比較することの愚かさ。
「疑う」は英語で「doubt」といいます。動詞なら「疑う」で、名詞ならば「疑い」となります。もともとこの「ダウト:doubt」という言葉、語源はラテン語のdubitareとのことで、その意味は「二者択一で決めがたくて迷う、心が揺れる」だそうです。〝du〟はラテン語で「2つ」を表しており、漢字でいうなら〝双〟になるとのこと。
「二者択一で迷う:dubitare」が「疑い:doubt」になる…。一見、この2つの単語、意味的にもあまり関係ないようにも思えるのですが…よくよく考えてみれば、なるほどと思います。〝二者択一〟とは「二つを比較して選ぶ」ということ。「比較する」とは「何かの基準を持って、選別する・判断する」ということ。「私はこれに決めます」となった時に「まてよ…もしかすると、あっちの方が良いんじゃないかな?」なんていうことがよくありますが…「あっちの方が良い」というのが〝比較〟であり、比較するという行為によって、一度は判断したことに疑いを生じてしまった結果いえます。つまり「二者択一で迷う」ということは、「どちらか一方を選んだときに、その判断に疑いを生じてしまっている」ということだと思うのです。
「後悔してしまう」ということも、比較によって生まれます。「あの時、ああしておけば、今頃は…」なんて後悔してしまうことは誰にでもあることだと思いますが…これも「あの時、ああしておかなかった今」と「あの時、ああしておいた今」を比較することによって、今の自分のあり方に疑いを持つ行為だと思います。「あの時、ああしておけば、こんなことには…」「あの時、ああしておけば今頃は…」なんて、現状のあり方に疑いを持って、今を憂いてしまう…。しかし、よく考えてみてください。「あの時、ああしておけば…」といった現状などというものは、存在しないものなのです。今あるのは、「あの時、ああしておかなかった今」であり、それをどんなに嘆いても、「あの時、ああしておいた今」など手に入れることは出来ないのです。「あの時、ああしておけば、今頃は…」の〝今頃〟は〝架空の、ありえない嘘っぱちの今〟なのです。現状にあることだけが、存在している〝今〟なのです。〝架空の今〟と〝現状の今〟を比較しても、何の意味もないのではないでしょうか?ありもしない〝架空の今〟と〝現状の今〟を比較して、現状の悪しき部分だけに目をやり、〝現状の今〟を疑い嘆いても何の得にもなりません。それどころか、そういう「〝架空の今〟との比較により、〝現状の今〟を疑い、それを嘆く」といった行為は、確実にあなたを蝕むものとなってしまうのです。
たとえ「あの時、ああしておけば、今頃は…」よろしく、その時にそういう行動を取っていたとしても、果たして頭に描いている結果を得られたかどうかは定かではありません。「あの時ああしておけば」というのは、不満ある現状からの一時の逃避に過ぎないのです。不満ある現状を見つめては、作り上げた存在しもしない満足した〝架空の今〟と比べ、華やかに思える〝架空の今〟に酔いしれているだけなのです。それに、一体どんな意味があるのでしょう?意味などありません。しかし、意味はなくとも前述のように、それがあなたの心を蝕んでいくことは確かなのです。更なる「〝架空の今〟と〝現状の今〟との比較=〝現状の今〟に対する疑問」を生み出していくこととなるのです。いつ終わるとも知れない、果てしなき「〝現状の今〟に対する疑問」へのスパイラルへと誘われることとなってしまうのです。
学生さんからの相談も、この「比較する=疑う」が原因となっている相談内容がよくあります。まあ、人間というのは、つい比較してしまう生き物ですから。でも、気をつけなければならないのは、それが「疑い」へと変貌してしまう可能性があること。単なる比較だけで終わればいいのですが、それをあえて〝疑い〟へと成長させてしまうのが、人間の弱さなのかもしれません。私も、自分の師と仰いでいる方に「他は関係ないの」と指導を受けることがあります。他と比較することで疑いを生じ、そしてそれが決していい結果を生まないことを示唆してくれているのだと思っています。前述のように「比較する」とは「何かの基準を持って選別する・判断する」ということ。しかし、よく考えてみれば、その〝基準〟とはいったいなんなのでしょう?私も、比較することにより疑いを生じ、悩むことがあります。しかし、その比較の基準とはなんだろうと考えてみると…往々にしてそんな基準などないのに自分が勝手に作っていたり、仮に基準があったとしても、ものすごくくだらない基準だったりすることが往々にしてあるのです。よくよく考えてみて「何だ、そんなくだらない判断基準で比較しては疑い、悩んでいたのか…」とバカらしく思うことがよくあるのです。結構、悩みなんてそんなものなのかもしれません。皆さんも、もし悩んでいることがあったら、くだらぬ基準で何かを比較をしているのかもしれません。「何を比較しているんだろう?その基準は?」と、よく考えてみてください。もしかすると、とんでもなくくだらないことで、「こんなことで悩んでいたの?」と、自分の行動に我ながら呆れて、解決するかもしれませんよ。
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2012年8月28日 | コメントは受け付けていません。 |
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ピリ辛は辛いのか?辛くないのか?
私は辛いモノが苦手である。辛さには弱い方である。辛いものを全く受け付けないというわけではないが、辛いものを好んで食べるということはあえてしない。まあ「辛いものに弱い」といったところで、どこまでが「弱い」に分類されるかが、謎ではあるのだが…。カレーなんかは、普通に店で出されるものを食べている。その辛さが特に苦手というわけでもないし、カレー専門店なんかで注文時に「辛さは?」なんて聞かれた場合も「普通で」と答えている。そして出てきたものを美味しく食べいているのだから、まあ極端に辛いものが苦手というわけでもあるまい。レトルトのカレーなんかでは中辛を選んでいるし、普通のキムチも普通に食べる。おそらく私の「辛さ耐久指数」は平均レベルなのであろう。
以前〝激辛ブーム〟というのがあった頃、先輩とあるカレー屋さんに入ったことがある。その店は、最高レベルの50倍カレー(もちろん辛さが50倍である)を注文すると、粗品がもらえる店であった。前述のように、私は辛いものが苦手なので5倍カレーというものを頼んだ。これでも辛いものが苦手な私にとっては大冒険であった。中型免許しか持っていない人間か、大型特殊自動車を運転するような感覚である。しかし、私の先輩は件の50倍カレーを頼んでいた…。カレーが運ばれてきたとき、「これが5倍カレーか…」とドキドキしながらも、口に運んでみると…いける。いや、これが美味しかったのである。確かに、いつも食しているカレーに比べると、辛いことは確かなのだが、その辛さの刺激が美味い具合に味と調和して、何とも奥深い味わいのカレーとなっているのだ。まさに瓢箪から駒と、美味しいカレーを堪能していると…横の先輩が吠えた!「辛っ!何だコレ!」と叫びながら、水を飲んでいる。そりゃあ50倍だからなぁ…。「チョット食べてみろよ」の一言に戸惑う私。「50倍だぞ、50倍。辛さに弱い自分が食せる訳ないだろ…でも5倍は食べられたよなぁ…5倍だって、ある意味すごい数値だぞ。もしかしたら50倍も案外いけるのではないか?」と変な自信を持って、50倍カレーを一口食したところ…ハッキリ言わせてもらおう。トウガラシの味がした。トウガラシをペースト状にして食べている感じである。もちろんその後は、怒涛のような辛さが私の舌を打ちのめすこととなった。「やはり、自分は辛いのが苦手なのだ。自分の辛さ耐久指数は限りなく標準値なのだ」と、コップの水で舌を冷やしながら思ったものである。
私の師匠は辛いものが大好きである。たまに一緒に食事をするのだが、麺類好きの師匠、事あるごとに麺類を食べている。私と一緒(もちろん兄弟子や後輩なんかもいる)に食べる時は、ほとんどの場合が施設の食堂を利用することになるのだが、おそらくそこの麺類がお気に入りなのだろう。で、麺類をテーブルに置くや否や、これでもかという位にラー油をかける。スープ一面が、ラー油になる位までラー油をかける。私は初め、師匠の麺を見た時「おっ!この食堂、酸辣湯麺(サンラータンメン、スーラータンメン)なんかやっているのか。粋なことやるじゃねえか!」と思ったことがある。ちなみに酸辣湯麺とは、酸味豊かな辛みのあるスープのラーメンで、酢の酸味とラー油の辛味と香味が絶妙の風味を加味し出しているラーメンである。そんな、凝ったラーメンがこの食堂にあったのか…と思いきや、我が師匠が食べているのは、実際はただのタンメンであった。師匠が、これでもかという位に入れたラー油によって、スープの色が酸辣湯麺よろしく、オレンジ色となってしまっていたのである(もちろん、酸辣湯麺のスープがオレンジ色であるのがラー油のせいであることは言わずもがな)。師匠曰く「俺は昔から辛いものが大好きでね。子供のころから、何にでもトウガラシとかバンバンかけて食べていたよ。よく『そんなに辛いものばかり食べていると、バカになるぞ』って言われたよ」…ん~根っからの辛いモノ好きなんだろうな。その証拠に、ラーメンだろうが蕎麦であろうが、前述のようにこれでもかという位ラー油を入れている。蕎麦の時はトウガラシでいいと思うのだが…確かラー油を入れていた気がする。雑炊なんかでもラー油を入れていたはずだ。ラー油が好きなのか、辛いのが好きなのか悩んでしまうところなのだが、まあ辛いものが好きであることには変わらないから良しとしておこう。
で、最近思うのだが…巷でよく見かける〝ピリ辛〟。あれは辛いのか?辛くないのか?どちらなのだ?〝辛〟の字が付いている以上、辛いのだろう。しかし、その辛さはいかほどなのだ?〝辛さ強〟なのか〝辛さ弱〟なのか?ノーマルな辛さを〝辛さ中〟とした場合、どちらに属するのだ?「辛さ中より辛い」のか?「辛さ中より辛くない」のか?いったいどっちなのだ?「別にどっちでもいいんじゃない」という人。よくはない。前述のように私は辛いものが苦手なのだ。苦手な私にとって「辛さ中より辛い」か「辛さ中より辛くない」かは大きな問題なのである。もし〝ピリ辛〟が〝辛さ強〟であった場合。捨てるわけにもいかず、その辛さに耐えつつも、その食材を食さなければならないのだ。これはある意味拷問にも等しい行為である。だからこそ知らねばならぬのだ。辛いのか?辛くないのか?どっちなんだピリ辛!時たまではあるが〝チョイ辛〟なんていうのも見かけたりする。これは、どうなんだ?辛いのか?辛くないのか?こうなるともう「辛さ判別スパイラルに陥っている状態」といえよう。〝○辛〟と出てくる度に「辛さ強度はどれ位だ?」と悩まなければならないのだから。激辛は分かる。辛いのだろう。大辛も分かる。辛いのだろう。中辛も分かる。中位なのだろう。じゃあピリ辛はどうなんだ?文字からいくと、激辛は「激しく辛い、または辛さが激しい」ということになる。まさにその通りだ。ということは、ピリ辛は…「ピリッと辛い」ということになる。ピリッと辛い…。辛いのか…辛くないのか…?いや、もしかするとその判断基準が間違っていたのか?〝ピリッ〟というのは、辛さの種類である。味わった瞬間に、「ピリッ」と感じる辛さなのだ。〝ピリッ〟とだから、その辛さを感じるのはおそらく短時間なのだろう。そうか…ピリ辛というのは「辛さの種類を表している」のであって「辛さの強度を表している」訳ではないのだ。ん~納得…というわけでもない。問題は「短時間であろうが、長時間であろうが辛いか?辛くないか?」なのだ。色々と調べてみるのだが、どうもハッキリとした答が捕まらない。ピリ辛が辛いのか、辛くないのか、誰か私にご教授願いたいものである。
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2012年8月22日 | コメントは受け付けていません。 |
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レジは何故、修羅場と化したのか?
私はせっかちな方だ。待つということが何気に我慢できないたちである。だからといって、横入りしたりしようとは思わない。それは犯罪だ。並んでいる人がいる以上それは尊重するべきである。だから、並ばなければならない時は並ぶのだが、並ぶということが大嫌いなのである。並びたくない。一分一秒でも並びたくない。何度も言うが、だからといってズルをする気は毛頭ない。並ぶのは必然のことである。ただそれが嫌いというだけである。
先日、晩酌に一杯やろうと思い、あるスーパーで買いものをした。夕方ということもあり、何気にレジは混んでいたのだが…。とりあえず、並んでいる人の少ないレジに並んだのだが…並んだ途端、内心「しまった!」と思った。私の前が〝オバちゃん〟だったからである(正確には〝オバちゃん〟と〝おばあちゃん〟の中間くらいか?まあ、このブログではオバちゃんとしておく)。オバちゃんのレジ滞在時間は長い。レジを早めに済ませたいなら、オバちゃんが並んでいるレジを避けなければならないのは鉄則である。往々にして、オバちゃんは小銭を駆使する。私も小銭をよく使用するが、効率的に使用している。オバちゃんは効率など度外視して、闇雲に小銭を使おうとする。ご多分にもれず、このオバちゃんも「786円になります」と言われてから、財布を開けて小銭を集め始めた。よく考えろ、オバちゃん。とりあえず、初めから9円(5円玉一枚、1円玉4枚)を用意して手に収めておけば、支払い金額の一桁目はクリア出来るのではないか?「786円です」といわれれば、そこから6円出せば少なくとも下一桁の小銭使用はクリアできる。なのに、なぜ金額を伝えられてから小銭入れをあさる?何故一生懸命、時間を掛けて小銭入れの中から6円を抽出しようとするのだ?探している間も待っている人間がいるのだぞ?その存在を忘れてはいないか?そんなことは気にもせずに、小銭を次から次へとかき集めては、カルトン(お金を乗せるトレイ)に小銭を乗せていくオバちゃん。「札は出す気はないのか?」とチラ見すると、何気に財布の中が見えてしまった。その財布の中の小銭総数、あと2、3枚。それも100円玉のようなメタリックな色の小銭は見当たらない…。それでも財布の中に指を入れては探しまくる…。探さなくても見れば分かるだろうに!万策尽きたのか、財布を閉じるや否や「SUIKAで払っていいですか?」との発言。レジのお姉さんも一瞬ためらいつつも「いいですよ」とのこと。で、SUIKAをかざして清算したところ…レジのお姉ちゃん曰く「残高が足りないので、総額からお引きしますか?」とのこと。うなずくオバちゃん。「SUIKAで払っていいかと聞いておきながら、その残高が足りぬとは…」と、何気に長く並んでいることに苛立ちながらも思う自分。そしてSUIKAによる生産が終了すると…レジのお姉さんさらに曰く。「あと756円になります」。んっ?786円が756円…SUIKAに30円しか入っていなかったのかい!カルトンには先ほど投じた小銭がまだ乗っかっているが…どうやら、その小銭の総額は756円に達していないようだ…。この時点で、私がレジに並んでからゆうに5分以上経っている。私の後に並んでいた人達数名は、別のレジに鞍替えを始めている…。しかし、私の後ろにはまだ一人並んでいる。この人を避けて他のレジに移動することは不可能に近い。やはり、この位置での移動は無理か…などと思っていると…。「じゃあコレいいです」とカゴの中のアボガドを取りだすオバちゃん。さすがにここまで来るとレジのお姉さんの表情も曇りだす。
①レジを打って総額を出す→②その総額をSUIKAで払う方法にする→③SUIKA残高が足 りないので、総額からSUIKAに入っている分の金額を清算する→④そこからアボガド(1 個)の料金を引く
となると、かなり難易度の高いレジ技になるのではないか?そのような状況に陥ることなど、まず日常生活ではありえない。想定外中の想定外の事態といっても、決して過言ではないだろう。そんな状況を打破するための奥義とも呼べそうな高度なレジ技など、そうそう身につけている人間などいるはずがない。レジのお姉さんもたじろいで当然。お姉さんもたじろいでいるが、同時に私もたじろいだ。この先、このレジはどうなってしまうのだろう?と。そしてついには、私の後ろに並んでいた人も、隣のレジへと移動する行動に出た。困惑するレジのお姉さん。たじろぐ私。このレジを見捨て、他のレジへ移動する人々…修羅場である。そんな中でも、まるで何事もなかったように威風堂々と、アボガドをカゴから取り出すオバちゃん。まさに修羅場…。ついにレジのお姉さん、隣のレジ応援をしていた年配男性を呼ぶことに。見た目からして、レジお姉さんの上司。そしてかなりの切れ者のように思える。レジお姉さん、今までの経過を取り見出しを抑えながらに説明している(「取り見出しを抑えながら」が手に取るように分かった:泣)。その年配男性、ちょっとしかめっ面になりながらも「じゃあ、こうやって…」等レジを操作し始め…やっとオバちゃんの支払い総額が算出されたのである。結局、私がレジを終えるのにかかった総時間は10分以上。オバちゃんは、何事もなかったように…私にはもちろん、レジのお姉さんにも何も言わずにレジを済ませてしまった…。オバちゃんにとっては、ただのレジ精算だったかもしれない。しかし待たされているこちらとしては、その間に費やされた時間が〝虚無〟以外の何モノでもない。なのに、オバちゃんは、本当に何事もなかったようにレジを去ってしまう…虚無の二文字を残して…。
並ぶのが嫌いな私にとって、この事件は大きい。晩酌のつまみを買うのにこんなに並ぶことなど、おそらく今後はあり得ないだろう。「並ぶことが嫌いな人間」だから、そんな人間である私だから、今回のことが気になってしまうのであろうか?イヤ、そうではないはずだ。この事件が起きたのは夕方。スーパーのレジが混み合う時間ではないか。確かにレジで、ある程度の時間がかかってしまうのは致し方の無いことである。しかし、後ろに並んでいる人のことも考えなければいけないのではないか?小銭を出すのに時間がかかったり、SUIKAで支払いをしたりは別になんの問題もないと思う。しかし、やはり後ろに並んでいる人のことを考えて手際よくやる必要があると思う。それが、社会で生活している人間のマナーではないのかと思うのだ。そして…これは単なる私の我ままであるかもしれないが、レジのお姉さんと私くらいには(最低限、レジのお姉さんには)何らかのお詫びの言葉があってもよかったのではないか、と思うのである。とにもかくにも、今回の事件で、私の〝並び嫌い〟に拍車がかかってしまったことは間違いないようである。
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2012年8月15日 | コメントは受け付けていません。 |
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善きことはカタツムリの速度で動く。
『善きことはカタツムリの速度で動く』 弁護士、宗教家、政治指導者であり、インド独立運動の指導者にして〝インド建国の父〟と崇められているマハトマ・ガンジーの言葉です。南アフリカで弁護士として活躍していたガンジーでしたが、人種差別の問題に直面することに。そこで、インド系移民の差別に対する権利回復運動を行ったことを機に、イギリスからのインド独立運動に身を投じることになるのです。1947年、ついにインドは独立。彼がインド独立に費やした年数は三十年以上。ブログタイトルの言葉は、インド独立という大きな成果に数十年もの歳月を費やし、そして成し得た彼だから言える言葉だと思います。
善きことはカタツムリの速度で動く。見た目にはチョット分かり難いけど、ゆっくりゆっくりと進んでいく。そして、善きことが完成する。う~ん、なんかいい言葉だな。今の時代、ショートカットが優先されていますからね(笑)。「いきなり完成している(本当の意味での完成なのか?)」とか「時間もかけずに、形だけ出来上がっている(おいおい中身は?)」とか、そういうのが多いから。時間をかけて、手間暇かけて…なんていうことが、あたかも効率を無視した悪いことのように思われているんだよなぁ…。確かに効率というものも大事ですよ。でも、それと「時間をかけない」「手間暇かけない」というのは違うことなんじゃないですかね?何か事を成すには、それ相応の時間がかかってしまうのは、仕方のないことだと思うのです。確かにショートカットといいますか、インスタントで物事を成すような方法も無いわけではなのですが・・・。そうやって出来上がったものは〝善きこと〟とは、チョット離れてしまっている場合が多いような気がするのです。だって、優先されていることが〝善きこと〟ではなく〝速きこと〟なんですから。
まあ、世の中が〝効率重視〟〝スピード重視〟になってきていますから、皆がそうなってしまうのも、致し方の無いような気もするのですが…。でも、世知辛い世の中ですね…。なんかこう、味気ないというか…。今、夏真っ盛りですが、小学生のころ、誰もが夏に朝顔を育てた経験があると思います。種を植えて、芽が出るまで、まだかまだかと楽しみにしている。芽が出ると、毎朝、その芽が少しずつ大きくなっていくことに喜びを覚える。蔓が延びて蕾がつくと、どんな花が咲くのだろうとワクワクする。そして、花が咲いたら何とも言えない喜びがこみ上がってくる。これこそ、まさに「善きことはカタツムリの速度で動く」ではないでしょうか?少し少しだけど進む。そしてその前進に喜びを得る。日々の生活の中で、少しずつだけど前進していき、その前進に喜ぶ日々を過ごしていく。これが、大切な生き方なのではないでしょうか?「花が咲く」という善きことが、1時間やそこらで得られたらどうでしょう?種をまいて、1時間もしないうちに花が咲く。確かに花が咲いたことによる喜びは、ある程度は得られるかもしれません。しかしその〝喜び〟は、種から芽が出て、それが大きくなっていき、蔓が延びて蕾がつき、そして花が咲く…という時間をかけて得られた〝喜び〟とは、雲泥の差があるのではないでしょうか?私は子供のころから、トマトの苗を買ってきては育てていました。「いつ実が生る(なる)かな?」と楽しみに思いながら、水をあげたものです。そして、生ったトマトはとてつもなく美味しく、それを食べる時は本当に嬉しかったものです。買ってきたトマトを食べても、その時得られた嬉しさや美味しさを手に入れることは、出来ないでしょう(もちろん、買ってきたトマトはトマトで美味しいんですけどね)。手間暇かけて、時間をかけてでしか得られないモノもあるのです。そして、それは〝かけがえのない善きこと〟なのではないでしょうか?
「時間をかけて得られる」ということは、「見た目にはすぐに成果が分からない」というジレンマを伴います。「進んでいるのだろうか?」という不安が付きまといます。しかし、前述のように事を成すには、それ相応の時間がかかってしまうのは致し方のないことなのです。おそらくガンジーも、インドの独立運動を行っている時は不安を感じたのではないでしょうか?「大丈夫なのだろうか?」「上手くいくのだろうか?」と。だからこそ、前述のような言葉を発することが出来たのだと思います。何か事を成そうとする時、誰もが不安なのです。でも、その不安を糧にして進んでいかなければなりません。誰だって不安は嫌です。だから、この不安から逃れようと〝見た目に成果がすぐ分かる安易な方法〟で進むことを選んでしまうのです。しかし、それは往々にして〝善きこと〟とは結びつかない方法なのです。朝顔の芽も時間をかけて成長していきます。成長がよく分からないからと、大量の肥料を与えてしまうとどうなるでしょうか?肥料焼け(多量の肥料成分が根の機能を害すこと)を起こして枯れてしまいます。ショートカットやインスタントで物事を成すような方法には、無理がつきものなのです。地道にコツコツ進むこと。コレが善きものを手に入れる一番のいい方法なのではないでしょうか?ガンジーもそれを言っているのだと思います。「でも、不安になるのはイヤ…」という意見もあると思います。その時は…少し少しだけど進む。その前進に喜びを得る。日々の生活の中で、少しずつだけど前進していき、その前進に喜ぶ日々を過ごしていく。これが一番だと思います。少しでもいいじゃないですか!少しだけども前に進んだ。これを喜びとして生きていけばいいのです。その前進に喜ぶ日々を過ごしていけばいいのです。作家であり教育者でもあった吉田和子さんは、次のようなことを言っています。
一歩だけでも前進。退歩とは違う。
素晴らしい言葉じゃないですか!そう、小さな一歩であっても進めばいいのです。そして、ゆっくりだけど、少しかもしれないけれど、前へと進めばいいのです。そして、それは退歩ではなく、間違いなく前進なのです。
カタツムリも、ゆっくりゆっくり進んでいきます。このブログで〝前進〟という言葉を、何回も使用していますが…皆さん、ご存知でした?カタツムリは前にしか進まないそうです。そう、前に前にと進む生き物だそうです。その進みは遅くとも、前に前にと進むのです。ゆっくりとゆっくりと、しかし確実に前に進んでいく。何と素晴らしい生き物ではありませんか!私たちもカタツムリを見習わなければならないのかもしれませんね。
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2012年8月8日 | コメントは受け付けていません。 |
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花火復活! ~考えない幸せ~
で、今年もそろそろ「花火」「盆踊り」「夏祭り」の季節だなと、楽しみにしていたんですが…。なんと花火大会が中止に…。私の住んでいる街で行われる花火大会は、それはそれは大きなもので、さらにウチのベランダから見られることもあって、毎年毎年楽しみにしているのです。それが今年は中止…。
これは昨年書かせてもらったブログの一節。書いてありますように、私は花火が好きです。私の田舎は盆地、つまり山に囲まれた町でした。昔は花火というものは、海だとか川だとか湖だとか、そういった水のある場所で行われるものでしたから、山育ちの私には、花火大会というものはあまり縁のないもの、特別なものでした。こちらに来てからは、何気に花火大会というものが多く行われていることを知って、ちょっとびっくりしましたね。花火大会が〝特別なもの〟ではなく〝日常的なもの〟となっているんですから。先日も我が薬進塾のすぐそばで、隅田川花火大会が行われていましたし…。隅田川花火大会は昨年度もあったのですが、前述のように、私の街の花火大会(江戸川区花火大会・通称:江戸川花火)は昨年度は行われなかったのです。結構ショックでしたね…。まあ、昨年度は色々なことがありましたから、致し方が無いといえば致し方の無いことなのですが…。でも、今年は復活!花火大会実施と知った時は、本当に嬉しかったです。
私が現在住んでいる街に来た時、まあ、花火大会が行われることは知っていましたし、「今日やっているな」ということは何気に分かったのですが、その頃はあえて花火を見るということはなかったのです。ハッキリ言って私の住んでいた部屋からは見えなかったからです(笑)。それでも、チョット路上に出ると見えないこともなかったのですが…何気にマンションやら大きな建物が多い場所だったもので、ハッキリと一輪咲きを見ることが出来なかったのです。半欠けの花火を見るというのもつまらないものでして…やはり花火というものは、あの一輪咲きを見てこそのものですから。というわけで、ふてくされていた私は、外で花火をやってその音が聞こえていようが、テレビでその花火大会を中継していようが、「へん!オイラには関係のない話さ!」と、一人さみしくマンションの一室で酒を飲んでいる有様でした。
ところが、そんな私の〝荒んだ花火人生〟に終止符を打つ日が!当時私が住んでいたマンションは7階建てだったのですが(ちなみに私は5階)、花火大会の日だけ、時間限定で屋上を開放することになったのです。もちろん、マンション住民限定!荒んでいた私も内心ワクワクしながら、「まあ、屋上で見られるっていうなら、見てみようか」という気持ちで屋上での花火観覧に参加したのですが…度肝を抜かれたというのはこのこと。目の前に一輪咲きの花火がド~ンと来たのですから。実は、私のマンションの立地条件は花火観覧には最高の場所で、花火大会の花火が目の前で炸裂するのです。もちろん邪魔するモノもなければ、バックは漆黒の夜空のみ。度肝を抜かれている私をよそに咲き誇る花火!さらに驚愕放心状態の私をよそに、打ち上げられた花火の総数14,000発。そのあまりの迫力に、終わってからも感動冷めやらぬどころか、〝放心冷めやらぬ(?)私〟がいました。
それからというもの、一年に一回は花火を見ないと気が済まない体質になってしまいましたね(笑)。今は、現在住んでいるマンションのベランダから見ています。前述の以前住んでいたマンションよりは、見え方としては今一つなんですが、それでも一輪咲きがしっかり見られるので、観覧場所としては悪くないと思っています。一輪咲き、すなわち花火を見るのも好きなんですが…私はあの音を聞くのも好きなのです。私は子供のころから、花火の音というものは、もっと高い音というか、爆発音に近い「ドッカ~ン」という感じだと思っていたのです。ところが…花火を生で見たことのある方はご存じのように、もっと低いんですよね。「ド~ン」という感じで響く。響く…そう空いっぱいに「ド~ン」という音と、その余韻の重低音が響くのです。地球を包んでいる空気が共鳴するというか、振動する。私はあれがたまらなく好きなのです。〝空気を揺るがす破裂音〟とでも言うのでしょうか?その破裂音の響きともいえる振動を全身で感じるのが好きなのです。
「好き」というと、その音を聞いている時、笑顔でキャッキャ、キャッキャと喜んでいるのかというと…そうではないのです。実は、あの音を浴びている時、そして花火の光を浴びている時、何も考えていない自分がいるのです。何も考えないで、ただただ花火を感じている。そう〝花火観覧〟というよりは「花火を感じている」という状態なのです。私は花火を見ている時は飲食はしません。基本的にお酒が好きですが、花火を見ながら飲むということはしたくありませんし、しません。もちろんトイレに行きたくなるからという理由もあるんですけど(トイレに行く間、花火から遠ざかるのがもったいない!)…。何もしないで、花火だけを感じていたいのです。ですから基本的に話もしなければ、飲食もしません。何も考えないで花火に浸る。それが、何とも言えない心地よい快感なのです。「カッコつけやがって…」と思う人がいるかもしれませんが…私が以前住んでいたマンションの屋上で花火大会を堪能していた時、何気に周りにはそういう人が沢山いたのです。ご夫婦で見に来ているのに、話をしないで花火を見ている。友達同士で花火を見ているのに、やはり会話も飲食もせずに花火に没頭している。そんな人が多かったのです。おそらく、その人たちも私と同じような花火の堪能の仕方なんだろうなと思います。
「何も考えていない時、人は幸せである」そう私は思っています。慌ただしい日常生活の中、人は色々なことを考えていかなければなりません。時には考えることを止めて、感じるだけとする…そういったことも大切ことなのではないでしょうか?そして、それは〝幸せなこと〟でもあると私は思っています。もうすぐ、私の住む街の花火大会。花火の光と音に全身を包まれながら、何も考えない至福の時がやってくるのかと思うと、そしてそれが2年ぶりの至福の時だと思うと、嬉しさも一入なのです。
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2012年8月1日 | コメントは受け付けていません。 |
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