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一生懸命やっている人を笑う資格は誰にもない。

 皆さんは御木本幸吉という方を知っていますか?真珠の装飾品で有名なミキモトの創始者であり、真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、真珠王とまで言われた方です。御木本幸吉と会ったエジソンは、贈り物として出された真珠を見つめこう言ったそうです。「これこそ、真の真珠です。私の研究所で出来なかったものが2つだけあります。一つはダイアモンド、もう一つは真珠です。あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明し完成されたことは、世界の驚異です」と。 

 真珠養殖の成功とそのブランド化などで財をなした御木本さんですが、もちろんその道のりは平坦なものではありませんでした。真珠の人工養殖を夢見て奔走していた御木本さんですが、初めのうちはみんなにバカにされ、笑われていました。初めのうちは何度やっても失敗。赤潮で海中のアコヤ貝(真珠をつくる貝)が全滅したこともありました。それでも、御木本さんはくじけずに、ひたすら真珠の養殖に全身全霊をかけて取り組んだのです。人々から「真珠バカ」と笑われながら、実験をくりかえしました。そして1893年7月、妻と実験しているアコヤ貝の中から真珠を見つけ出したのです。この時の真珠は半円真珠(ドーム状の真珠)でしたが、その後も研究を続け、ついに1905年に、真円真珠(皆さんがご存じのきれいに丸くなっている真珠)の養殖に成功しました。死んでもやろうと決心して15年、この時すでに47歳になっていたそうです。そんな御木本さんの言葉に、次のようなものがあります。

 

常識なんていうものは、ただの人間のいうことだ。そんなものをありがたがっていて、なんで偉くなれるのか。普通の人間が考えたり、したりすることをしていては普通の人間にさえなれない。御木本幸吉の常識は違う。おれはもっと偉いぞ。

 

 この言葉にある通り、当時彼のとった行動は、常識とは程遠いものでした。周りの人間は、真珠の養殖など狂気の沙汰と嘲ったそうです。でも、彼は成し遂げたのです。普通の人間が「常識的に考えて、そんなことは無理」とすることを、彼は「普通の人間が考えたり、したりすること」から逸した行動で、成功をつかみ取ったのです。周りの人間からどう思われようと、周りの人間から嘲われても、自分の信じることをただひたすら行ったのです。そして、成功をつかみ取ったのです。彼は、こんなことも言っています。

 

人はなにか一つのことに狂気にならなければ、とうてい人並み以上にはなれない。

 

周りはそんな彼をバカにしたのでしょう。でも、彼の言葉にあるように、一つのことに全身全霊で打ち込まなければ、人並み以上にはなれないのです。

 古今東西、一生懸命やっている人をバカにしたり、笑う人は沢山います。でも、それはどうなのでしょうか?誰かに迷惑かけているならまだしも、一生懸命に何かに打ち込むことは、笑いの対象にはならない行為だと思います。特に、最近〝一生懸命やっている人を笑う人間〟が多くなってきているように感じるのは、私だけでしょうか?どこか冷めた態度で、冷やかに物事を見る人間が増えてきていると思うのです。そういう人間は、得てして冷めた眼つきで、一生懸命になっている人間を冷ややかに批判している場合が往々にしてあるような気がします。まるで、一生懸命物事に取り組むことが恥ずかしい行為であるかのごとく。どこか上から目線で、一生懸命な人間を嘲ったり、バカにしているような行為をとる人間が増えてきているように思うのです。一生懸命物事に取り組むことは、決して恥ずかしい行為ではありません。先の御木本さんの言葉からすれば、一生懸命になるくらいでなければ、人並み以上にはなれないのです。大きなことを成すには、常識をありがたがっていてはいけないのです。むしろ「アイツ大丈夫か?」位に、周りから思われる位、全身全霊を込めて物事に取り組まなければならないのです。おそらく、それが出来ない人間が、冷めた眼つきで、一生懸命になっている人間を嘲っているのだと思います。周りから無謀と思われようとも、一生懸命物事に取り組む。なりふり構わず、自分の信じることに全身全霊掛けて取り組む。私は人間として素晴らしい行為だと思います。そして、そんな人を冷笑するような人間は、自分が一生懸命になることが出来ない悲しい人間なのだと思っています。

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2011年11月29日 | コメントは受け付けていません。 |

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北海道人は寒さに強いか?

 私の出身地は北海道です。「北海道出身です」というと、ほとんどの方が「寒さには強いんですよね」といった言葉をかけてきます。いつもながら、そこで私の心中は「…?」となってしまう次第で。北海道人は寒さに強いのか…?皆で外で何かしている時も、寒い時なんかは「北海道出身だから寒くないでしょ?」なんて言われたりもします。やはり、そこでも私の心中は「…?」。北海道出身であっても、寒い時は寒いですよ(笑)。おそらく言っている人は「北海道はもっと寒い。だからこれくらいの寒さなんか、へっちゃらなんだろう」といった考えで、言っていることと思います。なるほど、北海道は〝雪国〟〝日本最北〟というイメージがあるのだから(まあ実際そうですけど)、「北海道=日本でも寒いところ」となるのでしょう。で、そこの人だったんだから、当然寒いのには慣れていて、へっちゃら…と思い浮かんだのだと思います。ハッキリ言いましょう。北海道人は〝寒さ〟は苦手です。〝寒さ〟には慣れていません。語弊が無いように聞いてほしいんですが(〝読んでほしい〟か?)…さらにハッキリ言わせてもらうと「北海道よりも、こちら(関東)の方が寒い」のです。「えっ!!」と思われた方も多いでしょう。それはそうですよね。前述にある通り、北海道は〝雪国〟〝日本最北〟。さらには雪なんかバンバン降っちゃっているんだから、寒くないはずはない!なのに「北海道よりも、こちら(関東)の方が寒い」とは何事なのか?

 「北海道よりも、こちら(関東)の方が寒い」と言うと、勘のいい方は「ああ、北海道の方が家の造りがしっかりしてるから、寒くないんだよね」と言ったりします。確かにそれもあります。こちらに来て思ったのですが、どうもこちらの建造物は、どこかスースーする感じなんですよね。なんか、隙間風があるというか、どこからか風が入ってきているような寒さを感じるのです。北海道の家は〝密封率〟が高いですからね。昔なんか、窓の外にビニールを貼ったりとかしていましたから。私の小学校(昭和初期に300円で建造とされていました)なんかは、その老朽化のため〝密封率〟が低く、壁の隙間から雪が吹き込み、よく廊下に雪が積もったりしていました。小学校の廊下はともかく、一般家庭で家の中に雪が積もっては大変ですから、自然と密封率は高くならざるを得ない訳です。こちらの建造物は、何気に換気口があったり、サッシの上の部分に小さな換気窓があったりと、密封率が低いように思うのです。北海道だと、そこから雪が吹き込んできたりする場合もありますから、そういった外界との連絡口が出来るだけ少ない構造の建造物となっているのです。その結果、こちらより建造物の中は十分温かかったことは確かだと思います。そんな建物で育ったこともあるせいか、こちらの住居はどこかスースーしている感じがするのです。スースーしている感があるから、どことなく寒い。もちろん、それは屋内だけではありません。外に出ていても、こちらは風がピューピューと寒いのです。「北海道でも風は吹くでしょう?それなら、北海道の方が気温が低い分寒いのでは?」といったご意見があることかと思いますが…これもハッキリ言いましょう。北海道は〝寒い〟のではなく〝冷える〟のです。

 私が寒さの話の時に必ず話すのが「北海道は寒いんじゃなくて、空気が冷たいのです。〝寒い〟ではなく〝空気が冷たい〟つまり〝冷える〟んですよ」といった内容。〝空気が冷たい〟〝冷える〟これが北海道を表すのには一番いいと思います。〝寒い〟というと、歩いていると木枯らしがピューピュー吹いてきて、マフラーなんかを締めなおして、コートの襟を立てては「寒いなぁ」なんていうセリフを言うイメージ。北海道の方は、歩いているうちに、フリーザーの中の如く、身体がズンズン冷えていく感じなのです。襟を立てたりとかいう、余計な動作はしません。余計な動作をして、姿勢や腕等の配置が変わると、今まで温かかった所が冷えてしまうからです。なるべく形を変えずに、黙々と歩いていくしかない。これが〝冷える〟というヤツです。さらに言わせてもらうならば…北海道では「顔が冷たくて目が覚める」ということがよくあります。布団の中の体は温かく、もちろん足が布団から出ているなんてこともありません。唯一布団から出ているのは顔のみ。その顔が、気温の低さのせいで冷えていき冷たくなっていくのです。で、顔が冷たくて目が覚める状況に。目が覚めて、顔を触ってみると…まるで外にいた時のような顔の冷たさ。「お~今日は冷えるなぁ」なんて思わず声に出してしまったことも、ひと冬に一度や二度のことではありませんでした。

 つまり北海道人は〝冷える〟事に対しては、ある程度慣れてはいるものの〝寒い〟に関してはなれていないのです(まあ、私事を全ての北海道人に当てはまるとしてしまうのも強引のような気がしますが、少なくとも私の周りの関東在住の北海道人は、この意見に賛同してくれています)。ですから「北海道の人は寒さに強い」という考えは、お捨てになられた方が良いと思いますよ。少なくとも〝寒さ〟に対しての抵抗力は同じように思えますから(笑)。私はこちらに来て数十年たつのですが、未だに〝寒さ〟には慣れていません。まあ慣れなきゃなれないで「寒いなぁ…今日はちょっと一杯やるかな」なんて具合に、お酒へとたどり着けるので、これはこれで悪くはないとは思っているのですが…(笑)。

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2011年11月22日 | コメントは受け付けていません。 |

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「嫌いなものはありますか?」と聞かれた場合は、何と答えるか?

 先週のブログ内容は好き嫌いについてでした。好き嫌いについて、筆の赴くまま気の向くままに書かせてもらいましたが…。今週も、内容的には好き嫌いの話になるのですが、その趣は先週のものとは少々異なることになります。実は、先週のブログ執筆の際にも書こうかどうしようか迷ったのですが…。

 「嫌いな食べ物はありますか?」と聞かれた場合、果たしてどこまでが嫌いなものなのか悩むことが良くある。「嫌い」とはどこまでを言うのか?「食べることが出来ない」なのか「食べることは出来るが、あまり好きではない」も入れるのか?はたまた「『好きな食べ物』以外」を言うのか?「嫌いな食べ物はありますか?」と聞かれる場合は、往々にしてその相手と何か食べることになる場合が多いのだが…。〝食べることが出来ないモノ〟を答えた場合、相手が〝食べることは出来るが、あまり好きではないモノ〟を注文してしまう場合がある。まあ、あまり箸も進むわけがなく、相手が「食べないんですか?」などと聞いてくる。「あまり好きではないんですよね」などというと「嫌いって言わなかったじゃないですか」などという具合になってしまう。まあ「嫌いな食べ物はありますか?」と聞かれて、その問いに答えた訳だから、その答に属していない食べ物は「好き=食べられる」と見なされてもしょうがないのだが…なかなか困ったものである。

 以前、「嫌いな食べ物はありますか?」と聞かれ、私が嫌いなモノをほとんど言ったことがある。で、その相手と食事をしているうちに出てきたモノは…イナゴの佃煮。私はイナゴの佃煮は、全く問題なく食べることが出来る。まあ、私的に言わせてもらえば、単なる佃煮の1種類でしかない。しかしダメな人もいるのではないか?もしイナゴの佃煮も、「嫌いな食べ物はありますか?」と問われた時の選択肢の中に入っているならば、〝嫌いなモノ選択肢〟は膨大な数になるのではないか?雀やらカエルやら、蜂の子なんかもその選択肢に入ることになる。いった、どこまでを「嫌いな食べ物」の選択肢として加えねばならないのだろう?

 もしその選択肢が、世界の料理となった場合はさらに大変なことになる。例えばラオスやベトナム、タイ、中国なんかではタガメを普通に食べていたりする。じゃあ「嫌いなものはありせん」と答えた場合、タガメも食べることができるということになるのではないか?「そんな虫なんて…」と思ってはいけない。食文化の違いであって、タガメも立派に食糧の一つなのだ。自分たちが食べていないからといって、それを食料と見なさないというのは、あきらかに偏見だ。さらに視野を広げれば、蝙蝠を食している所もあれば、ナメクジを食している地域もあるし(注:ナメクジは寄生虫がいるので、加熱して食べる)、イモムシを食している地域もある。私の先輩なんかはウミガメが好物だったりする。子供の頃、良く捕って食べていたそうだ。「ウミガメ、美味しいんですか?」と聞いたら「バカだな、あんな美味いもんなんで食わないんだ」と罵られたこともある(ちなみに食していたのは子供の頃で現在は食べていないとのこと)。「どこ食べるんですか?」の問いには「全部食うよ。肉なんか美味いぞ」と答えていた。ということは「お肉は好きですか?」と聞かれた場合、ウミガメも選択肢に入れねばならないのだろうか?

 昔いた職場で、お土産にということで〝ワニジャーキー〟なるものをもらったことがある。その名の通り「ワニの肉のジャーキー」である。ハッキリ言うが、私の口には合わなかった。もっと私的にハッキリ言わせていただくならば「不味かった」となる。となると、「お肉好きですか?」と聞かれた場合「ワニはチョットダメですね」と答えなければならないのだろうか?おそらく、その答えを口にした瞬間、ほとんどの人が「こいつとは焼肉は食いに行かない方がいいかもしれない…」となるのではないだろうか?

 もちろん、ワニを食べる地域もある。もし外国人の方から「お肉は好きですか?」と聞かれた場合、「ワニはチョットダメですね」とか「カンガルーはあまり好きじゃないです」とか、答えねばならないのだろうか?「嫌いなものはありますか?」と聞かれたら、「タガメは嫌いですね」とか「イモムシは食べられないです」とも答えねばならないのだろうか?外国人の方だけではなく、日本人から聞かれた場合も同様に「蜂の子は生だとチョットダメですね」とか答えねばならないのだろうか?そう考えていくと、ブログ冒頭にある『「嫌いな食べ物はありますか?」と聞かれた場合、果たしてどこまでが嫌いなものなのか悩むことが良くある』となってしまうのだ。ことが食べ物だけに難しい問題である。ましてや、相手は気を使ってくれての質問である。そんな相手の心証を害してしまうような発言をするべきではない。こうなれば、こちらに気を使ってくれていることよろしく「好きな食べ物はですね…」と、趣旨をとり変えて、自分の好きなモノを言ってしまうのが一番いい方法なのかもしれない。相手の心証も害すことなく、さらに自分の好きなモノが食べられるのだから、こんな良い答は他にはないような気がする。チョット、ずうずうしく我ままな答ではあるかもしれないが…。

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2011年11月14日 | コメントは受け付けていません。 |

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「食べ物の好き嫌いがある」=「悪いこと」 なのか?

皆さんは好き嫌いがありますか?私は子供の頃は好き嫌いが激しく、食べられないモノの方が圧倒的に多かったです。好き嫌いの激しい方なら分かっていただけると思いますが、好き嫌いのある人間にとって何が恐怖かというと給食。私が子供の頃は「食べ物を残すことは悪である」という考え方が絶対とされていましたので、無理にでも食べなければなりませんでした。今ではチョット「?」という話ですが、そういう時代があったことは確かです。私は八宝菜が大嫌いでした。何故嫌いかというと、おもむろにシイタケが入っていたからです。さらにおもむろにシイタケの味がしていたからです。それ故、シイタケ嫌いの私にとっては、ハードルが高い食べ物であったのです。

子供の頃も、そして今も思うのだが、給食センターのおばちゃん(もしかすると、おじちゃんかもしれないが)も、もう少し味付けに関して考慮してもらいたいと思う。「シイタケ美味しいでしょ?」とおばちゃんが反論してくるのは目に見えているが「お前はな!」と反論したい。今もシイタケは好きではないが、食べられるようにはなっている。時には串焼きにしたものを食べることもある(まあ、そんなに好きというわけではないが)。「子供の頃は嫌いだったけど、今は食べられる」という経験を持つ人は多いのではないか?当たり前である。味覚も感覚の一つなのだ。感覚とは成長するものである。使えば使うほど、その感覚は研ぎ澄まされていくのだ。味覚だってそうだ。色々なモノを食べていくうちに、研ぎ澄まされ、色々な味が分かってくるようになるのだ。その時、食べられないからといって、無理にその味を分からせようとしなくても、成長とともに、そしてその他の味を経験していくうちに、その味が分かってくるようになる場合も往々にしてあるのだ。子供はまだ幼いから、味覚という感覚も、十分に発達していない。ならば大人にしか分からない、大人にしか堪能できない味というものがあるのではないか?私はしめ鯖が大好きだが、「しめ鯖大好物~」なんて子供がいるだろうか?私は40年近く生きてきて、さらに交友範囲も広い方だが、そんな子供には、ついぞ会ったことがない。いたらいたで、おそらく歴戦の豪傑も汗ばむような豪快な子供だろう。フグ通の人に言わせれば「1、2回食べただけで、フグの味が分かるようになるなんて甘い!」とのことだそうだ。これなんかは、味覚の成長を裏付けているいい発言だと思う。子供には分からない味というものは確かに存在するのだ。それを無理やり食べさせるというのは、どういうものだろう?

子供の時には分からない味があるのだから、何も無理やり食べさせることはないと思う。こういうことを言うと、すぐに「食べるものもなく苦しんでいる人もいるんだぞ」と、もっともらしく語る輩がいるが…趣旨の取り換えも甚だしいこと、この上ない。飢餓に苦しんでいる人がいることと、嫌いな食べ物があることには何の関係性もない。確かに食べ物を粗末にすることは良くないことである。もし、食べ物を粗末にしている場面があったなら、前述の言葉はものすごい意義のある言葉になる。食べたくても食べられない人がいるのに、粗末にするなんぞ大罪といってもいい所業である。しかし「嫌い」=「粗末にする」ではないのではないか?無理やり食べさせるという行為の方が、よっぽど食べ物を粗末にしているような気がするのは、私だけであろうか?大体、無理やり食べさせるということに、何の意義があるのだろうか?確かに、それで食べられるようになった人もいる。では成功率100%かというと、決してそうではないのだ。むしろ、無理やり食べさせられたことがトラウマになって、いまだにダメという人を見かけることが多いような気がする。小児科のお医者さんや、栄養士さんも「無理して食べさせられているうちに『これは無理して食べる嫌いな食べ物』という概念が定着してしまう可能性がある」と指摘している。

そのせいだろうか、最近は嫌いなモノを無理やり食べさせるという風習は少なくなったそうである。給食は味付けを非常に考慮し(給食センターのおばちゃんには頭が下がる思いである)、「1口でもいいから食べましょう」と先生が指導してくれたり、なるべく量を少なくしてくれたりするそうである。同僚講師曰く「嫌いなモノがある人のことも、分かってあげることが大切なんじゃないですかね」。さすがである。そういう人もいるんだと分かってあげることが、相手にとっても、そして自分にとっても大切なことなのである。そして、そこから考えていけばいいのである。その成果が、前述のような給食の味付けの考慮や、「1口でもいいから食べましょう」という指導だったりするのではないか?頭ごなしに好き嫌いを否定する人は、こういった対処を面倒臭がっているだけに過ぎないのではないか?人の気持ちを分かってあげることが出来ないから、「お前は間違っている」と無理やり食べさせようとしているだけではないのか?人の気持ちを分かってあげる、その人にとって一番いい方法を考えてあげる…そういうことの方が、好き嫌いをなくそうと、無理やり食べさせることよりも、ずっとずっと大切なことだと思うのだが…。

前述のように、子供の頃は食べられなくとも、大人になってから食べることができるようになることも往々にしてあるのだ。なにも無理やり食べさせなくともいいと思う。私は子供の頃、カキが全く食べられなかった。今でも生ガキはダメだが、カキフライは好物といっていい。寿司も子供の頃はほとんど食べられなかったし、ブリ大根なんかも食べることが出来なかった。今はカキフライも寿司もブリ大根も大好物である。これらを食べている時は至福の時であり、幸せをまざまざと感じることが出来る(私の幸せは簡単だ:笑)。もし、これらを子供のころに無理やり食べさせられていとしたら、どうなっていたのだろうか?どうなっていたかは定かではないが…少なくとも、今これらを食した際に過ごすことが出来る〝至福の時〟を得ることが出来なかったのではないか…そう、しみじみ思う次第である。

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2011年11月10日 | コメントは受け付けていません。 |

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酔ってはいけない‐その2。

 先週は『〝自分は出来るんだ(成績が良いんだ)〟と酔いしれている人がいますが、それは国家試験合格という課題において、とっても危険である』といったことを書かせてもらいました。そして今回は、残りの危険な〝酔いしれパターン〟である「自分は勉強していますよ」と酔いしれるパターンについて書かせていただきます。こちらも、なかなか厄介なのです。

 個人面接なんかで「勉強している?」と聞くと、本人は何気に自信たっぷりに「ええ、勉強しています」と答えるのですが…。どうも、その割には成績が芳しくない。で、「先週はいつ勉強した?」なんて聞いてみると…「月曜日と、あと水曜日」なんて答が返ってきたりします。週に2日しか勉強していない…。私が指導する学生さんのほとんどが予備校生です(まあ、私は予備校講師ですから)。週に6日講義があるとして、予備校生が週に2日しか勉強していないというのは、〝試験対策〟としては多いに問題があると言わざるを得ません。さらに「何時間くらい勉強したの?」と聞くと「2時間くらい」なんて言葉が返ってきたりして…。週2日、1日2時間…週に4時間の勉強量…。確かに勉強は〝量〟ではなく〝質〟です。でも〝質〟だけではありません。最低限の〝量〟も必要にはなります。勉強とは〝質が伴った量〟でなければならないのです。週に6日講義があるとして、それに関する勉強に費やした時間が4時間では、とてもじゃありませんが質を保てるだけの量とはいえません。確かに、短時間でも非常に効率のいい勉強をする人もいます。しかし、前述のように成績が芳しくない学生さんですから、効率のいい勉強をしているとは言えない状況にあるのです。

 中には「勉強しているのに何で成績が上がらないの?」と悩んで相談に来られる方もいらっしゃいますが…〝勉強してると酔いしれていらっしゃる方〟は、酔いしれているだけに相談には来ないのです。本人は不安にならないのかな、と話を聞いてみますと…往々にしてそういう学生さんは、勉強やっていることだけに満足していて、成績が芳しくないことはあまり気にしていらっしゃらないことが多いようで。つまり「何のために勉強しているのか?」ということを忘れてしまっている、本末転倒の状況に陥っている場合が多いのです。中には「勉強しているんだから、そのうち成績も上がるでしょう」なんて、妙に落ち着いて構えている学生さんもいたりして…。「その余裕はどっから来るんだい?…というか余裕はないんだけど…」と、ついつい思ってしまいます。ま、これが「自分は勉強していますよ」と酔いしれてるパターンの恐いところなんですけどね…「勉強しているから、いつかは成績が上がるんだろ」という楽観的態度も、やはり国家試験合格には致命傷となってしまうのです。

 『勉強している』と言ってはいるものの、実は『「自分は勉強している」と酔いしれている』だけ…。酔いしれているということは…そう、実際は「勉強していない」ということなんですよ。前述の学生さんは、1週間に4時間しか勉強していませんでしたね?でも、そこだけをかいつまんで「勉強しているんだ、自分は」となってしまっているのです。きちんと勉強している人は、「勉強している」ことに関して酔いしれることはありません。「もっと勉強したいけども時間がない」と、どちらかというと自分の勉強の不備の方を強調します。先週も書きましたように、〝酔いしれている〟という行為には、自分に都合のいい部分だけを見て、都合の悪い部分を見ないようにしてしまう作用があるのです。試験対策に限らず〝対策〟と名のつくものは、都合の悪い部分を見ることから始まるのです。そこを改良していきながら、進んでいくのが対策なのです。おそらく、ご本人も「1週間に4時間の勉強じゃあ足りない」とか「成績がイマイチ」と、どこか感じているのかもしれません。しかし、なかなかそれを受け入れられない…。それを受け入れることは、ある意味ショックなことかもしれません。気持ちは分かります。でも、「勉強している」と酔いしれてだけいても、やはり問題が解決される訳ではないのです。前述のように、1週間に4時間の勉強量では、確実に国家試験対策の勉強量として不十分なのです。やはり、試験に合格できるだけの力をつけるためには、それ相応の勉強量が必要になるのは確かなのです。試験対策にとって「毎日勉強すること」は、やはり必須条件となります。もちろん、その日にやるべき勉強量に見合った時間も必要です。どんなに毎日勉強しても「1日1時間」では、いつから勉強を始めようとも、年一回の国家試験に間に合わないことは確かです。「自分は勉強しているんだ」という酔いから早く冷めて、質・量ともにしっかりとした勉強をしていくことが、試験対策には必要なのです。試験対策も〝対策〟である以上、現実をしっかりと把握して、前に進んでいかなければならないのです。前述のように、対策とはそういうものなのです。

 余談になりますが、そういう意味からしても、現政府の〝震災対策〟〝福島原発事故対策〟がちっとも対策になっていないことがお分かり頂けると思います。「都合の悪い部分を見ないよう」にしていますからね。中には「東日本大震災の犠牲者の慰霊や福島第1原発事故からの復旧への祈りを込めて」などと言って、四国霊場八十八ヶ所巡りを、再開した政治家の方もいらっしゃるそうで…。もちろん、犠牲者の慰霊や原発事故からの復旧を祈ることは悪いことではありません。でも、これに酔いしれてしまうと…〝酔いしれる〟という行為には、都合の悪い部分を見ないようにしてしまう作用があるのです。「私は東日本大震災の犠牲者の慰霊や福島第1原発事故からの復旧への祈りを込めてお遍路しているんだから、被災地や原発事故に対してやるべきことをやっているんだ!」と酔いしれて、復興問題や放射線問題等を見ないようにしているのでは?と思えるのは私だけでしょうか?このお遍路騒動に、呆れている方も多いことと思いますが…酔いしれている人間は、他の人から見ればこういうふうに見えるんだな、ということを知っておくと、「酔いしれることは結構恥ずかしいことなんだな」と分かっていただけると思います。

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2011年11月1日 | コメントは受け付けていません。 |

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