まさにパーフェクトな発想だったと言えるのではないでしょうか?

 実は前から気になっていたのですが、何気に「コレとコレ、よく組み合わせたなぁ」と思える食品が、私的にはいくつかあるのです。さらに、それが美味しいとなれば、感銘も一入なのです。意外なコラボレーションで「絶品!」と唸ってしまうものとして、私が真っ先に思いつくのが〝チョコミント〟なのです。特に〝チョコミントのアイスクリーム〟に関しては、「完膚なきまでに叩きのめされたコラボレーション食品」といっても過言ではないと思います(あくまでも私的にではありますが)。チョコレートは甘く、そしてほんのりビターなもので、口の中に甘さの余韻が残るもの。ミントは冷涼感のある爽快な味で、口の中には清涼感が残るもの。誰が、この二つを組み合わせようなどと考えるでしょう?おそらく、そんな組み合わせを考える者など、皆無に等しかったはず。しかし「皆無に等しい」けれど「皆無ではなかった」のです。このコラボレーションを考えた人間も、間違いなく発想の手練れ者でしょう。私はチョコレートもミントも大好きです。しかし、この2つのコラボレーションなど、終ぞ思いついたことがありません。私も〝発想〟ということに関しては、悪くない人間だと多少は自負しているのですが…上には上がいると言うか、自分なんかじゃ足元にも及ばないような人間がいるのだとつくづく感じてしまうのです。チョコミントのことを考える度に…。ましてや餃子巻と同じく、このチョコミント、味の方でも完ぺきだと思うのです(人によって好き嫌いがあるみたいなので、あくまでも私の中でと解釈して下さい)。チョコミントの美味しさを堪能できるのも、「チョコレート+ミント」といった〝美味しさのコラボレーション〟を考えた人がいるからこそだと感謝しています(笑)。美味しいコラボレーションを考えてくれたことに感謝しつつも、やはりその人の発想力には、ただただ感服する次第なのです。

 先ほど「まあ、ゴボウ巻きや、げそ巻は考えつかなくもないような感じなのですが…。ゴボウという食材、イカゲソという食材が、すり身と組み合わせて一つの食品になっている、そう考えればいいですから」と書かせていただきましたが、決して、これら『〝食材+食材〟食品』を軽んじての発言ではないことをご理解いただきたいと思います。何故なら、「食材と食材の組み合わせで美味しいものが出来上がる」ということに関しても、発想力が必要だからです。大体、食材同士を適当に組み合わせたところで、それが美味しくならない場合だって往々にしてあるとうことは、皆さんご存じのことだと思います。『〝食材+食材〟食品』でも「コラボレーションによる美味しさ・味の飛躍」は立派に存在するのです。私はブリ大根が好きでよく食べるのですが…。食べながらしみじみと思うのです。「この料理を考えた人間は天才だな」と。ましてや、一杯やるときに酒のつまみとしてブリ大根をつつくときなど、酔いのせいもあってか、ブリ大根をじっと見つめながら、心のそこから、そう思ってしまうのです。あの美味しさのコラボレーションときたら!ブリと大根を煮るというシンプルな調理法方にも関わらず、なんて奥の深い味わいなんだと、ただただ感銘を受けるばかり。飲みながら何度も「美味しいなあ…誰が考えたんだろう?」と思ってしまう次第なのです。

 ある食材とある食材を組み合わせる。それをシンプルな調理方法で調理する。それによって、とてつもなく美味しいモノが出来上がる。ある意味、魔法だと思います。その食材同士のコラボレーションが以外であればあるほど、その魔法は大きく強く働き、傑作ともいえる美味なる演奏を奏でてくれることになると思います。折りしも季節は冬。煮込む料理が多くなる季節になります。ここは一つ「えっ!?」なんていう意外性のあるコラボレーションで煮込んでみようかなと…そしてそれがとてつもなく美味なるコラボレーションとなるのではないのかな、なんて考えたりもしています。ここは一つ大きな挑戦を!とも思うのですが…。前述のように「食材同士を適当に組み合わせたところで、それが美味しくならない場合だって往々にしてある」という状況に陥るんじゃないかな?なんて不安のほうが、何気に大きかったりするのです(笑)。

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2012年11月2日 | コメントは受け付けていません。 |

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