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酔ってはいけない-その1。

【酔う】

 1.飲んだ酒のアルコール分が体中にまわり、正常な判断や行動がとれなくなったりする。

 2.乗り物に揺られたり、人込みの熱気に当てられたりして気分が悪くなる。

 3.そのことに心を奪われてうっとりする。また、自制心を失う。      デジタル大辞泉より

 

 私はお酒を飲みます。どちらかと言うと…というより確実にお酒が好きなタイプです。皆さん「お酒が好きな人」というと、どうもへべれけに酔っている人や、顔を真っ赤にして周りの迷惑顧みず、うるさくしゃべっている人なんかを想像しますが、私はどちらかというと、そういう酔い方は嫌いな方です(ちなみに〝へべれけ〟の語源・由来はギリシャ語の「へーベ〔青春をつかさどる女神〕のお酌」からです)。「ほろ酔いがズ~ッと続くように調節して飲む」そういう飲み方が好きですね。へべれけになってしまいますと、自分で自分の状況が分からなくなってしまいますし、次の日に記憶が定かでない、なんてことになってしまいますから。私的には、考え方も意識もはっきり分かる、もちろん楽しみや嬉しさもしっかり分かる状況で飲むのが好きなのです。せっかく楽しい状況なのに、あまりにも酔ってしまってそれが分からないなんて、もったいない気がするんですよね。やはり、ほろ酔い加減で、楽しみや嬉しさもしっかり分かる状況を味わえる飲み方が、一番良いと思っています。

 この仕事を長く続けていると、時たま〝酔っている学生さん〟に出会います。酔っているといっても「酒飲んで酔っ払っている学生さん」ではなく、冒頭の【酔う】でいうなら③、「そのことに心を奪われてうっとりする。また、自制心を失う」方の〝酔っている〟です。余談ですが、①の方の〝酔っている〟学生さんにも出会ったことはありますよ。酒飲んで講義受けるなんて、よほどの大物と思うんですが…褒められた行為ではありません。やはり非常識な行為なので、皆さんは決してやらないようにして下さいね。で、話を元に戻しますと…③の酔っている学生さん、何に酔っているかというと…大きく、この二つに酔っている場合が多いのです。1つは「自分は出来るんだ(成績が良いんだ)」と酔いしれているパターン。もう一つは「自分は勉強していますよ」と酔いしれているパターン。

 「自分はできるんだ(成績が良いんだ)」と酔いしれているパターンですが…講師の立場から言わせてもらいますと…往々にして「それほど成績は良くない」という場合が多いのです。イヤ、それどころか「今一つ乗りきれていない成績だな」と危うい場合の方がほとんどなのです。本人が何を根拠に「成績が良い」「できる」と思っているかは定かではありませんが、少なくとも酔いしれるほど成績がいいという状況でないことは確かなのです。

 しっかりと学力がついて、成績も安定している学生さんは「自分はできるんだ(成績が良いんだ)」と酔いしれることは、まずありません。酔いしれるどころか、まだまだと先に進んでいきます。それに従い、成績もさらに向上していきます。酔いしれている人は、例え試験等で一度はいい成績をとったにしても、そこで停滞してしまう場合が多いのです。冒頭の③にあるように〝酔う〟とは「自制心を失う」こと。自分を制御できないということは、必要なモノを見逃したり、大事なことをとりこぼしてしまうという状態にあるのです。1点でも多く取らなければいけない国家試験において、これは致命傷になりかねないことなのですが…。

 先ほど「何を根拠に『成績が良い』『できる』と思っているかは定かではありませんが」と書きましたが…定かではないのですが、見えてくるのは「成績が良いと思いこみたい」「できると思いこみたい」という心情。そう思い込まなければ、不安でたまらないという人が何気に多いのです。気持ちは分かりますよ。でも、思い込んでいてばかりいても、何にもなりません。自分はどこができないのか、どこが分かっていないのか、何をやらなければならないのか、etc…。知ってしまえばショックを受けることもあるだろうし、その量の多さに途方に暮れてしまうこともあるかもしれません。でも、思い込んでだけいても、それらが解決される訳ではないのです。しっかりと原因を見定めさえすれば、何らかの対応策を打ち出すことができますし、そちらの方が、よっぽど「成績が良くなる」につながる行為なのです。

 「自分はできるんだ(成績が良いんだ)」と酔いしれている人には、「ある教科の一範囲、またはある教科だけ良くできる・成績が良い」という人も往々にしています。これも、成績が良い部分だけを見て「成績が良いと思いこみたい」「できると思いこみたい」というパターンなのですが…。成績が良い分野や教科があることは悪いことではありません。しかし、そこだけしか見ないという行為は、いささか問題のある行為です。残念ながら薬剤師国家試験は、1教科試験ではありません。総合点で合否が決まる試験ですし、足切りも存在する試験です。前述のように、出来ない範囲や出来ない教科を知ることは嫌なことかもしれませんが、それをしなければ、なんら対応策を見つけ出すことは出来ないのです。対応策が見つけられない限り、やはり「成績が良い」という状況からはかけ離れてしまうこととなるのです。

 では「自分は勉強していますよ」と酔いしれているパターンは?それは次回の講釈ということで、来週のブログで書きたいと思っている次第です!

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2011年10月27日 | コメントは受け付けていません。 |

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メガなのか?

 M:メガ…ご存じ「10」。薬剤師国家試験を受験する人は、必ず覚えておかなければならないSI単位の接頭語です。単位に関しては私が教えている範囲でして、学生さんには「キロ、メガ、ギガ位までは覚えておいてね。なんかゴロもいいでしょ!」と教えています(で、この後「テラまで行っちゃいましょうか」というセリフが入るのですが…)。キロ、メガ、ギガ…これもご存じだと思いますがk:キロの「10」から「×10」ずつ数値が上がって行く接頭語で、M:メガの「10」、G:ギガの「10」となります。メガは「10」ですから「1,000,000」すなわち「百万」となる訳です。

 で、最近どういうわけか、この〝メガ〟をよく見かけるのです。皆さんもご存じだと思いますが、飲食関係ならハンバーガーの〝メガ○ック〟や、丼ものの〝メガ○丼〟なんかはおなじみですし、〝メガ盛り〟なんていう盛り方(?)も良く目にします。私が先日行った、件の〝ガリガリ君サワー〟を置いてある居酒屋なんかでは〝メガチューハイ〟なんていうメニューもありました。この〝メガ〟という言葉、汎用されているのは飲食物だけではないようで、ディスカウントストアなんかでは〝メガ○ンキ・ホーテ〟なんていうお店もあるのはご存じだと思います。

 随分汎用されているな〝メガ〟…。どちらかと言うと科学用語、あまり一般人には馴染みのない言葉だったはずであるが、ここ数年ですっかり市民権を得てしまったようだ。だが良く考えてみれば、その意味は「百万」。ハンバーガーの〝メガ○ック〟や、丼ものの〝メガ○丼〟は、果たして何が「百万」なのだろう?〝メガ〟とつく料理の特徴は「量が多いこと」。ということは…ハンバーガー1個だとか、○丼1杯を「1」として、その100万倍の量なのだろうか?イヤ、そんなことはあり得ないはずだ。調べてみるとハンバーガーは、店によって結構差があるらしいが、店舗によって1日500~600個程度売れるらしい。1日1500~2000個以上売れる店もあるそうだが、どう考えてみても100万個には遠く及ばない。〝メガ○ック〟を1個頼むには、500個の売り上げをする店舗が2000店舗必要ということになる。〝メガ○丼〟だってそうだ。丼ぶり100万杯…。以前、諸種の理由により○丼販売を休止していた○野屋さんが、○丼を復活させたところ、1日で100万食が完売したという話があった(100万食…おお!愛しの100万!正真正銘の〝メガ〟だ)。とうことは、やはり丼ぶり100万杯に相当するメガ○丼(ちなみにメガ○丼は○野屋さんの商品ではありません)も、それ1杯頼むには半端な店舗数では不可能ということになる。やはり、ここで使われている〝メガ〟は、100万倍の量を表しているのではなさそうだ。では、これらの〝メガ〟は一体何を意味しているのか?

 「何を意味しているのか?」良く考えてみると、数字というのは「そのままの数」を表しているだけではない。数字は「己自身が本来持つ数量的な数」以外の「数」を併せ持つ場合が往々にしてあるのだ。例えば「百面相」などという言葉がある。さまざまな顔に変えてみせたり、表情を色々と変えて表現する芸であるが、何も表情や顔の種類がピッタリ100ある訳ではない。「百貫デブ」という言葉もある。まあ、もの凄く太った人を指す言葉だが…1貫 = 3.75キログラムだから、100貫は375kgということになる。関取史上で最も重いのは小錦さんだったそうで、その体重は284kg。どんなに太っているといっても、小錦さんより90kg以上重いという位太っている人間なぞ、そういないはずだ。つまりココで言う「100」という数字は「数量的な100」ではなく、「大きい」という意味で用いられている数字なのだ。「万歩計」や「万華鏡」の〝万〟にも、同じことがいえる。なにも「数量的に万」ということではないのだ。ということは…メガにも同じことが言えるのではないか?

 第8代、第10代東洋バンタム級王者であったボクサーの青木勝利さんは「メガトン・パンチ」と称された強打を持っていたそうだ。もちろん「メガトン」=「100万トン」=「100万×1000kg」のパンチ力を持っていたわけではない。恐ろしいほどの強打を称して「メガトン・パンチ」と呼んだのだ。前述の「百面相」や「万歩計」と同じように、実際に「10」という「数量的な数」を表しているのではなく、単に「もの凄い」ということを意味するために〝M:メガ〟という言葉が使われたのである。「百面相」「千客(多くの客のこと)」「万国(あらゆる国のこと)」と、時代の流れとともに出世魚よろしく、〝表現する数〟も大きいものが使われるようになっていったのであろう。そして、ついには現在汎用されている〝M:メガ〟、すなわち「100万」の登場とあいなったのであろう。

 昔は「百面相」「百害(多くの害)」「百代(はくたい:長い年月)」というように「百」が、大きい数値を表すのに用いられていた。それが今や、その一万倍である〝M:メガ〟が汎用されるようになったのである。まあ、スケールが大きくなることは悪いことではない。この世知辛い世の中、大きく大きくいきたいものである。〝M:メガ〟の次に大きい接頭語は「10」である〝G:ギガ〟。今や「ギガ嬉しい!」なんて言葉も平気で使われるようになってきている。嬉しさが「ギガ:10」なんて、なんとも良い話ではないか。どうもしっくりしない世の中だら、嬉しいことがあった時に「ギガ:10」どころか「テラ:1012」くらい、その嬉しさを堪能してみた方が良いのかもしれない。前述の〝メガ○ック〟や〝メガ○丼〟だって、確かにその名称を聞くと「食べ物が沢山で、豪勢で嬉しい感覚」になる。どうやら大きい数字は、人の気持ちも気分も大きくさせるようだ。そういう意味で使われるなら、〝メガ〟だろうが〝ギガ〟だろうが、いやいや、どうせなら「ヨタ(Y):1024」くらいまで、どんどん、どんどん使っていって、嬉しい気分にさせてもらいたいものである。

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2011年10月18日 | コメントは受け付けていません。 |

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驚愕のガリガリ君サワー!!

 先日、友人と行きつけの居酒屋に飲みに行きました。その友人、十数年来の付き合いがある友人で、以前は月に一回は一緒に飲んでいました。最近はチョット忙しくなったこともあり、ここ数カ月飲みにいっていなかったのですが、先日は久しぶりの再会ということもあり楽しくお酒が飲めた次第です。友人と会うのも久しぶりでしたが、二人の行きつけの居酒屋にいくのも久しぶり。しばらくご無沙汰していた間に、馴染みの料理が消えていたり、逆においしそうな料理が増えていたりと、メニューもかなり変わっていました。さらに、そのお店の〝秋フェア〟みたいなイベントもやっておりまして、イベント期間限定の料理も沢山ある状況。おまけに「サワーは初めの一杯は無料」「本日のお勧め料理は、最初のお料理のみお一人さま100円」などと、嬉しい限りのおもてなし!私も友人も、その〝おもてなし〟に驚きつつも、十分堪能させていただきました。 

 で、〝イベントメニュー〟やら〝本日のおおすすめ〟やら〝新メニュー〟なんかが、貼ってある中、聞いたこともないような飲み物の掲示に目が留まることに。その名は〝ガリガリ君サワー〟。ガリガリ君といえば、赤城乳業さんの看板商品であり、1981年に販売開始来、日本の氷菓界の人気商品の一つ。それがサワー… 「そういえば最近は色々なチューハイがあるからなぁ」と何気に納得。「『愛媛のまじめなジュースです』でおなじみの〝ポンジュース〟のチューハイやら、『7種のビタミンと7種のアミノ酸を配合した、バイオニック(超生命体)飲料』こと〝ライフガード〟のチューハイなど、人気飲料とのコラボチューハイをよく目にする。おそらく、赤城乳業さんもこれに目をつけて、人気商品のガリガリ君のチューハイを考えたのだろう。氷菓といえども、凍らせる前は液体だ。この〝ガリガリ君液体〟でチュー割か何か作ったのだろう。それに焼酎を加えて〝ガリガリ君サワー〟か…。赤城乳業さんも上手いことを考えたものだ。ましてや『当たりが出たら、もう一杯』なんて、なかなか粋なことをするもんだ」とニンマリとしながらも、ガリガリ君サワーを頼むことに。一緒に飲んでいる友人も「頼むんですか」と、どことなく嬉しそうな様子。で、待つこと数分。「ガリガリ君サワーです」とテーブルに置かれたサワーを見るなり…一瞬「?」。いや、三瞬も六瞬も「?」。今、目の前にある現状が、自分自身の全てを持ってしても理解できない状況にある時、おそらく人はこうなるものなのだろう。どうやら友人も私と同じような反応だ。私も友人も、どちらかといえば一般的思考とはちょっと離れた思考をする人物。どちらも〝意外性〟が好きで、それを求めるし、自ら〝意外性〟を創作しては、人を驚かせるたりする人間である。その〝意外性〟好きな〝意外性〟創作人間である二人が、ガリガリ君サワーの〝意外性〟によって打ちのめされている…。「何だよコレ!」の私の一言に、友人も我を取り戻したか「うけますねぇコレ」の一言〔このページ下にその時撮ったガリガリ君サワーの写真あり〕。〝意外性手練れ〟と自認する二人がフリーズするのも、うなづけなくはない。なんとガリガリ君サワー、焼酎のソーダ割り(いわゆる本来のチューハイ)が入ったジョッキの中にガリガリ君が1本入っているシロモノなのだ!しかも、ちゃんと〝棒〟の部分を上にして!なるほど。ガリガリ君が1本入ったチューハイか…。これは一本取られた。イヤ、「1本とられた」どころか「当たりが出ればもう1本もらえる」のだ。「当たりが出たら、もう一杯」の仕組みにも十分うなづける。そんなガリガリ君サワーに私も友人も驚くこと、そしてその意外性に喜ぶこと一入。思わず写真まで撮ってしまう有様。

 「なるほど…ガリガリ君が溶けていき、チューハイがガリガリ君味になるのか…上手いことを考えたものだ…」と飲み続けること数分。どうも、ガリガリ君の味がしない。良く見てみると…ほとんどと言っていいほどガリガリ君は溶けていない…。まあ冷たいチューハイの中に入っているわけだから、そう簡単に溶けだす訳はない。ましてや、相手はあのガリガリ君だ。その名前の由来となったハードさにも、おいそれと溶けない要因があるのだ。棒を持ってガリガリ君をチューハイの中で回すも…やはり溶けださないし、味も単なるチューハイとさして変わらない。仕方なく、棒を持ってガリガリ君を食べながらチューハイを飲むことに。これはこれで、いけるような気もするのだが…。やはり「氷菓をかじりながら、チューハイを飲む」という行為は何とも微妙なものである。確かにガリガリ君は美味しい…でもそこでチューハイを飲むと「ガリガリ君をつまみに酒を飲んでいる」ような気分になってしまう。そんなこんなを繰り返すこと数回、やっとガリガリ君が溶け始めたかな…と思ったころには、チューハイの方がそろそろ底ををつきそうな量に。「ガリガリ君サワーを堪能した」というよりは、前述のように「ガリガリ君をつまみに酒を飲んだ」というような気分であった。やはり、ガリガリ君が溶けるのを待ってから飲むものなのか?それとも、自分の飲み方が正しかったのか?ガリガリ君サワーの正しい飲み方とは、如何なる飲み方なのか?

 と思いネットで調べたところ…ビックリしたのがガリガリ君サワーが、そこのお店オリジナルなものでなかったこと!どうやら、なかなか有名なモノらしい。某有名チェーン居酒屋でも出しているどころか、あちこちの居酒屋のメニューにあるらしい。ネットで検索しても、やたらヒットするところをみると…どうやら自分がイマイチ疎いだけだったようだ。なんでも最近では、ガリガリ君サワーがテレビでも紹介され、人気になっているとのことで、やはり有名なものなのだろう。しかし…私が調べた限りでは「ガリガリ君サワーの正しい飲み方」に関して、これといったズバリの飲み方はどこにも書いていないのだ。ほとんどが「ガリガリ君でチューハイをかき混ぜて、お好みの状態で飲む」といったアバウトなものなのだ。しかし、それだと前述のようにガリガリ君味のチューハイが堪能できる状態にはならない。もしかすると、私がやったように「ガリガリ君をつまみに酒を飲む」のが正しい飲み方なのだろうか?ガリガリ君サワーの正しい飲み方を知っている人がいるなら、ぜひ、ご教授願いたいものである。

 

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2011年10月12日 | コメントは受け付けていません。 |

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「ウチはウチ、よそはよそ!」って怒られたことありませんか?

 学生さんに学習指導をしていると、色々と気になることがあります。そんな気になることの一つに「あの人がやっているから」という言葉があります。

 学習指導をしている最中「どうやって勉強しているの?」と聞いて、勉強のやり方を話してもらうんですが『何故そんな方法で勉強しているんだろう?』と思ってしまうようなやり方の学生さんは何気に多いのです。さらに本人は、しどろもどろにその勉強方法を説明してくれるのですが…自分がやっている勉強方法を説明するのにしどろもどろ…どうやら、やっている本人も、今一つその勉強のやり方にしっくりいってないような感じなのです。で、「どうして、そういうやり方で勉強しているの?」と問うと…返ってくるのが件の「あの人がやっているから」というセリフ。う~ん…確かに勉強方法に限らず、上手くいっている人のやり方を手本にするということは悪いことでは有りません。しかし、あくまでも『お手本』であって、そこから先は自分にあった方法へとアレンジすることが必要となってきます。何故なら、お手本にした人にとってはいい方法かもしれませんが、そっくりそのまま同じことをやったって、それがあなたに合うやり方かどうかは全く別の話なのですから。私の経験から言わしてもらえば、むしろ合わない場合の方が多いのです。

 「人の技を盗む」という言葉があります。以前、私が講義で話している内容を、そっくりそのまま自分の講義で話している講師がいました。その講師いわく「人の技を盗まないと」…。呆れてものも言えなかったことを覚えています。「人の技を盗む」ということと「人の技を真似る」ということは全く別のことです。似て非なるもの…なんていうレベルではありません。月とスッポン以上のレベルです。「人の技を盗む」という事は道を切り開くことであり、その先が有ります。しかし、「人の技を真似る」ということには先は有りません。その場限り、そこで終わりなのです。「あの人がやっているから」「あの人は上手くいっているから」などと、同じことをマネしてみたところで、その通り上手くいくかどうかは別の話なのです。前述のように、上手くいかない場合の方が多いのです。そりゃそうでしょう。上手くいっている方法を、そのまま真似して上手くいくほど、世の中甘くはありません。

 もちろん、上手くいっている方法をお手本にすることは悪いことではありませんよ。そもそも『手本』には、次のような意味があります。 

① 習う人が模範とすべき字や絵などのかいてある本。「―どおりに書く」

② 見習うべき物事。模範。「友人宅を―にして新築する」

デジタル大辞泉より

当ブログの内容の〝手本〟は②に当たりますね。見習うべき物事。すなわち「見て、習う」事なのです。真似ることではありませんし、そんなことは一つも書いてありませんよね?〝習う〟ということは「何度も練習して、自分でできるようにする」こと、すなわち「自分のやり方でできるようにすること」が目的なのです。確かに「真似る」ことから入って行く場合もあります。ただし、それは初めだけ。あとは自分一人で、自分のやり方でできるようにならければならないのです。「字を書くこと」がまさにこれですね。初めは真似てはいるものの…自分が書き易いように、そして手本がなくても書けるようにならなければなりません。物事の習得というのはそういうものなのです。そう〝習得〟。〝模倣〟ではなく〝習得〟なのです。〝習得〟は〝模倣〟ではないのです。前述の「人の技を盗む」ということは〝習得〟なのです。〝模倣〟ではないのです。習得は「身につけるもの」ですから、自分のものにして、自由に使いこなすことが出来ます。それが「自分のやり方」というものなのです。模倣は真似るだけですから、その内容は身につきません。〝真似をする〟という表面的技術が身につくだけです。内容が身に付かない限り、自由に使いこなすことは出来ません。身についていない限り、自分にとってはいつまでたっても「やり難いやり方」ということになるのです。

 一見、真似をした方が手っ取り早く事を為せるようにも思いますが…やはり見て習って、自分のやり方を習得した方が、何かとやり易いと思いますよ。「やり難いやり方」を続けていても、本人も成績も苦しい状況が続いてしまいますから。成績の良い人の方法を真似ると、何となく自分の成績も良くなるような気がしますが…世の中そう甘くはありません。何度も言いますが、うまくいっている人のやり方を参考にすることは全然構わないんですよ。でも、あくまでも参考に止めておいて、自分なりのやり方を見出した方が良いということです。「上手くいっている方法をお手本に自分なりの技を習得する」これが一番だと思います。小さいころ親から良く言われませんでした?「ウチはウチ、よそはよそ!」って。これは勉強のやり方にも言えることなのです。

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2011年10月5日 | コメントは受け付けていません。 |

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